よじれた尻尾
あの日から、六度目の夏休みが始まっていた。絵日記なんて、書けるはずがなかった。楽しいことなんて、一日だってない夏休みだったから。
「"nobody"。ほら、言ってみなさい」
ママの口調はいつも通りなのに、空気が一段と冷えた気がした。和やかなはずの食卓は、途端に試験場に変わる。僕の夏休みは、窓の外から聞こえる手持ち花火の音と、英単語帳をめくる音だけでできていた。
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ついさっきのことだ、チャイムが鳴った。友達が誘いに来たのだ。
「ねえ、みんなで花火するんだって。うちの親もいるから、大丈夫だよ」
少しでも外に出られたら。もしかしたら、とほんの少しだけ期待してしまった。それなのに、ママが僕より早く玄関に出て、先に言い放つ。
「この子は行きません。勉強がありますので」
友達の目が一瞬泳いだ。僕を見ないまま、踵を返して去っていった。玄関の扉の閉まる音が、いつも僕にだけ、鋭く突き刺さる。
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「ほら、"nobody"は?」
「ママ、やっぱり……」みんなと花火がしたいと言いかけて、やめた。言葉が喉に詰まり、何も出てこなかった。
表紙には《中学生のための英単語》。そして、《綾瀬 遥》の手書き文字。僕が五歳の時に中学三年生で死んでしまった兄ちゃんの名前だ。兄ちゃんが死んでから、この英単語帳は僕のものになった。
ママの視線が、皮膚の内側にまで刺さってくる。目の前で、ページがめくられた。
今、僕は十歳。クラスには、まだローマ字も書けない子がいるのに。頭のいい子は、塾に通っていると言っていた。でも、ママは胸を張って言う。
「テレビでやってたわ。賢い子は、小学生のうちにこれくらいは覚えるって」
兄ちゃんはスポーツ推薦で高校に進むはずだった。でも、僕にはスポーツの才能がない。だから、ママは僕に、兄ちゃんが行くはずだった場所へ、学力でたどり着いてほしいのだ。
英語の例文は呪文のように長すぎて、息が続かない。舌が、口の中で迷子になる。意味を訊ねる前に、定規が振り下ろされた。間違えたのかどうかすら、分からない。
変わり映えのない時間の中で、ママの声だけが怒鳴り声に変わっていた。
ママは言う。「これくらいできなきゃ置いていかれる」って。何に? 誰に?
"birthday"/誕生日の単語を追ったとき、不意に和やかな食卓と甘い匂いを思い出した。兄ちゃんがいた、あの頃の暖かな記憶だ。
真新しいピカピカの自転車を、ママは笑って手渡してくれた。
「颯のお誕生日だからね」
兄ちゃんも部活を休んで参加し、「おめでとう」と言って僕の頭をぐりぐり撫でた。兄ちゃんは受験を控えていて、疲れた顔だったけれど、そのときだけは笑っていた。
ママも、僕のことだけを、ちゃんと見てくれていた。僕は得意になって、愛車に跨って見せた。僕も、ママも、兄ちゃんも笑っていた。それが、僕だけが知っている最後の「優しいママ」だった。
パチン、と目の前に定規が振り下ろされる。記憶の中で止まっていた時間が動き出す。
「こんな簡単なのも分からないの? 何度も言ったでしょ? ねえ、あんた、本当に分かってんの?」
呼吸が詰まって、唇が酸素を求めて震える。
「……ごめんなさい」
そう言った瞬間だった。
パチン──音と同時に、手の甲がじんと熱を持った。定規の跡が赤く浮かび上がる。それでも僕は、手を引かなかった。ママはため息をついて、英単語帳を閉じた。その音が、いつもこの世の終わりみたいに聞こえる。
「また、やってなかったの? ……やっぱり、あんたはできない子なのね」そう言いながら、ママは夕食を取りに行った。「そんな子にご飯はないわ。今夜は食べなくていい」
夏休みが始まって一週間以上。最後の給食を食べてから、ちゃんと食事をしたのは数えるほどしかない。それでも僕は、自分の部屋に戻るしかなかった。
昨日もおとといも、夕食の匂いを嗅ぎながら眠った。夜が更けるほど、体の中身がなくなっていく。お腹が鳴っても、ママの前では黙っていなければならない。
お腹が鳴るたび、胃が内側へと折りたたまれていくみたいだった。
兄ちゃんが死んでから、ママはまるで別人になった。朝も夜も休みなく働いていたママ。だけど、笑わなくなったママ。
ある日、こんなことを言われた。
「颯、ちゃんと勉強して。ママがいなくなっても、ひとりで困らないようにね」
その言い方は、少しだけ皮肉っぽかった。突然の言葉が、喉に刺さった。
「そんなこと言わないで」
やっとのことで絞り出した僕の声は、泣きそうに震えていた。
「……でも、本当に死んじゃったら、あなたどうするの?」
僕は答えられなかった。
ママは笑っていた。
それが、優しいふりだと分かっていた。
全部、僕のせいだって分かってる。あのときから、僕は良い子でいようと思った。
何も壊さないように。
僕が、ママから兄ちゃんを奪ってしまったんだから。せめて僕が兄ちゃんの代わりにならなくちゃいけない。そうすれば、何か結果が出れば、僕がもっと賢くなれば──あのときのママに、戻るんじゃないかって。そう、信じている。
僕の部屋の天井は、昼でもどこか薄暗い。夜になればなるほど、その闇はいっそう深くなった。
簡素なベッドに仰向けになり、胸の上でネックレスを握る。中には──もともと、兄ちゃんの骨が入っていた。
ある日、ママに叩かれた瞬間、パチン、とチェーンが切れた。その音は、胸の奥で砕けた何かと重なった。小さな音だったけれど、それだけで、何かが終わった気がした。
床に転がった白い欠片──兄ちゃんの骨は、いくら探しても見つからなかった。まるで、ママの中にいた「優しい何か」ごと、消えてしまったようだった。
残ったのは、空っぽの銀色の殻だけ。それでも、何もないよりはマシだと思えた。僕とママ、ふたりきりでいるよりは、ずっと。
せめて、ママがあの笑顔を思い出せますように。そう願って目を閉じても、眠れなかった。
胸の上で、チェーンの留め具が、カチリ、カチリと鳴った。
トイレに立とうと廊下へ出ると、ダイニングだけが電球色に照らされていた。
速やかにトイレを済ませた僕は、そっと様子を伺う。ママは気づかず、背を向けて眠っていた。
食卓の上には、いつもと同じノートと、分厚いスクラップブック。ノートのページの隙間から、病院名の載った新聞記事が何枚もはみ出していた。
「誤食事故」「特定原材料」「アレルゲン混入」「微量でも致死性」──そんな見出しが、赤ペンで丸をつけられている。
その傍らにあるスクラップブックの一番良い場所に、僕の顔ほどの大きさの紙面の兄ちゃんの写真があった。『未来のメダリスト』だなんて、大見出しが付いていて、ママはその記事を指でなぞるのが好きだった。何度も何度もなぞるから、いつか削れて無くなってしまうんじゃないかと心配になる。
輝かしい記事の隅には、兄が落書きした『ファイト!』という文字が鉛筆で薄く残っていた。ママはいつもそれには気づかないふりをしていた。
ママは突っ伏したまま、右手にボールペンを握っていた。背骨が、括弧みたいに、ぐにゃりと曲がっていた。
(……まだ、終わらせられていないんだ)
何年も前のことなのに。何度、医者に「事故だった」と言われても。ママは、あの瞬間の答えを、まだ探している。
傍らには、食べかけの夕飯がそのまま置いてあった。ママはいつも、忙しそうにかき込んで食べる。それは、最低限生きるためのエサみたいに思えた。
せめて、少しでも美味しく食べてもらいたくて、ラップをかけようと思った。
戸棚からラップをそっと取り出す。食べかけの皿に触れた瞬間、手が震えた。音を立てたら、ママが目を覚ましてしまう。
つまみ食いと誤解されたら……そう思うと、緊張して喉が鳴る。
僕も、きっと、同じ罰を受けているんだ。
誰が、いつ、許してくれるのかは分からないけれど。だからこそ、せめて「お疲れ様」の代わりに、そこにあった上着をそっと肩にかける。
電気を消して、音を立てないように、静かに部屋へ戻る。暗闇の台所で、炊飯器のデジタル表示だけが静かに点灯していた。
足音を殺して、自室へ戻る。空腹を抱えていると、夢と現実の境目が曖昧になる。
全部、悪い夢だったらいいのに。
窓の外から聞こえていた花火の音も、もう聞こえなかった。いつの間にか夜は、僕を閉じ込めるように、静まり返っていた。
ママの姿に触発されたわけじゃない。でも、僕は絵日記帳を開いた。
これまで絵日記に描いてきたことは、全部、嘘だった。ママと出かけたとか、友だちと遊んだとか。本当は、そんなこと、何ひとつなかった。
ママに叩かれたことも、晩ごはんを抜かれたことも、夏休み前に食べた最後の給食をまだ恋しく思っていることも。そんなこと、描けるわけがなかった。
だから僕は、なるべく普通の毎日を想像して描いた。家で宿題をして、ご飯を食べて、お風呂に入って寝る。まるで、本当にそんな毎日を送っているかのように。
ママがこの絵日記を見るから? そうじゃない。僕自身のための嘘だった。僕の中に「そうであってほしい毎日」を残すための。
今日は何を描こうか。
本当は行ってもいないけど、誘われた花火遊びの話にしようか。線香花火の火玉が落ちる瞬間とか、はしゃいでるうちに虫に刺されたとか。そんなやつ。
そう考えて、ふと顔を上げた。窓の外、ベランダの手すりに、何かがいた。
ガラス越しに、琥珀色の目が二つ。闇の中に、目だけが浮かんでいるようだった。
ギョッとして、よく見ると、夜の闇に完全に同化した黒い影に気づく。黒い、猫だった。
風もないのに、その尻尾だけが、よじれるように揺れていた。
誰かの飼い猫だろうか? 人間には慣れているのか、逃げるような素振りは見せない。
黒猫はじっと、僕を見ていた。人間みたいな瞬きは、ひとつもしない。
なぜか追い払う気にはなれなかった。ただ、じっと見つめ返していた。
そのとき、猫の口元が、かすかに動いたように見えた。
──ごめんな。
猫の口の動きに合わせるように、どこからともなくそんな声も聞こえた気がした。幻聴だった。ありし日の兄ちゃんの声が、耳の奥で響いた気がした。
「兄ちゃん……?」
誰に言うでもなくつぶやいて、部屋を見回す。それから、もう一度猫のいたあたりを見た。
でも、猫はもういなかった。
気のせいだとは、どうしても思えなかった。あの猫は、たしかに僕を、まっすぐに見つめていた。
得体のしれない言葉だった。でもなぜかその声は、僕の心をわずかに解放したようだった。
考えるより先に、手が動いていた。黒い色鉛筆を取り、絵日記のページに、あの黒い猫を描きはじめた。
なぜか止まらなかった。取り憑かれたみたいに、夢中で描ききった。
描き終えると、そのまま力が抜けたようにベッドに倒れ込んだ。もう夢の中にいるのかもしれない。あるいは空腹で見た幻だったのかもしれない。
でも、どちらでもよかった。
その夜は久しぶりによく眠れた。




