表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
58/93

志賀の陣

 宇佐山城の主将である森三左衛門可成を討ち取ったまでは良かった。しかし主将が不在であると高を括って攻め寄せた宇佐山城は士気も高く城将の下に兵が纏まっており、結局攻め落とすことが適わなかった。

 確かにこの城は要衝に築かれており重要な拠点である。だからといって何時までも固執していたずらに時間を浪費してしまっては、折角信長の留守の間隙を突き兵を挙げた意味がなくなってしまう。

 その為一部の抑えの兵を置いておき、本隊は山城へと侵入することとしたのであった。

 この頃には摂津の戦況も聞こえてきていた。どちらにも軍配は傾いていない状況ではあったが、間違いなく信長は窮地に立たされている。三好はともかく本願寺勢がいる今ならば、そう思っての進撃であった。

 だが想定以上に織田勢は無傷であった。想定以上に素早い退却であった。

 このまま戦っても勝てるかどうか分からない。つい先ごろの大合戦で我らは織田勢に敗北したばかりなのだ。その為、大胆な積極策は打たずに撤退することを決めた。つい数日前に我らに合力した比叡山延暦寺の下へ――


 ※  ※


 俺達が摂津から無事に退却できたことを知った浅井朝倉勢の動きは速かった。

 俺達が京へ辿り着いたころには荒らしまわっていた山科・醍醐の地からすでに引き上げており、彼らは叡山へと逃げ込み、俺達からの呼びかけに応えもせずに亀のように籠ってしまっていた。

 まずは逃げ出されないように山全体を包囲した後、決戦を促そうと挑発をするもやはり浅井朝倉勢からの反応は全くなかった。

 それどころか山中では宴が開かれているのか、笑い声や笛の音、果ては禁じられている筈の女人の声が木霊しているなど到底、宗門の為の山内であるとは考えられない状況であった。

 この態度にしびれを切らした姉上はついに延暦寺から僧を呼び出して話を付けることとした。


 やって来たのは十人ばかりの僧とその護衛としての僧兵であった。


「時間がないから早速話をさせてもらうわね。今浅井備前守と朝倉左衛門督一味を叡山に匿っているでしょう。彼らを追い出して欲しいの。勿論ただでやってもらおうとは思っていないわ、私に味方して彼らを追い出してくれたのならば、私の領内にある全ての延暦寺の寺領を返還する。悪くないでしょ?だからどうか私の願いを聞いてくれない?」


 そう言うと直ぐに刀の鍔を打ち鳴らし、けして違えぬことを誓った。

 その一連の様子を見ていた僧たちはそれぞれ顔を見合わせた後、代表して一人が返答をした。


「申し出はありがたいのですが、我らを頼りやって来た者を見捨てるは真に忍びなく。御仏も弱き者を救うために存在しておりますれば、その僧たる我ら叡山の者が見捨てては僧としての名折れとなりまする。故に朝倉様浅井様を追い出すことは出来ませぬ」


 何をいけしゃあしゃあと言うのか。彼らの言葉を聞いた織田の者は皆そう思っただろう。

 その返答を聞いた姉上はこう答えた。


「なら私に味方しろとまでは言わない。出家した者の道理でどちらかに肩入れ出来ないというのなら、せめて中立としていてくれないかしら?今の貴方方の態度はどう見ても浅井朝倉に味方しているようにしか見えない、言っていることとやっていることがちぐはぐだわ」

「そのようなことは御座いませぬ。もし山麓で織田殿と朝倉様浅井様方が戦となっていたならば私どもはその様子を見守りましょう。されど今、彼らは私どもを頼って参られたのです。これを見捨てることは、前も申しましたように出来かねます」

「何を戯けたことを――!とにかく浅井朝倉に味方せず、私たちの動きも邪魔せずに中立で居てくれさえ居ればいいの。難しいことではないはず」


 何度も何度も言い含めようと言葉を尽くした。

 それでも彼ら叡山の者達の態度は変わらなかった。


「お前達では返答が出来ないというのなら朱印状に書いてあげるわ。法主でも誰にでも見せて、この信長の道理の正しさを知りなさい」


 すると姉上は稲葉殿を呼び寄せると、これまでの内容を一言も漏れがないように書かせ、それを僧たちに渡すのであった。

 それを受け取った彼らは、ようやく面倒くさい話が終わった、と嘗め切った態度で退出していくのであった。

 その彼らの後ろ姿に対し姉上は最後に言い放った。


「もし浅井朝倉に味方して私たちの邪魔をするようであれば、こちらもお前らに対してそれ相応の報いを受けてもらわねばならなくなるわ」

「ほう、そうですか。例えば?」

「知れたこと。かつて普広院様や雪関―細川右京大夫が如き有様を三度再現するまでよ」


 その名前はかつての足利公方である足利義教、それと細川政元の二人であった。彼らは叡山と対立して最後にはどちらも焼き討ちを引き起こしたことのある人物であった。

 つまり姉上は、叡山の出方によっては自らが焼き払うという意思表明をしたことになる。


「・・・それは恐ろしいことですな。しかとお伝えさせていただきます」


 すると彼らは今度は本当に退出をして、叡山へと帰っていくのであった。

 そして彼らが完全に去ったのを見計らって姉上は言葉を発した。


「さて後は奴らが新九郎たちを追い出すのを待つだけね。その内公方からの援軍も来る手はずになっているし、皆には一度陣替えをしてもらうことになるわね」


 だが一同は困惑していた。


「姉上、先の話しなのですが・・・」

「どうしたの喜六郎。何かおかしかったかしら?」

「叡山が約束を違えた時の話です」


 叡山を焼いた二人の最期を思い出していた。

 足利公方も細川右京のどちらも最期は家臣により殺されている。もし姉上が本当に焼き討ちをしてしまったら彼らのようになってしまうのではないかと不安になってしまった。


「ああ、あれね。脅しに決まってるわよ。流石にあいつらもあそこまで言えば大人しく従ってくれると思ってね」

「そうでしたか、良かったです」

「それよりも数日中には決戦となるはずよ。それまではゆっくりとしていなさい」

「はい」


 ――だが、比叡山の連中が俺達との約束を守ることは無かった。


 一週間が過ぎ、二週間が過ぎ、姉上は何度も使いを送った。だが返答はなく、終いには使者が門前払いを食らい追い返されるようにもなっていた。

 夜ごとに一部の将が叡山の寺や山に火を放ち、停滞している状況を動かそうとした。


 比叡山越しでは埒が明かないと、菅屋長頼を使者として浅井朝倉に直接決戦を行えと言う旨の申し入れをした。けれどもやはり返答はなかった。


 この間にも周囲の状況が目まぐるしく変わっていた。


 俺達が摂津から退却した後、三好勢は当然息を吹き返した。野田城福島城の補強を行い防衛力を高めたばかりか、兵庫浦から四国の軍勢を上陸させると瓦林城や越水城が落城し三好方の手に落ちた。それだけでなく摂津河内の牢人を使い、各地で兵を上げさせた。幸い高槻や茨木、伊丹、若江に高屋など織田方の諸将は無闇に城を出ずに、堅固に守備を行っていた為彼らが京へと進出することまでは叶わなかった。

 そして南近江では何度目かの六角父子が兵を挙げた。こちらも幸いにも彼らに就く兵は少なくまともな城攻めができるほどの脅威ではなかった。


 そして一番の脅威になったのは本願寺であった。顕如は各地の門徒に一揆を起こさせていた。その中でも近江では交通路の遮断を目標に押し寄せてきた。


 小谷城と佐和山城の抑えであった木下藤吉郎、丹羽五郎左は、各城の防衛に十分な兵を置いたうえで、それぞれが兵を引き連れ農民である一揆勢を鎮圧して回った。

 そして彼らは主君三郎の危機に駆けつけようと志賀を目指し西進した。

 その途上、彼らの行く手を阻まんと一揆勢が箕作山や観音寺へと入り、ここで一戦が起きた。結局簡単に一揆勢は斬り捨てられたが、この騒動はただでさえ、敵に囲まれて余裕がなくなっている信長には好意的に見られなかった。


 ――すわ山岡が謀反であるか。


 瀬田へとやって来た丹羽木下の両人を、かつては六角の者であり上洛当時頑強に抵抗した山岡景隆が再度六角父子に就いて彼らを瀬田に引き入れたものだと勘違いしたのであった。

 急使を送ったことで勘違いが解け、二人の来援には長らく対陣し続けていただけの軍勢の意気が上がることとなった。


 だが喜ばしいことだけではなかった。長らく濃尾を留守にしている信長であった。それも未だに叡山に釘付けとなっている現状に、近江だけでなくもう一か所で門徒が牙を剥いた。

 長らく織田家と隣接しながら、織田家の刀が振るわれることなく、そこにあり続けた伊勢長島の蜂起である。

 これに北伊勢の国人の一部は同調し、桑名に詰めていた滝川左近は城から出ることができなかった。

 そして尾張にも、ついに本願寺の一揆勢が押し寄せた。

 尾張海西郡は小木江城に信長の信頼厚い弟、彦七郎信興が詰めていた。喜六郎秀孝のすぐ上の兄である彼は、押し寄せる一揆勢に対し彼は良く戦った。そこまで大きい城砦でない中、六日にも渡る孤立無援の状況で奮戦した。時には城に籠り、ある時には城外に出て自ら一揆勢の首を取っていた。

 しかしついに刀折れ、矢が尽き弾薬も枯れてしまった。

 もう間もなく城門も突破されてしまうことは間違いなかった。


「もはやこれまでである。されど奴らに三郎姉上が肉親である俺の首を渡すことは出来ぬ。奴らの手に掛かり討たれては、城を守り通せないことよりも無念である」


 そういうと彼は自ら首を斬り、自害し果てた。

 これまで付き従った彦七郎の家来八十人全員が攻防の中で倒れ、あるいは主君の後を追い腹を斬り、一人でも憎き一揆勢を黄泉へと連れて行かんと、刀を手に軍勢の下へと消えていった――。


 ※


 俺と姉上の下に喜蔵兄上からその報告が来たのは、彦七郎兄上が死んですぐの事であった。

 これまで無かった突然の報告に首をかしげながらも読み進めていると、小木江城での惨事が記されていた。


「九郎に続いて彦七郎も・・・」


 姉上は悲しみよりも怒りに塗れていた。

 これまで何か苛立ったことがあれば大小問わずそれを外に向けて発散していたのが常であった。

 しかし、今はそれを一切漏らさずに内に閉じ込めてしまっていた。

 だがそれはけして消えることのないことを意味していた。獲物を見定めた蛇のように――


「誰かある!」

「はいっ!」


 人を呼ぶと、現状を打破するために動き始めた。

 それは、織田家の敗北を意味していた。


 初めに六角父子との和睦を行った。双方はこの一連の戦の前の状況にまで戻る形となった。だがこれまで六角父子を支援していた三上、三雲氏は六角父子から離れて織田家へ臣従をすることとなった。


 次いで堅田衆の一部に内通者が出た。

 早く堅田に防衛陣を構築しようと、話を持ってきた坂井右近将監らに部隊を向かわせた。だがこの動きは朝倉方も知るところとなった。ここが織田の手に渡っては、朝倉の越前への撤退路が塞がれてしまう。その判断は早く前波景定らを送り込み戦闘となった。

 坂井右近らは凄まじい槍さばきを見せた。朝倉勢の大将前波景定を筆頭に堀某や朝倉左衛門督の祐筆で知られる中村木工丞ら多くの者を討ち取る、まさに一騎当千が如き槍働きであった。

 しかし衆寡敵せず、朝倉の多勢に次第に兵は討たれていき、坂井右近将監政尚も終ぞ討たれてしまった。

 結局堅田への進駐は出来ずに終わるのであった。


 夏の終わりから始まったこの戦も、気づけば冬へと移り変わっていた。


 ※  ※


「左衛門督が公方に泣きついたわ」


 先程まで読んでいた書状を投げ捨てると、こちらへ向けて言い放ってきた。

 その書状を佐久間殿が拾い読み終えると、次に柴田殿が受け取り読み始め、同じように次の者へと渡していく。


「では和睦ですか?」

「そうよ」


 すでに北国街道は雪が降っており、遠くないうちに雪に閉ざされることになるのだろう。

 その為朝倉は完全に遮断される前に越前へと帰りたい、と言うことらしい。

 そして朝倉に帰られては、織田が六角と和睦をしている今、冬の間浅井一人が完全に矢面に立たされてしまう。だから和睦を公方様の斡旋という名目で行いたいのだそうだ。


「でもここまで虚仮にされて公方の書状一つで和睦は出来ないわ。奴らのせいでどれだけ私の家臣が死んだっていうのよ」


 その言葉に思い返される、一連の戦で討死した者達。

 森三左殿に坂井右近殿、彼らは嫡男共々朝倉によって死んでしまった。そして兄弟である九郎兄上に彦七郎兄上、掛け替えのない人たちが多く居なくなってしまった。

 そして今この時においても各地で織田に反旗を翻した者が、好き勝手に蠢いている。


「私は決戦を望む。どれだけ音を上げようとも、こんなところで和睦は出来ないわ」


 姉上の心中では怒りの炎が燻っている。それを残したままの和睦など出来ようもないし、姉上自身が許せないのだ。


「――だがそこを曲げて和睦を呑んでくれぬか弾正忠?」


 しかしそこに横やりを挟む者が現れた。突如の声に訝しんでしまったが、現れたのは斡旋している本人である公方様自身であった。


「公方様、何故報せもなくこちらへ?」

「そう睨むな弾正忠。お主を思ってやって来たのだよ」

「そうでありましたか。されどいつまた戦場となるか分かりませぬ。公方様には京にて都を守っていただかねばなりませぬ」

「それもそうではあるが、奴らは弾正忠がここにいる限り下りて来ぬよ。夏に手痛い目に会うておるでの」


 ホッホッホ、と公方の笑い声が木霊した。


「まあ公方の立場としていつまでも王城鎮護の叡山で争われては行かぬでな。公家の者共も安心して眠れぬと毎日のように我の下へ来よるわ。少々煩わしさを感じておっての・・・これを治める方法があるというのに実践せぬのも、阿呆やと思っての」

「されど元々は公方様による朝倉征伐です。それが今の事態を招いておりますれば」

「ほう、なれば我が和睦しろと言えば和睦するべきではないか?」

「それはそうですが、ここまで来たら我らは武士として退くことなど到底出来ませぬ。信頼置ける家臣を討たれ、そのくせ兵には放火を命じるばかりで直接戦おうという気概の無い連中に背を向けては、これまで築き上げた織田の武名は地に落ちてしまいます」

「その原因は弾正忠ではないか?浅井備前守を申していたのであろう?朝倉へ兵を差し向けるな、と。その話をせずに軍を動かしては、それは寝返っても仕方のないことではないか。お主が説明しておけばこのようなことには――」

「一度退出願います!未だ軍議最中でした故、関係のない話は彼らが下がってからお願いしまする!」

「・・・ホッ、そうか。そうであるか。では弾正忠の言葉に従おう」


 すると公方様は本当に陣幕から出て行った。それを見送ると姉上は長く息を吐いた。


「こうなっては和睦となる。けど成立するまでは気を抜かないようにしてちょうだい」


 それだけを言い、俺達を陣へと帰すと入れ替わりで再度公方様との話が始まったのであった。

 そしてその言葉通り、俺達は朝倉勢と和睦をすることとなる。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ