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冷やさなくちゃ

 わたらいさんの体は張りを失い、勢いよく前のめりに崩れていく。死を決意した兄ちゃんを目の前にした時の、あの無力感がフラッシュバックする。


 "ママには、内緒な"


 あの時の何もできなかった自分が、今の僕の身体にまとわりつくようだった。お前も同類だ、どうせ何もできない。誰の力にもなれない無力な存在だと、心の奥の一番弱い部分目掛けて囁いてくる。


 過去のトラウマがフラッシュバックする無力感の中、僕の身体は硬直したようにぴくりとも動かず、呼吸すら止まる。しかし、それも一瞬のことだった。


 今の僕の身体は、本能的に動いた。


 僕は抱き止めるには間に合わないと悟り、抱擁を諦め、せめて少しでも落下の衝撃を和らげようと自分の左腕を投げ出した。


 結果、音もなく、わたらいさんの額は硬い土間ではなく、僕の腕の付け根にぶつかった。薄い肉を介して、骨と骨のぶつかる硬さの衝撃で、思わず顔を歪める。そのまま彼女の頭は腕に沿って斜めに滑り、止まった。あとわずか数センチの距離で硬い土間にぶつかる寸前、僕の腕が最後の衝撃を受け止めたのだ。


 わたらいさんの体は上がり框と土間に斜めにまたがり、顔と肩は僕の左腕に凭れかかる形となった。その体勢は、まるで、僕が彼女を抱きかかえることができなかったという失敗の証のように、ぎこちなく、重かった。


 僕が「あっ」と声を漏らし、目の前で崩れ落ちるわたらいさんを抱き止めようとして叶わなかったその一瞬、彼女の隣にいたよじれは、すでにそこから抜け出していた。まるで、わたらいさんの意識と共に、音もなく祭壇のガラクタの影に溶け込んだかのように。


「わたらいさん……」


 乾き切った喉の奥から、引き攣った声が絞り出される。反応はない。その無反応が、再び僕のトラウマを強烈にフラッシュバックさせた。


「……め、恵ちゃん!」


 腕の中、重い身体をできる限り揺さぶるのに、彼女の瞼は開かない。わたらいさんと触れ合っている部分が、どうしようもなく熱かった。そのうち、彼女自身が溶け出して、僕の身体と癒着してしまうのではないかという根源的な恐怖が思考を蝕んでくる。


 意識を失い、完全に無防備になったわたらいさんを見下ろす。その弱々しい姿が、僕の中に押し殺していた「罪の熱」を、制御不能なレベルで引き上げてもおかしくはなかった。


 まだ口内に残る煮干しのざらつき。食道から胃へと落ちていった異形の熱が、腰に感じていたあの罪の熱と合流し、僕の全身を巡る。それは、支配の熱ではなかった。


「……冷やさなくちゃ」


 誰に言うのでもなく、僕は呟いていた。左肩で彼女の重みを受け止めるような体勢から反対側に重心を移すことで一時的に玄関の壁に持たれさせる。その間に靴を脱ぎ、上り框に上がる。


 わたらいさんの背後から、脇に両腕を差し込んだ。脇の下という、女性の体としてセンシティブな部位である認識はあった。しかし、その意識はほとんど雑音のように無視された。そこから伝わるのは、病による尋常ではない熱と、完全に脱力した身体の重みだけだった。


 体重は平均的なはずなのに、完全に脱力しているせいで、まるで石になったみたいに重い。僕は歯を食いしばり、そのまま彼女を床の上で引きずり始めた。


 後ろ歩きで、廊下を行く。引きずるうちに、Tシャツが捲れ上がり、わたらいさんのお腹が露出した。その瞬間、僕の視線が彼女の脇腹の、あの噛み跡の場所を確かに捉えた。


 僕はため息をひとつ吐いて、確かな決意を込め、再度彼女を引きずる。あの時感じた「罪の熱」は、跡形もなく消え失せていた。


 僕の全神経は、「彼女を生死の境目から連れ戻さなければならない」という、切実な使命に集中していた。


 廊下を通り、ドアが開いたままの、祭壇がある部屋まで行く。ドアのほんの僅かな凹凸を越える瞬間、僕らの身体は無様に絡みつき、思わず呻き声が漏れた。


 部屋の中でひとまず、わたらいさんを仰向けに寝かせる。床に直接寝かせるのが憚られ、布団の代わりになるものを探して視線を彷徨わせた。やがて、彼女の祭壇を形作るブランケットが目に止まる。


「……ごめん、借りるよ」


 無論、反応はない。それでも、声をかけずにはいられなかった。


 ブランケットを祭壇の下に敷き、ほとんど転がすようにしてわたらいさんを移動させた。それでも、彼女は目を開けない。


 窓の外はもう真昼に近い明るさだ。夕方までこの家にいることは、ママに言われた「早く帰って来るのよ」という約束を破ることになる。


 明後日は兄の命日で、僕の誕生日だった。この日が近くと、ママは途端にそわそわし出す。僕の姿が見えなかったり、帰りが遅くなると、子供を失ったトラウマが刺激されるようで、昨日も僕が帰るまであれこれ悪い想像を巡らせては、携帯電話を握りしめていたようだった。


 事故現場となった自宅には居られず、前日である明日の夜から、ママと二人で車中泊へ行くという現実逃避のための僕らの毎年のお決まりの行事だった。


 そのためには今日の午後早く帰宅し、車中泊の準備を済ませることが、ママとの暗黙のルールなのだ。


 それでも、今の僕にはわたらいさんを冷やすことが最優先だった。


 以前この家に来た時のことを思い出し、僕は廊下からリビングを経由して洗面所へ行く。目についたタオルを掴んで、洗面台の蛇口をひねり、たっぷりの流水で濡らす。


 早く、早く冷やさなくちゃと焦れば焦るほどに、水もタオルも、僕の意思とは異なる動きをしているように思えた。


 真夏日だというのに、自分の手に触れる水の冷たさが不快だ。まるで、ゆるいゼリーや葛湯を思わせる粘性を持っているかのように、とろみを帯びてまとわりつくようだった。


 冷たい水を充分に吸い込み、重たくなったタオルを僕はギュッと絞った。額に乗せたときに水滴が垂れないよう、強く、硬く、捻る。


 タオルを広げるのももどかしく、早足で洗面所を後にする。ところが、その絞り切ったタオルは、どれだけ揉みほぐしても、元の布の柔らかさに戻らなかった。


 まるで、タオル自身が絞った瞬間の形を記憶し、そのまま接着剤で固められたかのように、タオルの繊維同士が強く癒着し、カチコチの奇妙な塊になってしまったのだ。


「えっ、嘘……」


僕の手に残ったのは、水気を帯びた石のような、無様な繊維の塊だった。これが意識を失いかけているわたらいさんの、無意識の能力の滲み出しであることに、僕は戦慄した。


 いや、それなら、まだいい。もしもこれが、わたらいさんが癒着させた異形の煮干しを口にしたこと僕から滲み出した能力だとしたら……。


 最悪の事態が頭を過ぎると同時に、タオルは重力に従ってほろりと解れた。


 気のせい、なのか。しばらくタオルを見つめ、呆然となる。


 冷房が効きすぎているせいか、やたらと肌寒く感じた。そして、本来の目的を思い出し、わたらいさんのいる部屋へと急いだ。


「……ちょっと、ひんやりするよ」


 僕は、熱で紅潮したわたらいさんの額に濡らしたタオルを乗せた。急な冷たさに体を震わせることもなく、ただ彼女の呼吸は浅く、時折、苦しそうに息を詰めた。


 熱に魘される彼女の呼気が、蒸気となって可視化されるような錯覚に、僕は違和感を覚えた。入道雲みたいに、ぽっかりと空中に浮かんでどこにも流れていかないのだ。


 思わず目を擦り、もう一度見る。すると、たちまちそれは霧散し、もはや跡形もなく消えた。

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