君の名前を呼べなくなってから
「菊地、再来週の七夕祭り、一緒に行かないか?」
唐突な俺の誘いに、杏は黒目がちの目をきょとんと丸くする。
……こんな風に話し掛けたのは、いつぶりだろう。そりゃ驚くよな。
◇◇◇
彼女のことを “ 杏 ” ではなく、“ 菊地 ” と名字で呼ぶようになったのは、小学五年生の時だった。女子を名前で呼ぶのは特別なことで……安易に呼んではいけないと思ったからだ。
杏と俺は、マンションの部屋が隣同士で、幼稚園からずっと一緒だった。いわゆる幼なじみってやつで。性別は違うけれど、やたらと気が合って、いつも傍にいた記憶がある。
今日は静かに絵を描きたいと思えば、杏もクレヨンを取り出す。今日は外で思いきり遊びたいと思えば、杏の手にもボールが握られていた。絵本の好みもよく似ていて、同じ本を何度も覗き込んでは、飽きずに笑い合っていた。
小学校に入ってからも、やっぱり杏は傍にいた。クラスも学童もスイミングスクールも同じ。一緒に登校して、一緒に遊んで、一緒に下校して、帰ってからもまた一緒に遊んで。ずっと一緒にいるのに、面倒だとか窮屈だとか、そういう風に思ったことは一度もなかった。
プールの中でただ光の網に揺られているような、プールの後でふかふかの布団に横になるような。
そんな居心地の良すぎる関係に、いつか終わりが来るだなんて。全く思いもしなかった。
小学五年生になると、急に杏の “におい” が気になるようになった。自分や周りの男友達とは違う。花みたいな果物みたいな、甘くてちょっと酸っぱいにおい。夏は特にそれを感じることが多くて。気になって仕方ないから、少しだけ離れて歩いた。
夏休み前のある日、いつものように杏と教室で話していると、同じ幼稚園からの友達がやって来て言った。
『お前ら、いつも一緒で夫婦かよ!』
『名字も同じだしな』
『杏♡ 蛍♡ 愛してるわ~♡』
ニヤニヤとふざけるその顔に、俺は無性に腹が立つ。よく冗談を言ったり、軽口を叩いては笑い合う友達なのに、どうしてあの言葉にだけあんなに反応したのか分からない。カッとして、つい強い口調で言い返してしまった。
『同じじゃない! “きくち” の “ち” の字が違う! 好きでもないし、全然愛してもない!』
それでも冷やかしてくる友達を、俺は机に掛かっていた体操着袋で思いきり殴った。友達に手を出したのなんて、多分あれが初めてだったと思う。
ぶんぶん振り回しながら、やつらを追いかける俺の向こうで、杏は何も言わずに目を伏せていた。
それ以来、俺は杏を “ 菊地 ” と呼ぶようになった。杏は変わらず、俺を “ 蛍” と呼んだけど……名前を呼ぶこと自体が、段々と少なくなっていった。
朝もなんとなく一緒に登校しなくなって、なんとなく遊ばなくなって、もちろん下校もバラバラになった。道の先に杏の姿を見つけても、前みたいに『杏!』と走って行くこともない。むしろ近付かないように、距離を保ちながら慎重に歩いた。それはきっと、杏の方も同じだったんじゃないかな。
一緒に通っていたスイミングスクールも、この頃から杏は休みがちになり、結局辞めてしまった。
『ずっと一緒だったのに寂しくなるわね。でも、女の子は身体が不安定になる頃だから仕方ないわ』
と母さんは言っていたが、学校には毎日来るのに変なのと思っていた。
六年になると初めてクラスが分かれ、会えばたまに挨拶する程度になった。そしてそのまま、俺達は中学生になってしまった。
中学の三年間、クラスは一度も一緒にならなかったけど、水泳部では毎日のように顔を合わせていた。相変わらず、用がなければ話さないし近付くこともないけれど。
スラリと伸びる杏の白い足が視界に入るたびに、頭も身体もツンとした変な感覚になる。まるで鼻に水が入った時みたいな。そんな自分がなんか嫌で、いつも出来るだけ、杏から離れた場所にいた。……足にもラッシュガード、履いてくれたらいいのに。
中学に入ってから三年目の夏、引退試合も終え、高校受験に向け頭を切り替えている中、友達から思わぬ誘いを受けた。
『なあ……七夕祭り、一緒に行かないか?』
この地域の七夕祭りは、毎年旧暦の八月上旬に開かれている。神社までの道路を通行止めにする程の大きな祭りで、華やかな笹飾りが垂れる道沿いには、屋台がズラリと並ぶ。
小さい頃は、杏や友達と毎年行っていたけれど……小学五年生のあの夏から杏とは行かなくなり、中学に入ってからは男友達とも行かなくなった。
『なんで?』という俺の問いに、友達は頭をポリポリと掻きながら答える。
『中学最後だから……思い出にと思って。杏とか、幼稚園からの女子も誘って行かねえ?』
“ 杏 ”
自分が呼べなくなったその名を、あの時冷やかした張本人が簡単に呼ぶことに腹が立つ。だけど、全く悪びれていない、きっと覚えてすらもいないコイツを、今さら責める気にはなれなかった。
『……いいよ。行くよ』
そう答えたのは、きっときっかけが欲しかったから。高校に行って、大学に行って、就職して。どんどん離れていく前に、もう一度杏と普通に話したいと思ったからだ。部活がなければ足も見ることはないし、もうあの嫌な感覚にはならないだろうと。
『菊地は俺が誘ってみる』
自分からそう言い出していた。
◇◇◇
「七夕祭り?」
「うん。……あっ、二人でじゃなくて、みんなで。中学最後の思い出にって、祐吾達に誘われて。女子達も何人か誘える?」
その言葉に、杏の顔がふっと緩んだ。長い睫毛を伏せながら、うーんと小首を傾げると、肩までの黒髪がさらりと流れていく。
自分にはない、柔らかくて繊細なもの。それが凝縮されている杏から目が離せないでいると、落ち着いた声が胸を撫でた。
「訊いてみるね」
◇◇◇
七夕祭り当日。男だけ一足早く公園に集まり、自販機で買った炭酸飲料を飲みながら女子を待つ。そわそわと落ち着かない気持ちに乗っかり、俺は中身のないくだらない話でみんなを笑わせていた。
向こうから鮮やかな色彩が近付いて来る。笹飾りにも金魚にも負けない、ひらひらした浴衣姿の女子達。
その中で、一際目を惹いたのは、一番地味な赤茶色の浴衣を着た杏だった。
「……じゃあ、行こうぜ」
少し上ずった祐吾の声で、俺達は神社へと歩き出した。
沢山の人で賑わう道路。一日中やっている祭りだが、やはり涼しくなる夕方からは、一気に人出が多くなる。
前を女子三人が歩き、後ろを男三人が付いていく。なんとなくそんな風にして歩いていた。
カチッと固められたような周りの帯とは違い、杏の帯は不思議な形をしていた。多分美容師のお母さんが手で結んだのだろう。模様も色も珍しいけど、渋い浴衣によく合っている気がした。
帯から目線を上げると、白い首……何て言うんだっけ……ああ、項? が目に入り、またあのツンとした感覚になる。足は全然見えないのに何でだろう。
屋台を見ながら歩いていくと、特設ステージで母校の小学生達がダンスを踊っていて、自然とみんなの足が止まる。
俺達もついこの前まではこんなだったんだな……この頃はいつも杏と一緒だったな……
かき氷をつつきながら、何も悩み事なんてなさそうな、小さい笑顔を見上げる。
何曲か踊った小学生達が、拍手と共に捌けた頃。ふと気付けば、杏以外の友達の姿がなくなっていた。
……あれ?
杏と目が合い、同時に首を傾げる。一旦ステージ前の人混みから離れ、二人でキョロキョロ辺りを見回すも誰もいない。それぞれ友達にメッセージを送ったり、電話を掛けるも、何の反応もなかった。
電柱の脇にぼんやり立ち、しばらく人の波を眺める。すっかり溶けたかき氷を同時に飲み干すと、杏は空の容器を二人分重ねて言った。
「捨ててくるから待ってて」
「……あっ、いいよ! 一緒に行こう」
神社方面へしばらく歩くと、無事にごみ箱を見つけた。だけどやっぱり友達の姿はない。
「先に神社に行ってるかもしれないな。そのうちどこかで会えるだろうから、俺達も中へ入ろう」
「うん。そうだね」
鳥居をくぐると、さっきとは比べ物にならない人の波が、参道の地面も見えない程にうねっている。
「うわっ、久々に見るとすごいな」
屋台の灯りに手招きされれば飛び込めた場所も、今は少し躊躇してしまう。大人になったな……なんて考えていると、杏が俺のシャツをくいっと引っ張った。
「ここ、掴んでてもいい? はぐれそうだから」
「……うん、いいよ」
また、ツンとする。
杏の大きな瞳は、屋台の灯りを映して、子供の頃みたいにキラキラと輝いていた。
なんとかはぐれずに進むと、急にシャツを引っ張る力が強くなる。
…………あ。
俺はすぐにその理由に気付き、大人しく従った。人混みを逸れたそこにあるのは、あんず飴の屋台。小さい頃から、杏が必ず立ち寄る場所だ。
前の子供達が次々にじゃんけんに負け、しぶしぶ一個を選んでいなくなると、杏も財布から二百円を出しておばさんに渡した。
期待を込めた目で俺を見上げる杏。分かってるよと頷くと、おばさんの前に拳を構えた。
次は……パーが来るな。
「おめでとう。もう一個どうぞ」
腕は衰えていなかった。杏はにこにこと嬉しそうな顔をしながら、あんず飴を一つと、みかん飴を一つ、迷わず手に取った。
「ありがとう。はい、どうぞ」
「ありがと」
差し出されたみかん飴を受け取ると、ツンとしたあれと、温かいものが胸に広がる。人の少ない端っこに移動すると、ふたりで甘い水飴に噛りついた。
「やっぱ蛍は、じゃんけん強いね」
「あのおばさんはクセがあるから分かりやすかったよ。誰でも大体パターンが決まってる」
「すごいよ。私、クセなんて全然分からないもん」
「さっきは杏でも勝てたと思うよ。昔から、いつも最初はチョキ出すから」
「えっ、そうなの?」
「そうだよ。あんまり負けると泣きそうになるから、わざとパーを出して負けてたんだよ」
ええっと眉をしかめながら、あんず飴とは反対の手に、チョキやらパーやらをつくる杏が可笑しい。思わず声を上げて笑うと、杏もころころとくすぐったい声で笑った。
……久しぶりだなあ。この声。
大好きだったみかん飴は、ツンとしたあれと混ざり合い、子供の頃よりも酸っぱく感じた。
木の棒以外を全て食べてしまうと、何だか途端に寂しくなる。杏も同じなのか、さっきまでの笑顔は消え、細い指で棒をくるくると弄んでいる。
俺は何も言わずにその棒を取り上げると、ちょうど近くにあったゴミ箱に、二本まとめてポイと捨てた。
「……次は射的行くか。欲しいの取ってやるよ」
杏はわあっと笑みを浮かべ、その場で小さく跳び跳ねる。せっかく綺麗なくせに、こんなところは全然変わってないな。
「お腹も空いちゃった! 焼きそばとお好み焼き食べたい!」
「いいよ。半分こだろ? あとポテトとラムネと、もう一度……」
「「あんず飴」」
揃った声に笑い合う。俺は杏の手をしっかりと握ると、奥に見える射的の屋台を目指し歩き出した。
驚く程小さくなった手は、昔と同じでしっとりと湿っている。杏の手がこうして汗ばむ時は、楽しかったり興奮している時だ。
綺麗な杏に幼い杏を重ねようとした時、夜風に乗って、あの匂いがした。花みたいな果物みたいな、甘酸っぱい匂い。
……そうだよな。
子供の頃みたいな居心地の良さは、もう二度と戻らない。今は深い深いプールの底で、足も届かず上手く浮くことも出来ず、ただ踠くしかないんだ。光に近付けば近付く程に、ツンとして苦しくなるから。
だけどいつか、もう少し大人になったら。溺れてもいいと……息が出来なくても心地好いと、そう思える日がやって来るのだろうか。
◇
「……あいつら、上手くいってるかな」
「二人で適当に回ってるって連絡来たし、大丈夫じゃない?」
「卒業までに仲直りしてくれたらいいんだけどな……ああ~俺があの時、夫婦だの何だの言ったから」
「ほんと。男子は子供だよね。大好きな蛍に、目の前で好きじゃないなんて言われて……杏、ほんとに可哀想だったなあ」
「はあ……」
「うそうそ、祐吾達だけのせいじゃないって。ちょうどお年頃だっただけだよ」
「そうか?」
「うん。だから大丈夫だと思うよ。なんか……二人はどんなに離れても、絶対に離れる気がしない」
「「「菊地と菊池だし」」」
揃った声に、どっと沸く笑い声。
それはまだ青い余韻を残しながら、花咲く夜空へと消えていった。
ありがとうございました。