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ゴルドベルグ変奏曲  作者: ヨハン・ゼバスティアン・バッハ
1/9

Aria

ピアノの鍵盤って、時々、冷たく感じる。


今日もそうだった。

音楽室の片隅、誰もいない放課後。


俺――一ノ瀬響いちのせ ひびきは、グランドピアノの前で、指を止めていた。


「……ダメだな」


右手の薬指が、ほんの少し遅れる。

左手の和音が、心に響かない。


音は出てる。でも、音楽になってない。

スランプ。たぶん、そういうやつ。


ピアノ科の2年生。音楽科高校に通ってる以上、言い訳はできない。

でも、どうしても、心が音に乗らない。


まるで、俺の中の「何か」が、音を拒んでるみたいだった。


「……はぁ」

ため息をついたそのとき、音楽室のドアがノックされた。


「一ノいちのせくん、いる?」

振り返ると、担任の城之内先生が立っていた。


相変わらず、スーツが似合わないほど堅物な顔。でも、目だけは優しい。


「ちょっと、頼みたいことがあってね」


頼みごと。それが、すべての始まりだった。


翌日、俺は旧校舎の資料室にいた。

埃っぽい空気。古い楽譜や書籍が山積みになった棚。


ここは、かつてこの学校で教鞭を執っていた作曲家

――篠原宗一郎の遺品が保管されている場所だった。


「彼の遺族が、整理をお願いしてきてね。君なら、ていねいに扱ってくれると思って」

先生の言葉に、俺は頷いた。


篠原宗一郎。玲音れいんの祖父であり、伝説的な作曲家。


玲音れいん

――篠原玲音しのはら れいん


俺の幼なじみで、今はちょっと距離がある天才ヴァイオリニスト。


……いや、今はその話じゃない。


俺は棚の奥にあった木箱を開けた。

中には、手書きの楽譜が数冊。


その中の一つに、目が留まった。


『ゴルドベルグ変奏曲』

バッハの名曲。だけど、これは……何かが違う。


表紙には、見慣れない記号と、手書きのメモが添えられていた。


「……なんだ、これ」

興味に駆られて、俺はその楽譜を開いた。


最初のページ。そこに書かれていたのは――

『Aria』


アリア。玲音れいんの心を揺らす旋律。

変奏曲の冒頭を飾る、静かな旋律。


俺は、無意識にピアノの前に座っていた。

そして、鍵盤に指を置く。


最初の一音を、そっと鳴らした。

その瞬間――


世界が、変わった。

音が、空気を震わせる。


震えが、胸の奥に届く。

まるで、誰かの記憶が、俺の中に流れ込んでくるような感覚。


懐かしいような、切ないような、でも確かに“俺のものじゃない”感情。

「……誰の、記憶だ?」


そのとき、背後から声がした。

「……その曲、まだ弾けたんだ。べ、別におどろいてないけど……」


振り返ると、そこにいたのは――

「……玲音れいん


篠原玲音れいん

長い黒髪に、冷たい瞳。


制服の上からヴァイオリンケースを抱えた姿は、昔と変わらない。

でも、どこか、遠くなった気がした。


「久しぶり……って、べ、別に会いたかったわけじゃないからね、ひびき!」

その声は、少しだけ震えていた。


俺の中で、何かが静かに「変奏」を始めた。

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