「第三話」《『親友』の息子へ》
「――――とまあ、こんなふうに、あいつとの生活が始まったんだよ」
カイは止めていた手を再び動かし、黙々と書類に目を走らせる。
「てことは、カイ中尉とテオ中尉は“最悪の初陣世代”だったんすか?」
「まあな。今じゃ生存者は俺ひとりだ、だからそんな呼び方をする奴はもういないけどな」
「さあ仕事に戻れ」とカイが声をかける。
「でもっすよ、中尉。敵国の要塞から連れ出した子供って……つまり敵国の子供じゃないすか? 普通なら……処分されるんじゃないんすか?」
カイは呆れたように顔をしかめ、ハルへ視線を投げる。
「いいか? 軍人たるもの、命の重さを理解していないといけないだろ。その上で聞くが、当時たった5歳だった子供に軍事的責任があると思うか?」
「……ないと思いますけど」
「だろう? 軍事的責任がない子供を救っておきながら、“敵国の子供なんで殺します”なんて言ったら国民になんて言われると思うか?」
「悪魔とか、すか?」
その答えにカイは満足げに口元を緩めた。
「そうだ。世間の評判も地に落ちる。いくら敵とは言え一人の人間同士なんだ。子供ぐらい助けてもいいだろう。……まあ軍人として生きているやつはそういう感覚が鈍くなるもんだ」
「実体験、すか?」
カイは少し眉をひそめてからそっと視線をそらす。その顔には寂しさと悲しみがじんわりと滲んでいた。
「テオにこってり叱られたな」
ハルはカイの目線を追った。そこには無数の写真が飾られていた。中央にはカイとハルが並んで映った一枚の写真。
「ほら手を動かせ。今日中に終わらせるぞ」
「ガルド大尉に怒られるっすもんね」
「分かってるなら手を動かせ。怒られるのは俺なんだからな」
ハルはさっさと作業に戻ったカイを見ながらぼそっと呟く。
「『英雄』でも、怒られるの嫌なんすね〜」
「なんか言ったか?」
「いえいえ、なんもっすよ」
その後、カイの執務室からは、ただ紙を走るペンの音だけが静かに響いていたという――
翌日。
街は春の陽気がゆったりと流れていた。人々の笑い声が遠くに響き、世界はまるで平穏そのもののように見える。その穏やかさが、今のカイにはむしろ酷だった。
先日仕分けを終えた兵士たちの遺品の中から、カイはひとつの荷物を手にして街を歩いていく。カイが抱えるたった一つの遺品。それは、テオのものだった。届け先は孤児院に暮らすテオの息子、ミロ。カイはミロに何度も会っている。だからこそ伝えるべき言葉が最後まで口にできる自信がなかった。不安が、胸をきつく締めつける。
ミロがいるその孤児院には戦争孤児や兵士の子供たちが多く集まっていた。
「あれまあ。カイくんじゃないかい」
入り口に近づくと院長のマリンダがこちらに気がつき、声をかけてきた。
「お久しぶりです。マリンダさん。ミロいますか?」
カイがそう尋ねると、マリンダは頷いた。
「いると思うよ。呼んでくるかい?」
「ぜひ。お願いいたします」
「ミロくん、落ち込んでてねぇ……頼んだよ」
一瞬、回答が思いつかず目を泳がせているとバシッと背中を叩かれた。
彼女はこの孤児院を一人で切り盛りし、多くの子供たちを育ててきた、まさに母のような存在である。テオがミロを預ける時に一緒に訪れて以来、カイはこの孤児院に何度か足を運んでいる。
「これ、クッキーです」
カイが差し出すと、マリンダは嬉しそうに目を細めた。
「子供たちが喜ぶね。落ち着いたら、子供たちに持って行っといてくれ」
「かしこまりました」
マリンダさんはカイを対談用の部屋へ案内すると、「ミロくんを呼んでくる」と言い残し、ドアを静かに閉めた。
次にこのドアが開けばそこにはミロがいる。カイは早鐘のような鼓動を押し留め、ただ静かに、その時を待った。
コンコン。
「失礼します。」
ドアの向こう側からミロの声がし、ゆっくりとドアが開く。
「やあミロ。元気にしてたか?」
カイは自分の声が僅かに震えていることに気がついた。ミロがカイに静かに歩み寄る。カイは帽子を取り、そばにあった机の上にそっと置いた。
「お久しぶりです。カイさん。その……」
ミロの声も震えていた。
「あぁ……一応連絡は回っていると思うんだが……」
カイは一度目を閉じ、深く息を吐いた。
「ミロ、君のお父さんであるテオ中尉は戦死した。心よりお悔やみを申し上げる。」
その言葉はミロへ伝えるためだったのか。それとも、自らにテオの死を受け入れさせるためか。空気が冷たく重くのしかかる。
カイは大切に抱えていた小さな遺品箱を取り出す。傷ひとつない綺麗な遺品箱が両手に収まっている。それをミロの前に差し出した。ミロはおそるおそるその遺品箱に手を伸ばし、カイからそれを受け取った。
少し触れたその指先は互いに震えていた。
「っ……いえ。カイさんも……」
ミロは最後まで言葉を紡げなかった。声を詰まらせ、澄んだ瞳から、一筋の涙がこぼれる。
やがて嗚咽が漏れ、声をあげて泣き崩れる。
「いい。思いっきり泣け――それがいい。泣けるだけ泣け」
カイは黙ってミロを強く抱き寄せる。もう少年の頃のような体ではなかった。だが、今はやけに小さく思えた。
本当は、カイだって泣きたかった。叫びたかった。
けれど――
軍人としての矜持が、それを、許してくれなかった。
唇を強く噛み締め、こぼれそうな涙を、ただひたすらにこらえる。
それでも――抑えきれない感情が、呼吸とは違う、息となって漏れだす。
机の上の帽子だけが、止まった時間の中にぽつりと取り残されていた。
音もなく、誰にも拭えぬ痛みが、部屋を満たしていっていた。
次回の更新は
2025年7月25日(金)18時00分
です。
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畸人0.1号