稲生の戦い
三郎姉上より那古野城を任され時が過ぎた。自分の統治についてまあ問題ないと思っている。
しかし兄信勝の動きが不穏であった。
当初は那古野城主となったばかりで、まだ未熟な俺を心配して気にかけてくれていたと思っていたのだが、どうにも様子がおかしかった。
俺との話はそこそこに政務の補佐としてつけられた林秀貞の屋敷に向かっていくのであった。
俺の政務能力について言っていなかったか気になり、兄が帰ってからそれとなく何の話をしていたのかと尋ねてみるもどうにもはぐらかされてしまう。
そう疑念を抱き始めた矢先、勘十郎兄上が織田家当主の名乗りである弾正忠を僭称し始めたのである。
この行状には流石におかしいと思い、何度も信勝本人やその家老である柴田や林に諫めてもらうように伝えてみたが皆一様に『弾正忠当主たる器はうつけの信長ではなく信勝にある』などと言い相手にしなかった。それどころか俺に対しても弾正忠と呼ぶようにと言ってきた。
流石に自身の手に負えない為、姉である信長の下へと報告しに行ったところ、彼らは隠れて動いていたわけでなく大っぴらに行動しているようで領内中に話が広がっているとのことであった。
しかも弾正忠を名乗るだけでなく、姉の直轄領の横領、当主として領内中に書状を発行し、各地で混乱が起き始めているとのことだった。
そうして久々に会った姉の顔は疲労に塗れていた。
「報告大儀である。追って沙汰を出すからこれまで通りに那古野を頼んだわ」
悲しみのこもった声で言われ、それ以上何も言えず俺は那古野に戻るのであった。
―――さらに季節は過ぎていった。
その間も変わらず信勝兄上は那古野に訪れ一言二言俺と会話を交わすと、すぐに林らの屋敷に向かっていた。
この頃には二人だけでなく秀貞の弟・美作守通具や守山の角田など集まる顔ぶれが増えていた。
大きく弾正忠家が動く気配が漂っていた。
夏に入り姉より佐久間盛重と共同して名塚に砦の建築を命じられた。この地は那古野城の北に位置し、姉の居る清州城との中間に位置していた。
「思ったより早く砦が完成した。初めて自分で建築した身からするとどのくらい耐えられるか一度見てみたい気もするがその場合どう考えても信勝兄上が謀反を起こすしかありえないよなあ」
俺のつぶやきを聞いた周りの連中も苦笑いをするしかなかった。
だがこの一言が余計だった。遠くから数騎駆けつけてきた。
「・・・あれは確か那古野で留守を任せてきた稲生――」
「織田信勝様謀反!これに同調し林秀貞、通具兄弟も那古野にて挙兵しました!!」
あまりにも早すぎる砦の出番であった。
突如の謀反とは言え清州から那古野は目と鼻の先ほどの近さである。昨今の信勝兄上の動きからある程度城に兵を留めておいたのであろうか、謀反の報せからほどなく姉の信長が手勢を引き連れてやってきた。
「砦の建設ようやった、盛重、秀孝。造って早々ではあるがここを基点に信勝を迎え撃つ。ゆえにしばし兵を休ませておけ。特に秀孝、お前はこの戦が初陣となる。気張るなとは言わんが気を張りすぎぬようにしておけ。そして盛重、この愚弟の面倒を見てやってくれ」
「「は!!」」
姉は俺たちに声をかけるのもそこそこに、足早に駆けつけてきた将兵たちに指示を出すため立ち去って行く。そして言われた言葉を反芻する。
――そうか、これが初陣となるのか。
日が明けたころには信勝側の将兵も押し寄せてきた。こちらの数はおよそ七百ほどに対し信勝側は那古野、守山などの兵も糾合しこちらの倍以上にもなった。砦の北、西には於多井川、東からは柴田勢、南からは信勝、林勢が押し寄せていた。逃げ場はなく、数的にも圧倒的に不利である。加えて向こうには尾張きっての戦上手で知られる柴田勝家も居る。どうあっても劣勢を避けられない。
「三郎が将兵よ聞け!今この尾張は北に斎藤、南に今川という巨頭にはさまれている!その情勢の中、うつけの三郎では尾張を守りきることなど不可能!だから今、この俺が兵を挙げ尾張を、お前らを守るため弾正忠当主となるのだ!このようなことで国を割るのは愚か者がすることだ。今降伏するというのであれば処罰はせぬ。昼まで待ってやる。この国を守ろうと思うものは今すぐこちらに着くのだ!!」
戦は信勝の口上から始まった。
降伏を待つとの宣言通り向こうは動く気配を見せない、この機を逃さないように攻めかかるべきか。
――そう迷い俺の元につけられた盛重を見やるとまだその時でないと否定の意を見せた。
じれったさはあったが初陣の俺よりも戦の機微を知るものであるため、その指示に従う。
両者は膠着していた。
太陽が真上に至ったころついに動きがあった。
佐々孫介らを筆頭に柴田勢に攻めかかったのである。初めは勢いもあり柴田勢を押し込んではいたが戦上手で知られた柴田である、数の差を生かし巧みに攻撃をいなすと自ら前に立ち孫介を討ち取り、信長勢を押し返し始めた。
このころには南の信勝本隊も押し寄せ秀孝勢も猛攻にさらされ始めた。
初めは緩やかに、しかしすぐに休める暇もないほどの攻撃であった。
敵将の首を取る!など意気込んでいた気持ちなどあっという間に消し飛んでいた。周りを見る余裕もない。次々繰り出される槍を避けて、受けて、突き出して――この繰り返しで精一杯であった。
気づいたときには北側(すなわち信長のいる本陣である)が騒がしくなり始めた。いつの間にか柴田勢が信長本隊と交戦し始めていたのである。信長の周りに控えていた者たちも多くが傷を負うか討ち取られていた。
「このっ大戯けどもが!!身内でのいさかいがなんとなる!このような阿保の戦はそれこそ今川斎藤に利するのみよ!!そもそも柴田は家老として信勝を諫める立場であろう!それをせず同調しあまつさえ当主を討とうとは稀代の大戯けぞ!恥ずかしいと思う気持ちがあるならば兵を退き屋敷に籠ってなさい!!」
負けてしまうのか――心がその不安で押しつぶされそうになった時、戦場に怒声が響き渡った。
信長の声に柴田勢の動きが止まると、これを好機と信長自ら槍を取り敵将を討ち取った。これと同時に柴田の突撃にやられた将兵も態勢を立て直し、反攻に転じたのであった。
家中で戦上手と知られた柴田であっても、逃亡する兵卒にその威光は届かず雪崩打ったように隊列が崩れていく。
ここに至り鬼神と見間違うばかりの当主信長の槍働きにて多くの将を討ち取られた柴田勢は部隊としての体裁を保てず、ついには逃走を始めるのであった。
信長は逃げる柴田を一瞥すると、南の林勢へと馬首を向けた。
先ほどまで敵将と組み合っていた盛重より声を掛けられる。
「秀孝様、殿が柴田勢を追い払ったことで林勢が浮足立っております。攻め時はここにおいて他にないかと」
「ああ、分かった」
彼はそう言い残し前線へ出ていった。
「皆の者、我が姉信長の威に付し柴田は逃げていった。この戦は勝ち戦だ!次は我ら那古野衆が裏切り者の林を討つ番である!──すわ、かかれぇい!!」
オウッ!という野太い声を出し兵卒が駆け出して行った。
先ほどまでの弱腰とは打って変わり、敗者を追う貪欲な目に変わった兵たちに少し苦笑しながらも自らが初陣を飾るため走り出すのであった。
柴田勢が退き士気が下がったといえども、林、信勝本隊は未だ健在であった。しかし敗走した一部の柴田勢が合流したことで混乱が起こり隊列を崩すなど綻びが見え始めた。
兵たちは勝利に貪欲であった。信長自らの突撃、あるいは秀孝の鼓舞に押され、見つけた隙に容赦なく食らいつく。立ち向かう兵には押し倒し首を取り、背を見せ逃げる兵には背後から容赦なく切り伏せる。
「林美作守通具、この三郎が討ち取ったりッ!」
乱戦の中で声が上がった。
──勝敗は決した。
弟を討ち取られた林秀貞は撤退を開始した。こうなっては信勝も戦を続けることは不可能でわずかな供回りを引き連れ末森へと逃げていったのである。
気づいた時には辺りは味方以外動く人はなく、足元には無数の人であったモノが横たわっていた。
すでに日も傾きはじめ、これ以上の追撃は無用と全軍に撤退の下知が下された。
稲生での戦が終了したのであった。