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凍えないように、おやすみ

 僕は急いで着替え、ママと合流するために再びサービスエリアへ戻る。


 夜のサービスエリアは、帰省客で賑わっていた。フードコートは、たくさんの人でひしめき合っている。早めに夕食と温泉を済ませたのは正解だったかもしれない。


 すぐに土産物コーナーへ向かう。地元の名産品から、ご当地キャラクターグッズまでが並ぶ一角に、ママの姿を見つけた。


 僕が近づくと、土産物コーナーの陳列棚に意識を向けていたママが、その視線の先で僕の姿をたまたま見つけ、義務的な笑顔と共に手を上げた。


「ああ、颯。さっぱりした?体は温まった?」


 ママは僕の顔を見るでもなく、手に取った土産物のひとつを見つめたまま、事務的なトーンでそう言った。それは表面上は円満な家庭を装うための定型的な確認に過ぎなかった。


 僕とママは漫才師みたいに、見えない何かを間に挟むかのように、一定の距離を保ち横並びになった。


「うん。だいぶ」

 そう答えたものの、やはり心の奥底まで響く冷えは解消されない。僕は温かいわたらいさんの待つ車に早く戻りたかった。


「ね、見てよ。明日の水族館の予習よ」

 ママが立っていたのは、海洋生物のグッズコーナーだった。そこには、イルカやペンギンの可愛いぬいぐるみから、深海の生物をテーマにした、少々マニアックなものまでが並んでいた。


 ここからほど近い場所に水族館があるために、そのグッズを取り揃える一角が設けられているようだった。

 


 グロテスクな顔をしたメンダコのキーホルダーや、発光するチョウチンアンコウのストラップ。どれも、好きな人にはたまらない逸品なのだろう。


 僕の視線は、その中でも一際嫌悪感を煽り、一際醜いひとつのフィギュアに釘付けになった。

 全長二十センチほどの、ダイオウグソクムシの精巧なフィギュアだ。


 灰色がかった、硬い甲羅。そして、虫のような醜い触覚と顔。


 僕は反射的に、そのフィギュアを摘み上げるように手に取った。冷たいプラスチックの感触が、手のひらに直接伝わる。


 興味本位で裏返してみれば、何もそこまでと思うほどに精巧な作りの無数の脚に思わず顔を顰めてしまう。


「……っ!」


 一体、誰がこんなもの欲しがるんだ。

 ほとんど放り投げるようにして、フィギュアを棚に戻す。僕の手にはまるで汚いものでも触ったかのような、嫌な感覚が残った。

 

 隣にいたママが、僕が手放した後のフィギュアの覗き込んだ。


「何よこれ。……グソクムシ?やだ、気持ち悪い……まさか、これを買うの?」


 ママの嫌悪感を隠そうともしない声が、僕の行動を責めるように聞こえる。


「ううん。ただ……ちょっと気になっただけで」


 僕は、強い力で引き剥がされるように、フィギュアから愛らしい海の生き物のぬいぐるみへと視線を移した。


 ママは、僕がラッコのに手を触れたことなど気にせず、別のコーナーへ歩き出す。


 ママの後をついて歩く途中で僕は、まだ買うつもりはない黒猫のぬいぐるみを手に取った。


 「わたらいさんは黒猫を飼っているから、猫がいいかな」


 僕がそう呟いた時、ママの視線はすでにサービスエリアの出口に向けられていた。


「水族館に猫は居ないわよ」

 ママが吐き捨てるように言う。

 僕がそれに答える義理はない。


「なんか昔火事があったらしくて、わたらいさんのご両親は人命救助で表彰されたんだって」

 僕はママの質問を無視して、自分の話を進めた。

「その時に火傷した猫を、わたらいさんが保護してあげたんだ」


「……まあ、物好きね」

 ママの声には驚きと、微かな侮蔑が混ざっていた。

「わざわざそんな変な猫じゃなくて、お金持ちなら血統書付きの綺麗な猫を飼えばいいのに。……ご両親は、立派だけど」


 ママは醜いものと立派なものを、器用に分離して否定した。

 僕は、心臓の鼓動がわずかに速くなるのを感じた。もはや怒りに任せた熱でもいいほどに寒いのに、それには燃料が足りなかった。


「明日は水族館で、もっといいのが見つかるわよ。ママは温泉に行ってくるわ。あんたも湯冷めする前に車に戻りなさい。ゆっくり眠るのよ。疲れたでしょう?」


「うん……」


 理不尽な現実でダイオウグソクムシの醜いフィギュアだけが、異常なほど冷たく鮮明な世界の真実として、僕の視界に残っていた。



*****

 深夜のサービスエリアの駐車場は、大型トラックのエンジン音と、遠くの街灯の明かりに包まれていた。


 運転席で眠る前は規則的で穏やかな寝息を立てている。


 僕は助手席で布団にくるまっていたが、体の芯からくる冷えはどうにもならず、何度も目が覚めた。温かい蕎麦も、わたらいさんの幻影も、温泉も、効果は一時的なものだった。


 寒さに耐えきれなくなった僕は、隣で眠るママを起こさないよう、静かに車外に出た。車の外は真夏の夜にもかかわらず、皮膚が粟立つほどのひんやりしていた。


 トイレを済ませた後、サービスエリアに入る。フードコート付近には無料給水コーナーがあった。そこには使い捨ての紙コップと、冷水、お湯、お茶がそれぞれ出てくるボタンがある。

 僕は紙コップを掴み、熱湯のボタンを押し、なみなみと注ぐ。

 両手でコップを包み込み、湯気を吸い込む。熱い液体を一口飲むと、喉と胃が焼けるように温かくなった。しかし、それはすぐに消え失せる。


 僕の身体を満たす、本質的な冷たさには、この安価な熱は敵わなかった。


 僕が縋るようにコップを強く握りしめたとき、本物のわたらいさんは今頃どうしているだろうかと思った。


 もう眠ってしまっただろうか。

 

 案外、僕が居なくても平気なんじゃないか。彼女は脆いけど、気丈な人だから。


 そのうち、僕だけがひとりでヤキモキしているのが滑稽に思えて、深いため息をついた。

 

 お湯を飲み終えた紙コップを握りしめる。叩きつけるように捨てた。


 どちらにしても、僕の孤独と寒さは、もはや現実の温かさでも満たされないことを理解していた。


 そっと、車内に戻る。

 後部座席にいる幻影のわたらいさんの涼やかな声が、背後から慰めるように響いた。


「無料のお湯で温まろうなんて、なんて健気でかわいそうなぺこなのかしら」


 僕は息を詰めた。ヘッドレストの隙間から、彼女が僕の耳元へと直接囁く。


「そんな脆い熱は、一瞬で消えてしまうわ。それに、ぺこの本質が冷たいことからは逃げられない。だから、安物のお湯じゃ温まらないのよ」


 わたらいさんの幻影は、僕の弱さを徹底的にあざ笑い、論破する。


「君も温められないくせに」

 僕はママを起こさないように、口元だけ動かして反論する。


 わたらいさんの幻影は、僕の小さな反抗を、優雅に、そして冷酷に受け入れた。


「ふふ。それはそうよ。私はぺこを温めてあげられない。だって、私はあなた自身の『冷たさ』から生まれたものだもの」


 幻影の声は、楽しげに響く。


「私にはあなたを温められない。でも、ぺこが凍えて壊れてしまうその瞬間に、あなたを慰めてあげられるのは、この世界で私だけ。他の誰も、あなたの冷たい心を許さない。まして、温めようなんて思いもしないんだから」


 僕は息を詰めた。


 わたらいさんの幻影は、温もりなんかじゃなくて、僕の絶望と孤独を栄養とする、最も醜くそして最も正直な存在だった。


 僕は、何も言い返すことができなかった。


 幻影の言う通りだ。僕の冷たさを否定しないのは、悔しいけれど、今はこの幻影だけだ。


 助手席のシートにため息とともに深く沈み込む。身体を畳んで、毛布を頭までかぶる。それでも体の芯からくる冷えは、まだ消えない。


「凍えないように、おやすみ。大好きなぺこ」


 僕の背後には、僕の醜さと共にある幻影のわたらいさんが、静かに微笑んで座っている。


 こんなものが、今の僕にとっての真実の温もりなのだ。


「……おやすみ、わたらいさん」


 僕は目を閉じた。早く、この逃避行を終えて、本物の彼女に会いたかった。

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