表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
72/93

三方ヶ原の戦い・後

赤備えによる突撃は戦場を武田の舞台へと引きずり込むことに成功した。

彼女の勢いに押されて各地の武田の将兵は徳川の兵で山を作り、血で川を生み出していた。


「殿の下へ行かせるか!」


山県を自由にさせてはなるまいと勇気ある将兵も当然いた。だが彼らに止めることは出来ずすれ違うだけで首と胴体とを切り離されてしまった。自らの部隊長の無力さを見た徳川の兵など居ないのも同然であった。

進行方向にいる者を踏みつけ、切り払い、刺し貫きながら山県は三河守だけを見据えていた。


「どうした徳川の者達よ!我らを止めてみせんかぁッ!」


――山県の言葉が響き渡った。


気づけば徳川三河守は窮地に落とされていた。

つい先ごろまでは、がっつり互いに組み合いをしており戦場の趨勢を自らの下へと手繰り寄せようと必死であったというのに前衛に出ていた部隊は崩れて姿を散らしており、未だ耐え忍んでいる部隊も兵は傷つき、あるいは大地へ倒れ込み動かなくなっていた。

頼りになる家臣の酒井も、榊原も、本多も、皆目の前の敵に必死になって食らいつくだけで、他所を見る余裕などなかった。


――目論見が甘すぎた。


しかし後悔をする一時の猶予たりとも、三河守には無かった。馬蹄を響かせながら戦国最強の騎馬軍団が向かって来ていたのだから。


「徳川三河守、その首頂戴いたす!」


逃げることも退くことも出来ず、構えた槍に山県がぶつかることだけを望んだ家康の馬廻りであったが、彼らの槍が届くよりも先に、視界の端より別の集団が山県隊へとぶつかるようにして目の前に躍り出てきた。


「山県三郎兵衛!二俣城の借りを返させてもらうぞっ!」


その先頭に居たのは先日、武田勢により城を明け渡すこととなった二俣城将中根正照であった。率いられている面子も一緒に城に籠った将兵であった。

彼は主君に騎馬隊を近づけさせまいと山県隊ににじり寄り、家康との間を空けさせるように部隊を動かす。

そんな彼の動きに対して山県も、突破できなくはないがまだ機ではないと考えた為、あえて騎馬で突入はせずに中根達と家康とを引き離すことを選んだ。


「逃げるのか山県っ!赤備えの名が廃るぞ!」


お粗末な罵声であった。山県は当然の事で、その配下たちもその言葉を耳にしてもなお隊列を崩すことは無く一心に三河守から引き離すためにかけ続けた。


――ここまで来れば十分だろう。


内心で一人ごちた後、山県の采配が振るわれる。


「反転せよ!今からあの間抜けの首を取りに行く!」

「「おうっ!」」


やはり騎馬の扱いは巧みであった。山県の号令を聞くや否や、馬首を切り返すと瞬く間に中根隊を蹂躙した。

彼女たちの刃は大将兵卒と関係なく斬り跳ねていき、辛うじて刃を逃れた者も後を着いてきている徒歩武者によりその命を散らした。



※  ※


中根、青木らの手により一旦は山県三郎兵衛尉による危機を脱した家康であったが、一息ついたのも束の間に戦況は劣勢であった。

思わず爪を噛みながら眉間に皺を寄せて戦場を見ていると、遠く浜松城の方向から土煙が上がっていることが見て取れた。


「浜松が落とされたのですかっ!?」


思わず声を荒げながら問いかけると、馬廻りの者達は慌てて物見を走らせた。危急の秋は直ぐに報せが来るようになってはいたが、相手はあの武田徳栄軒である。主の居ない空城など赤子の手をひねるように簡単に落としてしまうだろう、といった不安も持っていた。

そうして帰ってきた物見は徳川の救援の将と共に戻ってきた。


「貴方達!城の留守を任せていたはずですよ!?」

「約束を破り申し訳ございません!ですがここはお退きくだされ!お味方は不利となり、多くの者が討たれております、ここで殿まで討たれては彼らに合わせる顔がありません!」


家康の前に跪き許しを請いながらも、夏目ら留守居組は必死の思いで主君の撤退を進言した。

しかし、当然の如く家康はその進言を拒否をした。

それでもなおどうにか撤退を、と言を尽くしているところに続々と悲報が舞い込んできた。


「本多肥後守様討死!本多平八郎様も退却との事です!」

「中根様、青木様ら討死いたしました!」

「大久保隊が崩れました!」


相次ぐ報告に家康は絶句してしまった。

そして一度は方角を変えて走り去った山県も再び家康の首を目指していた。

この報告を聞いた家臣たちは、もはや戦はここまでであると家康を逃がそうとする。しかし家康はなお拒否を貫いた。


これでは埒が明かぬ・・・。彼らは無理矢理に家康を馬に乗せると手にした鞭で馬を叩き浜松城へと走らせてしまった。


「何をするのです次郎左衛門!?」

「儂が殿軍を務める!お主らは殿を連れて早う退け!」


夏目次郎左衛門はそう言うと自らの郎党と共に向かってきた武田勢の下へと突撃をした。


「我こそは徳川家当主である三河守家康ぞ!この首を取り手柄とせよ!」


当然男である彼が徳川三河守であるなどとあり得ぬことで、武田の将らは気に留めることなど無かった。しかし、末端の兵士たちは徳川三河守を見たことも、姿を聞いたことも無かったので身代わりとなった夏目の下へと殺到した。

夏目次郎左衛門尉はかつて三河一向一揆の折に、家康と敵対した過去があった。しかし家康はそんな彼に対して慈悲深く接し、一揆に加担した罪を問わず水に流してくれていた。そんな優しい主に反抗した事を悔いて生きていた彼にとって恩を返す最高の好機であると考えた。そして彼は最期の奉公であると刀を取り武田軍を相手に大いに暴れまわる、主君の逃走の為の時間を稼いだ後にその首を刎ねられたのであった。


※  ※


勇士たる三河武士を殿軍として置いても武田軍は瞬く間に、彼らが稼いだ時間を取り戻す。

逃げ惑う家康に追いすがり執拗に彼女の首だけを狙い続けていた。


「・・・殿、どうやらここまでのようです。お先に逝かせていただきまする!」

「っなにを・・・!あなたも共に参るのです四郎左衛門!あなたの言うことが正しかった!四郎左衛門を欠いてはこの三河は立ちいきません!」


――嬉しいことを言ってくれるものだ。


主の言葉を聞きながらも、鳥居四郎左衛門は乗っていた馬を元来た方角へと走らせると声を上げた。


「我は徳川三河守が家臣、鳥居四郎左衛門忠広である!一騎打ちを望む!勇気ある武田の者はこの俺と一戦交え給え!」


彼の言葉を聞いた武田勢が動きを止めて向かってきた。


「その一騎打ち、この土屋右衛門尉がお相手いたそう」


ひとり歩んで出てきたのは信玄の近習の一人でもある土屋昌続であった。お互いに同じ頃の齢であった。その為に彼の意気に感じ入った。


「お前らは絶対に手を出すなよ」


率いている兵士に向けて言葉を出し、互いに槍を構え首を取る為に同時に槍を振るった。鋭いその一撃は互いの体には当たらず、そして間髪空けずに二の槍、三の槍と振るい続けた。

互角の戦いを演じ始めた大将を見た兵たちは自分の大将の最期を見届けようと、自身の命のやり取りを止めて見入った。

逃げる家康を追わねばならなかったが、鳥居土屋両名の一騎打ちは戦場において長い事行われた。


「その武勇天晴れであった四郎左衛門殿。この右衛門尉にとって生涯一の戦であったわ」


昌続が渾身の力を込めて振るった槍は、それを受け止めようとした槍を砕き兜越しに忠広の頭を揺らした。自身の力で立っていられなくなった忠広へ、昌続は称賛の声を浴びせると腰に差していた刀を手にその首を刎ねた。


「鳥居四郎左衛門、この土屋右衛門尉が討ち取った!鳥居の兵たちよ悪いようにはせん、降伏せよ!」


この一戦により土屋右衛門尉は武勇の士である忠広を一人で討ち取ったとして、武名を上げたのであった。


※  ※


三河勢として参戦した多くの者達が、武田勢の手によって追い崩された。武田を止められる者は自然とその数を減らしていた。どれだけ傍付きの者を殿軍としても、次から次へと武田の将兵が家康を狙い続けていた。

家康は散って逝った者達を数え、泣きながら浜松への帰路を目指していた。


「殿どうやら某もここまでのようです」

「何を言うのですか!貴方まで死にに行く必要はありません!ここで死ぬのであれば私は所詮その程度の将であったということです!ですから・・・ですから――」


成瀬の言葉に家康は叫ぶようにして訴えた。しかし彼は静かに頭を横に振ると家康の着ている羽織りと、彼女が常に大事にしていた大将旗を奪い取り僅かな兵士と共に、家康への追撃を阻むために陣取った。


「これは勝手に頂戴いたします。お叱りは三十年か、四十年後か・・・、殿が寿命を迎えられた時にでもお受けいたします」


成瀬は一礼すると、そのまま家康が乗っている馬を走らせた。


「必ずや生きてくだされ。我らが殿に求めるように、殿もこの世に極楽を――泰平の世を築きくだされ」


彼は武田勢が来るまで主君の事、そして自分よりも先に散って逝った同僚の鳥居四郎左衛門の事を思い出していた。

昨晩は主戦と籠城とで互いに意見をぶつけ合い喧嘩をした。だが彼の言っていることもまた通りでもあると、頭が冷えると考えるようになった。いくら主君が主戦を決めたとはいえ、四郎左衛門と喧嘩をしたままでは気持ちよく明日を迎えられない。仲直りをしようと酒を手に、四郎左衛門の部屋へ向かおうとした。すると途中の廊下で同じように酒を持ち、こちらへ歩いてきた四郎左衛門と出くわしたのでどこへ行くか訊ねてみると、彼も自分と同じことを考えたようだった。

一度互いに目を見合わせると、すぐにこらえきれずに声を上げ笑いあった。

その時に思った、彼のように引くことも考えられる武士も三河には必要である、と。

だがそんな彼は立派に戦い、殿の為に命を散らした。

その最期に何を思ったか、考える必要もない程に分かっていた。

――俺達は徳川次郎三郎を戴く三河武士である。


「来るがいい甲州武者共よ!我こそ本物の徳川三河守なり!この羽織をこの旗を見て見よやっ!これを取りし者こそ大勲功よ!」

「ほう。三河殿の首、この鬼美濃が頂戴仕る!」


迫り寄ってて来たのは馬場美濃守であった。彼はあっと言う間に、身代わりとなった成瀬隊へぶつかるとその命を丁寧なほどに捥ぎ取った。

大将旗はまるでそうであったかのように地面に倒れ、成瀬自身も首を切り離されてその役割を終えた。


※  ※


「どれだけ・・・どれほど愚かだったのですか・・・」


すでに日も暮れ始めていた、それでもなお追撃を行った。

山県、土屋、馬場と、武田の勇将達を防いでもなお内藤、武田典厩、武田四郎と天下に名を馳せる軍勢を残していた。

彼らが散り散りとなった三河勢を追っているのか、それとも主君家康だけを狙っているのか判別など出来ようもなかった。しかし言えることは未だ窮地を脱していないということであった。

信玄入道は浜松城へ家康を入れないように、武田の将兵たちへ指示を出し追撃を仕掛けさせていた。


「殿仕方ありません。織田殿の下へと向かってくだされ」

「っそれは!」

「いまだ万全な部隊は、援軍として来られた佐久間殿ら織田の連中のみです。小勢といえど、武田の連中も少しは警戒しましょう」

「何を言うのです・・・、久三郎も共に参いりましょう」

「いつまでも泣いてる暇は有りませんぞ殿。貴方が生き残りさえいれば三河の者は、何度倒れようとやり直せます」

「・・・そこに貴方が居なくては、意味がないじゃないですか」

「意味ならばあります。殿を生かし、三河の命運を永らえさせたと、そういう意味が。今川治部殿の下で生き延びていたからこそ、我らは三河を取り戻しました。なれば今、この時に、殿が生き延びることこそ肝要です」

「ですが多くの者達を死なせてしまいました!こんな私だけが生き延びてしまっては、皆に申し訳が立ちません!」


家康も、周りの者も理解していた。前に散っていった者の為に、彼も身代わりになるのだと。


「大将とはそういうものです。自分だけを生かし、家来を死なす。それでいいのです。それであるからこそ、我らは安心して戦場へと出られるのです。生き延びてくれるからこそ、殿の代わりに敵の前に立てるのです」

「――っ」

「だって守るべき殿が死んではそれこそ犬死でしょ?」


それだけを言うと鈴木久三郎は家康が手にした軍配をひったくり、落とすことのないように確りと握り込んだうえで武田勢へと突撃していった。

彼を向かい討つは、信玄の子である武田四郎勝頼であった。


「そこに見えるは信玄入道の倅か!ならば三河武者の生き様を特とご覧じろ!我ら徳川の者は今日の事をけして忘れぬぞ!」


彼は軍勢の中で大いに暴れまわったがやはり長くは続かず、刀が折れた頃を見計らった武田の兵により、その生涯を閉じることとなった。


※  ※


佐久間右衛門尉にとって、遠江におけるこの手伝い戦は面白くない物であった。

確かに三河を武田に抜かれてしまっては、織田の本領である尾張を危険にさらす事態となり危急の秋を迎えることになる。だからと言って積極的に武田を迎え撃ったところで、新たな領地が手に入る訳でもなく悪戯に兵を減らすだけの、ほぼ無意味な戦と考えていた。

だから主君信長から言われた籠城案は渡りに船という状況であった。これならば徳川三河守は大好きな信長の指示に従うだろうし、万が一包囲されても包囲前に遠江を離脱することも出来て無駄な殺生に巻き込まれることもないと考えたのだ。

しかし結局は違った。直接戦う為に打って出ることとなった。この事態に佐久間は頭を抱えた。

勝ち目はない。だから籠城としたい。けれど救援に出てきた筈なのに参戦しなければ己の器量も、信長の器量も疑われる。そう考え戦場より少し離れた位置に陣取り、いつでも逃げられるようにしたのだが――


「佐久間様!三河殿を救わないとは一体どういう了見なのです!?」

「五月蠅いわ童がっ!殿は武田と戦うなと仰せだったんじゃ!ならば家臣たる我らもその命を守らねばならん」


同じ援軍の将である平手甚左衛門が騒がしかった。どうにも家康に虚仮にされたとかで、この戦に対する意気込みが他の援軍の将と比べても、主戦として傾き煩わしかった。

まあそれも家臣伝いに確認したところ、彼の血気盛んな所による早とちりのようではあったがこれではやりづらくて仕方が無かった。


「とにかく我らは待機じゃ!徳川がどうなったかを見届けた後に、武田の目を躱して尾張へと帰るんじゃからな、気をぬくでないわ!」

「っ――!もう良いわ!」


捨て台詞のように言葉を吐いた甚左衛門は、佐久間右衛門尉の陣に拵えてあった床几を蹴飛ばして退室していった。


「はぁ。これだから戦経験の少ない童は・・・」


彼の姿を後目につい嘆息を漏らしてしまう佐久間右衛門尉の耳に、程なくして馬の走り寄る音が聞こえてきた。

武田が攻め寄せて来たか!と慌てて物見を出し、自らは陣幕の外から音の方を確認する。

そうすると視界に入って来たのは、葵紋を掲げた一団であった。

徳川か、と来てほしくない相手の姿を認め舌打ちするも、急いで出迎えの準備をさせようと小姓を呼び寄せた――が、それよりも早く三河守の後ろに上がる土煙の大きさに気づいた。


「――武田だっ!」


徳川三河守は多くの忠臣の犠牲を以てしてもなお、武田勢に追われ続けていた。そしてその方角は浜松城へ一直線では無く、どうしてか離れた場所の織田勢の方へと向かって来ていた。

その姿を見つけたほかの将も、織田勢の本陣である佐久間の下へと走り寄ってきた。


「佐久間様!三河殿を救わねば!」

「黙らんか童!」

「これが黙ってられるか!腰抜け佐久間めっ!」


甚左衛門の言葉に佐久間は激高した。だがそれ以上に、平手甚左衛門の頭には血が上っていた。


「っぅ!何と申したあっ!」

「何度だって言ってやるわ!腰抜けがっ!俺はお前なんぞとは違う!徳川の援軍に来た平手甚左衛門だあっ!」


甚左衛門は浜松に来てから、自身の最期の地はここ遠江であると決めていた。天下の武田勢を相手に三河守を救うためにその最期を全うするのだと。そしてそんな彼の下に集ってきた同輩も居た。

彼は佐久間の事を一顧だにせず、常に共にあり続けた愛馬へと跨った。


「ど、どこに行くんじゃっ!」


佐久間の声などとうに耳に入らなかった。

気づけば走り出し、佐脇ら元小姓衆が彼の周りに侍っていた。


「行くぞ野郎どもっ!尾張武者の底意地を見せつけてやらぁっ!」


逃げ落ちてくる家康と一瞬の間だけ視線を交差させ、入れ替わるように追ってである赤備えの前に躍り出た。

――何を馬鹿なことしているんだ!

すれ違った彼に対して、家康は、そして佐久間も悲鳴に近い声を上げた。だが彼らには目の前の敵の情報しか得ることは出来なかった。


「山県三郎兵衛尉!その首もらい受ける!」


甚左衛門は止まる気などこれっぽちも無かった。馬を駆けさせたままに槍を握り、山県の首だけを目指し腕を大きく払い薙いだ。

何があったかなど山県は知らない。だが名乗らない彼の意地と言うモノを彼女は感じ取った。

だからと彼女が、甚左衛門の相手をするわけではなかった。

山県はわざと馬の歩を緩めると、甚左衛門の払った槍は空を切り裂いた。そしてその隙を空かさず周りの赤備えたる郎党が馬から叩き落し、歩兵の手によりその首を取られた。

それは彼だけでなく付き従う小姓衆も同じく赤備えによって討ち取られたのであった。


日はすでに暮れており決着も近い。ここで馬速を緩めてしまっては三河守を取り逃す。それだけは避けねばならなかった。

山県は後続の味方に三河守の追撃を任せ、最後の機会を掴み失敗させないために密かに浜松への先回りを選んだ。


※  ※


勢い勇んで城を出てから僅かな時間で家康は敗残兵と成り下がっていた。

道中敗走してくる徳川の兵達も合流してきてはいたが、三河守の気力はとうに尽き果て、死んでいった者の顔が浮かんでは涙する。そのような状態であった。そんな彼女を佐久間達は、後方の武田勢に警戒しながら護衛していた。

平手が討たれた今、織田の大将たる佐久間は相変わらず三河守と着かず離れずの距離を保ちながら進み、彼女の叔父である水野もこの戦では浜松城の守りとして出陣していなかった。すると自然と三河守の護衛には織田喜蔵が付くこととなった。


徳川三河守と喜蔵との間に思い出が無いわけではない。彼女が人質となっていた時に数度、姉である三郎信長に連れられ顔を合わせたことが何度かあった。とはいえその程度の間柄である。だからほぼ関係が無いのと言っても差し支えない。が、下手に接触があった事でどのように接すべきかが難しいと感じていた。


そんな彼らの脳裏にも勢い込んで赤備えの中に消え果てた、平手甚左衛門の姿がくっきりと刻まれていた。彼はけして惰弱な将ではなかった。柴田や佐々、佐久間玄蕃など織田家に並み居る猛将達ほどと比べられるほどではないが、間違いなく優勝といえるほどには武に覚えのある武人であった。そんな彼が成す術もなく飲み込まれていったことで、織田家がこのまま武田徳栄軒と戦となった時にどれほどの勝算があるか、それが分からなくなっていた。

少なくとも現状の四方を敵に囲まれたままでは、塵芥の如く吹けば消し飛ぶ織田家であろう。

そう後ろ向きな事を考えながらも、いつしか浜松城まであと僅かな所へと彼らは辿り着いていた。


「三河殿、あと少しで浜松です」

「分かりました」


宵闇により隠れていた城の影が見えたことに安堵した。

だがそれ以外にも遠く影の中で蠢く一団をみつけた。

味方、だろうか・・・。だが味方ならばなぜ火を灯していない?懸念はあった。だが、それ以上に武田の兵が先回りしている可能性など、できる筈がないと決め込み考えても居なかった。

それが甘かった。


織田勢が目の前の身にまとう朱の鎧が視認できたのと、その中の一人が声を掛けてきたのとは同じ瞬間であった。


「待ちわびていたわ、徳川三河守と織田の方々」

「どうして武田がっ!」


自分で叫び、自分で納得する。どうしても何も先回り以外には考えられないのだから。

山県はそもそも問答する気など無かった。主君信玄の命を果たすために、これ以上余計な時間を使うことを良しとしなかった。

この一戦を最後にとすべく、何度目かのそして最後の突撃を開始した。


「尾張衆構えよ!赤備えといえど、騎馬隊となんら変わらぬ!恐れることは無いぞ!」


喜蔵は声を張り上げて衝撃に備えた。彼自身そうは言ったが、ただの騎馬隊と変わらないのであれば天下に名など轟かないだろう。そう理解していても鼓舞するしかなかった。

赤備えとのたった一度の接敵により、足軽が簡単に吹き飛ばされてしまった。騎馬の重みに槍による傷、尾張の弱兵には十分すぎる衝撃であった。


「くぅッ」


思わず歯噛みしてしまう。それほどまでに重く、そして自分たちだけではどうにもならないことが理解できてしまった。

思わずといった風に三河守へ目を向けると、彼女は徳川の者によって必死に逃がされていた。

――あの分なら俺が食い止めれば、どうにかなるか。

この戦の勝敗は姉の同盟相手である家康を生きて帰すこととなっていた。それさえ達成すれば、後の事はさしたる問題では無いだろう、そう考えた喜蔵は自らの旗本にだけ密かに山県の隙を突き家康を逃すことだけを考える様に伝えた。

いつしか後方の確保へと走った佐久間隊が数に入らない以上、奇襲して混乱させるしかなかった。

当然主を討死させる訳にはいかないと旗本達は反対した。だが喜蔵の決意は固かった。


「幸いなことに山県三郎兵衛尉は三河守殿にしか目が行っていない、それは彼女の配下も一緒のように見えた」

「ですが殿・・・!」

「この戦で俺達はふがいない姿を見せすぎた。この状況で織田が徳川に義理を果たすには一門である俺が武功を上げるか討死するしかない。そしてそのどちらも今という機会を置いて他にないんだ」


喜蔵の表情からは悲壮さは見受けられなかった。それを見た旗本は説得を諦め、喜蔵に着いて行くことを改めて宣言した。ならば天下の赤備えを俺達の手で叩き潰してやろう、と。

喜蔵は心から付き従う将兵のみを引き連れて陣を立て直すと迂回して赤備えの側面へと躍り出た。


「山県っ!俺達織田の事を忘れるんじゃねえぞっ!」


渾身の力を込めた喜蔵たちが赤備えにぶつかり、騎馬武者へと打撃を与えた。喜蔵の予想通り、目の前の三河守に集中していた山県にとって、彼らは粉砕したはずの居ない敵軍となっていた。


「どこまでも邪魔をっ!」


喜蔵の軍勢による攻撃は武田の三河守に対する最後の追手である山県を封じ込める策となった。

山県の慌てぶりに、自身の役目を果たせたと喜蔵は理解し人知れず笑みをこぼし、声を張り上げた。


「三河守殿・・・いや竹千代殿!貴方には我が姉、三郎姉様の事を託します!姉様には俺なんかよりも貴方が生き残り、支えていく事こそ必要です!どうか御武運を!」


何処まで声が聞こえたかは分からない。だが最期となる今、これだけは言うべきだと喜蔵は思ったのだ。

これまでの人生の中で、一門衆として働き尾張の半分を任せられるまでになった自分であった。だがどうしてか自分は此処に居るべきはずの人物でないような気がしていた。そんな葛藤を抱えていたが、結局答えは見つからないまま、今回の援軍として抜擢された。

――最期まで答えは分からなかったな・・・。

ここで死ぬことの後悔も名残惜しさもある。だが不思議と満足感で一杯であった。


「貴様ぁっ!」


怒りに任せたままの山県が攻め寄り、槍が振るわれる。最期の相手に誉れ高き赤備えとは、先に逝った弟達に自慢しよう。そう考えながら槍で受け、数合の戦いを演じる。だが騎馬の巧みさは彼女の方が上手であった。

遂には山県の槍が腰を貫き、騎馬から地面へと叩きつけられる。

視界はすでに不明瞭となっていた。叩きつけられた衝撃で満足に息をすることもできない。


「名前を聞こう」

「・・・織田、安房守信時。お前ら武田を滅ぼす、弾正忠の弟だ・・・」


最期の力を振り絞り何とか答える。

きっと姉様は悲しがってくれるだろうな・・・。

遠く三方ヶ原の地にて、織田三郎が弟である喜蔵はその生涯を閉じた。


山県三郎兵衛尉が徳川三河を守らんと立ちふさがった織田安房守を討ち取った時には、徳川三河守は浜松城へと帰城してしまっていた。


目の前の城は城門を開け放たれており、煌々と篝火が焚かれていた。それは来るなら来いと、まるでこちらを挑発しているかのようであった。


「殿、徳川三河守は敗走に次ぐ敗走を重ねました!他の武田の将兵が揃えば落とせるはずです!」


「・・・いやもう良いのだ」


「っですが」


山県だって本心としてはこのまま攻め込み、三河守を降したいと思っている。

だが御屋形様が練りに練った必勝の策であった。それなのに三河守を逃がしてしまった事実は、武田は今回の戦に負けてしまったと言っているのと同じである。それを取り返そうと足掻くのは見苦しいと思っていた。


「あれだけ三河守を追い詰めてなお取り逃した、ならば御屋形様と再考して万全の状態で三河守を討つしかない」


武田は勝ったはず、それなのに主君である三郎兵衛尉からは重苦しい雰囲気が漂っていた。だが郎党はそれ以上何も言わず静かに気持ちを押し込めて引き下がった。


信玄の座す本陣へ帰陣した昌景にたいして信玄は労いの言葉を掛けると早々に彼女を下がらせる。主君である信玄の命を守り切れなかった昌景に対して何も言ってこなかったことが、一掃彼女の心に影を作らせた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ