ちょっと気になること
とある夜、寝静まった街に二つの靴音が響く。片方が止まれば、もう片方も止まる。速まれば、もう片方も同じように速まる。乾いた音がアスファルトを叩き、じわじわと距離を詰めていく。やがて薄暗い路地裏でその靴音は重なり、ぴたりと止まった。
「あ、あんたは……」
男が振り返ろうとしたその瞬間、後頭部に硬い感触が押し当てられた。湿った夜気の中、金属の冷たさが皮膚を突き抜け骨まで沁みた。
「……動くな」
低い声。男の肩がびくりと跳ね、無意識に両手がゆっくりと上がった。男は唾を飲み込み、かすれた声で呟いた。
「噂の殺し屋か……?」
返事はない。言葉も慈悲も不要――それが彼の流儀。標的に銃口を突きつけ、ただ引き金を引く。いつもそうしてきた。が――
――あっ。
「……い、言い残すことはあるか?」
「言い残すこと? ……へっ、意外と優しいんだな。奴のお抱えの殺し屋なんだろ? 冷徹で影も見せないとか。まさか本当とはな……。ああ、クソッ。やっぱり身の程をわきまえるべきだったかな。おれみたいな二流記者はさ……。でも、だからこそ、おれしか暴けないって思ったんだ。せっかくあと一歩のとこまで来たってのに……。一応、用心はしてたんだがな」
アドレナリンが多分に分泌されているのだろう。男は饒舌だった。だが彼の耳にはまったく届いてなかった。ただ静かに、無表情のまま引き金に指をかけ、そして思い返していた。
――これ……弾、入ってたか?
弾倉を空のまま持ち出すなど、一流の殺し屋にあるまじき失態。
昼間、彼は銃を分解して丁寧に掃除した。整備不良は三流のやること。そのとき、弾も込めた……と彼は思っていた。ゆえに尾行中、確認はしなかった。だが今になって、その記憶が怪しくなってきたのだ。
――落ち着け、落ち着いて思い出せ……。
「――で、妻が――でさ。それから」
――うるさい。何を延々と喋って……いや、私が訊ねたのだったな。
男はぺらぺらと喋り続けていた。死を目前にした者特有の、興奮とも錯乱ともつかない状態であった。
彼は意識をこの場から切り離すようにして、記憶の糸を慎重に手繰る。
――本当に家を出る前、一度も確認しなかったのか? ……してない、か……あっ。
「窓の鍵……」
「ん?」
「なんでもない……続けろ」
――窓の鍵……閉めたか?
最近、近所で空き巣が多発している。もし侵入されたら……。金を盗まれるくらいはまだいい。問題は隠してある他の銃だ。見つけられて、妙な正義感から通報でもされたら……。
「――で、そいつが肉離れしたから、急におれがアンカーを務めることになってさあ」
――うるさいな、この男。殺してやろうか……いや、それができないかもしれないんだった。思い出せ、思い出せ……あっ。
「電気ヒーター……」
「え?」
「……二度も言わせるな」
「あ、ああ、続けるよ。それで、おじいちゃんちに行ったんだが――」
――電気ヒーター、切ったか?
暗い記憶の街道を引き返す最中、オレンジ色の灯りがぼうっと浮かんだ。
電気代はどうでもいい。だが、ヒーターのそばに新聞を置いていた気がする。燃えるかもしれない。……いや、それは大丈夫だ。出がけに足をぶつけて少しずれたんだ。だがもし、他に燃えやすいものがあったら……思い出せない。それどころか、ヤカンを火にかけたままだった気さえしてきた。
日々の断片が入り混じり、過去と現在の境目があやふやになっていく。彼は額に手を当て、目を固く閉じた。
――落ち着け、大丈夫だ。あ、トイレを流し忘れたかも……いや、何考えてる。私はプロだ。プロなんだぞ。冷静な判断力と直感で、これまで幾度となく修羅場を越えてきたじゃないか。なのに、なぜこうも余計なことばかりが……。
「――それで、買ったわけだよ……何をって? これだよ!」
次の瞬間、視界がぐるりと回った。背中には鈍い痛みと冷たいアスファルトの感触。気づけば、彼は細長い夜空を仰いでいた。
男が不意に振り返り、スタンガンを首筋に押し当ててきたのだ。
だが、彼はまったく反応できなかった。脳は記憶の処理に囚われていて、目の前の危機に対応する余裕がなかった。そして、それは倒れたあとも続いた。幼い頃へと滑り落ちていくように。
ただ、銃口を向けられた瞬間、彼はふっと笑った。
――ああ、思い出した。弾は……