小谷城の戦い・五
喜六郎は目の前に座る男に対して説得する術はない事を理解した。ここで浅井新九郎としての生を終え、無駄に生き永らえることを良しとせず、時代に殉じるつもりであると。
「・・・それでいかがでしたか新九郎殿?姉上に背き、自らの手で天下に名乗りを上げた結末は」
かつて俺達織田勢が窮地に陥った志賀での合戦の折、彼自身が言っていた『浅井の血が信長の一家臣として過ごすことを許さない』という言葉。ふと思い出し尋ねてみる。
「そんなもの決まっている。義姉上に勝ち切ることが出来なかったんだ、満足している筈もない」
そりゃそうか。
「だが納得はしている」
「え?」
「義姉上のような方が、これまで天下に長く後の世まで名を残してきたのだろうとな。俺のような普通の人では、今の状況にまで持ってくることが出来なかっただろうよ。天が義姉上を導いていたとしか思えてならん」
そう言って茶を啜り、新九郎殿は言葉を続ける。
「比叡山の時もそうだ。いくら窮地に陥ったからと、人前で頭など下げられるだろうか。少なくとも俺は義姉上のように割り切ることは出来ぬ。いや俺だけでなく、一大将として上に立つ者であるならば家臣から侮られると考えて、そもそも思いついても口にせぬだろう。
それにだ。義姉上に敵対した者は都合よく足元が崩れていった。・・・美濃の一色左京太夫殿もまだ若く、これからという時に亡くなった。甲斐の武田入道も三河を抜けるよりも先に亡くなった。このような事態を招けるとは、それだけ天に好かれている証であろう。――少なくとも俺にはそのような出来事は無かった」
新九郎殿が言い終わると、沈黙が部屋を満たした。
「だが、浅井の血は残させてもらうぞ」
唐突に新九郎殿は言った。思わず顔を上げると、そこには不敵な笑みをしていた。
「それは・・・」
「市は俺の子を産んだ。浅井と織田の血を分けた子たちだ。今義兄上が俺達に会いに来たように、義姉上に妹の子を殺すつもりは無いだろう?そうすれば俺が居なくとも、浅井の血脈は繋がっていく。ともすれば浅井が今この地に滅びようと何世代か先に、再び浅井の名を持つ者が現れるかもしれない。・・・そうなれば、ある意味で俺は義姉上に勝ったともいえる」
「確かに、その通りかもしれません」
「であろう?」
「はい。しかしこのことを俺が姉上に伝えれば、その野望も果たせませんぞ」
俺の言葉に新九郎殿は鼻で笑う。
「まさか可愛い姪っ子たちに喜六郎義兄上がそのような事をするはずがないでしょう」
「はは、それもそうですね。このことは俺の胸の内のみに秘めておきます」
「ああ、よろしく頼む」
話すことは終わったと、新九郎殿は立ち上がり戸を開ける。すると、それまでは静かであった本丸にまで鬨の声が聞こえてくるまでになっていた。北の小丸を見やれば火の手が上がり、きっと藤吉郎殿は役目を果たしたのであろうことが見て取れた。
戦は、もう間もなく終わりを告げる。
「市らには直ぐに支度をさせます。それゆえ、喜六郎殿には織田弾正忠殿へ市らが脱出できるだけの時間の猶予を下さるようにお伝えください。もし何か起きてはこの浅井備前守の面目が立ちませぬでな」
「承知しました。――奥山っ!」
俺の声に呼ばれてやって来た奥山に姉上の下に一時的に戦を止めてもらうように向かってもらう。その間俺は、他の家臣と合流し、退去の支度を始める。
それから程なくして、約束の時が訪れる。
両軍は攻撃を一時的に取り止め、先ほどまでの騒々しさは何だったのか、戦場には常の如き静けさが満たされていた。
その中で誰もが動きを止めてある一団だけを見つめていた。
既に娘たちは、侍女の手によって駕籠へと乗り込み、後は市姫だけであった。
「ささ姫様。こちらになります」
「善右衛門、そんなに急かさないでくださいませ。私にも名残惜しい気持ちはあるのですよ」
「これは、失礼いたしました」
善右衛門に先導されながら歩く市は、その目にこの小谷の城を、浅井の者を目に焼き付ける様に、周りを見渡しながら、ゆっくりと歩いく。織田の家を出て浅井の家に入り過ごした日々を懐かしむように何度も振り返り、別れを惜しむようにしていた。
そうしてたっぷりと時間を掛け、駕籠の前へとやって来た時、その別れを惜しむかのように集まっていた浅井の兵達は涙を流し、声を上げる。
市はそんな彼らを見回した後に、前を向き駕籠へと乗り込もうとした時であった。
「市!達者で暮らせ!子らを頼んだぞ!」
「っ新九郎、様・・・っ!」
その声を聞いた市は、堪えた堰が決壊したように涙が溢れた。手で涙を拭おうとも、拭った先から溢れ、尽きることが無かった。
「ありがとう、ございましたっ!」
どれだけ経っても収まらず、終ぞ外聞を気にせず涙を溢したまま、市は前へと歩を進めたのであった。
※ ※
市が城を出て後、本陣の姉上の下まで辿り着くと攻城が再開された。しかしそれまでとは違い、一の脱出を見届けた浅井の将兵の多くは抵抗を弱め、逃げる者、投降する者、自らの生を終える為に散りゆく者、諦めずに抵抗を続ける者と様々であった。
しかし、その最期も間もなくの事であった。
市の退去から暫くは持ち堪えていた本丸も、周りの曲輪の陥落に伴いその意気を落としてしまっていた。そして何より役目を果たした主君浅井備前守長政はこれ以上の抵抗を潔しとせず、重臣の赤尾美作守の屋敷へと移り、その生涯をこの屋敷で終えたのであった。
この報を伝え聞いた両軍は、これ以上の攻防を終えて大人しく縄に付くこととなったのであった。
これにおいて、凡そ四年にも及ぶ浅井朝倉との因縁は織田信長の粘り勝ちという結末となったのであった。
「これでおりゃあも城持ちになれるはずだぎゃ!」
「あまりそういうことを大声で言わないでくだされ」
「五月蠅いがね小一郎!当たり前のことを言って何が悪いんだぎゃ!」
「当たり前って・・・。まだ後始末が終わってないじゃないですか!殿は北近江三郡を兄上に任せるとは一言も仰ってませんよ!それなのにそんなことを言ってはどんな目に会うか・・・」
「三郎様が言っとらんでも、これまで浅井にはおりゃあが任せられとったんだぎゃ!んだもんでおりゃあ以外に三郎様が北近江を与える筈にゃあでしょうよ!」
小谷城での攻防も終わり、切腹し果てた浅井父子と朝倉左衛門督が獄門に処されているころ、未だ近江にその身に置いている木下藤吉郎は、その弟である小一郎と言い争っていた。家来たちはいつもの事かと誰もが気に留めず、残党処理であったり、日常の政務をこなしていた。
「それにおりゃあは浅井下野守の首を取ったんだぎゃ!これほどまでしてるのに所領も下さらなきゃ、おりゃあは三郎様の器量を疑うがね!」
「兄上!なんてことを仰るのですか!そのような事殿のお耳にでも入ったら・・・!」
「何を焦っとるんだぎゃ。三郎様がこの程度の事でおりゃあを咎める訳ないわ!」
尚も良い争いを続ける兄弟の下へ一人の人物が忍び寄っていた。藤吉郎の与力である竹中半兵衛船頭の下、彼女とすれ違った者は皆作業を取り止め姿勢を正しで礼を尽くす。
そんな彼女は目的の人物である藤吉郎の背後へと立った。
「ええそうね、私は猿を咎めたりしないわ。だって、そんな戯言を聞いたらすぐに首を刎ねてあげるもの」
「と、殿!」
「ど、どどどうして殿がこんな場所に来りゃあしたんで!?今の言葉はあやといいますか、なんといいますか」
やって来たのは、つい先ほどまで話題に上がっていた人物。織田の総帥である弾正忠信長であった。
小一郎はすぐさま平伏し、藤吉郎は膝を着きごまをするように言い訳を述べた。
「どうも猿が手柄を上げたら北近江三郡を貰うだなんてことを吹聴してるって風の噂を聞いてね。その真意を質しに来たのよ」
その目は冷たくあった。視線に貫かれた藤吉郎は、背筋に寒い物を感じて慌てて上げていた顔を地面にこすりつけて許しを請う。
「そ、それは違いますんだぎゃ。おりゃあが貰うって訳でなく、もらえると良いなって話しだったんだぎゃ。誰かが手柄を上げたおりゃあを嵌めようとしていると思いますがね!で、ですから殿は、そんな世迷言を信じないでくださいだぎゃ」
必死の言い分を信長は碌すっぽ聞いていなかった。目の前の藤吉郎の言い訳など、信長には不要であった。
「そう。だったら良いわ。猿にこの地を上げるわ」
「ほ、本当だぎゃっ!?」
信長の言葉に取り繕うために必死で脳を回転していた藤吉郎は、直ぐに脳を別の事に使い始めた。与えられた所領でどんな城を築くか、どんな将を迎え入れるか、そしてどんな女人を迎え入れるかを。
「ただし、もう一仕事して貰うわ。・・・所領はその結果次第。やってくれるわよね?」
「勿論ですだぎゃ!殿が命じて下さればこの猿めはどんなことでもこなして見せますだぎゃ!」
藤吉郎には怪しく笑う信長の表情は見えていなかった。ただ、遠くよりこの事態の推移を見ていた兵達だけがその顔を見ることが出来た。
「浅井備前守の嫡男の万福丸が家臣に連れられて敦賀へ逃げているそうよ。これを岐阜まで連れて来てちょうだい」
「承知しましただぎゃ!早速人を送りますがね!」
「ああ、良いの。もう行方は見つけてるのよ。市に頼んで、連れて行った家臣の何とかって奴に木之本まで着てもらう手筈は整ってるの。だから猿はそいつと万福丸と共に来てくれればいいのよ」
「そ、それだけでいいんだぎゃ?てっきり殿の事ですからもっと難題を仰るかと」
「あら、嫌なら良いわ。他の者に任せるだけだから」
「嫌なわけないですぎゃ!おりゃあにお任せくだされ!必ずや御下命成し遂げますがね!」
「そっ。じゃあ頼んだわよ。・・・必ず、私の命令を成し遂げなさい」
「ははっ!」
言い終わると信長は場を離れ、重文に足音が聞こえなくなってから藤吉郎は顔を上げた。その気配を以て他の者達もそぞろに立ち上がったのであった。
「おりゃあが言った通りだったぎゃろ小一郎?」
「そうですな」
運だけは良い兄を小一郎は納得いかないなと冷たい目で見るのであった。
※ ※
木下藤吉郎は予定通りに浅井万福丸とその庇護者と合流し、その旨を知らせる為人を先発させ、本人は言いつけ通りに岐阜へと向かっていた。
そんな彼の下に美濃の国境を越え、関ヶ原の地に着いた頃に主君信長より一つの手紙が届いた。
労いの手紙か、初めは浮かれ気分でそれを受け取り中を検めると藤吉郎は動転し、その手紙を取り落としてしまった。
そんな兄の姿を見て、傍に居た小一郎は手紙を拾い上げ、興味から中を覗く。
“万福丸を磔とせよ”
拒絶など出来ようはずも無かった。あれだけ言い切り、主君の前で戯言を言ってしまった身では、成し得なかった時に自らに降りかかる災難の方が大きいことは理解が出来た。
しかし目的の人物はまだ元服を迎えてすらいない子供であった。そんな子を自らの手で殺したいはずが無かった。そして、そんな子供ですら殺そうとするほど、主君が裏切り者である浅井備前守を憎んでいる事に気づかなかった先日の自分を呪いたかった。
信長は間違いなく愛情深い人物である。しかし一度その愛情が反転してしまった時に向けられる憎悪が怖かった。
「・・・やるしか藤吉郎殿に道はありませんですぞ」
傍らの半兵衛が真剣な眼差しで忠告する。普段の怯えた雰囲気はなく、敵と相対した時の雰囲気を纏う半兵衛である。彼女のこのような姿は、藤吉郎を嫌でも実行させなければならないと突きつける様であった。
「け、けんどお、まだ子供だがね」
「やらねばこの先、藤吉郎殿の出世は望めませぬ。それどころか、今の所領でさえも失いますぞ」
道は、無かった。
「・・・半兵衛。ここはお主の館が近かったな。先に行って支度を整えて欲しいだぎゃ」
「承知いたしました」
「兄上・・・」
気遣うように弟が声を掛けた。しかし藤吉郎に応えるだけの余裕はなく、肩をおとし地面を蹴りつけた。
「おりゃあは三郎様の方が恐ろしいだぎゃ」
この日浅井万福丸は信長の命を受けた木下藤吉郎らにより、その生涯を閉じたのであった。
この報を聞いた信長によって、北近江の所領が与える旨が記された朱印状が届いたのは、処刑から間もなくの事であった。




