遠江侵攻戦
武田家の騎馬隊は戦国最強である。との名声は周辺諸国のみならず畿内にまで轟いていた。しかし武田家が全国の大名と比べて一番強いかと言われると特段そうではなかった。
今でこそその名で各地の大名を恐れさせている信玄であるが、過去には信濃の国人領主であった村上義清であったり、上野に在し関東管領である山内上杉家の家臣の長野業正との間で幾度も槍を交わし、そして大敗をした苦い経験をしている。それでもめげずに、この貧しい甲斐の土地に住まう者の為に幾度も立ち上がり今の立場を築き上げてきたのである。貧しきが故の精強さが武田家の強みであった。
確かに個々の強さでは武田の将兵も皆他国の者と何個も抜きん出ているようなものでもなかった。しかし周りに圧し負けず、勝ちの目を手繰り寄せんと這いずり回っていた信玄が、彼らの力を何倍にもしてきていた。そしてそれゆえに至強の武田家が出来上がったのであった。
信玄は戦をする前に入念な準備を行い、勝てる見込みを生み出してからの戦を本分とした。そしてその策に従い動ける家臣は何物にも代えがたい者であると認識していた。だがこれまでの人生において、絶対と言うモノはない事も知っていた。どれだけ考えて編み出した策であっても、どれだけ事前に準備を行った策であっても、勝ち切ることが出来ないことを、川中島の地で身を持って体験していたのだから――。
※ ※
「高天神城はまだ落ちませんか・・・」
信玄は軍勢を動かすと瞬く間に遠江の徳川領を荒らして回った。小城は一日と駆けず落として回り、徳川の遠江防衛の要の一つである高天神城に押し寄せた。・・・までは良かったが城将の小笠原某の防戦は舌を巻く程度には上手であった。
しかし信玄は確証しても居た、長対陣をすればこの城も落とせるということを。だがこの城で長々と交戦することは徳川の、ひいては織田に時と言う名の好機を与えることになることもまた当然の如く理解していた。
そして眼前にそびえたつ城を得ることの利と、時間を掛けずに徳川を荒らす利を考えた時に、取るべき選択は当然後者であった。
決断したからには動きは速かった。
「修理亮に伝えなさい。敵を城内へ追い込み我らは付城にて彼らを抑え込むようにと。私は先行して徳川領内の奥へと入るから、駿河衆を付城に配し高天神城の者を閉じ込め次第、修理亮は本隊に合流するようにと」
信玄の方針を聞いていた近習の者は直ぐに駆け出して、今しがた聞いたことをそのままに伝えに陣を出て行った。
――これであれば徳川勢に後方を撹乱されることもなく、うまく行けば音を上げて開城するかもしれない。
内心でそのように考えながら、掛けて行った者を見送ると信玄は西へ向かう為に軍を動かす指示を出していった。
それからはゆるりと軍勢を北へ向けて動かしていた。
敵地ではある。敵地ではあったが碌な抵抗もなく降伏するか、あるいは自身だけでは勝てぬと城に籠るばかりで障害など有って無いようなものであった。瞬く間に東遠江を席巻した信玄は次の目標を二俣城と定めていたのであった。
そんな一団の前に西よりとある部隊が現れた。その部隊は纏まって行動をしておらず、武田本隊と偶発的に遭遇してしまったことに驚きを以って固まってしまった。膠着したのはわずかな時間であった。しかし信玄にとってその時間は打てる手立てを増やしてくれる絶好の機会でもあった。
「あの兜に見える鹿角は徳川三河の信頼厚い本多平八郎じゃありませんか?あのような小勢では偵察に来た部隊と言ったところなのでしょうね」
「源五郎の言う通りでしょう、馬場美濃へあの連中を襲うように伝えなさい」
昌幸の言葉に信玄は直ぐに反応した。
たしかに甲斐の国へも鹿角兜の本多忠勝の名は響いてはいる。だが馬場美濃守であれば何ら心配はいらないだろう。そう目論んでの差配である。
逃走か、あるいは主君への報告か――。槍を合わせようとせず、背中を見せた本多勢に武田の騎馬武者たちが追いすがった。
そして武田勢が馬首を向けた所を見て取ったのであろう。本多勢の後方より渡河をしていた徳川三河守も戦場の空気を感じ取ると直ぐに撤退を決めたようで、来た道を引き返そうと慌ただしく動き始めていた。
「流石に徳川三河までは距離がありますか・・・仕方ありません。左近、貴方は迂回して本多とやらの退路を塞ぎなさい」
「かしこまりました!」
昌幸と同じく近習を務める小杉左近は少しの手勢を率いて駆け出して行った。
「さて、それでは私どもはこのままに二俣城へ向かいましょうか。この状況であれば徳川三河は城に籠るでしょう」
信玄の眼下に広がる一言坂では、勇猛たる武田の部隊が三河の者達を散々に食い破っていた。
殿として急遽備えを行った、本多忠勝を筆頭に大久保忠佐や内藤信成らは奮闘して主君である家康に少しでも時間を与えようとしていた。だが馬場美濃守の突撃により、三陣の備えの内二陣が破られ、退路となる一言坂の坂下も、信玄の差配によって閉じられようとしていた。
この動きに気づいた本多忠勝の叔父である肥後守忠真は姪へ撤退を進言したことで何とか窮地を脱することが出来たのであった。
結果はやはり武田勢の完膚なきまでの圧勝であった。
家康にとって武田家とはこれまでに小競り合い程度の争いはあった。その争いにあっても家康が譲ることなく戦況を進めており、自らの三河武士は武田にも劣らぬ武士であると自負していた。武田相手に善戦し、姉川において織田の勝利へと貢献する一役に買ったこともその自惚れを担うのであった。
だがいずれも相手は武田徳栄軒信玄では無かった。信玄は自分の何歩上を行く自らの矮小な考えでは及びつかない位置にいる、そのことを知ってしまった。知ってしまったが故にその強さを何倍にもなって体に、脳に刻み込んでしまった。
浜松城へと逃げ帰った家康は、殿を務め上げた将への労いもそこそこに城の防備を固め上げて、さらに盟友にして姉のように慕う信長に、援軍を求めるのであった。そこには城から出る前に見せた勇ましき表情は見る影も無くなっていた。
そんな彼女の下に届いた奥三河の離反も、二俣城の包囲にも、何ら手を打つことは出来なかった。
※ ※
一言坂付近にて徳川勢を追い払った武田軍であったが、彼女らもまた目標であった二俣城を前に手を拱くこととなっていた。
二俣川と天竜川の合流地点に築城されているこの城は、信濃方面から遠江に抜ける為には欠かすことのできない場所に位置しており、更には未だ頑強に抵抗を続けている高天神城・掛川城の両城と家康の籠もる浜松城の連携を妨げることにも絶好の場所に位置していた。
その為に高天神城のように放置することなどは到底出来る筈もなかった。
だが城を攻め始めてからすでに大分と時間を費やしていた。守将には中根正照、そして青木貞治と松平康安が就いており、互いに三河守への忠心厚き、典型的な三河武士たちであった。
城の側面を二俣川と天龍川という天然の防備で備えをしている為、必然攻め口は限定される形となっていた。そしてその攻め口も、城が丘陵地に位置する都合上、どうしても守兵に圧倒的な利が齎されていた。
初めは武田の力を見せてやろうと思った。急峻な坂道に造られた大手道と北東の一方向の攻め口は攻めがたく、急ごしらえの柵や敵方の石礫に弓や鉄砲と、大軍の利が活かせないからこその防衛方法で武田家の侵攻に一定の遅延を与えることに成功していた。
こちらが手を出すのが駄目ならば、向こうに手を引かせればいい。事自体は単純な話ではある。
”今すぐに城を明け渡せ。そうすれば二俣城兵全てを生かしたままに何処へなりとも行くが良い“
”生きたまま浜松へ帰してくれるのであれば、その話に乗りたいと思う。だが城内には未だ武田入道殿を討ち取らんと意気軒昂な者も多いので説得をしたいと思う。その為に軍勢を退いてはいただけないだろうか。その上で浜松の殿へと相談をする“
けれど帰ってきた返事はいたずらに時間を使わせようとする内容であった。
形式的に書状を送るだけ送って、城を出るつもりがない事が丸わかりであった。
「さてどうにも奴らはこの地を離れる気が無いようですね。あまり時間が無いというのに厄介な・・・」
「左様ですな。時を掛けてしまえば畿内より織田が軍勢を引き連れてやって来てしまいますしな」
「それもそうですが・・・。いや今は目の前の事に集中しましょう」
普段と比べると何処か様子がおかしく、目の前の戦とは別の事を考えているような信玄であった。しかし、その場にいた誰もが特段気にもせずに二俣城の事へと意識を向け続けていた。
「御屋形様、つい先ごろに奥三河の者を服属させたと三郎兵衛様より届いて居りました。三郎兵衛様を我らと合流させては如何でしょうか?」
どうしても攻め手が温くなってしまっている今、現状に新しい風を吹き込むためにと昌幸は声を出した。
「確かに源四郎と合流する頃合いかもしれませんね。・・・ならば伯耆守には岩村城に向かってもらい、源四郎にはこちらに来てもらいましょう」
昌幸の案が採用されて、日を置かず山県三郎兵衛尉昌景が本隊と合流を果たした。
名高き赤備えが加わったことにより士気は回復をした。だが堅牢な城を抜くことはやはり一筋縄では行かないのであった。
包囲中何度か二俣城を解放しようと、徳川の将兵が押し寄せてきていた。それを簡単に撃退するそんな日々が続いていた。
だが数多くの戦を経験してきた武田信玄が、敵城の包囲中に黙ったまま時を消費するはずが無かった。
改めて城の縄張りを確認し、机上だけでは分からないことを見つける為に、信のおける人を遣わして甲斐で行っていた調べを、昼夜構わずもう一度やり直していた。
「御屋形様っ!やりました、見つけました!・・・って大丈夫なのですか!?」
信玄より下された命令を武田の将たちは必死にこなしていた。そして山県は目的の人物を探し出して急いで主君の下へと自ら報告にやって来た。
しかし本陣に居たのは常よりも表情に陰を帯び、精気が見受けられない信玄の姿であった。
「・・・思わぬ長対陣ゆえに、流石に無理をし過ぎました。少し寝ていれば、楽になるはずです」
「そう、ですか・・・?であるならば床几に腰かけるのではなく横になってください。私も周りの者も気になどしませぬ」
「分かってはいます。ですがこの策だけは、寝るのは後にしないといけません」
「御屋形様・・・」
元来武田信玄は病弱であった。平静から動けぬ程に重い病では無いが、時々妹である逍遥軒信廉を影武者として面に出させ、一日二日休むことは多々行われていた。重臣格の者は当然そのことを承知しており、主君である信玄を見守ってもいた。
だが今の姿は明らかに今までの時とは異なっていた。そして源四郎にはその姿が、今は亡き兄である飯富虎昌の最期の姿と重なって見えてしまった。
「源四郎、心配してくれるのであれば、その者を早くこの場に呼んできてください。確認が取れればその分だけ早く私も休めるのです。孫六に影として出てもらい、私は陣幕の裏手で話を聞いています」
「っ承知いたしました!」
――あの御屋形様に限ってそんなはずはない。
心に生じた戸惑いを振り払うように源四郎は急いで戦を終わらせようと自陣へと向かった。信玄の言うように早く体を休めて貰うために・・・。
「おらあの父は今川様の時代にあの二俣城に詰め取ったけど、戦ん出なくなってから家でよう言ってたんだに。城ん中にゃ井戸は無えから、裏手のんとこにある井戸櫓が壊されでもしたらとっとと逃げにゃあ干からびるに、って。・・・こん話が何かお役に立っただ?」
男の話は信玄が見つけた攻略の糸口に、しっかりと保証を与えてくれる内容だった。
「ええ貴方の話はとても役立ちました。お礼に此方を差し上げます。我が甲斐の土地で取れた砂金となります。自由に使っていただいて構いませんので、我らに今の話をしたことは決して他の誰にも言わないようにしてください、万が一ことが為る前に徳川の者に気づかれたときは・・・」
男は目の前に差し出された砂金に目が眩み大層喜んだ。しかしその後に続いた言葉に恐怖を抱き、慌てて平伏し村へと帰っていった。その道中は足が恐怖で震えて満足に歩けない程であった。
「さてこれでこの城攻めは私どもの勝利となりました。片が付くまでは孫六、貴方に代わりを任せます。けして抜かりの無いように他の者にも厳命しておきなさい」
「わかりました姉上様!」
それだけを言い残すと信玄は陣の奥深くへと消えていき、後に残された者達で策の仕上げを行った。
※ ※
二俣城内は苦しくはあったが、かの信玄入道を相手に一月もの間を手出しもさせず、ここ数日に至ってはまともに攻め寄せてきてはいなかった。その為にあまつさえ押し返せるような雰囲気が流れており士気は絶好調であった。
今日も城下の武田勢を観察していた二俣城内の守兵達の耳に、いつもとは違う川の音が聞こえてきた。川の波の音とその音に紛れるようにして木がぶつかり合う音が響き渡っていた。
初めにその正体に気づいた者は櫓の上に居た兵であった。音のする方を見やると天龍川の上流から大量の筏が流れ寄せてきたのだった。そしてその筏に武田兵が乗っているわけでもなく、何に使うのかと首を傾げた後にその目的に気づいた。
筏が流れゆく先には、二俣城の生命線でもある井戸櫓が建てられていた。
「櫓がっ!!」
叫んだ時にはどうすることも出来なかった。櫓に筏がぶつかった音が辺り一帯に木霊すると、続けてその櫓が壊れる音が響き渡った。
ここ数日の間に攻め寄せてこなかったのは諦める為じゃなかった・・・。力攻めに進展を見出せなかった信玄入道が搦手を使ってきたのだ。城内の誰もがそう理解した時には全てが終わってしまった。
「みずが、水が無くては戦うことすらできんではないか・・・」
城将の中根正照は堪え切れずに口から言葉を溢してしまった。常の戦であれば大将が弱音を溢しては兵たちは付き従いなどしよう筈も無く、武士としても三河者としてもあり得ぬ言葉であった。
しかし城兵の誰しもがこの城における水の重要さを知っていたからこそ、咎める者も同調する者も現れなかった。
「ま、まだ雨水を溜めた瓶があるではないですかっ。これだけあれば、あの武田の者だって我らで追い返せますよ!」
「何をたわけた事を言うとるがね!!これっぽっちの雨水だけで何日も過ごせる訳あらんがね!」
沈黙の中で上がった声に正照は大声で反論してしまった。
城将である彼にとって負けが決まった戦で、同じ三河武者を無駄死にさせる訳にはいかなかったが故の焦りであった。
その正照の様相に兵たちは面食らいはしたが彼の言いたいことが良く分かってしまったが為に皆静かに涙を流し、嗚咽を止めることもできなかった。
“開城せよ。今なら生かして帰す”
もはや二俣城兵一同に拒否することなど出来ようもなかった。拒否すれば武田勢は僅かな抑えを置くだけで城兵の尽くを殺すことが出来るのだから――。




