影を消し去るほどの強い光はいらない
それからしばらくは、大人しく単語帳で勉強をしていた。それはママの言いつけを守り、機嫌を取るためのものではなかった。
初めは確かに、ママの機嫌を取るための手段でしかなかった。机に向かえば向かうほど、僕はママの望む"兄ちゃんの代わり"としての自分に近づける。
わたらいさんは医者の娘なんだから、きっと頭がいいんだろう。僕も、彼女に恥ずかしい思いをさせないように、勉強しなくちゃ。僕は自発的に、そう思っていた。
一時間以上は集中していたと思う。突然、英単語帳に見飽きた気がした。ママは僕に英語ばかりやらせるけれど、きっとそれだけじゃダメなんだ。
わたらいさんは僕の心の中の出口の見えない暗闇に、一筋の光を差してくれた。暗闇にある一つの光源を囲むように、僕らは身を寄せ合う。影を消し去るほどの強い光はいらない。僕の背後にも、彼女の背後にも、等しく影ができる。僕らは、ただそれだけでよかった。
わたらいさんのもたらした光は、これまでの僕には考えもつかなかった行動を取らせた。
僕は自分の部屋を出て、兄ちゃんの部屋へと移動した。兄ちゃんが死んだ後もママが生前の状態を保ち続けている部屋。
失ってしまった過去を保存するという意味では、わたらいさんの祭壇と、似ているのかもしれない。
他の何よりも重たく冷たい、死んだ兄ちゃんの部屋のドアを開ける。
部屋の中の空気は、動かない。ママが定期的に掃除をしているにも関わらず、まるで冷蔵庫の奥のような、無機質で冷たい気配が肌を撫でた。
机の上には、兄ちゃんが使っていた参考書やノートが埃をかぶることもなく綺麗に並んでいる。ママはこれを遺品ではなく、僕の教材にしたがっている。
部屋を囲む壁や棚には、数々の賞状やメダル、盾が所狭しと並んでいる。それらは兄ちゃんの生前の輝きを閉じ込めた、ただの展示品だ。
兄ちゃんは、いわゆる優等生とは少し違った。とても優秀なスポーツマンだった。陸上競技が得意で兄ちゃんは、誰よりも早く走った。
兄ちゃんが目指していた高校も、スポーツ推薦で行けるはずだった。ところが、小麦アレルギーの発症で全部ダメになった。運動誘発性のアレルギーと、陸上競技の相性は最悪だということは、当時の僕にもなんとなく分かった。
せめて、学力で憧れの高校への入学をと息巻いた兄ちゃんが、この部屋で勉強に伸び悩んでいたのを、僕は知っている。
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この部屋で、僕は5歳の頃、兄ちゃんが学校から持ち帰った教科書を、真似て開いていた。
まだ文字も読めないくせに、僕は鉛筆で兄ちゃんの教科書を真似て、カレンダーの裏にぐにゃぐにゃのひらがなを書いていた。
身体に合わない大きさの兄ちゃんの机で、僕はひらがなと格闘していた。真っ白だった紙が、自分の文字で埋まるのが楽しかった。
その時、後ろから伸びてきた手が、音もなく僕の鉛筆をひったくった。「あっ」と短く声を上げて、僕は振り向く。
「おい、またそんな簡単な問題で詰まってんのかよ。優等生サマは」
兄ちゃんは、僕がめちゃくちゃな文字を書いた裏紙を覗き込みながら、わざとらしくため息をついた。その顔には、隠しきれない悪意と、ほんの少しの優しさが滲んでいる。
兄ちゃんはそれを見て、「ハヤトは、えらいなー」と、僕の頭を大きな手でくしゃくしゃと雑に撫でた。
「痛い……返してよ!」
僕が鉛筆に手を伸ばすと、兄ちゃんは簡単に腕を上げてかわした。今思えば、その身のこなしは、かつて部活で鍛え上げていた名残だ。
でもあの頃は、家にいる時間の方が多くなった。練習着で汗だくになっている姿を、長いこと見ていなかった。
「落書きなら、自分の部屋でやれよ!」
兄ちゃんはそう言って、鉛筆をテーブルに投げつけた。カラン、と乾いた音が響く。鉛筆はテーブルの端から転げ落ち、机の下の床で止まった。
鉛筆を取りに行こうと椅子を降り、机の下に潜り込んだ僕の頭を、兄ちゃんの指が無意味に、けれど的確に、グリグリと掻き回した。
「……何すんの!いたいっ!やめてよ!」
痛みはない。手から逃れようとしてるのに、力の差は歴然で、ただただ、鬱陶しかった。
床にうずくまった僕の背後で、兄ちゃんは愉快そうに笑う。いつものからかいだ。その声には、あきらかな爽快感が混じっていた。
「ったく、お前は本当に手がかかるな。こんなんこともひとりでできないのか」
そう言って、兄ちゃんは僕より先に鉛筆を拾い上げ、机の上にポンと置いた。
机の下から這い出そうとした僕は、ほとんど裸みたいな女の人の写真集が、机の脚に挟まるように半分だけ顔を覗かせているのに、気がついてしまった。
見たことのない外国人の女性が、挑発的なポーズで微笑んでいる。瞬時に、心臓が跳ね上がる。こんなもの、家にあっていいはずがない。
「おい、頭でもぶつけたのか?早く出てこい……」
背後から覗いてきた兄ちゃんの声が詰まる。
「おい、それ……ママには内緒だぞ」
兄ちゃんの声は、いつものように茶化す響きはなかった。どこか真剣で、焦っているような、そして少しだけ、脅すような響きが混じっていた。
僕は振り返って、兄ちゃんの顔を見上げた。彼の目には、いつもの悪戯っぽさはなく、獲物を捕らえた獣のような光だけが宿っていた。
「……あれ、兄ちゃんのなの?なんで、あの人裸なの?」
見てはいけないものを見てしまったし、聞いてはいけないことを聞いていることも、なんとなく分かっていた。それでも、確かめずにはいられなかった。
兄ちゃんは何も答えず、ただ怒ったような目で僕を見つめ続けた。力で無理矢理押さえつけることも、怒鳴りつけることも無かった。
沈黙。それが何よりの答えで、僕はほとんど喘ぐようにこう呟いていた。
「……わかった……内緒にする。誰にも、言わない」
思わず口から出たその言葉に、自分でも驚いた。そして、心のどこかで、「またか」といううんざりした気持ちがあった。
兄ちゃんは昔、僕のおねしょをママから内緒で庇ってくれてから、それを盾に度々「ママには、内緒な」を発動した。
例えば、夜遅くにこっそりパソコンで良くないサイトを見ていた時。練習が休みになったのに、部活があると嘘をついて街のゲームセンターで時間を潰していた時。テストでひどい点数を取ってしまい、それを破いてゴミ箱に隠した時。
僕が、ママに兄ちゃんの秘密を打ち明けることは、僕の秘密を白日の元に晒すことを意味していた。
僕は机から這い出し、兄ちゃんに促されてドアの前まで移動する。部屋を出る時、振り向きざまに恐る恐るその顔を伺う。
兄ちゃんは一瞬、眉をひそめたが、すぐに悪戯っぽく笑う。
「お前には見せたくなかったんだけどな。……分かったら、さっさと自分の部屋に戻れ」
どこか気まずそうにそう言った。
その日の夕食後、リビングで僕は絵本を広げ、兄ちゃんはソファにだらしなく座っていた。
部活があった頃は、こんな時間はなかった。夜遅くに帰ってくるので、夕食も一緒に食べることは少なかったし、僕が先に眠ってしまうことさえあった。
僕は絵本から目を離し、ソファの兄ちゃんに視線を向けた。
「兄ちゃん、これからはずっと一緒に夜ご飯食べられるの?」
さっきの「内緒」の話の気配をママに悟られないように、僕は恐る恐る聞いた。
「んー……なんで?」
満腹で気怠げな兄ちゃんが眠そうに応じる。
「そろそろ受験……?とか、あるんでしょ?」
僕の言葉に、兄ちゃんの体がピクリと小さく揺れた。ソファの背もたれにもたれていた頭を、ゆっくりとこちらに向ける。
その瞳は、いつものからかうような光を失い、妙に真剣な色を帯びていた。
僕は秘密を暴露しようとしたと勘違いされないように、慌てて声を出す。
「兄ちゃんが、ずっと一緒にいるから……部活、なくなってよかったなっ、て……」
言ってから、ハッとした。そんなつもりじゃなかった。一緒に過ごす時間が増えたことが、素直に嬉しいと伝えたいだけだった。
探るように兄ちゃんの目を見る。僕の言葉には、何も答えなかった。ただ、じっとこちらを見つめている。
「……兄ちゃん?」
不安になって、小さく呼びかける。兄ちゃんの表情は、どこか遠くを見ているようで、掴みどころがない。
「……うるせぇ」
兄ちゃんはそう呟くと、ソファから立ち上がり、手のひらで僕の頭を軽く、しかし確実に叩いた。
「痛いっ!」
咄嗟に声を出したが、痛みはほとんどない。ただ、その手つきが、いつもの悪戯っぽさとは少し違っていた。そこには、苛立ちや、どうしようもない諦めのようなものが混じっているように思えた。
兄ちゃんはそのまま、リビングを出て、自分の部屋に戻ってしまった。僕は、その背中をじっと見つめることしかできなかった。
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あの写真集は、兄ちゃんの嫌な部分であり、誰にも見せてはいけない秘密だった。それこそが唯一残された最後の兄ちゃんらしさだったのかもしれない。
僕はそれを知ってしまった。
勉強机の椅子を引いて、あの日と同じように机の下に潜り込んでみる。ママが掃除をしているから、床にはほこり1つない。その清潔さが、逆に兄ちゃんが生きていた証を消していくようだった。
机の脚に挟まれる形で、あの写真集はまだそこにあった。僕は、あの後もママに秘密を話す事はなかった。
この空間だけは、ママの支配から逃れた兄ちゃんの心の頼り所だったのだろう。
すぐに机から這い出し、机の上の参考書に目をやる。1番難しそうな数学を、敢えて手に取った。
まだ算数もおぼつかないのに。でも、だからこそ、やる価値があるように思えた。
これで、わたらいさんにも、恥ずかしくない。兄ちゃんでさえできなかったことを、僕は彼女の光のおかげで、できる。
「……ずいぶん、珍しいことしてるのね」
背後から、ママの動揺する声が聞こえた。




