偽物でもいいから
まだ寝ぼけている頭を、助手席の窓に押しつける。すっかり陽が落ちたというのに、そこには夏の暑さがまだ残っていた。
目覚めた僕の身体は、どうしようもなく寒かった。車内のエアコンが効きすぎているのかもしれない。
あるいは、わたらいさんは能力発現後に発熱していたが――僕は反対に、冷えていくのかもしれない。
ママは、僕が車内で冷え切っていることなど、運転席の快適さしか見ていないから、決して気づかない。
窓の熱さが心地よくて、さらに頬を押しつける。今度はもう片側を温めようと、必然的に後ろを振り向いた。
そして、僕はそれを見てしまった。
驚いて声も出なかった。
そんなはずはなかった。
後部座席に、わたらいさんが座っている。
後部座席のわたらいさんは、いつもの貼り付けたような笑顔ではなく、とても穏やかな笑みを浮かべていた。
その姿は皮肉にも、彼女が「本物」ではないことの何よりの証明だった。後部座席の暗さに対して、彼女の存在感が、奇妙なほど鮮明に見えた。
僕は、反射的にルームミラーに目をやった。
そこに、わたらいさんの姿は映っていない。
映っているのは、運転に疲れてやや前のめりになったママの頭と、がらんとした後部座席だけだった。
助手席の窓に押しつけていた熱い頬ごと、身体が急激に冷えていく。
ママは、まっすぐに前を向いて運転に集中している。やがて車は、サービスエリアへ行くために、ウィンカーを上げた。
背後からの車を確認するために、ママが後ろを振り返り、やがて車線変更する。
本当に後ろにいるとしたら、ママがわたらいさんの存在に気がつかないはずはなかった。
まず頭を占めたのは困惑だった。
これは幻だ。鏡には映らない。ママは気がつかない。
僕は何度も後ろを振り返り、目を見開いて後部座席を見ていた。わたらいさんの姿を確認し、ミラーを凝視しては、動揺していた。
それでも、ママは助手席の僕がこれほどキョロキョロと視線を彷徨わせていることには、一切気がつかなかった。
僕が起きているのか、眠っているのか。楽しいのか、悲しいのか。ママにとって、僕の存在は結局のところ静かな荷物でしかなかった。
ああ、そうか。僕は思った。
これはきっと、僕が求めた温かさが、都合の良い幻となって現れてくれたのだ。
改めて、後部座席に目をやる。
僕の推測を裏付けるように、わたらいさんは、僕と目が合うとにっこりと笑った。
そして、ゆっくりと口元を動かす。
「こんな幻影を見ちゃうなんて、ぺこは本当に私のことが好きなんだね。ふふ。私も大好きだよ、ぺこ」
その言葉は、まるで火矢のように、僕の冷え切った身体を貫いた。
これは幻だ。鏡には映らない。ママは気がつかない。そして何よりも「大好き」だなんて。
現実のわたらいさんならば、そんな言葉を、絶対に僕に吐かない。僕にとって究極に甘く、究極に都合の良い言葉だ。
そんな、そんなはずはない。幻なんか、要らない。だってこれは、偽物なんだから。
これは冒涜だ。本物の、現実のわたらいさんへの冒涜だ。
僕は、必死に幻を振り払おうとする。
「違うよ、ぺこ。これは冒涜なんかじゃない。私はね、ぺこの『大好き』がないと、消えちゃうんだよ」
幻影のわたらいさんは、その僕のか細い抵抗を楽しむように身を乗り出し、ほとんど僕の耳元に囁くような仕草をした。
「お願い。偽物でもいいから、ずっと私のことだけを思っていて。ぺこがそう思ってくれる限り、私は――ぺこだけのものだから」
その声は、現実のどんな言葉よりも熱く、毒みたいに痺れる甘さだった。
「だから、ぺこもたくさんちょうだい。私のこと、大好きって言って?」
幻影は、僕の魂の最も柔らかい部分を握りしめるように囁いた。
全ては、か細い理性のほんの一瞬の抵抗にすぎなかった。
理性は消えた。あまりにも呆気なく。
僕の渇望のすべてが、大好きという彼女のたった一言で、雪崩のようにものすごい勢いで埋められていく。
僕が求めていたもの。僕のこの汚れた献身を、誰にも咎められずに、受け入れて許してくれる場所。それが今、僕の幻影の中で実現している。
「……あ、あ」
喉の奥が熱くなった。涙が出るほどではない。泣き叫ぶよりももっと深く、魂の深いところから安堵しているのがわかった。
幻影だとわかっていても、この言葉を信じたい。信じて、この温かさに溺れていたい。
後部座席のわたらいさんは、僕の感情の爆発と混乱を温かい目で見つめながら、静かに微笑んでいる。
そして、助手席からわずかに後部座席側へはみ出した僕の顔に、彼女は穏やかな視線を集中させた。そのまなざしが、まるで温かい布のように僕を包み込む。
この瞬間だけ、僕の寒さは完全に消え去っていた。
「……僕も」
僕は、後部座席の幻影に向けて、誰にも聞こえない声で、そっと頷いた。
「僕も……大好きだよ、わたらいさん」
白いハリアーはサービスエリアの駐車場に、無事に滑り込んだ。パーキングブレーキを引いたママは、疲れと安堵の混じったため息を一つ吐いた。
「とりあえず、ご飯にしましょう。気分転換よ。それからお土産をみたり、併設の温泉で汗を流して、夜はまた車の中で眠るの。楽しみでしょう?」
ママの言葉に、僕は頷く。
そして僕らは、フードコートへ向かう。
「暑いし、冷たいものが食べたいわ」
入ってすぐに、地元の名産を使った冷やし蕎麦御膳のポスターが目に入った。
地鶏を使った冷たい蕎麦と、小盛りの炊き込みご飯、副菜が何品か付いているようだ。ママが、それを指差す。
「これが名物みたいね。体にも良さそう。見た目も上品で……ママはこれにするけど、あんたはどうする?」
「僕もおんなじの。あったかい方がいい」
呟いてから、ポスターの片隅に書かれた、"あったかいお蕎麦にも変更できます"を指差した。
ママがぎょっとする。
「え?今、真夏よ。暑くないの?」
「うん、さっきまで車の中にいたから、なんだか体が冷えちゃって。エアコンが効きすぎたのかな?今は冷たいものより、温かいもので身体を温めたいんだ。ママこそ、寒くないの?」
ママは、楽しそうに「まさか」と笑った。
「ママは、日差しが強い運転席側にいたからポカポカよ。むしろ早く冷たいお蕎麦で体を冷やしたいわ。体が温かいそばを欲しがるなんて、あんた、よっぽど冷やしたのね」
ママが券売機にお札を入れる。
「じゃあ、私は冷たい地鶏蕎麦御膳、あんたは温かいお蕎麦の御膳で。炊き込みご飯も一緒でいい?」
「うん、それでいい」
出てきた食券を手に、僕らはフードコートの列に並んだ。
番号が呼ばれるまで、ママはテーブルからほど近い、交通情報のコーナーをぼんやりと見ていた。
「……あら、『◯号線で車両火災、通行止め』ですって。『〇〇駅前方面への交通に影響が出ている』……帰りは迂回が必要かも知れないわね」
ママはニュースの画面から目を離すと、不満そうに腕を組んだ。
「まったく、よりによってあの道で。あそこはバス通りだし、役所や学校もあるのに。朝晩は特に混むところよ。夏休み中なのが幸いね、普段なら大渋滞よ。大変ね、あの辺を通る人は」
来たばかりだというのに、ママの意識は既に帰りの交通事情に移っていた。
やがて番号が呼ばれ、僕は湯気の立つ温かい蕎麦を受け取った。4人掛けのテーブル席に運んだのは、冷たい氷水に晒された地鶏蕎麦御膳と、湯気が立ち上る温かい蕎麦の御膳だった。
いただきますをすると、すぐに温かい汁を一口飲む。胃の奥からじんわりと熱が広がる。しかし、それは表面的なもので、骨の髄から凍えているような、あの異常な寒さは、温かいそばの熱ではすぐに解消しなかった。
ママは、冷たい蕎麦を美味しそうにすすりながら、僕を覗き込む。
「熱いんだから、火傷しないようにゆっくり食べなさいよ。そんなに急いでどうしたの?」
「ううん、大丈夫」
僕は、そばの熱を利用して、必死に体の内側から湧いてくる冷たさを押し返そうとした。ママの目には、急いでごはんをがっつく子供に見えているのだろう。
今だけは、その勘違いに感謝した。この異常な寒さの真実を、ママに知られるわけにはいかない。
僕が急いでいるのは、湯気を立てるそばのためではない。早く体を温めて、あの場所へ戻るためだ。
わたらいさんの幻影が待つ、あの後部座席へ。
炊き込みご飯を口に押し込み、副菜を咀嚼する。
熱い蕎麦をたぐり、汁を全部飲んでしまっても、身体の芯から温まることは出来なかった。
食事を終えた僕らは、下膳するために席を立つ。
「あんた、そんなに冷えたなら、温かいそばだけじゃなくて、しっかり湯に浸かった方がいいわよ」
「温泉……」
思わず僕は呟く。魅力的な響きだ。
「そう。併設されてるみたいだから、あんただけ温まってらっしゃい。ママはまだ暑いから、ここでゆっくりしておくわ」
僕の全身の寒気を解消できる、最も効率の良い方法だ。温かい湯に浸かれば、一時的にでもあの寒さから逃れられる。
何より、着替えを取りに行くと理由をつけて、わたらいさんの幻影が待つ車内へと自然に戻ることができる。
「うん、行く。すぐに行ってくる」
僕が頷くと、ママは目を細めて笑った。
「じゃあ、ママはあっちのお土産コーナーで、明日の水族館の下見がてら、面白いものがないか見てくるわね」
ママに車のキーを借りて、一度車に着替えを取りに戻る。
わたらいさんの幻影は、後部座席で丸まって寝ていた。
「わたらいさん」
後部ドアを開けてそっと声をかける。わたらいさんは眠そうに目を開けた。
「……恵って呼んで」
まただ。本物のわたらいさんでは、あり得ない言葉だ。
僕の孤独が、本物のわたらいさんとの間にあった心の距離を、この幻影の中で破壊しようとしている。
「わかったよ、恵ちゃん」
僕が小さく呟くと、丸まっていた幻影はゆっくりと上半身を起こした。
後部座席の薄暗さの中に、彼女の穏やかな笑顔が浮かび上がる。
そして、幻影のわたらいさんはなぜか無防備に肌を晒している。
「ありがとう、颯」
産まれたままの姿の彼女は、まるで本物の恋人のように、僕の名前を優しく呼んだ。そして、その裸の胸に僕を招くように、両手を広げている。
「おいで。外は寒いでしょう?」
この温かさ、この言葉……。この幻こそが、僕の異常な寒さを消し去ってくれる唯一の薬であり、毒なんだ。
僕の全身の寒気は、すぐさまこの温もりをもっと近く、もっと深く求める、抗いがたい衝動へと変わった。理性の壁は、もはや溶けて崩れ、始めからないに等しい。
僕は反射的に背もたれを掴み、後部座席へ身を乗り出した。膝をシートに乗せて、彼女と目線を合わせる。
「ねえ、颯……キスして」
幻影のわたらいさんは、その切実な瞳で僕を見つめる。そっと目を閉じると、わずかに口元を尖らせた。本物のわたらいさんでは決してあり得ない、甘い懇願だ。
僕が渇望する究極の承認が、今、すぐ目の前にある。
「わたらいさんっ!!」
本物の彼女の名前を叫んだ僕は、偽物の彼女の無防備な唇を目指し、迷わず身を投げた。
しかし、僕の唇は、何も捉えなかった。
冷たい空気とともに、重力に従って僕の顔は幻影のわたらいさんの無防備な唇も裸の胸をも通り抜けた。そして、車の後部座席の硬いシートに、強い衝撃と共に激突する。
「へぶっ!!」
無様にシートにキスした衝撃で、情け無い声が漏れる。すぐに、全身の血管が凍り付くような、極限の絶望が僕を襲った。
激痛が走った顔面に手を当てる。冷たく硬いシートの感触だけが、僕の渇望の熱を嘲笑うように残っていた。
幻影のわたらいさんは、僕を哀れむように見つめながら、それでも静かに微笑んでいる。
「ふふ。残念だったね、颯。私とのキスは、まだ今のあなたには早すぎたみたい。でも、いいの。その触れたいという衝動こそが、あなたの孤独を温める唯一の薬なんだから」
幻影は、触れられない僕の頬にそっと手を添える仕草をした。その心理的な温もりが、身体的な痛みと、寒さの絶望を一瞬で上書きする。
僕は、激しく打ちのめされたにもかかわらず、懲りずにまだ、その偽りの甘さに安堵した。
「……うん、すぐ戻るからね。恵ちゃん」
僕は触れることのできない幻影に背を向け、着替えの服を掴み、車のドアを閉めた。
「本当にすぐ戻るから、必ずここで待っててね」
それは幻影のわたらいさんに向けた言葉であり、偽物の愛情がなければ動けない今の自分の弱さに対する、悲痛な自嘲と絶望的な告白だった。




