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プロローグ

一話改定。二話以降未定

 尾張清州に勢力を築いた織田大和守家に仕える奉行家の一つである織田弾正忠家の子として生まれた自身は、幼いころから一通りの物事を出来るように学べと亡父の意思に従い日々を過ごしていた。しかし夏の下がりいまだ蒸し暑く、書を読むには不適当な時分であった。朝から鍛錬に励み、一休憩を入れてから勉学に励む。すでに元服を終え、一人の男として兄であり当主でもある三郎兄上を支えることを誓った自身にとって、この繰り返しの日々に飽きが来てしまうことは仕様のない事であろう。

 その上、うつけと悪名高く家中から軽んじられている兄であるが、先年共に今川に対抗する盟友である緒川の水野殿を救うために自ら先陣を切って今川の手先を追い払うという大業を成し遂げた。この出来事に大人達は運が良かっただけだと変わらず嘲り続け、守護代織田大和守信友から尾張における要衝の清洲城を奪い取ってもなお、評判の高い勘十郎兄上に摺り寄っていた。その勘十郎兄上も家臣のみならず実の母からも、『三郎より期待している、勘十郎こそが家督を継ぐべきだ』と目を駆けられ、自身が弾正忠家の家督を継ぐべきだと兄に憚らず豪語していた。その為に益々周りの者が当主を侮り、その弟を持て囃していた。

 勘十郎兄上自身、三郎兄上が嫌いというわけではないのが質の悪い所であった。あくまで当主としては勘十郎兄上自身が相応しいと思い、当主の座には自分が座り、当主を降りた三郎兄上には仏門に入り兄弟皆で仲良くしていこう、弾正忠家を盛り立てていこうと言う気持ちを持っていたのだ。そして三郎兄上自身も兄弟愛が深く、自身の立ち位置と弾正忠家を危うくしている弟のことを持て余していた。兄弟の心を知らぬは家臣ばかりであった。

 ――今は家中で揉めている場合じゃないのに・・・

 思わず眉を顰めてしまう。美濃の斎藤とは婚姻を結んでいるが妹の市が帰蝶殿から聞いた話では、次代の斎藤家当主の義龍は兄のことを、そして父の道三殿のことを嫌っているらしく、そうなっては我が弾正忠家は昔の状況へと戻ってしまう。それではここまで父と三郎兄上が築いて来た事は無に帰してしまう。その為に俺は一日でも早く初陣を果たして家の為、兄上の為に役立ちたいと思っている。それが例え一兵卒だとしても、他家の養子として仕えることとなってしても。

 と思ってはいる、が・・・どうしてもやることが身に入らないときは誰にだってある。特に昨今の家中の雰囲気を間近で浴びてしまうと殊更である。


「このまま一人で部屋に籠っても気が滅入るだけだな」


 気晴らしとして馬を走らせよう。最近は刀を振るばかりで騎乗もしていなかったから丁度良いころ合いかもしれない。

 そうと決めた俺は今の恰好では遠乗りに合わないからと直ぐに着替え、愛馬が繋がれている厩へと向かった。そこには馬の世話をする爺さんが一人居るだけであった。彼は昔から弾正忠家に奉公し、馬の世話をし続けてくれた者である。


「おんやあ、喜六郎様じゃねえですか。どこかに行かれるんですか?」

「ああちょっと気晴らしにな。それにこいつにも暫く乗ってやってなかったから機嫌を取ろうと考えてな」

「そうですか、それはこの子も喜びますな。・・・ってお一人ですかい?」

「ん?ああそうだ。別に川向うの清州の方に行くわけじゃないからな。龍泉寺の辺りまで行って戻ってくるだけだ。そんな危険なんてないだろうよ」

「んん、それは・・・、そうかもしれねえですけど」

「大丈夫だって。川のこっち側は我が家の領地だし、近くでは孫十郎叔父上が治めている。下手に熱田へ行くよりは余程安全だよ。それじゃあ行ってくる」


 言い淀み逡巡する彼を押し切り、俺は早々に駆け出した。気晴らしに行くのに警護の為とはいえ大人を呼ばれては気が休まらない。それに俺の守役だった奴は三郎兄上派ではなく勘十郎兄上を推していた。そんな奴が着いて来ることになっては堪ったもんじゃない。

 少なくとも俺は父が後継者として名指しした三郎兄上に従い、その役に立とうとしているのだ。横から俺の考えにとやかく言われる筋合いはない。だから元服してから俺は彼らと距離を置いた。


「・・・っと。折角気晴らしに来たんだ、こんな後ろ向きなことを考えてちゃ勿体ないな」


 頭を振りかぶり雑念を振り払う。ここまで俺を運んでくれた愛馬(鴻狆)も俺の意識が自らの方へ向いたことを悟ったようで、先ほどまでとは違い、その足に力が入ったようであった。俺達は目一杯に駆け、鬱屈した気持ちなど考える間もない位に走った。

 目的のない野駆けであった為に寄り道をしながらも於多井川の畔までやってきた。久しぶりに思いっきり走れると喜んでいた馬も、流石に疲労の色は隠せないようであった。


「ちょうど良い頃合いだから少しだけ休憩してから帰るか」


 愛馬に話しかけるように呟くと俺の声に返答するかのように鳴いた後、一人川の水を飲みに行ってしまった。その後を俺はゆっくりと追いかけることにした。

 それから暫くの間、水を飲み、草を食む馬を眺めながら特に何も考えず、ただ時が過ぎ去ることを待っていた。どれほどそうしていたのだろうか、することがなくなったのか傍によってきた愛馬が、次へ行こうと急かすように頭を擦り付けてくる。


「じゃあ行くとするか」


 遠く自身の向かう方向ではどこぞの一団が固まり歩いていた。背には弓矢、腰には刀を携えている。近づくのは控えよう。なるだけ目を合わさなければ因縁つけられることも無いだろう。

 もう少しだけ川の傍を歩いてから守山の叔父上に挨拶をしよう。時間的に夕餉を馳走になれるかもしれない、そう考えている時であった。

 何かが空を切るような音が耳に届いた。そして音に気づき反応したときは既に後の祭りであった。体に一本の矢が刺さり、妙な熱と痛みとが俺の意識を出迎えた。そしてそれを感じることが出来たのは一瞬で、気づけば落馬しており、体の熱も、痛みも、そして寄ってきた下手人の言葉も遠く感じられなくなっていた。


 ――ああ、まさか、死ぬのか?・・・こんなところで。こんなことで・・・。まだ何も、何も成せていないんだぞ。



 ※ ※


 その日は酷く蒸し暑い日であった。常の仕事も終わり、集まっていた者の誰かが言い出した。


「久々に川狩に行きませんか殿?」


 この暑さだ、反対する者は居なかった。

 守山の城を出た一行は魚と涼を求めて川へとやって来た。当初下りた地点では魚が取れず、求め歩いた先は龍泉寺もほど近い、松川の渡し傍であった。


「それにしても殿、大漁ですね!夕餉の品にも困りませんよ」


 護衛として共に繰り出してきた近習達は取れた魚を手に楽しそうな声を上げる。確かにいつもよりも調子が良かった。

 しかしそのような中で、家臣の才蔵は一点を見つめ一人険しい顔をしていた。


「いかがした才蔵。魚は嫌いではなかったろう」

「いえ、殿。・・・あちらを」


 そう言いながら首を動かす才蔵に釣られ、自身も目を向ける。そこには未だ遠い距離にはあったが、一人で馬に乗りながら歩いている青年が見えた。迂闊な人物ではある。しかしそれであるからこそ、人数を連れている自身に害をなせるものではないと判断した。


「賊では無かろう。捨て置け」

「はい・・・」


 そうして俺達は再び川へと入っていく。しかし依然として才蔵は警戒を緩めることは無かった。

 それから時が過ぎそろそろ城へ戻ろうと支度して居た頃である。


「殿」


 やってきたのは才蔵である。未だ眉を顰め一点を見つめるそこには先ほども見かけた青年の姿があった。彼が何しにやって来たかは分からない。しかし我らと変わらず気分を晴らしに来たのだろうことは予想がついていた。


「ほら帰るぞ才蔵。そろそろ日も傾くころだ。あまり遅いようでは置いていくぞ」

「・・・あの者を無視するというのですか?仮にも殿はこの守山の領主。それを下馬もせず、挨拶も無しとは、無礼にも程がありましょう」

「何をそう苛立っておるんだ、落ち着け。あやつは此方に気づいて居らんだけであろう。遠目ではあるがあの身なり、良い所の出であろう。その様な者が今更こちらへ危害など加える筈も無かろうて」


 近くの領民には似つかわしくない程に上等そうな服装である。どこぞの領主の子息か縁者か、と信次は当たりを着けていた。


「しかし、しかしですぞ!殿は織田弾正忠家の一族。この尾張の地にて殿よりも立場が上の者など清州の上総介か、末森の勘十郎殿くらいしか居りませぬ!あやつはそのどちらでも無い」

「才蔵!!お主何か勘違いをしておらぬか?三郎は我が甥為れど、織田弾正忠家の当主だ。それをお主如きが呼び捨てにして良い方では無いわ!」


 信長のうつけ振りは、未だ国内中に蔓延っていた。織田弾正忠家に仕える者として、当主を呼び捨てにするなど有って良いはずが無かった。

 怒気を上げた信次に対し、才蔵は縮こまってしまった。それ以上は何を言うことも無く、帰り支度を皆と共に始める。しかし納得は言っていないようで、その顔には不満の色が強く浮かんでいた。

 事件が起きたのはそれから間もなくであった。

 遠く一人で居た青年が速足で信次ら一団へと寄ってきていた。その行動に近習達も俄かに緊張が走る。もし襲ってくるようであれば直ぐに制圧できるように武器に手を掛けて不測の事態に備えた。


「殿、念の為我らの後ろへ!」


 切迫した状況に警戒を緩めることはしない。その様にしていると、青年は少しだけ大きく我らを迂回するように馬を繰り出し、視線を向けることも無く通り過ぎていった。


「あの狼藉者めがっ!殿に挨拶も無く、騎乗したまま横切っていくとは!何たることか!」


 これに酷く反応したのは才蔵であった。彼は隣の者が手にしていた弓矢を引っ手繰り矢を番えると、信次が止める間もなく放ってしまった。

 矢は運命がそうであることを決めていたかのように、馬上にある青年の下へ寸分の狂いも無く吸い込まれるように彼の体を貫いた。


「何てことを・・・」


 信次は思わず手で顔を覆い、言葉を漏らす。


「殿は悪くありませぬ!あの不届き者の無礼な態度が全ての原因です!因果を言い含めれば皆が殿の味方をすることでしょう。・・・いやこのまま川に流してしまえば殿が疑われる事すらないでしょう!」


 才蔵は威勢よく言い放ち、川へ投げ捨てる為に馬上から転げ落ちた青年の下へと向かっていった。


「・・・こうなっては仕方ない。我らも才蔵の後を追うぞ」


 とんだ気晴らしとなってしまった。そう思わずにはいられなかった。別にその場に放置していても夜盗か何かに襲われたと他の者は勝手に解釈することだろう。しかし青年の身なりは立派な者で野晒しにしては不都合が生じる可能性があった。それを解消するために信次は才蔵の後を追った。

 先に着いた才蔵からすでに青年が息をしていないことを伝えられた。ならば、と信次は他の者に死体を運ばせて、川へ投げ捨てるように改めて指示を出した。

 当然死にたての人を触ることになるのだ。指示された近習の者は一瞬だけ嫌な顔を見せた者の主命には逆らえぬと大人しく死体を持ち上げる。


「それにしてもこの者、痛みで多少顔は歪んでおりましたが中々の容貌でした。もしかすると本当に良い所の出か、坊主に飼われている者だったかもしれませぬな」

「そのようなことを言っても今更どうしようもないだろうが。我らに出来ることは何も無かったとするだけだ」


 入れ替わるようにやって来た才蔵の言葉に頭を痛めながら答える。これで本当に近くの領主の縁者だったら取り返しがつかない。苛立ちを堪えながら川へと向かった者達が戻ってくるのを待つ。


「殿!殿!大変です!」


 しかし面倒とは重なる物である。川へと向かった者の内、一人が慌てながら戻ってきた。


「何があった!」

「これを!・・・これをご覧くだされ!」


 そう言い見せてきたのは、何処にでもある脇差であった。強いて言うならば作りとしては上々な物であるということくらいだ。


「ただの短刀では無いか。これがどうしたというのだ?」

「ただの短刀ではありません!ここをご覧くだされ!」


 彼は一点を指さし、それを信次に見せつけてきた。このやり取りに隣に居た才蔵を始め、他の残っていた者達も顔を近づかせ、指さす物を目にとめた。


 ――それはこの尾張に住む者であるならば、知らぬ者など無い家紋であった。


「・・・顔を見に行くぞ」


 自らが手にする木瓜紋が刻まれた短刀を握り、信次は焦りながら死体の下へと辿り着く。

 ここまで運んでくれた者を押し退け、確認した顔は苦痛で歪んでこそいたものの良く見知った顔であった。


「・・・喜六郎、か」


 呆けながら口から名前を呟く。射殺してしまったのは自身の甥であり、現当主三郎信長の実の弟でもある織田喜六郎秀孝、その人であった。


「なんと・・・!」


 信次の言葉に周りの家来たちも思わず唾を飲み込む。ただ無礼であるからと、それだけで殺してしまってはならない人物であった。


「何てことだっ!」


 信次は握り込んで居た短刀を思わず、といった風に地面へと叩きつける。しかしそれは喜六郎の体へぶつかる。死体に物がぶつかったからと気にする者は当然の事いなかった。


「も、申し訳ありませぬ!!」


 事態を飲み込んだ才蔵は、己の仕出かしたことの重大さに気づく。主家の舎弟を勘違いから射殺す、才蔵如きの命では釣り合わぬ失態である。それこそ信次が責を負わねばならないほどに。

 だがそのような事をけして言える筈が無かった。やり場無く視線を彷徨わせると、同様に狼狽えている信次と視線が交わる。それを理解した信次は唇を震わせながら言った。


「に、逃げるぞ!」

「なっ・・・!?」

「殿!?」


 家来たちは困惑した。まさかの逃亡宣言である。


「今なら我らが仕出かしたとは誰も気づくまい!だからこそ逃げるなら今しかないのだ!」

「しかし殿!」

「黙らんか!いくら三郎が身内に甘いとはいえ実弟を殺されておるのだ!それも勘違いからという理由でな!叔父であるとはいえ許すはずが無かろう!」


 信次の家臣一同激怒する信長の姿を思い浮かべる。確かに間違いなく今この場に居る自分たちは許されないだろう。その未来が見えたからこそ、一度は有りえないと決めた主君の言葉に賛同する方へと傾いた。


「な、なれば喜六郎様はいかがされますか?」

「そんなものそこの川へと・・・」


 ――流してしまえ。

 そう言いかけた信次であったが、あることが思い浮かぶ。


 このまま川へと流してしまえば死体の発見が早まってしまう。川を流れる人体など沈まない限り発見しやすく、それに今日の自分たちのように魚を取りに来るものも居る。そういった人たちによる発見されてしまう。それにこの川下には件の信長が詰める清州城もある、それだけ発覚が早くなるということだ。


「いや待て。これはどこぞの茂みに隠そう。川では数日の内で流れた先で見つかってしまう」


 皆信次の言葉に合点がいった。確かにその通りである。ある者は急いで川へと投棄しようと抱えていた死体をその場に落とし、他の者と一緒に投棄するに相応しい場所を捜しに行く。

 それから暫くして、死体を隠すに丁度良い場所を見つけ、そこに後は捨て置くだけとなった時であった。


「と、殿!喜六郎様がっ!息を、息を吹き返しています!」


 背負いながらやって来た者が声を上げた。それは望外の事であり奇跡であった。その言葉に信次は慌てて喜六郎の下へと迫る。


「た、確かに息をしておる――!」


 先程までは確かにしていない呼吸音が聞こえた。とはいえそれはか細く、ともすれば再度死んでしまうのではないかという程の物ではあった。


「どうしましょうか殿!」

「むむむ」

「殿!」


 考え込む信次は黙れと叫びたくなるのを堪え、この後の事をどうするか考える。意気は吹き返した。しかし折角の事ではあるが、いつまた息を止めてしまうか分からない程の弱弱しいものであった。家来たちの声に耳を傾けず、ひたすらに考えた。


「・・・龍泉寺だ」

「えっ?」

「龍泉寺に運ぶぞ!ここからなら守山よりも近い!急げ!」

「っ!承知しました!」


 彼らは信次の指示に従い、彼の意図するところは考えずにとにかく急いで龍泉寺へ向かった。

 この時信次はとっさに考えたのであった。このまま外で死なせては真っ先に自分たちが襲ったのではないかと疑われる。それを防ぐためにどうするか、それは自分たち以外の第三者に喜六郎が生きていたことを見せつけてやればいいのだと。こうすれば万が一治療が間に合わず死んだとしても必死に助けようとしたことは証明できる。

 その打算的な発想であったが、結果としてこれは信次らの窮地を救うこととなった。



 ※ ※


「――っ!?」


 深い穴から無理矢理引き戻されるような浮遊感を感じ目が覚める。眠りから目覚めるとそこは見覚えのない天井であった。


「確か気晴らしに於多井の川に行っていて・・・ッ!」


 今の状況を把握しようと体を起こす。しかし体の痛みにより、体を起こすことは叶わなかった。どうなっているのか、頭の中で必死に思い出そうとすると、部屋へ入ってくる人物がいた。


「おお目を覚ましたか喜六郎。何とか無事なようだな」

「勘十郎兄上!」


 末森城に普段は詰めている筈の兄が姿を見せた。兄上が居るってことは、ここは末森城という訳か・・・


「ここは龍泉寺だ。賊に矢で射られた所を偶々孫十郎叔父上が通りがかったらしい。それで生死の狭間を彷徨っているお前を近くの場所へ運び込んだそうだ」


 何が起きているか理解できていない俺に向かい、兄上は経緯を話してくれた。叔父上のおかげで運よく生き延びられたらしい。あとでお礼を言わないとだ。


「お前に気を取られ賊には逃げられてしまったらしいがな。――もしこれでお前が死にでもしていたら叔父上には賊を蔓延らせている責任を取ってもらうために城下を焼き払ってやったがな」


 そう口にした兄上の顔はけして冗談では無さそうであった。俺が死んでいたらこの兄は必ず守山の町に火を付けていた事だろう。

 その事に安堵しながら、ふと気になったことを尋ねてみる。


「そういえば勘十郎兄上お一人なのですか?」

「それはどういう意味だ」


 この織田家の当主の姿を思い浮かべる。


「いえこういう時は清州の兄上も駆けつけてくる印象があったのでてっきり・・・」

「清州って三郎五郎兄者の事か?別にわざわざ駆けつけてくる性格では無かったが」


 勘十郎兄上は三郎兄上の事を良く思ってはおらず、二人だけの時などに名前を出すと嫌な顔をする。だからあえて濁して訊ねてみたのだが、まるで三郎兄上が兄ではないかのように怪訝な顔をしながら返答をした。


「いえそちらでは無く三郎兄上の事です。兄弟誰かしらが怪我をしたと聞けばすぐに飛んでくるではありませんか」

「お前、やはり頭を打って呆けてるんだろう。よし、もう今日は大人しく寝ておれ。この旨を皆に伝えてくるからな」


 心配そうな顔をしながら兄上は布団を掛けてくる。それに若干の抵抗をしつつ再度訪ねる。


「いえ問題ありませんって。それよりいくら三郎兄上の事を嫌っているからって流石にその様に居ない奴扱いするのは兄弟としていかがかと思います」

「いや確かに三郎の事は好かんが別に嫌ってなど・・・それにあやつは――」


 勘十郎兄上が何事か言い切るよりも早く、廊下から足音が近づいてきた。寺という場においてこのように大きな足音を出す人物には一人しか心当たりが無かった。


 ――件の人物である三郎信長その人において間違いない。


 その足音は部屋の前で止まったかと思うと、行きつく間もなく戸が開け放たれた。


「ようやく目覚めたのね喜六郎!一日寝込むとは良い御身分になったわね!」


 姿を見せたのは一人の女人であった。彼女は遠慮なしに部屋へと入ってくると捲し立てるようにして言った。


「いくら領内とはいえ供を付けず出かけるとは私の弟として、弾正忠家の一族としてあるまじき所業よ。本来なら私自ら改めてあの世に送ってやるところだけど、どうも叔父上が言うには一度息が止まっていたはずにも拘らず吹き返したとか。神か仏の御業かは知らないけど、そうであるならまた死なせては私の不徳になってしまう。だから残りの命は慈悲と思い、よく考えて行動することね。分かったかしら」


 俺は彼女の動きに呆気にとられ、勘十郎兄上はめんどくさい奴が来てしまったと顔を顰めていた。

 俺は言われたことが理解できず、目の前の姉を名乗る女と横の兄の顔を交互に見ることしかできなかった。


「三郎姉上。そう捲し立てては喜六郎も頭がこんがらがりましょう。目覚めたばかりなのですから説教は後日にしてください」

「・・・それもそうね。兎に角無事に戻って来てくれたことは嬉しいわ。これからは一人で出歩かないようにしなさい」


 はあ。と気の抜けた返事しかできない俺であった。しかしその態度がこの自称信長の気に障ったようであった。


「ていうか喜六郎のさっきからの態度は何なの?私の事初めて見るかのような顔をして」

「え、ええっと・・・」


 問い詰められた俺は言い淀むことしかできなかった。そんな俺に救いの手を差し伸べてくれたのは勘十郎兄上であった。


「姉上。どうやら喜六郎は頭を打っているようです。先ほども姉上の事を兄と呼んでいたので、少々記憶が混濁しているのでしょう。・・・まあ姉上は少々男のような振る舞いが目立ちますので、あながち喜六郎の間違いとは言えな――」

「それは本当なの喜六郎?」


 勘十郎兄上は言葉言い切る前に仕置きを食らい、殴った本人は俺の頭を抱え傷が無いかを確かめる。


「あ、はいそうです。ですが問題ありません。姉上の姿を見て思い出しました」


 これ以上おかしなことを言っては余計なもめごとの原因になる。そう判断して、訳を確かめることを後回しにすることにした。

 少なくともこの姉については、確かに性別が前と異なっているが面影もあり、雰囲気や行動は記憶にあるままの物とそっくりである。それに勘十郎兄上に変わった所はなく、その兄が三郎信長本人と認めている事から、そう言うモノだと納得するとしよう。


「そうよね、喜六郎はちいちゃい頃から姉上姉上と私に引っ付いてきてたもんね。忘れる筈がないもの」

「フン、けど姉上とは違い俺の事は最初っから覚えててくれたけどな」


 勘十郎兄上の言葉に姉上は耳聡く反応する。じゃれ合うように小突き合いどちらの方が俺に好かれているのか言い合っている。

 それを横に聞きながら恥ずかしくなった俺は布団へ入り耳を塞ぐ。

 自分の身に何が起きたかは分からない。分かっている事は俺は一度心の蔵が止まり、再び動き出した。そして兄が姉となってしまったということだけである。

 この事態に何をすべきか、何をしたらいいのか。考えても答えはなく今できることは、この怪我を治すことだけであった。


「それでは姉上。喜六郎も寝て体を休めないといけませんし、俺達も一度帰るとしましょう。これだけやり取りが出来れば問題ないでしょう」


 お開きとなる、その雰囲気の中突如として姉が口を開いた。


「そうだわ喜六郎、あんたに那古野城を任せようと思うわ。補佐に林佐渡守をつけるから頑張りなさい」

「へっ!?」

「どういうことですか姉上!」


 聞こえた言葉に飛び起きる。あまりにも突拍子もない内容に勘十郎兄上も声を上げる。


「最初はアンタに守山城に入ってもらおうと考えてたんだけど、流石に今回の事があって直ぐに送る訳にはいかないと思ってね」

「姉上!何故喜六郎なのですか?そも孫三郎叔父上が居ますし、それに他に三郎五郎の兄者が居るでは無いですか!それだけでなく三十郎や喜蔵も!」

「その叔父本人の希望なのよ。与次郎叔父様の所が我が家と敵対したこともあって『自分の死後に万が一そうなっては亡き兄上に顔向けができない。だから甥の誰かを自分の後釜にして、我が子をその家来に、できなくとも三郎に従うように言い含めておく』って。とはいえ叔父上本人はまだくたばりそうにもない程元気だったけどね」

「だからといって・・・」


 なおも言いたげな勘十郎兄上に取り合わず三郎姉上は続ける。


「それで今回の一件で喜六郎を守山の孫十郎叔父上に送る話は立ち消えちゃったからね。時期的にも混乱は余り大きくならないのは喜六郎だけなのよ。嫌なら断ってくれてもいいけど、他の誰かに行かせるだけだから」


 どうするの?と姉上は目で訴えかけてくる。

 降って湧いた城持ちの話。他に兄弟が居る中で彼らを差し置いて、その立場へと上がってしまってもいいのかという疑念や困惑が浮かんだのはただの一瞬であった。それよりもなお八男という立場にあって、他家に養子と出されるわけでもなく、織田弾正忠家の者として生きられることへの興奮が、否定の言葉を紡がせなかった。


「謹んで承ります」

「であるか」


 俺の回答に満足した姉上は満面の笑みをこぼすと部屋を出ていく。


「励みなさい喜六郎。二度目の人生、それに後悔をしないように、一挙手一投足を噛み締めなさい」

「姉上お待ちくだされ!・・・喜六郎、お前も姉上の傍に居て大変だとは思うが、何かあればこの兄を頼れ。けして蔑ろにはせん」


 そう言うと勘十郎兄上も続けて出て居った。

 二人を見送り、先ほどまでの事を思い返す。一刻にも満たぬ時間でありながらも濃密な時間であった。突如としてこれまでと違う世界になっていることに困惑し、更には考えもしなかった城持ち、それも那古野城という弾正忠家にとっても決して因縁浅からぬ場所である。これを喜ばずしてどうするというのか。

 これからが大変になると意気込み、とかく体を万全としてからである。いつの間にか運ばれていた飯を食し、一日を終えるのであった。

 った。


一部女体化はフレーバーです。


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