「第五話」《『英雄』の涙》
「かんぱーい!!」
街の行きつけの酒場に盃を高く掲げる賑やかな声が響いた。
「中尉の奢りなんですよね?」
「ああ。そうだ。好きなように飲み食いしろ」
「金はたんまりとある」とカイは独り、アルディアン・モルトをゆっくりと味わっていた。この酒場は出撃がない夜にテオと何度も足を運んでいた。
「久しぶりだな。カイ」
カウンターの向こう側から声が届く。軍施設のすぐ横にあるこの酒場は、多くの兵士たちが利用している。まとめて金を落としてくれる、ありがたい客だ。
「久しぶりだな。ダリス。怪我の具合は大丈夫か?」
この酒場の店主、ダリスは“最悪の初陣世代”に出撃しなかった部隊のカイの同期にあたる。
二年前の出撃で片足を失い、退役。その後、国のために出撃する兵士たちにと軍施設の真横にこの酒場を開いたのだ。ダリスから「店を開く」と言われた時はカイもテオも驚いた。ましてや、場所が軍施設の真横と聞いた時には、目を白黒させたのも、いい思い出だ。
「おかげさまでな。治療費に金を吸われる心配も無くなった! とりあえず、帰還おめでとう」
ダリスはカイのグラスに「コツン」とグラスを当て、一気に飲み干す。それに釣られてカイもグラスを空ける。
「こういう酒じゃないけどな」
ダリスは苦笑しながらも、カイのグラスにもう一度アルディアン・モルトを注いだ。
その後も何度かダリスと部下たちに乾杯をせがまれ、いくつかの酒瓶を開けた。やがて部下たちが各々の帰路に着き、店内に静けさを戻った頃、カイはカウンターに突っ伏し、ぼうっと虚空を見つめていた。
時計の針の音とグラスがぶつかる音、ダリスの足音が響く。
「なあ。ダリス」
ふと、カイが口を開いた。
「ああ」
ダリスは分かっていると言いたげな静かな返事。
「なあ。俺は、俺が__いや。やめよう」
言いかけた言葉を飲み込み、口を閉じた。テオに、死んでいった兵士たちへの冒涜になってしまう――そんな気がして。
「それが賢明な選択だな」
ダリスの返答に、カイは僅かに頷いた。
「頭は、理解しているんだ。でも、心が、追いついてこない」
カイの頬を、静かに涙が伝わっていく。テオの訃報を知ってから、人前で涙を見せたのはこれが初めてだった。
「俺は、どうするのが正解だったんだ」
その言葉と一緒にどうしようもない苦しみがカイの胸を占領し――
押さえ込んでいた感情が溢れ出して――
カウンターに落ちた涙によってできていく小さな池を見ていたダリスはそっと口を開いた。
「それでも、俺たちは生き残ったんだ。進み続けなければならない。だろ?」
カイは大きく頷く。幼き少年のように唇を噛み締める。
「もう、誰も死なせねえ。……戦争なんて、まっぴらだ」
カイは袖で雑に手元を拭き、ダリスは最後のグラスを拭き終えた。
「それはきっと戦争に行ったやつなら同じことを言うよ」
「だな。そろそろ帰るか。ここに勘定置いとくぞ」
片付け中のダリスに声をかけると、椅子を押して立ち上がった。
「おう。また来いよな」
「もちろんだ」
片付けの手を止めたダリスと、カイは酒場の扉を出た。
「そうか。退役したんだったな」
「あぁ。街に宿を取ってある。そのうち家を買うさ。じゃあな。また寄るよ」
月明かりが柔らかく照らす街の闇にカイの姿が見えなくなるのを確かめて、ダリスは口を開いた。
「戦争か」
彼もまた、テオと深い親交があった。だから、訃報報告はまわっているだろう。テオに「軍の中で仲がいい人は誰か」と聞けば、二番手、三番手には名前が上がるであろう男だった。
そんなダリスの元には最近一通の手紙が届いていた。戦火を逃れていた妻と子供がようやくアルディアに戻って来るという報せだった。
終戦に伴い、各地に避難していたアルディア国民たちも戻ってくるという。街にもっとたくさんの人々の姿が現れるのも時間の問題だなと看板を下げながらダリスはそっと息を吐いた。
「誰も傷つかぬ日々が続きますように」
ダリスは酒場の扉を閉め、そして入り口に錠を静かにかけた。
アルディアに訪れている平和はいつまで続くのだろうか――
次回の更新は
2025年8月8日(金)18時00分
です。
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畸人0.1号