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あの扉の向こうで



 僕から取り上げた参考書を、ママが机の上に戻すと、兄ちゃんの生きた証は再び完璧な形で保管される。


 ママがそのまま視線を上げれば、静止したカーテンに気づいてしまう。僕は視線を誘導するために、カーテンの真反対である部屋の出口へと、素早く移動した。


 思惑通り、ママは僕の動きを追うように視線を動かした。


「それじゃあ、早く準備しちゃいなさい。もうすぐ夕飯よ、それまでに済ませてしまいなさい」


 ママが言う。その声は、いくらか普段の調子を取り戻している。


 僕はもうカーテンに視線を向けることができない。あの異常が、いつのまにか解除されることを願うしかなかった。今は、一刻も早くこの空間から逃れることが最優先だ。


 僕は「うん」とだけ返し、一切振り返らず部屋を出て、後ろ手にドアを閉めた。




 数時間後、2人で夕食を済ませた後、ママは僕に千円札を数枚手渡した。


「私は明日も朝から仕事に行くから、夕方の出発までは好きに過ごしていいわよ。これ、渡しておくから、途中で食べる私たちのおやつとか飲み物を買ってきてちょうだい。家計簿の旅行費から出すから……わかるわよね?これはあなたのお小遣いとは別よ」


 その言葉で、僕が金銭的な負担を感じる必要はないと、ママは優しく釘を刺した。


「あ、ついでに、このお金で昨日のお友達にゼリーでも買って持って行ってあげなさい。熱を出しているなら、それくらいがちょうどいいわ。昨日はあんなに長く居座ったんだから……これで、私たち側の世間体は保てるでしょう?」


 ママの言葉は優しさではなく、義務だった。 僕に与えられた数千円は、おやつと謝罪という2つの役割を負わされた大金のように思えた。




*****

 翌朝、ママが車で仕事に出かけた後、僕は旅行に備えたおやつと飲み物を少し買った。自宅へ帰り、荷物を片付けると、パイナップルのシロップ漬けが入った透明なゼリーをひとつと、一緒にもらったプラスプーンが入ったコンビニ袋を手に、足早にわたらいさんの家へと向かった。


 ママのための世間体なんか関係ない。ただ、あの子の安否をこの目で確かめたかった。


 昨日、旅行の準備の時に決めたバス代の相談をするのは、それからでよかった。


 「渡会」の表札、その部屋の呼び鈴を押す。反応がない。取り込み中?トイレにでも行ってるとか?少し待ってから、改めて玄関のドアを叩いてみる。しかし、何の応答もない。


「留守かな……」


 帰ろうした時に、ふと思い立って、駐車場の見下ろせる位置まで廊下を移動する。見ると、昨日わたらいさんのお父さんが乗ってきたセダンが、跡形もなく消えていた。

 


「……病院、行ったのかな」


 ただ仕事に行っただけかもしれないけれど、僕の心に、彼女の安否への不安が再び冷たく広がった。もしかしたら、夜のうちに熱が上がって、お父さんに連れられて行ったのかもしれない。


 あるいは、あの扉の向こうで「溶けて」しまったのだろうか。


 部屋の前に戻る。ドアに耳を押し付けても、何も聞こえない。


 僕は、その場で立ち尽くした。膝から力が抜け、ゼリーを持った手が小刻みに震える。


 溶ける?そんなはずはない。


 僕がこの部屋を出る時に、わたらいさんは約束してくれた。


 溶けて、なくならないでと思わず呟いた僕に、わたらいさんが微笑んでくれた。


 "うん、なくならないよ"


 彼女が僕を信じてくれたように、今はただ彼女の言葉を信じるしかなかった。


 深呼吸をひとつして、僕は買ってきたゼリーを、コンビニ袋ごとわたらいさんの家のドアノブに引っ掛けておくことにした。

 これでママから言われた世間体は、一応、保たれたことになる。


 そしてもし恵さんがすぐに帰ってきて、これを見つけてくれたら。


 コンビニに並んだたくさんのゼリーの中で、僕はパイナップルのシロップ漬けが入った透明なものを選んだ。

 それは、僕らが出会った雨の日にわたらいさんの家の食卓での記憶。僕の心を暴くように彼女が缶詰のパイナップルの穴をそっと舌で舐めた、あの光景を、一瞬で僕の脳裏に蘇らせたからだ。


 だからこのゼリーは、今やママの義務ではない。僕からわたらいさんへの秘密の置き手紙だ。


 しかし、僕の心はこうも考えていた。もしもゼリーが、一晩経ってもそのまま残っていたら――それは、病院に行ったという穏当な理由では済まされない、長期間の不在を意味するだろう。


 僕は、安否の不安をゼリーという置き手紙に託し、その不安を胸に一度、果たすべき義務の待つ家へと戻るしかなかった。

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