比叡山焼き討ち
もはや姉上の怒りを止めることは主上であっても止めることは出来なかった。
先年の戦において延暦寺と勅命による講和を成した織田家であったが、姉上は虎視眈々と延暦寺に対する恨みを募らせていた。彼らの参陣により失った森三左殿、九郎信治兄上への姉上からの信頼の大きさは筆舌に尽くしがたい物であった。
姉上は公方を飛び越えて幕臣の明智十兵衛殿に延暦寺の事を具に調べ上げさせていた。
そして到底仏門に帰依しその教えを守っている者とは言い難い暮らしを彼らは行っていた。
彼らは生臭を食べ、女色に耽り、使う必要のない金銭宝物を貪欲に蒐集するという僧侶として有るまじき行いをしていたのである。
姉上は集めた情報を以って、この悪行を天下の諸士に広く喧伝するのであった。
それでも彼らはそれを認め誤りを正すどころか、主上の弟でもある天台座主覚恕の威を借り、我ら織田を馬鹿にするのみであった。
――もはや世を乱す不届き者など王城鎮護としての役目に相応しくない。
そう判断した姉上は、天台座主覚恕が上京している間隙を突き比叡山の麓にほど近い三井寺へと陣を構えたのであった。
※ ※
「殿、延暦寺及び堅田の者が黄金五百を持ち面会に来ました」
「ハッ何をいまさら。謝るくらいなら新九郎達が逃げ込んだ時に追い出すのが道理よ。追い返しなさい」
「承知しました」
比叡山に鉄槌を下す。そう伝えられて俺達は本陣へと集められた。
すでに山城方面の出口となる勝軍地蔵の周囲を幕府軍によって固め、延暦寺に逃げ場は無くなっていた。
「・・・さて、皆も覚えていると思うけど昨年は私は、寛大な心を以って延暦寺の奴らに接して来たわ。仮にも京の都の鬼門に位置し王城鎮護の寺として数百年にも渡りその役目を果たしてきた寺だったからね」
口を閉じ、姉上は諸将を見回す。
「けれど奴らはその地位に驕り勝手気ままな振るいをしてきた。かつての白河法皇は自身で意のままに出来ぬと三つのモノを上げた。加茂の流れ、賽子の目――そして叡山の山法師共。まさにその通りよ、自らは誰にも縛られぬと勝手気ままに振舞い続けていたのだから」
誰も何も口を挟まない。ただ姉上を見続けている。その目に怒りを携えながら。
「そしてかつての公方であった普広院様、細川右京大夫。彼らは皆延暦寺に対して強硬に対応した、右京大夫に至っては焼き討ちを行い彼らを正そうとまでした。だがそれでも奴らは何も反省しなかった。主上や公方の政に口を出す門外漢共だ、奴らは天下一の阿呆の集まりである。なればこの三郎が奴らの目を覚ましてやるのが今世の道理よ」
姉上は手にしていた指揮棒をへし折る。それは意識しての事ではなかったのだろう。手に気の破片が刺さったのも関わらず、眉一つ動かさずに続けた。
「此度の戦は獣となれ。あそこの山に居るのは僧の姿をした地獄の鬼である。全てを炎に包み、刃を以って祓い清めよ。一人たりとも生かすな、出会う者尽くを撫で斬りとせよ」
その言葉からは内に秘めていた姉上の怒りが発せられていた。
俺だけではなく姉上の言葉を聞いた者全てが慄き唾を飲み込んだ。それほどまでに姉上の怒気は凄まじい物であった。
どれだけ不利な戦であっても、決して乱暴狼藉は成らぬと戒められ、時には姉上自らその罪を犯した者を斬るほど、重要視されていたことであったのにも関わらず、今回はそれを行えと暗にいうのであった。
「恐れながら申し上げます。すでにお心をお決めと存じますが、今一度最後にお諫めします」
そして無謀にも今の姉上の前に佐久間殿が立ち上がり声を上げた。
それを詰まらなさそうな目を向けて続きを促した。
「古来、山城に都を移してよりこの比叡山は、天下の者より崇敬を集めて参りました。そしてそれを今、いかに末法の世と言えど殿がこれを荒らしてはその恨みを一心に負う始末となります。ゆえにどうかお考えを変えていただき、今一度穏便にお済ませくださいますよう、伏して願い奉ります」
「分かり切ったことを態々改めて口にするとは、半羽じゃなきゃ出来ないわね。けどもう決めたこと。この地は一度変わらねばならぬ。主上は政を武家に取られ変わった。けど坊主共は何も変わらぬ。幾度もその機会が与えられてきたが、どれも自ら変わることが出来なかった。今回私が手を下したのは偶々叡山の者共であっただけよ。これも全て奴らの自業自得によるもの」
その言葉を聞いた佐久間殿は頭を下げた後、元居た自分の場所へと戻っていった。
「改めて言うわ。自らの教えを守らぬ者を守るほど仏も甘くないわ。そして教えを守るものは皆叡山を出て、その教えを守り生活を送っている。だから決して仏罰などはくだされない、そう心に刻みなさい」
息を一度吸い込み、そして放つ。
「まずは坂本、堅田を焼き払いなさい。叡山へ阿呆共を追い込み、そこで全てにケリをつけるのよ」
その言葉に俺達は皆、頭を下げるのであった。
そして姉上の話が終わると、今回の比叡山攻めを考えた十兵衛殿の策を皆して聞くこととなった。
※ ※
叡山には悲鳴のみが木霊した。
織田勢が坂本、堅田に攻め込んだ時には、使者を追い返された延暦寺の者から戦は避けられぬと、周囲の村から延暦寺に味方する者を集めて備える構えを見せていた。
その為織田家の第一の目標である麓の町は簡単に抑えることが出来たのであった。
獲物が自ら集まってくれたなら好都合。そのように判断した織田の者は戯れに町へと火を放ち徐々に叡山へと迫るのであった。
火の手が上がった麓の町を見て慄いたのは延暦寺に集った者であった。
がら空きとなった町ならば非道な目には合わないと考えての対比であった。これまで規律正しく、京の町を闊歩していたかつて織田の者と、今自分たちの前に迫っている織田の者の姿が一致しなかったのである。
――かつて、朝倉左衛門督を匿った時の脅しは虚言でなかったのか。
誰もが高を括り、織田信長を侮っていた。その代償として延暦寺の高僧達は驚きと、後悔を背負う形となった。
しかし彼らにその責任の取り方など一欠けらたりとも知らないのであった。
そうして目の前の光景を見ないように目を閉じ逃げ出した先には、黄地に永楽銭が描かれた旗を背負う、武装した者達であった。そして、奥には木瓜を携えた大将旗さえも目にすることが出来た。
「チッ」
舌打ちを耳にした瞬間には、自らの首と胴とが切り離された居た。
声すら出す暇なく意識は永遠に闇の中へと落ちて行った。
比叡山は僧たちの涅槃から、一挙に地獄へと移り変わった。
山のあちらこちらからは怒声と悲鳴、そして命乞いの声が上がっていた。
だがその声に耳を傾ける者など一人たりとも居ない。
織田の総帥たる信長の命なのである。どうして一兵卒たる自分が彼らを助けられようか、自分は男は殺し、金銀を奪い取り、女を犯すしかないのである。高潔な存在たる僧侶がそうしていたように、敵の言葉に耳を傾けず、今の世を楽しむように仲間と共に山を練り歩いた。
「た、助けてください!叡山の坊主じゃないの!私は女!坊主と関係ないのよ!」
享楽に耽り、つい先ごろまで坊主と共に床を共にしていた彼女であったが、八方から聞こえる声を耳にして、今この山で起きている事態から逃れようとしていた。
どうやら比叡山の僧達の所業に端を発した事態だ、そう理解した彼女は攻め寄せている織田の兵の前に転がり出てきた。
「女人だなんて、それは本当のことだぎゃ?」
「そ、そおうよ!ほら!この通り!どう見ても男じゃないでしょ!?」
織田の兵のいぶかしむ声に対して、女は来ていた衣服を肌蹴てその裸身を目の前の男へ向けた。
男は好色そうな笑みを浮かべて女を見た。
――助かった。
女の頭には喜びの声が先走った。
しかし、頭に浮かんだのは声であっても、頭に当てられたものは血に濡れた刃であった。
「ぁぇ?ぉう、ぃて・・・」
「いんやあ、さっきも女だぁ、と謀って逃げとりゃあした坊さんが折ったんだって。うちの三郎様は撫で斬りを望んどりゃあすでな、どおしても生かしたる訳にはいかんでよ」
女は最期まで言葉を聞き終えることなく命を終えた。
そしてその女の後に続き、他にも逃げてきた女子供が現れる。
「まあこの山は坊様しか居らんでよ、そこに居りゃあすはみーんな坊さんに違ゃーねえでよ。間違っても女子供な訳ありゃせんで、諦めてちょうよ」
彼の言葉を聞いた者達は、すぐに来た道を走って戻っていた。だがそこに別の道から現れた織田の者が立っているとは知らずに・・・。
気づけばいつしか根本中堂から火の手が上がっていた。誰が火を放ったか問題ではなかった。
それは燃え広がっていき延暦寺、日吉大社の造りを問わず、全てを灰燼とするのでは無いのかと思う程にその火は勢いが凄まじかった。
夜を通し燃え続けた比叡山は、京の都からも煌々としたその明かりを見ることが出来るほどであった。終には周りに燃える物を燃やし尽くし、一日が経ってようやく鎮火する有様であった。
「是非もなし」
それは本陣にて延暦寺を眺めていた信長が、唯一この戦で発した言葉であった。
※ ※
上げられた首は数千のも及び、かつて誇った延暦寺の栄華は見る影も無くなった。
信長は一連の行く末を見守ると、戦禍を免れた――いや免れるように手配した聖衆来迎寺へと足を運んだ。その寺は比叡山延暦寺と密接な関りを持つ寺であったが、志賀の陣の折に討ち死にした森三左衛門を手厚く葬ってくれていたのであった。
そんな彼らの手厚い褒美を与えると、延暦寺攻めを終えた将兵たちが続々と集まって来るのだった。
「弾正忠殿、叡山に逃れた者達の尽くの殲滅が完了いたしました。後は兵達に生き残りが居ないか捜させているところにございます」
「であるか」
明智十兵衛が前に進み出て報告を行った。
「延暦寺は勿論、日吉大社の寺領社領は全てを没収とする。その他はまた伝えるが佐久間、柴田、丹羽、中川、そして明智十兵衛、貴方たちに差配を任せようと考えているわ」
その頃に呼ばれた者達は頭を下げる。
「そして此度の戦における格別の働きを成したのは、疑いようもなく明智十兵衛だわ。志賀郡一帯を与える」
「ありがたき幸せにございます」
その言葉に織田の将兵はどよめいた。
幕臣としての身分にもかかわらず、姉上から知行を給わるという異例の出世であった。
「この坂本に城を築きなさい。延暦寺という古き臭いを消し去り、織田という新たな世を見せつけることのできる城としなさい」
「期待を裏切らないよう、粉骨砕身働かせていただきまする」
十兵衛が恭しく応じた姿を見た信長は満足げに頷き、十兵衛を下がらせる。
「今回の事を京雀共はどう受け止めるかは知らないわ。このことを私の事が気に食わない連中は喜んで批難する材料にするでしょうね。けれど今確実なことは、この処置は天下の為に必要な事であるということだけよ。言いたい奴には言わせておきなさい。今の世において正しさは時の道理と自らの信念のみ。行ったことの評価は後の世に生きる者らが下す物こそ本当の結果よ」
その後信長は各部将に事後処理を命じると、彼女自身馬廻りを引き連れて一足先に京へと向かうのであった。
出張の為次回は9月です。




