Variation I
文化祭――それは、音楽科高校における一大イベント。
演奏会、展示、即興セッション。
普段は真面目な音楽バカたちが、ここぞとばかりに『魅せる』場だ。
「一ノ瀬くん、篠原さんと共演してみないか?」
城之内先生の提案に、俺は思わず固まった。
「え、えっと……俺と、玲音が?」
「うん。ピアノとヴァイオリンで、ゴルドベルグ変奏曲の一部を演奏してみてはどうかな」
無理だ。絶対無理。
玲音とは、今ちょっと距離がある。いや、ちょっとどころじゃない。
中学までは毎日のように一緒に練習してたのに、高校に入ってからは、ほとんど話してない。
でも――
「……いいよ。やってみる」
口が勝手に動いた。
先生は満足げに頷き、俺に楽譜の束を手渡した。
「これは、君が見つけた『あの楽譜』のコピーだ。変奏Iから始めてみよう」
俺はその楽譜を受け取り、ページをめくった。
変奏I――軽快な三連符が特徴の、明るく華やかな変奏。
でも、そこには奇妙な“記号”が書き込まれていた。
「……これ、何だ?」
五線譜の隅に、小さな三角形と、アルファベットの“R”。
手書きで、しかも微妙にかすれている。
まるで、誰かが「隠した」ような印。
その夜、俺は音楽室でその変奏を練習していた。
鍵盤の上を指が滑る。三連符のリズムが、少しずつ身体に馴染んでいく。
そこへ、静かにドアが開いた。
「……ひ、響」
玲音だった。
黒髪を揺らしながら、彼女はゆっくりと歩いてくる。
ヴァイオリンケースを抱えた姿は、昔と変わらない。
でも、目が合った瞬間、俺の心臓が跳ねた。
「きょ、共演するんでしょ? ……れんしゅう、付き合ってあげる」
「……うん。よろしく」
ぎこちない。
でも、どこか懐かしい。
俺たちは、変奏Iの冒頭を合わせてみた。
ピアノとヴァイオリンが、軽やかに絡み合う。
でも、途中で、玲音の弓が止まった。
「……この記号、見た?」
彼女が指差したのは、俺が気づいていた“R”の印。
「うん。何だろうね、これ」
「おじいちゃんの楽譜にはね、たまにこういう『暗号』みたいなのがあったの。意味は……誰にも教えてなかったけど」
暗号。
音楽に仕込まれた、何かのメッセージ。
俺は、楽譜を見つめながら思った。
この変奏曲は、ただの音楽じゃない。
何かが、隠されている。
そして、それは
――俺の過去にも、玲音の家族にも、関係している。
「……響」
玲音が、ぽつりと呟いた。
「ひさしぶりに、こうしていっしょに演奏できて……ちょっとだけ、うれしい……かも」
その言葉に、俺の心が跳ねた。
「俺も……嬉しいよ」
変奏Iの旋律が、静かに流れ始める。
それは、俺たちの関係の『第一変奏』だった。