Variation V
「先輩、またその音、迷ってますね」
いきなり背後から声をかけられて、俺は思わず鍵盤から手を離した。
「……美琴?」
振り返ると、そこにはピアノ科の後輩、九条美琴が立っていた。
制服の袖をまくり、楽譜を小脇に抱えた姿は、相変わらずクールで毒舌。
「変奏V、技巧的なのに、先輩の演奏は“感情”に寄りすぎです。もっと構造的に弾いてください」
「……いや、俺なりに表現を――」
「それが『迷い』って言ってるんです」
言い方がキツい。
でも、彼女の演奏は、確かにすごい。
小柄な身体からは想像できないほど、鍵盤の上での指の動きは鋭く、正確で、そして美しい。
「……変奏V、もう弾けるの?」
「当然です。昨日の夜、初見で通しました」
天才肌。しかも、ちょっと腹立つ。
「でも、先輩の音は……嫌いじゃないです」
「え?」
「感情が乗りすぎてて、構造は崩れてるけど……それでも、心に残る音です。だから、気になります」
その言葉に、俺は少しだけ動揺した。
「玲音先輩との共演、楽しそうですね」
「……まあ、いろいろあって」
「ふーん。ライバルって、燃えますよね」
美琴は、いたずらっぽく笑った。
その笑顔は、玲音とは違う種類の“挑戦”だった。
その後、俺たちは音楽室で変奏Vを一緒に弾いてみた。
技巧的なパッセージが、鍵盤の上を駆け抜ける。
美琴の指は、まるで旋律を“支配”しているようだった。
「……すごいな」
「でしょ? でも、先輩の音も、嫌いじゃないです。……だから、もっと上手くなってください」
その言葉は、挑発でもあり、応援でもあった。
変奏Vの旋律が、軽やかに、でも鋭く響く。
それは、俺と美琴の関係の「第一音」だった。