「みんな通る道さ」
ママに車のキーを返して、代わりに入湯料の小銭をもらう。鍵も小銭も、冬の朝のように悴む僕の手には冷たすぎた。
併設の温泉の入り口へ駆け込み、手の指がうまく動かないまま、もどかしく小銭を券売機に押し込んで入湯券を得る。
寒くて仕方がないのに、温まる為に脱衣所で服を脱ぐ。既に充分に温まった人たちが浴びている扇風機の風が、僕に吹き付ける。
大浴場の冷たいタイルを踏みしめて、ぬるいお湯の掛け湯を浴びる。温まることはできないけれど、寒いままよりはずっとマシだ。
湯気が立つほど熱いシャワーを浴びながら、頭や身体を洗う。目前に迫る切望した温もりを得る為に、必死だった。
早く、早くと本能が急かすのをなんとか理性で覆い隠して、熱いお湯に身を沈めた瞬間に、僕はようやく身体の芯から温まるのを感じた。
全身の毛穴がびっくりして開くような感覚とともに、必要以上の熱が僕を包み込む。このまま頭の先まで沈んでしまいたかった。
心地よいお湯の中で、僕はお湯を抱きしめるように腕を動かす。全部、腕をすり抜けていく。
いくら手を伸ばしても決して触れることができなかった、後部座席のわたらいさんの幻影を思い出した。
あの幻影よりは、お湯の確かな手ごたえがある。
温かくて確かなこのお湯の感触を利用して、僕は腕で輪を作り、本物のわたらいさんの身体の厚さを思い出そうとした。
高熱で倒れた彼女の身体を、引きずるようにして運んだことがある。
このくらいかな?
自分の腕が、わたらいさんの身体の厚さを形作ると同時に、あの時の無防備な姿が鮮明によみがえる。
あの時は必死だったけれど、抱きしめればよかったのかな。そうすれば、今こんなに寒い思いをすることはなかったのかな。
あの瞬間、彼女は無意識のうちにこの僕に全てを投げ出していた。なんだって、僕の思い通りにできたはずなのに。
彼女の形の腕を保ったまま、お湯に顔を沈める。高熱に浮かされた彼女とのキスは、こんな風に熱かったのかな。
熱いお湯が僕を優しく包み込み、体の奥の変なところが、妙に熱く苦しくなっていくのを感じた。
なんだ、これ。
急いで、お湯から顔を引き上げ、湯船の底に沈む足をぐっと閉じる。他の人に見つかったら、なんて思われるか。
このわけの分からない熱さも、体が勝手に動いてしまうことも、全部、僕だけの秘密にしたかった。
湯船の中でじっと耐えていた僕の耳に、水音と共に、低い話し声が聞こえた。
「坊や、そんなとこでじっと俯いて。具合でも悪いのかい?」
優しく声をかけてきたのは、白い髪の毛と髭を綺麗に整えた、人の良さそうなおじいちゃんだった。
僕は湯の中で体を硬くしたまま、熱で赤くなっているはずの顔を上げた。
「だ、大丈夫です。ちょっと、思っていたよりもお湯が熱すぎて……」
嘘だった。熱いのはお湯のせいじゃない。
おじいちゃんは、湯船の縁に手をかけ、僕の顔を覗き込んできた。その視線は心配そうで、純粋な親切心から声を掛けてくれたことが分かった。
「そうかい……夏は湯あたりしやすいからね。無理はしなさんな」
僕は軽く会釈をした。湯の中で必死に姿勢を正し、足を閉じたまま動けない。
おじいちゃんの視線が僕の顔から、僕が必死に隠している場所へと、わずかに、しかし哀れみと理解を持った動きで下がるのを感じた。
それは、悪戯や冷やかしではない。僕には制御できない体の秘密を、同性の先輩として「わかっている」という、最も恐ろしい理解の視線だ。
「……っ!」
僕は反射的に顔を逸らす。熱くなった自分の顔が、さらに火照るのを感じた。
おじいちゃんは再び優しげな笑みを浮かべ、僕の顔をそっと覗き込む。
「出るときはゆっくりな。みんな通る道さ」
誰にも聞こえない声で囁くようにそう言いながら、湯船から上がった。
そして、湯船の縁に置かれていた清潔なバスタオルを手に取ると、そのまま僕の目の前にすっと差し出した。
「これを使いなさい。若いんだから、湯冷めする前にしっかり隠して、身体を拭きな」
その顔は親切なおじいちゃんのままだった。そして、手渡されたタオルが、僕の体の中で起きている制御不能な熱の存在を公衆の面前で隠すべきものと断定した。
僕が秘密にしたかった全てを、この親切なおじいちゃんとタオルが暴き、醜いものは隠せと命じている。
強すぎる羞恥心に、僕は拳を強く握りしめ、下唇を噛み締めた。
僕は、拒否することができない屈辱と共に、そのタオルを受け取った。今は、それに頼るしかなかった。
「みんな通る道さ」という共感が、僕にとって最大の哀れみのように聞こえた。
ヤケクソでタオルを腰に巻きつけて、逃げるように湯船を出ると、温まったはずの身体が急速に冷えていく。
濡れた髪をタオルで拭き、服を着ても体の冷えは止まらなかった。
みるみるうちに、湯上がりの火照りが引いていく。その感覚が、まるで僕の冷たい本質を呼び戻しているようだった。




