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志賀の陣・結

 延暦寺とは和議をしろ、との事であった。

 朝廷より綸旨が出されたのである。これは今の主上の弟である応胤法親王が、天台座主の地位に就いていたことによるのだろう。

 それを公方様から知らされた姉上は、事ここに至り折れた。


 比叡山の僧らも勅命に従わない訳にはいかず、文句を言うこともなく勅命による講和が成立した。

 この流れに乗り姉上は叛旗を翻した敵全てと、上意の許で和睦を行った。

 だがこの和睦は屈辱的であった。本来の朝倉攻めも完遂できず、三好勢を畿内から駆逐できぬまま全てが中途半端な結果に終わったのであった。


「さて弾正忠、よくもまあ、こんなにも手を煩わせてくれましたよねえ。何か言うことは無いんですかあ?ですよねえ備前守さん?」

「・・・まあそうですね」

「そうよねえ。・・・ああそうだわあ。元々貴方は陪臣の家柄よねえ。貴方と比べたら私の方が家柄もよくて、公方様をお支えするのに良いと思わないかしら?ねえ備前守」

「左様で」

「そうよね、そうよね。だから貴方にも確りと口にしてほしいと思うの。織田よりも朝倉の方が偉い、とね」


 元々織田氏と朝倉氏は何方も斯波氏の被官であった。けれど応仁の頃に有力武将の一人として名を上げてて、いつの間にか斯波氏の領国である越前を手中に治めたのが越前朝倉氏の始まりであった。

 対する織田氏も同じ斯波氏の被官であり、いわば同僚の間柄であった。けれどそれは織田伊勢守家の話である。又守護代の大和守家のさらに分家である弾正忠家は陪々臣と、朝倉よりも家格は当然に低い物であった。


「ほらあ、どうしたのかしら?尾張の田舎武者さん。・・・あっ!悔しくて頭も下げられないのかしら。それなら最初っから天下を望むんじゃないわよ」

「左衛門督様、その辺に――」


 朝倉左衛門督の織田弾正忠への罵倒は留まるところを見せなかった。

 同年代でありながら何度も煮え湯を飲まされた相手が下手に居る、それに半年近くにも及ぶ戦の溜飲をどうにかして下げようとしていたのだろう、だがそれは余りにも目に余る姿であった。

 流石に見兼ねた浅井備前守は朝倉左衛門督に注意をしようとした。だがその前に織田弾正忠は頭を下げたのであった。


「天下は朝倉殿が物に、私は二度と天下を望みません」


 この言葉に朝倉左衛門督は大いに喜んだ。

 口の端を吊り上げ、歓喜に打ち震えた。――勝った、と。


「自分の立場が分かったみたいですねえ。そうして己が身を弁えるのであれば、私はそれ以上は求めません。では和睦の条件を詰めましょうか。ねえ備前守さん」


 この時頭を下げた織田弾正忠は何を考えていたのだろうか。本心から出た言葉なのか、それともただの口先だけであるのだろうか、少なくともこの時に分かっていれば小谷敵対した者達のこれからの動きは変わっていっただろう。だがそれは詮無い事である。何故ならこの時の織田弾正忠の顔を窺い知れる者は、誰一人として居ないのであったのだから――



 ※  ※


 勅命による延暦寺を除く他の諸勢力に対しての和睦は、朝倉を筆頭において上意による和睦として取り決めが成された。

 この戦において浅井朝倉勢よりも先に織田勢が志賀一帯より瀬田まで兵を退くことが決まった。

 その条件に従い、皆すぐに兵を下げた。

 そしてそれだけではなく、彼らの退却の最中に人質までも求められた。

 これを誰が行くかと言う話になったのだが――


「姉上。俺が行きます」

「何を戯けたことをっ!喜六郎に行かせる訳にはいかないわ!」

「いえ、俺に行かせてください。中途半端な立場の者では人質とはならないでしょう。だからと言って重臣の者に行かせる訳には行きません。そう考えた時に姉上の弟である俺なら、朝倉も納得することでしょう」

「っそれは、そうだけど、他にも適任が――」

「ここにいる俺が一番適任です。それに幕府の名の下に行われた和睦なので、手ひどい扱いはなさらぬでしょう。あちらには備前守もいることですし」

「だからと言って確実に戻れるとは限らない。弟達が二人も逝って、三左も右近も居なくなった。この上で喜六郎まで死んだら、どうすれば・・・」

「考え過ぎです。それにそれで俺が死んだら存分に仇を取ってください。公方様も文句は言えないでしょう。・・・まあそう簡単に死ぬ気は無いですけどね」


 敵勢の中にただ一人、怖くない訳ではない。それに織田の者となれば彼らからの敵愾心は相当なものだろう。

 だがそれ以上にどうしても浅井備前守に話したいことがあった。


「では無事に勤めを果たしてきます」


 ※  ※


「へえ貴方が織田弾正忠からの人質ってわけなのね。中々綺麗な顔じゃない」


 目の前には敵の総大将、朝倉左衛門督。そして浅井備前守がいた。


「あなた名前は?もし良ければ弾正忠を裏切って朝倉に就かないかしら?不自由はさせないわ」

「お断りさせていただきます。同じ斯波の被官の立場であった身ですので朝倉殿如きには尻尾を振れませぬ」

「な、何ですって!同じってことはお前はッ!」

「お初にお目にかかります。織田弾正忠が弟である、織田喜六郎と申します」

「織田如きがどこまでも馬鹿にしてくれてっ!」

「――左衛門督様!」


 俺の名前を聞くと、先程までの小馬鹿にした顔から一転怒りに打ち震えた表情へと様変わりした。咄嗟に手が出そうになった彼女であったが、備前守に止められ拳をしまった。


「チッ。顔も見たくないわ。備前守、貴方達で見張っときなさい」


 とさっさと出て行ってしまった。

 残されたのは雑兵と備前守、そして俺だけであった。


「止めていただきありがとうございました」

「・・・」

「・・・お久しぶりです、浅井備前守殿。あれから変わりないですか」

「・・・」

「市は無事ですか?不自由なく過ごしていますか」

「・・・」


 むう、予想はしていたが返事をしてくれない。

 どうしたものかと頭を捻っていると、軍が出立した。朝倉勢から順に撤退しているようであった。


「このまま姉上に頭を下げませんか?備前守殿ならば、今なら許すはずです」

「難しいなら内応してくれませんか。無碍には扱いません」


 それでも諦めず話しかけてみるが、やはり反応してくれなかった。そうこうしているうちに遂に俺達の番がやって来た。

 どれだけ話しても目を合わせず、身体さえこちらを向けてくれない。

 結局約束の地である高島郡に着いてしまった。


 すると刀を手に備前守自身が俺の傍までやって来た。その刀は当然、鞘から抜かれている状態である。


 ――人質を殺すというのか!血迷ったか備前守。ここでもし殺されては、あんなに自信満々に人質に志願した俺の立つ瀬がないじゃないか!

 などと心中で喚いていると備前守は呟いた。


「ここで喜六郎殿を殺せば、織田の一族を斬ってやったと浅井の民も溜飲が下がるだろうな。まあ市には嫌われるだろうがな」

「ああそうだな備前守。それに殺しては公方様による和睦を貶したことになる。そうすれば今度こそ被害の多寡を考えず姉上は押し寄せるだろうよ」

「・・・わかってますよ喜六郎義兄殿。冗談です」


 良かった、冗談だった。


「さてここから義兄殿には一人で帰ってもらいます。その馬は乗っていってくだされ」

「・・・」

「ただ道中の安全の保障は出来かねますので、ご了承を」

「・・・」

「・・・」

「・・・何か言ってくだされ。これでは先ほどまでと逆になってしまったではないですか」


 困ったような表情をしながら軽い調子で言ってくる。

 だがそれには取り合わず、ただ備前守のみを見つめた。


「市は無事です。誰にも文句は言わせておりません。勿論娘たちにも・・・。中には金ヶ崎の事を言ってくる者も居りましたが、皆には言い含めました。『市は我が妻である。けして離縁はせぬ』と」

「・・・それを聞けて良かったよ。俺としては市には安全に尾張へ帰ってきて欲しいがな」

「それは無理な話です。市も市で俺からは離れぬと言ってくれたのでね。喜六郎義兄殿や義姉上には悪いですがな」

「それは残念だ」


 まあそれだけ仲良くなっているのは良いことでもあるか。


「それともう俺は義姉上に頭を下げることはありません。どんな状況になろうと、俺か義姉上達か、どちらかの首が切れるまで止まりません」

「そうか。新九郎殿の意思で決めたのか?」

「そうです。初めは父上たちの暴走でしたが止められなかったのは当主たる俺の責。だから姉川での決戦以降は全て俺の意思での戦だ。それだけは誰にも否定されるわけにはいかない」

「・・・左様でしたか」

「左様だ」


 そして彼の顔を改めて見やると晴れ晴れとした表情であった。


「俺は戦国の世に生まれたのだ。姉上の下で徳川のように一家臣として過ごせば、それはそれで安泰な生を市と過ごせたのだろう。だが祖父より続くこの浅井の血はそれを許さなかった」


 気づけば新九郎殿は背を向けて馬に跨っていた。


「どうだ義兄殿。左衛門督様という訳ではないが浅井に来ないか?市もきっと喜ぶ」

「新九郎殿に浅井の血が流れているように、俺にも織田の血が流れております。姉上の傍でその行く先を見るという重要な役目なのです。・・・それに姉上を裏切って新九郎殿の所へ行っても市は喜ぶどころか怒るでしょうよ」


 かつて庄内川の川縁で死んだはずの俺が奇妙な因果で、異なる世界を今生きている。きっとそれには役目を齎されている筈なんだ。それが本当に正解かは分からない。だが、あの姉上を最後まで見届けなければならない、そう俺は考えている。


「ふふ、それもそうか。では達者でな義兄殿!次は戦場で」


 それだけを言うと俺の返答も聞かずに、浅井の軍勢へと消えて行ってしまった。

 かつて会話をした時と全く変わらぬその姿を見せながら――


 ※  ※


 公方が願った改元であったが、その名は改元初日から不孝を齎す元号であった。

 そしてそれはこれだけでなく、何度も続く不孝の始まりでしかなかった。


和睦を求めたのは信長の方みたいですねえ。

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