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無言の契約 第15.5話 恵視点:汚れた切実さ

後書きに第15.5話を追加掲載しております。



「わかった。すぐ持ってくる」

 僕がそう告げると、わたらいさんは満足そうに小さく頷いた。


 そのまま彼女の元を離れようとして、僕は動きを止めた。わたらいさんを、またひとりでこの部屋に残すことに気づいて、躊躇う。


 僕は確かめるような視線を彼女に送った。


 彼女も、ただ静かに僕を見つめ返す。

 先ほど水を飲ませたときのような、不安げにTシャツの裾を掴む動作は、もうなかった。


「待ってるから。早く戻ってきて」

 彼女が微笑む。


 その微笑みが、僕の背中を押した。

 立ち上がり、空っぽになったコップを手に、静かに部屋を出る。


 キッチンに移動し、シンクにコップを置く。

 それから、勝手知ったる場所のように常温の食品をストックしているラックから食パンを一袋、冷蔵庫からスライスチーズをあるだけ全部取り出した。


 缶切りやストローが入っていたのと同じ引き出しに、使いかけのアルミホイルが入っていた。それも一本引っ掴む。


 ──「溶かして、くっつけてみる」


 熱で掠れたわたらいさんの声が、僕の頭の中で反響した。


 トースターで焼くのとは訳が違う。彼女は、自らの忌々しい能力で、それをやろうとしている。


 1匹1匹ばらばらだった煮干しを、ひと塊の異形に変えてしまったあの呪いの力でもって、彼女はチーズトーストを作るという。

 他でもない、僕のために。


 奇妙だ。まだ、熱で朦朧としているのかもしれない。でも、どこか楽しそうだった。


 両手では持ちきれないそれを、無理矢理抱え込むようにしてわたらいさんの元へ戻る。

 僕のその姿を見た彼女が笑った。

「もう、そんなに食べきれないよ」


 僕も笑う。たくさん笑って欲しい。

 笑いながら、わたらいさんがゆっくりと上体を起こした。まだ怠そうで、動きがぎこちない。


 床に膝をつき、持ってきたものを彼女の横にそっと置いた。


「食パンと、スライスチーズ。あと、アルミホイル……」

 そこで、皿を持ってきていないことに気がつく。


 わたらいさんが「ちょうだい」の形で、僕に両手のひらを差し出した。

「載せて、全部」


 僕は言われた通りにアルミホイルを広げた。そのアルミホイルの冷たい感触の上へ、僕はチーズを乗せた食パンを載せる。


 アルミホイルの鈍い銀色の光は、彼女の自由を奪う手錠のようだ。わたらいさんも、それを見ていた。


 その表情にはまだ熱があるが、先ほどのトラウマに怯える色は消え、奇妙な料理を始める前の好奇心が宿っていた。


「……無理しないでね」

 僕は、思わず呟く。

 能力を使うことで彼女が体力を著しく消費することを、僕は目の当たりにしていた。


 わたらいさんは、僕が用意したその「舞台」をじっと見つめると、静かに目を閉じた。


 チーズが乗ったパンの下から、じわじわと湯気が立ち上った。

 そしてすぐに、あの焦げ臭いような匂いが追いかけてくる。


 僕の頬を熱風が撫でる。彼女の極端に熱い体温が、その両手のひらに集中し、アルミホイルを介してパンへと伝わっているのが分かった。


 チーズが、音もなく、静かに溶け始める。角が丸くなり、次第に表面がとろけて、パンの表面によじれて絡みついていく。

 「溶かして、くっつける」というわたらいさんの言葉通りの現象だった。


 この熱は、煮干しを異形に変えた呪いの力と同じもののはずだ。しかし、今この場に流れているのは、ただ焦げ臭かっただけの罪の匂いだけではなく、チーズとパンの焦げる、甘く香ばしい匂いも混ざっていた。


 わずか十数秒の出来事だった。トースターより断然早い。


 わたらいさんはゆっくりと目を開いた。

 彼女の両手、アルミホイルの上には、こんがりと薄い焼き色がついた、チーズトーストが完成していた。


 彼女の能力を使った奇妙な遊びは成功した。それは、わたらいさんが初めて生み出した、何の罪もない温かい秘密だった。


「……半分こしよう。大きい方、ぺこにあげる」

 わたらいさんが、熱で火照ったままの顔で僕を見つめた。ほんの少しの疲れが見える。


 僕は出来たてのチーズトーストを火傷しないようにそっと掴み、手で半分に割った。


 チーズはパンの繊維の一本一本にまで入り込み、完璧に癒着していた。手から溢れるはずのパン屑さえも、くっついてパンに戻ろうと吸い付くように見えた。


 普通のチーズトーストとは、明らかに違う。


 僕は迷わず、大きい方の半分をわたらいさんに差し出した。

 彼女はそれを受け取らず、首を横に振った。


「食欲、あんまりない。それに、ぺこがごはん食べてないの、知ってるよ。私は、小さい方で充分だから……」


 それは純粋な優しさと体調不良からくる拒絶だった。同時に、自分の能力で生み出したものを口にすることに抵抗があるようにも見えた。


「……先に、食べて欲しいの」


「ありがとう。それじゃあ、遠慮なくいただきます」


 僕はそう言って、彼女の分の小さいトーストをアルミホイルに包み、わたらいさんの側に置いた。

 改めて、自分の分の大きい方のトーストを掴み、口に運ぶ。


 指先に触れるパンの表面は、カチカチに硬くて、まるで飴細工みたいだった。

 部屋に漂う美味しそうな匂いを目一杯吸い込む。そして、ゆっくりと噛み締める。


 表面はコーティングされたように硬いのに、すぐにひび割れていく。すぐに、異常に粘りのあるチーズの層にたどり着く。ドロドロに溶けたチーズはもはやパンの一部となり、噛み切っても糸を引くように強く粘り、どこまでも伸びていく。


 半分こにしたせいで、長いこと空気に触れたはずなのに、中が異常に熱いままだった。


 トースターの熱ではあり得ない。わたらいさんの能力によって、パンとチーズのすべてが、固く、そして異常に深く癒着させられた、奇妙で、未知の食べ物だった。


「うまっ!」


 僕が食べる様子を不安げに見ていたわたらいさんに、力強くサムズアップする。興奮と感動のあまり、らしくないことをしてしまった。すぐに手を下ろす。


 深刻そうな顔をしていたわたらいさんは、堪えきれず吹き出すように笑った。


「よかったぁ……」


 彼女は心底安心した様子で、置かれていた小さい方のトーストを、そっと手に取った。


 わたらいさんはあつあつのトーストを前に、微かに躊躇した。熱で喉は乾ききっていて、食欲というよりは、消耗した体が強制的に栄養を欲している感覚に近いのだろう。だから、食べたいのに、食べられないのだ。


「無理しなくていいよ。少し横になってからでも」

 僕はそっと声をかける。


 わたらいさんは静かに首を横に振った。

「……一緒に食べなきゃ、意味ないよ」

 そして、トーストを一口大にちぎり、その小さい破片を口の中に押し込めた。


 それは、支配でも餌付けでもない。

 僕らは、様々な思いが癒着したそのトーストを、一口ずつ、ゆっくりと噛み締めた。


 わたらいさんは、トーストを見つめて、熱に浮かされた頬に微かな微笑みを浮かべた。


「……ねえ、ぺこ」

 彼女は独り言のように呟いた。

「この力は誰にも知られちゃいけない、怖いものだって、ずっと隠してきた。それなのに、こんなふうに、誰かと楽しいことができるって……知らなかった」


 わたらいさんのその言葉は、「呪い」を「祝福」として受け入れ始めた、最も純粋な告白だった。


「美味しいよ。君が作ったからだ」


 僕は答える。

 彼女も大きく頷いた。


 トーストをほとんど残したわたらいさんが、また辛そうにブランケットに横たわる。


 僕はトーストを食べ終わり、改めてわたらいさんの顔を見つめた。


「そろそろ、僕、帰らないといけないんだ」

 正直に告げた。わたらいさんは一瞬、寂しそうな顔をしたが、すぐに微笑んだ。


「大丈夫だよ」

 わたらいさんはそう言って、小さく手を振った。

「今日はね、お父さん、早く帰ってくるから」


「……でも」

 僕はその言葉を聞いても、まだ彼女を一人にすることを躊躇った。


「お父さん、この家から引っ越していくから、最近ずっと忙しいんだ」

 わたらいさんは僕の言葉を遮り、どこかぼんやりとした瞳で続けた。

「今日はその片付けもあるから、早く来るの」


 僕はその言葉の意味をすぐに理解した。だからこそ、なかなか言葉にはできなかったが、家族が戻ってくるという事実だけに、返事をすることにした。


「わかった。じゃあ、そろそろ行くね」

 僕は立ち上がる。

「明日、母さんと水族館へ行くんだ。帰って、準備しなくちゃ」


「いいね、水族館」

 わたらいさんは寂しそうに僕を見つめる。その顔に、別れが惜しいという影が一瞬よぎった。


「……そんなに、いいもんじゃないんだけどね」

 僕は思わず苦笑いする。

 それからもう一度しゃがんで、彼女の手をそっと握り、安心させるように微笑んだ。

「何が欲しい? よかったら、お土産買ってきてあげるよ」


 わたらいさんは、熱で火照ったままの顔で、しばらくぼーっと僕を見上げていた。

「……わかんない」


 その答えは、欲しいものを選ぶことへの苦手意識のようにも、ただ熱にやられた頭のせいのようにも聞こえた。


「わかった。じゃあ、僕が選ぶね。わたらいさんが気に入りそうなものにするよ」


 わたらいさんは小さく頷く。

 ずいぶんと辛そうに見えた。


「……溶けて、なくならないでね」


思わず、僕が呟くと、わたらいさんが微笑む。

「うん、なくならないよ」


 僕は力強く頷いた。

 廊下に出て、靴を履くために玄関へと向かう。


 わたらいさんの家を出て、外廊下を歩く。彼女から離れていくのを感じるその一歩一歩が、重い。


 ふと、遠くから近づいてくる車のエンジン音に気づいた。


 僕は、アパートの外廊下の隅で立ち止まる。手すり壁から駐車スペースを見下ろすと、黒いセダンが滑り込んできた。


 嫌な予感がした。


 僕は急いでしゃがみ、身を隠しながら、様子を伺う。案の定、セダンから降りてきたのは、黒いスーツ姿のわたらいさんのお父さんだった。


 早くしないと、鉢合わせになる。

 心臓がバクバクと鳴り、血の気が引いた。


 このまま無視して家に帰るべきか?


 いや、これはチャンスだ。わたらいさんの高熱のことを伝えて、看病を引き継いでもらえる。


 でも、僕なんかの話を、素直に聞いてくれるだろうか。


 以前、食卓を囲んだ時のあの無反応が頭を過ぎる。


 そうして、うじうじと迷っているうちに、黒いスーツの男がこの階に向かって階段を駆け上がる足音が、近づいてくる。


 僕は、意を決して──あるいは諦めて、その場で立ち尽くした。


 階段を上り切り、外廊下に出たわたらいさんのお父さんは、僕を見て一瞬足を止めたが、そのまま無視して通り過ぎようとする。


 今だ。今しかない。


「あっ、あの……!」

 僕は声が震えるのも構わず、大人に向かって声を絞り出した。


 わたらいさんのお父さんは立ち止まり、静かにこちらを見た。


「恵ちゃんが熱を出したので……お水を飲ませてあげたくて……勝手に冷蔵庫開けました。コップとかストローも……ごめんなさい。


今、一人で寝ているので、助けてあげてください。恵ちゃんのこと、よろしくお願いします」

 僕は深く頭を下げた。


 一息でそう言い切ると、心臓が爆発しそうなほどの鼓動を感じた。


 わたらいさんのお父さんは何も言わない。

 痛いくらいの沈黙に、これ以上は無理だと僕は素早く立ち去ろうとした。


「……君、こないだ家に来た子だね」 

 わたらいさんのお父さんが口を開いた。


 その意外な言葉に、僕は驚いて固まる。

 

「名前は確か……綾瀬くん……」

 僕の顔をまっすぐ見て、静かにそう言った。


 僕は深く息を吐いた。

「はい、そうです」

 

「先日は無礼なことをして申し訳なかったね。大人にも、君には想像もつかないような事情があるんだよ。


──君が恵のために、人の家の冷蔵庫を勝手に開けたみたいにね」

 わたらいさんのお父さんは、そういって苦笑いする。


 僕はその言葉にドキリとし、後ろめたさで逃げ出したくなった。

「はい、なんとなく……わかる気がします」



 彼はそこで笑みを引っ込めた。

「それにしても、ずいぶん熱心な看病だ。恵を一人にさせまいと、まるで子守りのように……」


 そこで、思い直したように、一度言葉を区切る。


「いや……きっと、恵が引き留めたんだろう。迷惑をかけた。その点は、本当に申し訳なく思っている」


 わたらいさんのお父さんはそこで、一瞬だけ、本当に辛そうな顔をした。


「……恵はいつも、私が側にいないときに熱を出した。おそらく、心因性のものだと私は思っている。


大抵、誰にも見られない場所で、力尽きたように熱を出して倒れていた。詳しいことはわからない。何か、あの子なりに無理をしているんだろうと思った。


だが、今日は違った。君の前で倒れた。多分、それだけ、あの子は君を信頼しているということだ」


 僕は無言で立ち尽くすしかなかった。


「そんな恵に……酷なことをしている自覚はある。


でも私は、いずれあの子から離れる。色々な事情でね」


 わたらいさんのお父さんは、僕の目を真っ直ぐに見つめ、圧を込めて続けた。


「あの子の持っているものが何であれ、それを一人で抱え込ませていたのは、親である私の責任だ。」


 そして、一度目を伏せ、改めて真っ直ぐに僕の目を見た。


「今のあの子には、綾瀬くんが必要なんだと思う」


 僕は重圧に押し潰されそうになりながら、その言葉を、一言も反論せずに受け止めた。


「こちらこそ、これからも恵をよろしく頼む」


 そう言って、わたらいさんのお父さんは静かに僕に歩み寄る。そして、動けずにいる僕の肩を、一回だけ、強く叩いた。


 それは、大人から子供への激励というよりも、重い荷物を引き継いだ者同士の、無言の契約のようだった。


 そのまま、わたらいさんのお父さんは、自分の部屋の方へと外廊下を歩いていく。


 その少し先、エントランスのところに黒い小さな影が見えた。ただの影ではない。あれは、黒猫。よじれだ。


 それは別れを言うでも、見送るでもなく、ただそこにいた。僕は急いで視線を外し、自室へと走り出した。


第15.5話 恵視点:汚れた切実さ


 ぺこが帰ってしまった。ひとりで部屋に寝ていると、色々つまらないことを考えてしまう。


 1秒でも早く眠って、体調の回復に努めるべきなのに、心ばかりが消耗されていく。


 自分で荒らした祭壇と、ぺこが敷いてくれたブランケット。ふたりで食べたチーズトースト、食べきれなかったその材料。


 全部散らかったままで、私の今の頭の中みたい。


 足元で、黒い塊が微かに動く気配がした。よじれだ。いつだって、私だけの孤独を共有してくれる。


 離れていくぺこの足音と入れ違いで、遠くから近づいてくる車のエンジン音が微かに聞こえる。ぺこに教えた通り、パパが帰ってきたんだ。


 思ったより早かった。ぺこと鉢合わせになるかもしれない。ぺこは気まずいだろうなぁ。


 友達のピンチなのに、熱でぼやけた頭の中のせいで、どこか遠い国で起こる他人事みたいに思えた。




 微かに、パパの話し声が聞こえた気がした。そして、うちのドアが開く音、靴を脱ぐ音が続く。

 重い足音が近づいてきて、部屋の前に立ち止まる。ドアは開けたままだから、パパにもすぐに、私の不様な姿が見えるはず。


 私は、わざとそちらには視線をやらず、ぼんやり天井を見つめていた。


「めぐ」

 パパが、私をそう呼んだ。


 昔、家族がまだ機能していた頃の、懐かしい呼び方。その呼び方を、今この期に及んで聞くと、過去の幸福がまるで測れるはずのない、幻のようだったと痛感させられる。


「その呼び方はいや」

 私は天井をみつめたまま呟く。

 よじれがブランケットの端で、低い唸り声を上げる。私の心の抗議の代弁するみたいに。


「恵。熱はどうだ、まだ辛いか」


 そう言いつつ、パパは部屋に足を踏み入れた。私はパパの動きを目で追う。

 パパの視線は私ではなく、床に置かれた食パンやチーズ、そしてアルミホイルの残骸に向けられていた。


 私は視線をまた天井に戻す。


「回復するために、とにかく何か食べなくちゃと思って……綾瀬くんに無理矢理持ってきてもらった。食べきれないほど持ってくるとは思わなかったけど。チーズトーストを作ったけど、火事が怖いから、火は使わなかったよ」

 私は、さりげなくぺこを庇った。私のための無礼を働いたことへの矛先が、ぺこに向かないようにしたのだ。


 パパはしばらく黙り込んでいたけど、やがて大きくため息をついた。


「本人から事情を聞いたよ。さっき、廊下ですれ違ったんだ。確かに彼は、無礼を働いた。でもそれは他でもない、恵の病状を心配してのことだ。それに対して……むしろ私から礼を言った。済んだことだ、もう寝なさい。今、布団を敷いてあげよう」


 パパは、パパにできる範囲で問題を解決し、感情の余地を残さなかった。颯の無言の献身は、私の知らないところで、パパが一方的に終わらせていた。


 私とぺこの間に交わされた約束の重さには、思い至るはずもなかった。


 パパが敷いた布団の上に横たわると、肩まで毛布をかけられた。


 よじれは私の頭の近く、枕元に静かに丸まって、パパから私を守るかのように目を光らせていた。


「明日、ママと役所へ行ってくる。君の今後のことについて、決めなくてはならないことがある」

 そう言って、一度だけ私の頭を撫でた。


 役所へ行く。今後のこと。 その言葉の意味を、熱でぼやけた頭でも、私は嫌というほど理解した。


 離婚――。パパの別居、そしてママとパパどちらかは私を選ばなかった事実。それが、ついに確定したのだ。


「いやだ、私も行く。連れて行って」

 パパは困ったような顔をしただけで、何も答えなかった。

「絶対、明日までには治すから!私だけ置いていかないで」


 よじれはパパの足元を鋭く威嚇し、低い声で鳴いた。パパはそれに一瞥もくれず、ただ静かにため息をついた。


「……あとで薬、持ってくるからな」

 パパはそのまま立ち上がり、部屋を出て、ドアを閉める。


 私は、パパの論理にも、ママの無関心にも、抗う術を知らない。私の世界が、ぺこがいない場所で、音もなく溶けていくみたいだった。


"溶けて、なくならないでね"

 ぺこの言葉だけが、微かな温もりとなって蘇る。


 本当に、溶けてしまえたらよかったのかもしれない。




 パパの重い足音が遠ざかり、部屋には再び孤独な静けさが戻ってきた。よじれは、まだ微かに唸っている。


 私は寝返りをうって、散らかった部屋の中の、たべきれなかったチーズトーストの残りを見つめる。アルミホイルに包まれて鈍く光るそれは、一際目を惹いた。


 ぺこもそう。私にとっては散らかった世界のたくさんいる人間の中で、一際目を惹く存在だった。




*********************

 誰かが私に近づいてくる時、それは大抵私の「恵」という名が示すような、優しさや穏やかさ、面倒見の良さといったいわゆる「恵まれた人間性」に惹きつけられるらしかった。


 その「恵まれた人間性」が、結果的に幾度もの友情の喪失を生んだ。集まれば、集まるだけ去っていくのだ。


 私の周りには、いつも人が集まった。私を優しいと言ってくれる。頼ってくれる。私の「恵まれた人間性」が好きだと言ってくれる。でもそれは全て、私の綺麗な部分だけ。


 私の汚い部分を――よじれと呪いを受け入れられる者は、誰一人としていなかった。なぜなら、私の優しさは、醜い私を隠し、誰かを精神的に独占するための支配の仮面に過ぎなかったから。


 全てを打ち明け、よじれと共に能力を開示する。ある時は女の子の三つ編みを焦がし、ある時は男の子の眼鏡を溶かし歪ませた。


 これが私の、一番醜い部分。あなたもこの秘密に、一生囚われてほしい。

 私が直接そう告げることはないが、ほとんど同じことだった。


 それなのに、彼らは「重い」「気持ち悪い」「怖い」「普通じゃない」と、ありとあらゆる暴言を残して去っていった。


 私の「恵まれた人間性」で近づいてきた人間は、私の根底にある激しく醜い衝動には耐えられない。

 誰とも分かり合えない。ひとりぼっち。孤独。その状況がさらに呪いの威力を加速させる悪循環。


 そして、その失敗のサイクルは、ある時、決定的に私自身汚し、打ちのめした。


 それは、私が能力を開示した際、三つ編みを焦がしてしまった女の子からの報復だった。彼女は、私の優等生という仮面を剥がすために、私を 「最も汚い、醜いもの」 として定義し直そうとしたのだ。


「どうする?コイツの髪も燃やしちゃう?」


 放課後の理科室。ポニーテールの少女が実験に使うマッチを手にすると、ボブヘアの少女も意地の悪い笑みを浮かべた。


 廊下から死角となる壁際に追い込まれる。身体を拘束されている訳ではないのに、動けない。


「ねえ?コイツの髪燃やしたらいいじゃん」


 ポニーテールの少女が、自分の背後に向かって、もう一度言う。視線の先には、三つ編みを焦がされた被害者本人がおり、私をじっと睨みつけていた。


「そんなんじゃ許せない」

 被害者は美容院で整えてもらったのか、ショートカットになっている。つかつかと歩み寄り、私の顎をぐっと掴む。


「きれいぶってんじゃねーよ、この偽善者。お前がやったことは、このカエルよりずっと汚いんだよ!」


 彼女は実験台の上に置いてあった、死んだ小型のカエルの入った容器を掴んだ。中には、既に実験で解剖され、臓器を晒したまま、白い腹を剥き出しにしたカエルが横たわっている。


「いや……何、するつもり……?」

 考えたくないのに、最悪の想像が頭を過ぎる。


「かわいそうなカエルちゃんだよ?優しい恵ちゃんなら、この子の命の重みを感じながら、ちゃんと食べて供養してあげられるよね?」

「ねぇ、恵ちゃーん。優等生なら、命を無駄にしちゃダメだよね?」


 ショートカットの少女の発言を合図に、3人がかりで力任せに床に押し倒され、組み敷かれた。頭を冷たい床に押し付けられる。

「やめてっ!」

 必死に暴れるのに、1対3では勝ち目がない。


 カエルが、鼻先まで近づく。それを、マジマジと見てしまう。


 口の隙間からねじ込まれるのが怖くて、悲鳴すら殺す。唇に、内臓が露出したカエルの腹が押し付けられる。


「恵ちゃーん、あーんして?」

 鼻を摘まれる。息ができない。呼吸する為に、いつか口を開けなければならない。

「ほら、早く呼吸しなよ。息、苦しいんでしょ?」


 体が震えて、涙が止まらない。死んだ方がマシだと必死に口を閉じる。


「えー、意外と頑張るじゃーん」

「優等生サマがこんなところで息止めて死んじゃったら、親が悲しむよ?ちゃんと生きなよ」

 少女たちが愉快そうに醜く笑う。

 「がんばれー」と裏声で、死んだカエルを操るように茶化される。


 やがて、死んだ方がマシという理性より、肺が酸素を求める本能が勝つ。


 みんなの目の前で、冷たい死んだカエルが、汚い手で、私の唇をこじ開けて口の奥深くまで押し込まれた――。


 声にならない悲鳴が、腹の底から湧き上がる。


 生臭く、嫌な感触、冷たさ、滑り、絶望的な屈辱。 口内という最も敏感な場所が、即座に全ての情報を拾って脳へ届ける。


「うっ、おぇええっ……」


 耐えきれず、私はカエルを吐き出してしまった。仰向けのままわずかに顔を横に傾けたけど、体が汚れるのは防げなかった。嘔吐物と、原型を留めたカエルが床に散らばる。それを見た途端、加害者たちは顔を顰めた。


「うっわ、汚なっ!臭いし、ほんと無理。自分で片づけなよ!」ポニーテールの少女は鼻を摘み、さっさと理科室を出て行った。ボブヘアの少女も、笑いながらに後に続く。


 最後に残ったショートカットの被害者本人が、床に倒れ込んだまま動けない私を見下ろす。


「ねぇ、誰も来ないよ? あんたの優しさも、恵まれたお家柄も、なんにも助けてくれなかったね。恵ちゃん、ホントに友達いないんだね」

 まるで当たり前の事実を指摘するように言うと、満足そうに冷たく笑って理科室を出た。


 その笑みは、私を優等生の席から引きずり下ろし、中身は汚くて、誰からも愛されないという事実を、みんなの目の前で証明しきったことへの勝利の証らしかった。 彼女は、私の偽善の仮面を剥がすという正しい行いを成し遂げ、それを誇りに思っている。


 だから、その場を去っていった。幸か不幸か、途端に興味を無くしたらしい。粘着質ないじめとは違うようだ。


 残されたのは、吐瀉物とカエルと私だけ。誰も助けに来ない。この破滅的に汚い屈辱的な状況すら、誰の視線を留めることはできない。


 私は悟った。 誰も私を救わない。誰も私を選ばない。


 私の頭の中は、自分が吐き出したその1匹のカエルのことでいっぱいになった。良いように扱われ名もなく死んでいき、誰も思い出すこともない。


 このカエルは、私と同じなんじゃないの?

 だから、この口の中に押し込まれたんじゃないの?


 涙が止まらない。何の涙なのか、もはや分からないのに、自己憐憫にならないように、カエルをそっと摘み上げる。


 ひどく、かわいそうに思えた。まるで、私自身の死体を見ているようだった。


 ひとしきり泣いてから、私は覚悟を決めた。 自らの手で嘔吐物の中から摘み上げたそのカエルを、自分の意思で再び口の中、喉の奥に無理矢理に押し込み飲み込んだ。


 同じだ。私たち――カエルと私は。誰からも忘れ去られる、汚い存在なのだ。



*********************


 ぺこが泥まみれのカレーパンを、空腹に耐えかねて、尊厳をかなぐり捨てて食べた、あの雨の日。泥まみれの屈辱を味わったぺこの気持ちは、私には痛いほど理解できた。


 本能は理性を凌駕する。


 あの時、私はぺこの飢えが、私の口内を汚した屈辱と、決意を込めて飲み込んだカエルへの渇望と同じ、汚れた切実さだと見抜いた。


 私は、ようやく「友達」を見つけたのだ。


 だから、ぺこへのキスは、愛情なんかじゃない。あれは、私の支配を、私の孤独を全て受け入れろという、醜さを暴力的に上書きするための、冷たい契約と懇願だった。


 他の友達にも、こんなことしてきたのか?いいや、違う。

 肉体的なことはしなかった。過去の友達は、私の優しさに集まり、私の根底にある激しく醜い衝動に耐えられずに去っていった。私の人当たりの良さは、私を裏切る呪いでしかなかった。


 でも、ぺこは違う。


 ぺこは、私が哀れだと突きつけた支配を、「僕もあげる」という熱い屈辱で返してきた。脇腹のあの噛み跡は、私の孤独を否定するのではなく、彼の孤独と強引に癒着させた、最も切実な証明だった。


 この痛みだけが、私とぺこを何者にも奪われない、永遠の秘密にしてくれる。


 私はそっと指先で唇に触れた。その瞬間、あの日の記憶が、熱と狂喜となって何度でも脳裏にフラッシュバックする。


 ぺこが私を組み敷き、腰を押し付けたあの瞬間。「僕もあげる、わたらいさんに、全部」という言葉に、魂が救われたあの屈辱と安堵。


 私は熱で火照ったままの頭で、そっと薄手のシャツの袖口から覗く脇腹に指先を這わせた。

 もう痕は消えかけている。それでも、そこには確かに残っている。


 それは、「哀れな自尊心は、もういらない。全部、僕にちょうだい」という、ぺこの熱烈な契約の証だ。


 私はぺこに、外出する可能性があることを言わなかった。私が不在と知れば、探してくれるだろうか。


 明日、ぺこが水族館で、私を思ってお土産を選んでくれること。その優しさが、私の唯一の支えだった。


 あの時、「ひとりにしない、約束する」と告げたぺこ。

 その支配の言葉だけが、「生みの親に選ばれなかった」という現実の屈辱に抗える、私の唯一の力だった。


 そのために私は、ぺこの支配に依存する。それが、私の光だった。


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