光と影、そして運動性の否定
数学の参考書を持ったまま、扉を背にした僕の全身がほんの一瞬硬直した。けれどそれは、ほとんど反射的なもので、すぐに身体は弛緩する。後ろめたいことは、何もしていない。
僕の心臓は、締め切られたままのカーテンの隙間から溢れる微かな光の揺らぎと同期するように、ひどく静かに脈打っている。熱い決意の衝動が、かえって頭を冷静にさせていくようだ。
「何してるの?……別にママは怒ってないのよ。こっちを見て」
珍しく機嫌を取るような声で、ママは僕に促す。
僕はゆっくりと振り返った。
ママは廊下に立っていた。まるで、見えない壁でもあるみたいに、どういう訳か頑なに部屋には入らなかった。ドアの仕切りに身体を持たれたまま、自分を守るように腕を組んでいる。
「準備は……もう終わったの?それとも何か足りないものがあった?何を探していたの?」
ママが矢継ぎ早に尋ねる。その表情には、いつもの管理された冷たい美しさではなく、初めての「混乱」の影が色濃く差していた。
その視線が向けられているのは、僕の顔でも、僕の持つ参考書でもない。カーテンの隙間から漏れ、足元にわずかに届いて揺れている光の破片を射抜いていた。
「何を、しているの?」
僕が何も言わないので、改めてママがそう尋ねる。声は静かだったが、今度は少し苛立ちが感じられた。この静かさは、嵐の前のそれと同じで、瞬時に激しさを増し、僕の胸を圧迫し続けてきた。
「勉強だよ、ママ」
僕は喉の渇きを感じながら、かろうじて答えた。動揺したわけじゃない。僕の鼓動は、変わらず穏やかに脈打っている。
「その参考書は?」
ママは僕の手元を顎で指した。
「兄ちゃんの、数学。……難しそうだから、知りたくなった」
ママは目を細めた。たぶん、返答の真偽ではなく、その動機を知りたがっている。ママの支配は、行動の正確さではなく、僕の心の従順さに大きく依存している。
「どうして、今なの?」
それは即ち、「我が子の命日を前にして動揺している自分をさらに混乱させるような真似を、なぜこのタイミングでするのか?」という問いだ。
ママが、睨むような目で僕を見る。
僕は怯まなかった。
「賢くなりたい。誰のためでもなくて、自分のために」
僕は決意を込めて、参考書を強く握る。
「でもそれは、兄ちゃんとおんなじじゃ駄目だ。僕は兄ちゃんよりも賢くなる」
その瞬間、ママの顔から全ての表情が剥がれた。勢いに任せて部屋に入ろうとして、踏み止まる。
「そう……そうね。良いことだわ」
ドアの仕切りに縋り付くママが、焦点の合わない目で僕の足元の光を見る。
「……そう。それは、良いことよ」
壊れた機械のように、喘ぎ喘ぎ同じ言葉を繰り返す。
「自分のために賢くなるのは……良いことだわ」
大きく息を吸い込み、吐き出す。呼吸を整えている。ママは自分自身に言い聞かせているみたいだった。
「遥お兄ちゃんもそうだった。立派な高校に入るために頑張っていた……あなたも覚えているわよね?」
その声には、感情はない。ただ、確かめたいのだ。僕の中に、まだ兄ちゃんの記憶が残っているのかどうかを。
僕は「うん」と短く答える。ママは安心したように少しだけ笑った。
「だから……颯も、立派だわ。本当に、心からそう思うの。でも、その意気込みを、今日は……ちょっと置いておきましょう。大切な日なのよ。あなたの誕生日を祝うために、水族館のチケットがあるの」
ママはドアから離れて、足早にどこかへ消えた。そして、自分のバッグを手に戻ってくる。
「水族館よ」
ママは、どこか不自然に明るい声を出した。頑なに部屋には入らず、ドアの仕切りにもたれたまま、わずかに震える手でバッグからチケットを引っ張り出した。
「ママの会社の福利厚生でね、ちょうど水族館のチケットが安く手に入ったの。人気でいつもはすぐに売り切れちゃうんだけど、今回は運よく取れたのよ」
ママはそう言って、チケットを僕に見せつけ、まるでこれに掴まって早く「こちら」に戻ってこいと言わんばかりに差し出した。そこには、人気の海のテーマパークの名前が書かれている。
「そうなんだ、ありがとう」
僕は、必要最低限の労力で、ママが望むであろう音を出した。
ママは言葉を探すように、視線をせわしなく動かす。言葉を出そうとしたのか、口を開けたけど、すぐに閉じた。
手持ち無沙汰の僕は、手の中の参考書をぱらぱらとめくった。
「いいわよね?せっかくの夏休みなんだし。あんたも気分転換になるでしょ!」
ママが慌てたように、再び僕を自分に注目させようとした。その声は、どこか強引で、有無を言わせない響きがあった。
僕はママの顔をじっと見た。僕の言葉が、ママの心臓を貫いたのだ。手応えは、確かにあった。
「ほら、あんただって退屈してたでしょ?イルカのショーがあるのよ。せっかくのチケットも無駄になっちゃう」
ママが一歩ずつ、部屋に踏み込む。
「さあ、参考書は置いて」
それは静かな命令だった。これまでの僕なら、大人しくそうしていただろう。ママも、それを分かって命令しているはずだ。
「僕、行かないとは言ってないよ。水族館には行く。楽しみにしてる。わたらいさんにお土産を買うって約束したし」
僕の口から彼女の名前を聞いた瞬間、ママはぴたりと足を止めた。
「また、あの子なの……?」
ママは僕に近づくことをやめ、その場に立ち尽くしたまま、扉の外、自分がついさっきまで立っていた辺りの影を凝視した。自分の領域に、異物が侵入してきたことを改めて確認するように。
「……あの、子」
ママの声は、もはや動揺でも、怒りでもなかった。確信だ。完璧な支配者にとって、排除すべき対象を、その元凶を見つけたのである。
「あの子、あんたに一体何を吹き込んでいるの?」
ママの唇が、わなわなと震えている。僕の身体も、つられて恐怖に震えそうになる。
気を抜けば揺らいで崩れてしまいそうな決意を、背後の兄ちゃんの勉強机が支えてくれる。ママの支配も完璧ではないことを、教えてくれる。
手の中の参考書を、わたらいさんの手と思って握る。彼女がくれた勇気を前に、僕は一歩も引くわけには行かないのだ。
「わたらいさんは、完璧じゃない僕を信じてくれる。でもそれは、駄目なままの僕で居ていいってことじゃないんだ」
僕は口を開いた。喉元で、何かが熱く震えている。
「こんな駄目な僕にも、『できる』って、思わせてくれる」
それは、兄ちゃんが超えられなかった限界、ママが僕に課した無言の期待という影の中で、僕が初めて自分で見つけた、確かな光だった。
僕は、今や自分の手の中にある数学の参考書――兄ちゃんのお下がりの古い本――が、真新しいピカピカの参考書よりもずっと価値があることを知っていた。それは他でもない、わたらいさんが気づかせてくれたものだからだ。
ママは、僕の言葉をじっと聞いていた。微かに口元を歪めた。笑おうとしていたけど、そうはならなかった。その目に計算高い、冷たい光が差す。
「できる、ですって?」
ママはゆっくりと首を横に振った。
「その子はあなたに『負担』をかけているのよ、ハヤテ」
ママは再び一歩踏み出し、僕の前立ち塞がった。机とママに挟まれて、僕は逃げ場がない。
廊下の電灯の光が、それを背にしたママの完璧なシルエットを僕の目の前に落とす。その影は、僕自身の影と重なり、カーテンから溢れて揺れる微かな光を完全に遮断した。
「ねえ、ハヤテ。こうしましょう。あんたは今すぐ、その参考書を置いて、この部屋を出るの。そして明日の準備をして、予定通り水族館へ行く。その帰りに、ママが新しい算数の参考書を買ってあげる。それでどう?」
言い終わるとママは、僕の顔を両手で包み込んだ。その指先は冷たく、しかし有無を言わせぬ支配の力を帯びていた。
「あんたが本当に勉強をやる気になったんなら、最も効率よく輝くために努力すべきよ。闇雲にやったんじゃ、ただの時間の浪費でしかない。それは、あんたを間違った道へと導く『悪い餌』よ」
ママの瞳は揺るぎない。小学生の僕に、中学生の英単語を勉強させていた癖に。
ママにとって、わたらいさんがくれた光は、僕を本来の使命から外れさせる甘い毒と映っているのだ。
「あんた、その参考書見て何か分かった?まだ、難しいでしょう?」
僕は手元のそれを見る。正直なところ、全く分からなかった。英単語の比ではない。ずっと文字化けみたいだった。
僕は息を詰めた。僕の正面の影が、ママの影と混ざり合う。カーテンから漏れた光は、影の中でもがくように、鈍く黒くゆらめく。
確かに、今の僕には難しすぎた。でも、それを認めてしまったら、ママに言いくるめられてしまう。
そうなったら、今までと何も変わらない。同じことの繰り返しだ。
やっぱり、ママには敵わないかもしれない。絶望的な敗北を前に、あれだけ静かだった僕の心臓が、途端に早く脈打った。
駄目だ。鎮まれ。動揺するな。僕は目を閉じて、必死に念じる。指先が冷たく、感覚がなくなってきた。
「どうなの?ハヤテ」
ママが、答えを求めている。僕は諦めたように目を開けた。僕の顔を包み込んでいたママの手が離れていく。
その手が、返却を促すように僕の手に重ねられる。僕はそれでも、握りしめた参考書を手放さなかった。ママは、僕の行動を変えることで、わたらいさんの光との繋がりを物理的に断ち切ろうとしているのだと、本能的に理解した。
呼吸が荒くなる。奪われるのは時間の問題だ。ママに聞こえてしまうんじゃないかと思うほどに、鼓動が早くなる。
鎮まれ。動くな。止まれ。僕は強く念じる。
僕はママの勝ち誇ったような視線から逃れるように、影の中でもがく足元の光に目を向けた。わたらいさんの姿は、そこには見えない。しかし、光はそこにある。影に飲まれてしまっても、僕の決意を照らしている。
ふと、おかしなことに気がついた。先程までカーテンに合わせて揺れていたはずのその光が、ぴたりと止まって動かないのだ。
光だけではなかった。視界の隅で微かに認識していたカーテンが、風を孕んで膨らんだまま、不自然な形で止まっている。
僕の全身から血の気が引いていく。これは、間違いなくわたらいさんの部屋で起こった現象と同じだ。捻れたまま固まったタオルも、粘性を帯びた水も、空中に留まって流れていかない呼気も、全ては僕が引き起こしたことだとしたら――。
「わかったよ……」
僕は、自分の心臓が大きく跳ねる音を聞いていた。ママにこの異常を悟られてはいけない。そのためには、この場はひとまず丸く収めて部屋を出なければいけない。
「そうする。すぐ、準備するから」
ママは僕の手の中の参考書しか見ていない。視線を上げてカーテンを見られる前に、僕は一時的に敗北を宣言するしかなかった。
ママは満足そうに、僕の手から数学の参考書を抜き取った。
そして、その本は何の音も立てずに、元ある場所へと戻された。欠けたパーツを埋めるように。




