桶狭間の戦い
今川方に寝返った鳴海城と大高城。この二城の支配権について織田家の防衛にとって頭の痛い問題であった。
この二城は那古野を窺うだけでなく知多の水野氏との連携を難しいものにしていた。
そればかりでなく織田家の要である、津島熱田による海運から得られる収益を邪魔されてしまうことになるものだった。
そのため鳴海城と大高城に対して、容易に支配されぬように砦を築き三河方面への連絡と、この二城での連携を妨害していた。
また、この頃には笠寺の地を取り返し鳴海城、大高城へ圧迫を強めていた。
米がなければやせ衰えていく。散発的に刈田は行っていたが大規模なものではなくいやがらせ程度の物であった。
しかし今川治部大輔を引きずり出せねばならぬ。今川との小競り合いも決着させねばならぬ。
その為大規模な刈田を行い、兵糧の締め上げを謀った。
この頃各砦の守城の顔触れが変わった。
鳴海城を囲む丹下砦に水野忠光。中嶋砦に梶川高秀。善照寺砦には家老の佐久間信盛、信辰兄弟。
大高城を囲む鷲津砦には一門の織田秀敏や飯尾定宗。丸根砦には重臣の佐久間盛重が入っていた。
雌雄を決する時だ、織田家中の誰もが思った。
果たして策は為った。
今川治部大輔、二万を超える軍勢を率い尾張へ進軍の報が届く。
ただでさえ大軍である。しかし彼らは駿河を発ち遠江、三河で兵を糾合し、この尾張に着くころにはさらに数は膨れ上がるだろう。
対して織田方はどうだ。万の兵を集めるのも厳しいのでないか。
果たして野戦か籠城か。
この先の進退を聞くため皆、織田上総介の下に集まった。
喧々囂々
集まった者達も浮足立っていた。
その家臣の姿を見た彼女は何を命じるでもなく、平静通りに過ごす。
「殿、我らはこの今川の脅威に対しどのようにするべきか、存念をお聞かせくだされ」
声が上がる。
「そうね、打って出てみるのも悪くないわね」
「しかしそれは犬死するようなものですぞ。悲しいことに町人の中には家財を纏め隣国に逃げている始末。常より兵が集まりません」
「ここは籠城が上策かと。尾張勢の精強さを見せつけた後に治部大輔に降伏すれば三河衆のように重用されるはずです」
「フン、そんなこと考えたって仕方ないわ。もう私の身の行方は天に任せたの。アナタ達も自分たちの好きになさい」
彼女はそう言い残すと退出する。
「ああ、こうなっては我が織田家も終わりだ。皆籠城よ!城に籠り然る後に降るしかないわ!」
その様子を見た家老たちは嘆いた後、残った将に籠城を説いて自らの居城へと戻っていった。
残されたのは、主織田信長の勝利を疑っていない者だけであった。
今川治部大輔との決戦を見据え彼を引きずり出すことを考えた信長は、これの幾日も前から慎重に策を張り巡らせていた。
敵は気づいているだろうか。
不安はない、とは言い切ることができない。
目を向ける先は、長らく織田と今川の係争地である大高城。城将は治部大輔の妹婿である鵜殿長照。治部大輔が身内の籠もる城を見捨てることはないだろう。
出来ることは全部行った。後はこの尾張という餌に今川という大魚がかかるのを待つだけだ。
信長は勿論のこと砦の大将達は静かにその時を待っていた。
その餌に針が掛ったのは雨が降り注ぐ時期であった。
駿府の治部大輔本隊と別れた松平元康と朝比奈泰朝が攻め寄せてきた。狙いは大高城であった。
この急襲を受け丸根、鷲津の両砦は清州へ人を走らせる。
信長の言葉通り激戦であった。
丸根砦に三河衆を率いる松平次郎三郎元康が、丹下砦には今川重臣の朝比奈左京亮泰朝がそれぞれ攻め寄せた。
寄せ手である今川勢の攻撃は苛烈であった。
夜明け前から始まった攻防は夜が明けて間もなく決した。
盛重の守る丸根砦は城兵の尽くが三河勢により討ち果たされ制圧される。そこには大学介盛重の骸もあった。
丹下砦においても僅かばかりの兵が逃げ延びただけで、一門である飯尾近江守定宗を筆頭に多くの兵が討たれたのであった。
※ ※
「朝比奈殿、松平殿、兵糧の手配感謝いたす。この大高にはもはや食べる物も尽き、僅かばかりの草木で飢えを凌ぐしかなく、ここで飢え死にする所であった」
「「ははっ」」
「今日は朝からの戦で兵も疲れておろう。けしていい場所とは言えぬが今日はここで休まれるがよい」
「鵜殿殿、お言葉はとてもありがたきもの為れどこの朝比奈、これより御屋形様の下に戻り織田との戦をせねばなりませぬゆえ少ししたらここを発たせていただきます」
「左様か朝比奈殿。では励んでくだされ」
と朝比奈は退出していった。
「・・・されば松平殿はここでゆっくりと腰を落ち着けられよ」
「鵜殿様の申し出、大層ありがたきことなれど我らも御屋形様の下へ戻り織田上総介を討ちとうございますゆえ」
「ほほう、その心意気やよし。きっと御屋形様もお喜びになるであろう。されど貴殿ら三河衆は長いこと戦っているであろう?だからこの私が直接御屋形様に感謝を伝えておいてやろう。うむそうだそれが良い」
「なっ、鵜殿様お気遣いは不要でございます。鵜殿様こそ兵を休ませるべきかと――」
「くどいぞ小娘。お主には感謝しておるがあまり功を上げられてはワシの面目が立たぬ。ここは先達に少しは譲らぬか!」
「むっ」
「どうせ三河衆だけでなく御屋形様より駿河の兵を預かっておろう。ワシが代わりに率いてくれるわ。お主は三河の家臣とこの城を守っておれ!」
押し切られる形となったが元康はこの大高城の守備に就くことになる。
松平元康は二度と今川治部大輔と会うことはなかった。




