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最も確実な自己防衛の嘘


 一人残してきたわたらいさんが、本当にあのお父さんに看病してもらえるかという、あの子の安否への不安が拭いきれない。


 僕は、後ろ髪を引かれながら自宅へと急いだ。




「ずいぶん、遅かったじゃない」

 ドアを開けるとすぐにママがやってきた。

「ちゃんと親御さんにお礼は言えたの?」


 ママの言葉を聞いて、初めて、僕は最大の失敗に気づいた。


──ちゃんとお礼言って。“お友達”に。それと“親御さん”にも。必ず渡すの。いいわね?


 今朝、家を出る時、ママは確かにそう言っていた。


 わたらいさんのお父さんと別れる際、僕は彼女の熱のことと、冷蔵庫を開けた謝罪を口にするのが精一杯で、 ママの指令を果たす余裕がなかった。


 渡さなかった。 お父さんに会ったというのに、僕は菓子折りを直接渡すことも、体操服のお礼も、何も言わなかった。


 僕が答えに困っていることで、ママは全てを察したらしい。


「どういうことなの!」

 ママのよく通る声が、お腹の底から無遠慮にぶつけられる。

 僕は咄嗟に、わたらいさんの部屋の方向を、罪悪感と共に振り返った。数件隣の部屋で、あの子が眠っているのに。

「あんた、ママの言ったことが聞けないの?私はあんたのために謝罪の品を用意したのに、お礼ひとつ言えないなんて!それに、こんなに長い時間他所のおうちに居座って!非常識だと思われたら、どう責任を取るつもりなの!」


 ママの声が遠い呼び声のように聞こえ始めた。

 僕が気にしているのは、謝罪の菓子折りなんかじゃない。

 あの子の熱は、本当に下がるんだろうか。

 あのまま一人にして、本当に大丈夫だったんだろうか。

 「溶けて、なくならないよ」と、微笑んでくれたあの言葉は、真実だったんだろうか。


 掻き消そうとしても、そればかりが、浮かんでは消えた。

 さっき、あんなにも苦しそうな顔を見てしまったのだ。お父さんに託したとはいえ、僕の心は、わたらいさんの部屋に置き去りのままだった。


「……ごめん」

 ママの叱責が最高潮に達したところで、僕は小さく呟いた。

「ごめんなさい。友達が熱を出して急に倒れたから、看病してた……必死だったから、それで全部、忘れちゃった」


 ママの怒りのボルテージはほんの少し下がったようだった。でもそれは納得した訳じゃなくて、恐らく、僕の言葉が嘘か本当かを見定めているのだ。


 ママは、俯いている僕の目を覗き込むように、無理矢理視線を合わせてきた。そして、あまりにも僕が落ち込んでいるので、そこで初めて焦ったような顔をした。


「……そんなに、心配なの?」

 しばらく沈黙した後、ママは口を開く。

「その子、そんなに重症なの?」


 意外なことに、ママは僕を信じてくれたらしかった。


 僕は事の顛末を、言葉を選びながら、かいつまんで話した。わたらいさんが突然熱を出したこと。そして、さっきお父さんが帰宅し、今は家に戻って看病しているであろうこと。


 話し終えると、不安が抑えきれなくなり、僕は顔を歪ませた。

 気を抜けば、泣いてしまいそうだった。


 ママは特に咎める様子もなく、「そう、大変だったわね」とだけ答えた。


「ねぇ、ママ。……僕、わたらいさんを一人で置いてきてよかったのかな。もし、死んじゃったらどうしよう。僕、やっぱり水族館なんか行かないで、あの子のそばにいたほうが……」

「馬鹿ね」

 ママは即座に、厳しくも優しい声で僕を一喝した。

「何言ってんのよ、馬鹿なこと言わないで。きっとただの風邪よ。それに親御さんも帰ってきたんでしょう」


「うん、お父さんに会った。なんか、病院で働いてる人みたい」


 僕がそう言うと、ママは胸を撫で下ろすように、大きく息を吐いた。

「それなら、尚更大丈夫よ。専門家よ、専門家。あんたがそばにいるよりずっといいわ」


 僕がそばにいるより。

 ママの言いたいことは痛いほど分かるけれど、胸の奥が軋む。

「うん……そうだよね」


「そうよ。あんたはよくやったわ。看病する役目は、もう終わったの。あとは、ご家族に任せるの」

 ママの「よくやった」は、看病を済ませ、世間体を守る義務を果たしたことへの評価だった。


 それでも僕は、そのママの言葉に、ようやく体の力が抜けるのを感じた。

 ママは、優しく僕の頭を撫でた。


「ほら、馬鹿なこと言ってないで、早く明日の支度をするのよ。途中でお土産でも買ってあげたら、きっとその子も元気になるんじゃない?」


 確かに、わたらいさんにお土産を買うと約束してしまった。

 ママはまだ、僕の頭を撫でている。


「それにほら、明後日は颯の誕生日を祝う、特別な日なんだから 。そのために明日、出発するんでしょう?」


 僕の誕生日と兄ちゃんの命日が同じである以上、その言葉は、僕の現在の意思をねじ伏せるための、最も強力な呪文だった。


 "誰のせいで、毎年わざわざ行くと思ってんの?"

 ママの目が、そう訴えているように見えた。


 罪悪感で、身体が震える。僕は唇を噛み締めて俯いた。


「ね?去年だって、一昨年だって、『楽しかった』『また来ようね』って言ってたじゃない」


 嘘だ。そう言うしかない状況にさせる癖に。

 

 兄ちゃんの命日にあたる、僕の誕生日が近づくと、ママは自分のトラウマに押し潰されるように感情のバランスを崩す。


 自宅に居たくないというママの切実な願いを否定すれば、ママの心は簡単に崩壊し、その修復作業を僕が背負わされる。ある時は一晩中泣きじゃくるママの背中を摩り続けたし、ある時は、いつも以上に酷く長い説教に付き合わされたりした。


 だから、大人しく旅に同行し、「楽しかった」「また行きたい」という言葉を発することは、僕自身の心を守るための最も確実な自己防衛の嘘だった。


「うん……わかったよ。支度、してくる」

 僕は、掠れた声でそう答えるのが精一杯だった。ママの呪縛から逃れるように、僕はその場を逃げ出し、自室のドアを後ろ手に閉めた。


 僕は、背中をドアに預けたまま、大きく息を吐いた。ここだけが、ママのあらゆる支配から一時的に逃れられる、僕だけの避難場所だった。


 ネックレスを握りしめて、すぐに離す。胸に、さっきまで感じていた罪悪感と屈辱がまだ重くのしかかっていた。


 胸を手で触ると、わたらいさんに胸の上を制圧された時の重さ、そして恋人繋ぎで握られた手のひらの温度を思い出した。


 あの時、僕の全身を支配していたのは、屈辱だけではなかった。それは、誰も与えてくれない、裏表のない切実な温もりだった。


 ママの呪縛から逃れるための、彼女の不器用な支配が何よりも恋しく、この冷たい部屋で、僕は無性に彼女に会いたくなった。


 面倒ごとを先に片付けるように、僕はまず明日の車中泊の支度に取り掛かろうと、クローゼットからリュックサックを引っ張り出した。


 1泊2日の車中泊だから、大袈裟な荷物は必要ない。最低限の着替えと、途中休憩で入る銭湯で使うタオル、シャンプーや歯ブラシなどの洗面用具を、リュックサックに放り込んでいく。


 仕上げに僕は、赤いシートで答えを隠すタイプの手のひらサイズの暗記帳を1冊、リュックの奥に押し込んだ。逃避行であっても、ママが求める「優等生」の義務は放棄できない。旅を終えた後の日常で「勉強しなさい」と口うるさく言われることを避けるための、自己防衛でもあった。


 暗記帳と入れ違いで、リュックのそこで縮こまっていたぺたんこの財布を抜き出す。僕の思考は、すぐに彼女との約束の方へ向いた。一緒に魚釣りへ行くこと、それから、水族館でのお土産を渡すこと。


 このふたつの約束を果たすだけのお金が、果たして今の僕にあるのだろうか。


 財布持ったまま、勉強机に移動する。すぐに、引き出しに隠した貯金箱を取り出した。お年玉や誕生日にもらったお小遣い、お手伝いの報酬を、ほとんど使わずに取ってある。


 なんとなく振ってみる。紙幣よりも小銭の方が多いはずなのに、さほど重みはない。あまり期待はできそうにない。


 蓋を外し、机の上にひっくり返す。財布も同じように、小銭入れと札入れを探る。紙幣が数枚と、小銭が少し。


 あらかじめ、わたらいさんに聞いていた二人分の釣り竿のレンタル料、餌代、そして釣った魚を焼いてもらうための加工代。


 よし、これなら十分足りそうだ。

 僕は安堵のため息をつく。

 これで、ふたりで釣り堀に行ける。


 ここからさらに、わたらいさんへのお土産代を見積もり、取り分ける。

 机の上のお金は、途端に心許なくなった。


 釣り堀までのバスの往復運賃には、どうしたって足りない。

 わたらいさんは「自転車でも行けるんじゃないかな」と言っていた。


 行くしかないのか、自転車で。


 自転車。その言葉が、僕の脳裏に、あの夏の記憶を呼び起こす。




*********************

 僕がまだ五歳だった、あの夏。

 兄ちゃんが病院に搬送される数時間前の午後。


 ケーキを食べたばかりの僕に、兄ちゃんは少し顔色が悪そうにしながらも「大丈夫」と言った。


「そんなことより、プレゼントでもらった自転車、早く乗ってみせろよ。そのために毎日練習したんだから」

 兄ちゃんは僕の腕を引いて外へ出ると、「公園まで競争だ」と言って走り出した。


「待ってよ!」

 僕は慌てて自転車に跨がり、ペダルを漕ぎ出す。初めは兄ちゃんの背中を追いかけていたけれど、すぐに僕の自転車が追い抜いた。


「いいぞ……!進め進め……!」

 兄ちゃんはそう言った。その声は、はあはあと途切れ、苦しそうだった。

 それが走っているせいなのか、ケーキのせいなのかは分からなかった。


 だから、僕は振り向けなかった。

 後ろを走っているはずの兄ちゃんが、笑った。壊れたような、不気味な笑い方だった。僕は、ますます振り向けなくなった。


 分かっていた。兄ちゃんが走れば、どうなるか。


 だから、逃げるようにペダルを漕いだ。

 逃げて、逃げて。ただ前に、前に、進んだ。


 座ったままの漕ぎ方から、立ち漕ぎに切り替えようと腰を浮かせたその直後だった。

 背後で、どさっ、と重たい音がした。


 僕は自転車を止め、意を決して振り向いた。

「兄ちゃん……?」


 転んだだけなら良かったのに。立ち上がって、僕を追い抜いてくれたら良かったのに。

 振り向いた視線の先で、兄ちゃんは背中を丸めてうずくまっていた。


「兄ちゃん!」

 僕は自転車を放って、駆け寄った。


「兄ちゃん……」

 乾き切った喉の奥から、引き攣った声が絞り出される。真夏の焼けるようなコンクリートの上に横たわっているのに、反応はない。その無反応が、この選択はもう取り返しのつかないことを強烈に自覚させた。


「……に、兄ちゃん!」


 僕は汚れるのも構わず、地面に膝をついた。横たわる重い身体をできる限り揺さぶるのに、兄ちゃんの瞼は開かない。コンクリートと触れ合っている部分が、どうしようもなく熱かった。そんなわけがないのに、そのうち、兄ちゃんの身体が溶け出してしまうのではないかと怖くなる。


 意識を失い、完全に無防備になった兄ちゃんを見下ろす。兄ちゃんは呼吸が苦しそうで、皮膚も赤く、ぶつぶつができていた。その弱々しい姿が、僕の中に押し殺していた罪悪感を、制御不能なレベルで引き上げた。


「……僕のせいだ」


 誰に言うのでもなく、僕は呟いていた。

 せめて安全な日陰に寝かせてあげたいのに、5歳の僕には、中学生の兄を安全な場所に移動させることも叶わない。


 何もできない。

 死んでほしくない。

 涙ばかりが勝手に溢れてくる。

 途方に暮れて、ただ泣き叫んでいたら、人が集まってきた。


 誰かが救急車を呼び、あっという間にサイレンの音が迫ってくる。事情を話すまでもなく、誰かが呼んだ救急車が、兄ちゃんと僕を病院まで運んだ。


 車内の冷たい空気、揺れる床、兄ちゃんの荒い息。救急隊員の声は優しかったけれど、僕の耳には届かなかった。

 僕が、兄ちゃんの自殺を手伝ったも同然なのに。


 あれ以来、僕は自転車に乗れなくなった。


 ペダルを漕ぎ出せば、自転車のチェーンが軽快な音を立てる。それでも、背後には常に誰かに追い立てられているような気がした。

 

たぶんそれは、あの日の競争のように、兄ちゃんが僕の後ろを走っている幻影。風を切る音が耳元を掠めるたび、幻聴のように兄ちゃんの声が聞こえた。


 ……進め……進め。


 はっきりとした言葉ではない。苦しそうな呼吸の合間に漏れ聞こえる程度だ。けれど、その響きは、かつての兄ちゃんとの無意味な戯れあいのように、執拗に僕の心を小突き続けた。


 兄ちゃんの苦しそうな呼吸に釣られて、僕まで息が詰まり、ペダルを漕ぐ足が重くなる。それでも、誰にも、何も言えない。これは、僕だけが背負う罰だ。


*********************




 

 嫌な記憶を振り払うように強く頭を振る。


 僕は、自転車に乗りたくなかった。

 どうにかして、往復のバス代になるお金を工面できないだろうか?


 ママに正直に話す?

 「友達と魚釣りに行くから、お小遣いをちょうだい」って?


 ダメだ。きっとまた「友達って、誰よ?」と聞かれるに決まっている。「渡会 恵」と、ちゃんと名前を伝えたとしても、結果は変わらないだろう。ママは、彼女をあまりよく思っていないようだから。


 他に方法はないのか。貯金箱と財布の中身をもう一度確認する。何度数えてみても、これだけじゃどう考えても足りない。


 もうひとりではどうにもならないのか。頭の中が真っ白になる。

 ひとりでは、どうにも……。


 僕はハッとした。そうだ、一つだけ、方法がある。僕らは、ふたりいる。


 だから、これはもう……すごくかっこ悪い選択だけど……わたらいさんにも少しお金を出してもらおう。

 仕方がない。自転車には、乗りたくないんだから。

 それにわたらいさんだって、熱が下がったばかりでまだ体調が万全ではないだろうから。だから、バスで移動した方が、きっとわたらいさんのためにもなる。僕がこのワガママを、彼女への「優しさ」としてなんとか押し通すんだ。


 そうと決まれば、熱が下がったら、わたらいさんにもそう伝えなくちゃ。


 僕は全財産を財布に入れて、それをリュックに押し込んだ。

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