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ひと塊の異形

 そのとき、彼女の目がほんの少し揺れた。


「僕は、"恵ちゃん"と魚釣り行きたい」


 彼女の目が、ほんの一瞬、見開かれる。だけどすぐに、かすかに笑いながらも、困ったような顔になる。


「……何言ってんの。二人で、なんて」


「近くに釣り堀、あるんでしょ?」


「うん……隣町なんだけどね。ちょっと山のほうに入ったところ」


 わたらいさんはそう言って、目を細めた。思い出のなかの風景を、静かに辿っているみたいだった。


「パパが前に、下見に行ったんだって。坂道は多いけど、木がたくさんあって涼しくて、空気も気持ちよかったって。自転車でも行けるんじゃないかな」


 「自転車」という言葉に、僕の心臓が跳ねた。でもなんでもないふりをして、僕は続ける。


「それなら、バスでも行けそうだね」


「……でも、私、お金とか……」


「僕、ちょっとだけなら持ってる。お小遣いも、お年玉も、まだ使ってないし。あと何日かしたら、誕生日なんだ。そしたらまた、お小遣いくれるはず……足りなかったら、ママのお手伝いもする。がんばるから」


 うまく言葉にはできなかった。でも、どうしても伝えたかった。


 彼女が「行きたかった」と願った夢を、夢のままにしないために。


 まだ絵日記に書いてないんでしょう?それじゃあ、今から書けるようにしよう。


「朝早く起きて、準備して。魚釣り、しようよ。日焼けするくらい夢中でさ。……わたらいさんが言ってたみたいに、全部覚えて帰ってきて、それを絵日記に描くの。……ねえ?」


 わたらいさんは言葉を失って、僕の顔をじっと見ていた。

 やがて、小さく笑った。


「……ちょっと、面白そうかも」

  彼女の声が、ほんの少しだけ、元気を取り戻したように思えた。


 そうだ、それでいい。あの釣りゲームより、ほんの少しだけ本気の「遊び」があってもいいはずだ。


「じゃあ……よじれも連れていっていい? "みんな"で行きたい、せっかくなら」


「うん、みんなで行こう」


  僕が答えると、嬉しそうに彼女がまた釣り竿を揺らした。


  今度はよじれじゃなくて、少し先にある、まだ見ぬ魚たちを誘うように。


 よじれ。あの奇妙な存在。


 誰にも祈られず、神でも悪魔でもなく、ただ“見ていた”存在。それでも彼女は、あれに名前を与え、居場所を作ってあげた。


 だから僕も、あれを“連れていく”って決めた。彼女の願いが、今度こそ絵日記になるように。祈りじゃなく、約束として。


 僕は彼女を見る。目と目が合って、お互いに笑い合った。


「……壊すの止めてくれてありがとう。私の、大切なものだから」


 わたらいさんが、心の底からそう笑ったとき、僕の中で何かが弾けた。僕は、正式に彼女の孤独の共犯者になった。でも、まだ不完全だ。


 僕はネックレスを外して、手のひらに載せ、彼女の前に差し出した。わたらいさんは釣り竿を置いた。何も言わないが、その視線は僕の手のひらに釘付けになっていた。


「わたらいさんが言った通り、ここには死んだ人の骨が入ってた。僕のせいで死んだ、兄ちゃんの骨が入ってたんだ」


 わたらいさんが息を呑み、言葉を探すように視線を彷徨わせる。


「こんなこと言ったら、無責任かもしれないけど……私たちはまだ子供なんだよ。だから、ぺこだけのせいってことは、絶対にないと思う」

 わたらいさんが、揺るぎない表情で告げる。


 僕は構わず話を続けた。

「ママは僕にこのネックレスを着けるように言った。そうすれば、いつでもママの視界に入るから。僕のママは、僕に兄ちゃんの代わりをさせようとしている。僕はそうなるべきだと思ってる。だって、僕がママから兄ちゃんを奪ってしまったんだから」


「そんなことないって!」

 わたらいさんがクローゼットを降りて、僕の隣までやってくる。


「ぺこはぺこなんだから、ママもお兄さんも関係ないよ!」

 わたらいさんが僕の肩を掴んで、両手で揺さぶる。その温かさに縛られたように、僕は動けなかった。


 僕の罪の熱は、完全には消えていない。間違いを起こさないように、冷静に彼女を引き離そうとする。

「大丈夫、僕は。大丈夫だから……」


 その時、僕は無意識のうちに、服の上からわたらいさんの脇腹に触れていた。あの時、僕が付けてしまった噛み跡の場所だ。


 途端に、冷静さが消し飛ぶ。触れている手の指先に力を込めて、発作的に引き寄せてしまいそうになる。


「ぺこ?本当に大丈夫?」

 わたらいさんが、不安そうに顔を近づけてくる。


「……っ」

 僕はギリギリの理性で、顔を背けた。彼女から手を引き、立ち上がる。


 これ以上ここにいたら、僕はママみたいな過ちを犯すだろう。孤独を埋めるためだけに誰かを傷つける、あの支配的な愛に囚われてしまう。


「ごめん、帰るよ。また、来るから」


 なるべくわたらいさんの方を見ないように、部屋を出て玄関までの廊下歩く。靴を履いている僕の背中を、ついて来たわたらいさんが抱きしめた。


「私たち、ずっとおんなじだったんだね」


 彼女の声色は、ありがとうともごめんなさいとも言えない、不思議な響きだった。


 彼女の熱は僕の背中を介して、二人の秘密と溶け合っていく。その温かさを、僕は、この世界で誰よりも遠くまで連れ去りたくなった。


 この熱を理由に過ちを犯してはいけない。幸か不幸か、僕の決意は揺るがなかった。この子の孤独を、僕の支配で埋めようとしてはいけない。ウエストゴムに挟み込まれた無様な罪の熱を携えてなお、僕は背中の熱を振り払うように一歩踏み出す。必然的に、わたらいさんの抱擁が解かれた。


「ちょっと待って、ぺこ」


 わたらいさんに背を向けている僕は、自分の肩越しに、彼女を見た。目と目が合う。その視線は、僕の顔を見据えるよりも、ずっと強く、何を訴えているのかわからない熱を帯びていた。


 わたらいさんの瞳の奥で、あの雨の日にビニール袋が溶けた時のような歪な熱が灯っているような気がした。


 わたらいさんの背後で、どこからともなく現れたよじれが揺れた。


「私、まだ、全部見せてない。まだ知らない秘密があるでしょう?」


 僕はまたドアの方に向き直る。振り返る勇気がなかった。彼女の次の言葉が、僕をこの玄関に、永遠に繋ぎ止めるような気がした。


「このまま帰っちゃダメ。今帰ったら、ぺこはまた孤独に負けるよ。秘密を隠すために、私たちはずっとひとりでごまかしてきたでしょう?でも、それで何か変わった?」


 彼女の言葉が、僕の心の最も脆い部分を正確に射抜いた。


「……ほっといて」

 僕は、やっとのことでそれだけ口に出した。


「ぺこを責めてるわけじゃないの。私、ぺこのこと、本当に心配しているだけなの」


 彼女はそう言い切ると、僕の背中から少しずつ離れた。足音が遠ざかっていく。彼女の熱が離れる代わりに、冷たい風が背中を撫でた。


 やがて、微かな物音の後に、彼女の気配が背後に帰ってきた。彼女は言う。


「そこにいたままでいいから。靴も脱がなくていいよ。だからお願い、こっちを見て」


 僕は抵抗できなかった。もう、言葉で言い返しても無駄だと思った。諦めて、ゆっくりと振り返った。


 わたらいさんは、玄関の上がり框に立ち、まるで舞台女優のようにどこか芝居がかった仕草で、僕を見据えていた。その横には、黒猫のよじれが、いつにも増して神妙な面持ちで控えている。


 彼女の手には、キッチンから持ってきたのだろう、小さな醤油皿があった。


「私、ぺこに、全部を見せるって決めたから」


 煮干しを一掴み載せた醤油皿を、わたらいさんは床に置いた。煮干しから微かに立ち上る魚の匂い。なんの変哲もない、ごく普通の煮干しだ。冷たく、無機質な銀色。わたらいさんの顔色だけが、熱に当てられたように、紅潮していた。


「よじれはね、すごいことができるんだよ」


 わたらいさんの声を受け、自分の出番を待っていたかのような堂々とした足取りで、よじれが醤油皿の前にやってきた。そして、じっとそれを見つめている。餌を前にした犬が、待てをしているような状態。正直言って、面白くもなんともなかった。


「私、これで、ぺこと離れ離れにならないって約束の証拠にするの」


 彼女は僕の顔から視線を外し、醤油皿に集中するように手で促す。仕方なく、僕もそちらに視線を戻した。


 どこからか漂う焦げ臭いような匂いに意識が向いた。僕らは火を使っていない。


「ねえ、焦げ臭いよ」

 火事が怖くて、思わず声が出る。日常に差し込む、突然の異変。兄の死の記憶がフラッシュバックする。心臓がバクバクして、冷や汗が出てくる。玄関に差し込む柔らかいはずの光が、よじれて見えた。


 よじれの黒い毛が微かに逆立ち、猫独特の威嚇音が喉の奥で小さく鳴った。異形の力が発動する際の、生理的な拒否反応のようだった。ぐらつく視線が、わたらいさんの頬の紅色に縋る。


「大丈夫」

 彼女から短い返事があった。


 落ち着くために、僕は努めて冷静に大きく息を吸い込む。匂いの元は、醤油皿の上の煮干しだ。


 見ると、虫眼鏡で光を集めたときみたいに、ジリジリと煮干しが焦げ初めていた。


 でも、ただ焦げているだけではなかった。煮干しひとつひとつの輪郭を縁取るようにジリジリと熱を帯びて焦げ、やがて周辺の煮干し同士が溶け合い、ひとつの塊になっていく。一掴みのたくさんの煮干しが、今やひと塊の異形となり、元々は個々のものだったはずのたくさんの目玉だけが、妙に浮いて見えた。


 やがて、その焦げは、醤油皿の縁、輪郭を焦がし始める。煮干しの焦げ臭さが強まる中、よじれは低く唸り、背中の毛を天高く逆立てた。その異形の力は、よじれ自身すらも焼き焦がそうとしているかのような異様な熱量だった。


 醤油皿が、床にくっついてしまう。


「あっ! ダメダメそこまで!」


 急にわたらいさんが立ち上がって、よじれの前で手を振った。よじれもよじれで、彼女の言葉が分かるかのようにぴたりとそれをやめた。


 僕は、身体の奥底から冷たい水を浴びせられたような感覚に襲われた。あのキスや抱擁で感じた熱よりも、ずっと異質で、根源的な衝動だった。


 異様な焦げ臭さが、一瞬にして換気されたように消え失せた。よじれは、まだ微かに逆立った毛を震わせながら、わたらいさんの隣で息を整えている。僕は、呼吸することすら忘れて、床にこびりつきかけた醤油皿を見つめていた。


 玄関の上がり框には、先程までの熱狂の残滓だけが、重く沈黙している。


 それでも、僕の腰の熱は、完全に引いてはいなかった。むしろ、彼女が僕を引き止めてまで明かそうとしたこの異形こそが、僕らが共犯者でいるための最も確かな証拠なのだと、心の奥底で理解してしまった。


「……怖くないの、わたらいさんは」

 僕は、震える声で尋ねた。


「怖いって、何が?」

 心底分からないという声色で、彼女が返す。


「だって……もしも君自身が溶けて、何かとくっついちゃったら……」


「全然」

 彼女はきっぱりと言い切る。


 その言葉は力強かったが、体の軸がわずかに定まらず、一瞬ぐらついたように見えた。何かを必死に堪えているように、身体を震わせている。


「私、どうせひとりぼっちだし」


 その言葉に、僕は何も返せなかった。「僕がいるよ」とは、まだ言える気がしなかった。


 ただ、この異形の秘密を抱えた彼女を、この世界で誰よりも哀れでいじらしく思えた。


 ねじれた愛の熱だけが、再び込み上げてくるのを感じていた。


「……時々、溶けてくっついちゃうって……言ったよね?……本当は、そんな……可愛いもんじゃないの……」


 わたらいさんが、途切れ途切れに呟く。見るからに、辛そうだった。


「ねえ、大丈夫?」


 僕は靴を脱いで、思わず駆け寄りそうになる。彼女はそれには答えず、続ける。


「寂しくて……離れたくなくて……自分でも……上手く、コントロールできないの……」


 わたらいさんの瞳が揺れる。涙で、潤んでいる。「本当は……すごく、怖い」


 泣き出したわたらいさんは、今度は声も上げず、顔を覆うこともなかった。体を震わせ、見開かれた瞳から涙だけが落ちていく。ひとりぼっちの彼女は、きっとこんなふうに誰にも見つからないように泣いてきたのだろう。


 僕は汚れるのも構わず、土間に膝をついた。小皿の上の異形の煮干しを掴み上げ、マジマジと見つめる。


「……ありがとう」


 誰にともなく、僕は呟いた。わたらいさんが、僕を見る。


「引き止めてくれて、ありがとう」


 無理矢理抑えつけることしか出来なかった熱の、その手綱を掴み始めた気がした。


「わたらいさんの言う通り、ふたりなら、変われる気がする」

 彼女と目を合わせたまま、僕は煮干しを顔に引き寄せた。目玉だけが浮いたその異形の塊を、彼女の孤独な呪いの根源を、僕は丸ごと口の中に押し込む。


 狭すぎる口内で、舌に触れる異形のものが、ねじれたままくっつき合っているのを感じる。


 決意を込めて、顎に力を込めた。元々はバラバラだった煮干しを1匹1匹ほぐすように、執拗に咀嚼する。


 どんなに形を変えようと、煮干しは煮干しだ。ごくりと飲み下す。食道も胃もそれを抵抗なく受け入れた。


 その瞬間、カチリと何かが嵌ったような音が僕の心臓の奥で響いた気がした。同時に、わたらいさんの瞳の奥で灯っていた歪な熱が、フッとまるで電池が切れたように消え失せた。


 「あっ」と僕が声を漏らした時には、すでに遅かった。身体から全ての張りが抜け落ち、操り人形が糸を切られたように、わたらいさんはその場に崩れるように倒れ込んだ。


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