浪人
前田又左衛門利家の出奔。その話題はすぐに領内を駆け巡った。
現場を見ていた町人は勿論のこと、柴田や森三左を初め家中の者も皆が又左衛門をかばった。
皆拾阿弥の増長に辟易としていたのだった。
この知らせを受けた信長は初めの内は拾阿弥を斬った又左衛門に怒り心頭で出頭を命じ、自らが斬ると言わんばかりの様相であったという。
しかしいつまで経っても又左衛門が登城する様子はなく、彼女の代わりにやって来た村井長八郎に事の顛末を聞いた。そして事情を知って慌ててやって来た多くの家臣から又左衛門の助命を嘆願されていた。
「もういい。盗人の拾阿弥は斬られ、それを斬った犬は逃げ出した。拾阿弥は咎を犯し、犬は言い訳を潔しとしなかった。業腹だけれどそれで終わりよ」
彼女は拾阿弥を寵愛してはいたが、それ以上に又左衛門のことを可愛い妹分として大事にしていた。
『今回の件について誰であろうと話題にするな』
それだけを伝えると解散を命じ、自身も屋敷へと帰るのであった。
※ ※
「・・・それであなたはどうしてここに居らっしゃったのですかな」
目の前の人へと問いかける。
「うう、行くところの当てがなくて、どうしようか考えた末にここに来ましたっス」
「それは理由にはなっていませんよ、前田殿」
「そんな冷たいことを言わないでほしいっス。私と喜六郎殿の中じゃないっスかあ」
この那古野城に現在織田家中を騒がしている笄斬りの前田又左衛門がやって来たのである。
「あなたは今お尋ね者に近い存在なのですよ。それなのに手配した人の弟の所に来るなんてもはや自首してるのと同じことですよ」
「いやあ喜六郎殿なら取っ捕まえて三郎様の所に引っ張って行ったりしないにきまってますっス。それに荒子の兄上は勿論、柴田の叔父貴だとかに迷惑を掛けられないっス」
「又左衛門殿に俺の何がわかるって言うのですか」
「喜六郎殿は昔はあんなに姉さま姉さまって私の後ろをついてきてくれてたじゃないっスか。そんな喜六郎殿なら無体なことはしないに決まってますっス」
「いやいやいやそんなこと言ったことないぞ!」
本当に言ったことよな?少なくとも前の世界では一緒に遊んだことはないから、きっとこの世界でも遊んでない。うん、そうだ。
「それに又左衛門なんかじゃなく『犬』って呼んで欲しいっス。何なら『犬姉さま』とかでも問題ないっス」
「いや、それは遠慮する」
よく分からないが犬呼びだと紛らわしい気がする。
「え~何でですか」
「そこまで親しくはないからだ」
チェッ、と軽く舌打ちをされる。
そのまま二人とも言葉を出さず少しお見合い状態となる。先に口を開いたのは又左衛門であった。
「重ねてお願い申し上げますっス。織田喜六郎秀孝殿。私めの短気により世間様に顔を向けられぬこととなりましたがこれは私自身の問題です。この身はすべて信長様の物であります。信長様に拾われて今があります。東の今川という脅威が控えてる今、どうしてのうのうと隠れて暮らせましょうか。どうして他家に仕官ができましょうか。たとえお叱りを受けようとこの生まれた国にて牙を研ぎ、例え信長様に斬られることとなろうと、今川治部の首を取らずしてどうして斬られましょうか。ゆえにどうか、どうかこの犬めを喜六郎殿の慈悲にてこの那古野においてくださりませ。必ずやお役にお立ちいたします!」
「そうか」
考える。彼女は確かに人を斬り逃げ出した。けれどそれは別に無辜の民を気の向くままに斬ったのではない。家中に不和を成す痴れ者を斬ったのだ。それがただ、主君のお気に入りだっただけなのだ。
それに恐らく姉上は又左衛門のしたことにそれほど怒ってはいない。拾阿弥よりも彼女の方がお気に入りだったのだから。
彼女を匿うことに対して姉上は怒るだろうか。――微妙なところだ。やったことは怒らないが、理由も言わず逃げ出したことにはまず間違いなく怒るだろう。その時になって怒りがどちらに振れるのか。
他にもいろいろ考える。今川との戦になったときにどれだけの人が織田に合力するのか。又左衛門殿は今回のことがなくとも間違いなく合力しただろう。
だが、正解が分からん。
「・・・分かった。暫くここで暮らせ。姉上にも誰にも又左衛門殿のことは言わないでおく。だが、見つかっても庇いはしない。その時は大人しく姉上に従え」
「――ありがとうございますっス!!この御恩は絶対に忘れませんっス!」
少なくとも又左衛門殿はこの織田にとって有益な人物であることは違いないのだ。
この判断が間違っていないことを信じることにした。
「じゃあ早速今晩はどうしますか?喜六郎殿なら私は別に構わないっスよ」
本当に何を言っているのだろうコイツは――
早速判断を間違っていたのかと思い悲しくなる。しがみついてくる又左衛門を引きはがすのにもう一騒動起こるのであった。
※ ※
男は尾張中村の生まれであった。特に恵まれていた生活ではなかったが食うに困らないそこそこ程度の暮らしであった。
この容貌からか、次第に父からは疎まれるようになり、ついに堪忍袋の緒が切れ家を飛び出したのであった。
外の世界に出たついでに各地を見分して見て回った。
その道中、どこかしらの家に仕官をしようと考え付くに至った。
尾張の織田、美濃の斎藤、駿府の今川。
まず考えたのは生まれ故郷の織田であった。現当主備前守信秀はそう悪くない。だが嫡子を三郎信長に据えているとはいえ、その次子である勘十郎信勝にも目をかけ、末森を与えていた。昨今の対外戦での敗走も加わり若干だが足元が揺らいできているように感じる。それに敵が多い。
美濃はどうだろうか。山城守道三は才覚がある。そして尾張の三郎信長に娘を送って盤石ではある。けれど次代の義龍とは仲が悪く、ひょっとすると今の状況がひっくり返るかもしれない、そう考えるとあまりいい場所ではないだろう。
となると、今川である。駿遠三の三国を押さえており後背の武田と北条、それぞれとの仲は良好であった。勝馬は今川と思い、東を目指した。
しかし事はうまく進まなかった。泥水を啜ってでも這い上がろうと考え、遠江に入ったが今川の将兵との繋がりは当然なく、尾張訛りもあることから時には間者の類と疑われるなど、どこも門前払いを受けた。
駿府でも同じであった。
消沈したまま帰国することになり、再度遠江に入った時に出会いがあった。
ちょっとした悶着が起きていたがその解決に一役買ったのだ。偶々助けたものが遠江の頭陀寺城城主松下之綱であった。
彼は才覚を買ってくれた。尾張訛りも気にせず、人柄を見て用いてくれた。このまま骨を埋めてもよいのではないか、そう思うまでになっていたが周りは違った。松下家臣は彼が居ること自体許せなかった、
彼の容貌を嘲るだけなら別に気にしなかった。しかし仕事の邪魔や讒言など実害がでるまでに至った。
結局このままでは自分の為にならないばかりか、心優しき恩人である松下之綱にまで迷惑をかけてしまう。それは自分の望むことではなかったので辞めることにしたのだった。
松下之綱も引き留めようとしてくれたが、それをしたところで何も変わらないことは分かっていた。
なので彼は当面の路銀と、仕官していた時に使っていたものを餞別にとくれたのである。
この仕官は無駄ではなかった。まず間違いなくそう思えた。
とはいえ辞めたからと今川の家臣に再仕官する当ては当然ない。
その上、松下殿と出掛けた際に見た今川親子は、父である治部大輔義元と隣に控える女僧太源雪斎は傑物であった。しかし娘である彦五郎氏真は凡庸であった。いや平時には問題がないだろう。ただ、これから尾張や美濃を押さえることができるかといったらきっとそれは無理である。それは一目でわかった。
義元自体まだしばらくは問題ないだろうが、その後を任せるには足らなかった。
結局これ以上東に行く気も起きなかったので尾張に帰ることにした。
尾張では暫く百姓働きをした後、三郎信長に仕官することにしたのであった。
今川方に圧されてはいたものの、要所事にはきっちり勝ち切っていたことで運があるように見えた。
彼女は大きくなるという予感もあった。
そして何より大層な美人であった。どうせ働くなら美人の下が良い。
下心も満載に尾張中村の百姓木下藤吉郎は織田信長のもとで槍働きをするのであった。
この時はまだ自身を『猿』と面と向かって呼ばれ続けることになるとは露ほども思ってはいなかったが。