金ヶ崎の退き口
夜が明ける前に俺は姉上が滞在する金ヶ崎城へ到着した。
恐らく小谷城から出立した使者は怪しまれないように徒歩での報せで敦賀を目指せと指示されたらしい。そうならば俺が一刻も早くこの報告を届けないといけない。
危険も承知で俺は夜の山を馬で掛け続けた。一人で向かったために来た時よりも格段に速く着くことが出来た。
「急ぎの報告がある。姉上はどこだ」
最初は寝ているからと小姓たちが押しとどめてきた。だがいつもと違うことを察したのだろう、すぐに案内をすると部屋の前まで通してくれた。
「・・・なによ喜六郎。陣中での夜這いは感心しないわよ」
一足先に向かった者が先に起こしてくれていたのだろう。寝ているところを起こされたから少々不機嫌ではあるが意識は覚醒しているようだ。
「冗談はよしてくれ姉上。・・・それより、至急の報告です」
「至急?京で何かあったの?」
「いや京じゃなく北近江にて。浅井備前守が朝倉に合力した」
その言葉に姉上は信じられないことを聞いた、というような顔をして固まる。
「備前守は昨日の夕刻時点で兵を集めきれてなかったようだが時間がない。このまま敦賀に居たら俺達は挟まれて全滅してしまう。早く皆を集め――」
「なっ、何を戯けたこと言っているの!新九郎が歯向かうわけないじゃない!彼は市の、私の妹婿なのよ?縁戚でもない朝倉と・・・、朝敵な朝倉なんかよりも私たちに付くに決まってるじゃない!」
「本当のことです。市より密書が届きました」
「――っ貸しなさい!」
俺の手より書状を掴み取ると勢いよく文字を読み進める。
俺がそうしたように何度も何度も、書いてある内容を否定したい為に・・・。
どれだけの時間そうしていただろうか。姉上は手にしていた書状を床に落とし立ち尽くしてしまう。
この現実を理解したくないのだろう。
譫言のように「嘘だ」と口ずさむ。
「菊千代。急いで諸将を集めてくれ。竹は使いをやり急ぎ十兵衛殿と三河殿に敦賀へ退くように伝えてくれ」
「「か、畏まりました!」」
※ ※
日が昇り始めたころ、広間に織田の将が集った。
皆一様に早朝からの呼び出しと疋田に向かったはずの俺が居ることに不思議そうな顔をしていた。
そして姉上に知らせた後、この織田の陣に次々と近江の市や藤掛殿からの使者が書状を携えやって来た。
それを姉上が知ると、ひったくるように掴み取り何度も目を通した。
「先ほど市より使いの者がやってきた・・・」
姉上の言葉に嬉しそうに顔をやる者が何人もいた。
「おお、お市様からの陣中見舞い!」
「いやいや、備前守が参陣しておらぬゆえ、その詫びではないか?」
「やっぱ嫁がれてもお市様は織田の姫だ!」
「それで、お市様は何と・・・?」
皆本当にうれしそうな顔をしている。
だがこの話は彼らの気持ちを叩き潰す内容だ。
「新九郎が兵を起こしたわ・・・。私たちに向けて」
「えっ」
やはり彼らも理解ができないといった表情をする。
あるものは戸惑い、あるもは冗談を一っているのだと考え、あるものは俺に否定をしてほしいと顔を向けてくる。
それに対して俺はただ黙って首を横に振ることしかできない。
「私だって冗談と言いたいの!でもこれは本当のことなの・・・!」
姉上は懐から書状とある物を取り出す。それは何人目かの使者より手渡された、市からの報せであった。
「中には小豆が入ってたわ。両口を閉じられてね」
それの意味することは、つまり――
「私たちは今、袋の鼠ってわけよ。市が冗談でこんなことするはずない。浅井の軍勢が整ってない今の内に撤退する!」
場を絶望が支配する。
「た、退却戦、となりますな」
「しかし誰が?」
「それに先発している明智殿や三河殿は?」
諸将は皆浮足立ってしまった。あれやこれや意見を飛ばす、されどその決着はつかない。
そんな中一人声を上げた者がいた。
「殿。おりゃあが殿を務めます。必ずや織田の皆様を無事に京へと戻しゃぁす。ですんで御下知を!」
「猿・・・」
「おりゃあは『木綿藤吉郎』だぎゃあ。朝倉の連中くりゃあ、難なく包んで追い返したりゃあす。丈夫だけがおりゃあの取り柄なんで、殿は気軽に申し付けてくだせえ、いつもみたゃぁく、何てことないことみたゃぁいに」
藤吉郎殿は傍目にも分かるくらいの空元気で姉上に言った。
「おりゃあはこんなとこでは死なんだぎゃあ。殿が天下人となるまで、嫌がられたって着いて行くんだぎゃ」
いつもなら彼に苦言を呈すはずの柴田殿も佐久間殿も、彼と仲の良い又左殿でさえも何も言えなかった。
「ほらぁ、殿軍は先陣と並んで戦の華だぎゃ!何と言われようが今回はおりゃあ譲らんがね」
「――分かったわ、猿お前に殿軍を任せる。十兵衛や三河は必ず生きて帰せ。その為ならお前はここで死ね。もし二人が死んでお前だけが戻っても死んでもらうわ」
「承知しておりますだぎゃ」
「よし!皆も急ぎ退却の支度を整えよ!気取られず速やかに動け!」
「「承知ィっ!」」
その声に弾かれるように、各々が広間を飛び出し自軍の下へと駆け出した。
残された者は馬廻りなどの一部の者だけで、清州衆が疋田城から撤退中のはずである俺は手持無沙汰にこの場に残るしかなかった。
「悪いけど織田が生き残る為、私と松永弾正は先に行かせてもらう。撤退の詳細は残った者で詰めておきなさい」
「かしこまりました姉上」
それだけを最後に告げ、隠れるように馬を駆けて行った。
その姿を俺は見送っていると疋田城に残していた清州衆が戻ってきた。
「無事だったか奥山!遅かったな!」
「ええなんとか」
「それで、浅井は・・・?」
「はい送り込んだ全員が戻ってきたわけではないですが物見によると、やはりまだ浅井は兵が集まりきってない状況でした。旗指物も少なく浅井の大将旗は上がってなかったようです。ですがすでに集まった将の連中が血気に逸ってる様子だったとのこと」
「そうか、なら一先ずは安心、か?」
「まだ何とも言えませんが。まだ見張らせておりますので動きがあれば報せが来るでしょう」
「分かった。その時はすぐに知らせてくれ」
「はい!それと・・・」
「まだ何かあるのか?」
「万が一に備え疋田から敦賀にでるまでの街道に何か所か柵を作っておきました。疋田城の屋敷を壊して組み立てた急造なので簡単に取り外しできますが、まあ嫌がらせにはなります」
と彼は笑みを浮かべて行った。
「でかした!」
俺もつられて笑みを浮かべてしまった。
そして彼の報告を聞くと、ここであった出来事を伝えた。
「――というわけで暫く休んでてくれ。早朝から動いたんだ。撤退時に疲れて満足に動けない何てことは無いように頼む」
当然彼も承知していることだ。抜かりはなく休息は取らせている、それでいていつでも動けるよう準備を怠らない。
※ ※
敦賀における最後の軍議が始まった。
すでに姉上が退却をしていることを皆承知している。
「皆々様、すでにご存じのことかと存じますが殿は松永殿ら主だった方と共にすでに京へと退散いたした。ついては、その後を我らも明日の朝より順次追いかける算段にて、手抜かりはありませんな」
三左殿の仕切りにより始まった。
諸将の目には怒りが込められ、ともすれば攻め戦の雰囲気がこの場に渦巻いていた。
そして三左殿は諸将の顔を見回すと、「現状の確認をする」と呟いた。
「木ノ芽峠に進発していた、明智様および徳川様は後退に見せかけて退き、無事に退却を行っているとのこと。そしてどうも物見によると到着時点ではまだ府中に援軍すら来てなかったらしい。これは我らにとって追い風である」
「つまり朝倉の援軍は我らの退却に気づいたとしても、首を取ろうとするならほとんど休まずに攻めて来なければならんということだな?」
「左様。殿軍に負担があるのは変わり無いが疲労の面で言えば我らの方が少ないだろう」
三左殿は藤吉郎殿の顔を見ながら言った。
「では浅井の動きはどうだ?まだ特に動いたとは聞いておらぬが」
佐久間殿が言うと、三左殿は俺へと目を向ける。
「今日の昼時点での状況となりますが、一部の将兵が集まっただけのようで仮にこちらへ向かってくるとしても明日以降の、攻め込むとなれば二日後が妥当かと」
「それも重畳。だがあやつらの進軍先は確認せねばなるまい。この敦賀に来るのならまだ良いが美濃へ攻め込むとなればワシらがここに居る今、大変なこととなる。可能性としては低いが留意せねばならんな」
「はい。それと気休め程度になりますが、我が家臣が疋田城より金ヶ崎へ退却する際に、簡易な物となりますが柵で何か所かの道を防いできたとのこと」
「そりゃあ助かったがね、その分なら意識を朝倉に割けるでよ」
俺の発言に藤吉郎殿は声を出し安堵した。
誰も彼もすでに意識が張り詰めている。
「それで我らの退却先となる三方の地はどうだ?我らに降伏したとは言え武藤上野介は朝倉方の将。いくら人質を取ったとはいえ、こちらに立ちふさがる可能性もあるが」
次いで柴田殿が疑問の声を上げた。
「今はまだ報告は入っておらん。だがそのままにしておくわけにはいかん」
「ではいかがするんだ?」
「五郎左と右近将監殿には先行して武藤の下へ向かってもらう。身柄を押さえその城を破却しておいてくれ」
大方の現状確認が終わる。そしてその後は誰がどの順番で退却していくのか、殿軍はいつ頃退却を開始するべきかと話しが進む。
だが俺はその会話には加わらず行く末を見守っていた。
「喜六郎殿の退却ですが――」
「考えたのですが疋田城方面にも抑えが居た方が良いかと」
俺の声に地図を見ていた者、自分の退却の番を確認する者。ここに集まっている将からの視線を浴びた。
そして三左殿は驚いたように問いかけてきた。
「いきなりどうされた」
「いえ、浅井の到着は恐らく我らがこの敦賀を去った後になると思います。ですが警戒するに越したことは無い」
「それはその通りだ」
「これを殿軍である藤吉郎殿が行っては兵の分散を招き、直近の問題である朝倉に対抗する手立てが減ってしまう。ならばその役目を任せていただきたい」
皆、肯定も否定も何も言い出さなかった。
そんな中藤吉郎殿が進み出てきた。
「そりゃあおりゃあとしても有り難いことでよぉ。でも喜六郎様がやらにゃあでも・・・」
「いやこれは俺がやるべきだ。この中で直接疋田城からの道を通ったことがあるのは俺だけだ。直接ぶつかる可能性は低いんだ。これと相対する覚悟を見せずに京へは戻れん。・・・それに攻めてくる備前守は妹婿でもあるからな、けじめをつけないとならん」
三左殿を始め、多くの将が俺を説得してきた。だが俺に心変わりはないとみるや説得を諦め、各々の準備に取り掛かり始めた。
疋田城方面を任された、と言うことなのだろう。
そしてすべてが決まった。
「ではこの後すぐに五郎左と坂井殿は若狭へ向かってくだされ。そして翌朝から順にこの敦賀より退却し、その後喜六郎殿、最後に殿軍の藤吉郎。この順を違えず退却せよ。気合を入れよ、織田にとっての分かれ道ぞ!」
「「「応!!」」」
その声は力強く、殿軍に勇気を与えるモノであった。
陣を出ると各将兵は最後の仕上げに掛った。
五郎左殿達はすぐさま若狭へ向かう為に、藤吉郎殿達殿軍は周囲の地形を間隙なく調べる為に、多くの将兵は明日の早朝からの退却の為に、そして俺は新九郎殿に備える為に――。
疋田城方面への殿軍――とはいってもほぼほぼ戦闘は無いだろう――となったことを伝えた。
勝手に殿軍になったことを怒られるかと思ったが、そんなことは無かった。
奥山は薄々そうなるのではないかと予想していたようで、玄蕃は攻め戦でないことを残念がったが「槍が振るえる可能性があるだけ御の字だ」と言い、三之丞は誰かがやらなきゃいけないことをやることになったのが俺なのだと納得して、それぞれが意気込んでいる。
兵卒にもこのことを伝えると「だったらもちっとゆっくり戻ってきて良かったじゃねぇか」「柵を丈夫に作っときゃあ良かった」などと、想像とは違った文句をぶつけられてしまった。
そんな彼らの様子を見ると、何処か気張っていた物が解れた気がするのであった。




