079 古き魔法の担い手(1)
フリーデリーケはとある事に思い至った。
(もしかして、さっきのアレ……魔法?)
あれは物理法則を無視している。現実にはあり得ない力だった。
そんなものが、魔法以外にあり得るだろうか。よく考えれば、すぐに思い至ることである。
だがフリーデリーケは、理性がそれを拒否する。
なぜならば彼らはバチカンの人間である。
キリスト教の教義では、魔法は否定されている。
魔法使いを敵視してきた歴史があるのだ。
そんな人たち……それも大司教の地位にある者が魔法を使うなど、目の前のアレを見せられても、感情が拒否している。
ゆえに最初は、その発想に至らなかった。
(でもあれが魔法だというのなら、説明がつく)
一時的に力をあげたのか、石を軽くしたのか、重力を曲げたのか、魔法なら方法はいくつも考えつく。
そしてブロウディ大司教が儀式用に持っている錫杖。
あれは魔法を増幅する魔道具なのかもしれない。
フリーデリーケは、先ほどの秘儀を別の視点で解釈する。
(ユージを呼んだのは、自分たちも魔法を使うということを知らしめるため。親近感を持たせて引き込みやすくするため……かしら)
だがそうすると、わざわざ秘儀を見せなくても、「実は秘密なのですが」とそっと囁いてもいいのだ。
信じるか信じないかは別として。
(そもそもこの秘儀は、毎年この日に行われていると言っていた。こんなことをなぜ?)
聖ミカエル祭に、何か意味があるのだろうか。
「ユージさん、どうでした?」
「えっと、すごかったです。石碑が倒れたときは、本当に驚かされたですし」
フリーデリーケが思考している間にも、マリーと祐二の会話は続く。
「ふふふ……あれは見応えありますわよね」
「ええ、そういえば、なぜみなさんで石碑を踏んだんです?」
祐二の疑問が、フリーデリーケの耳に入ってきた。
そういえば、石碑が倒れたインパクトが大きすぎて失念していたが、司教や大司教が石碑を足蹴にするのはどうにもおかしい。
「あれは魔を退治している姿を模しているのです」
「ああ、なるほど。ミカエルの悪魔退治ですね」
「あっ!」
フリーデリーケは閃いた。天啓が下りてきたと言ってもいい。
石碑は宗教的なシンボルだと思っていたが、違っていたのかもしれない。
(そうよ。もしキリスト像や聖人の像ならば、そもそも倒したりしないもの。あれはキリスト教にとって敵を象徴しているんだわ)
それは祐二の言葉通りなのだ。
今日は聖ミカエル祭であり、倒れた石像が悪魔ならばすべてに説明がつく。
なにしろミカエルが登場する多くの宗教画では、ミカエルは悪魔を足の下に踏んでいるのだから。
(悪魔は堕天したルシファーと言われているのよね)
諸説あるが、ミカエルとルシファーは双子や兄弟の関係で、ルシファーは堕天し、地獄の軍勢を率いて神になりかわろうとした。
天界の軍勢を率いて戦ったのがミカエルであり、ルシファーとミカエルの戦いは、ミカエルの勝利で終幕した。
その様子が、多くの宗教画として残されている。
石碑は悪魔ルシファーを模したものならば、それを足蹴にするのは儀式として正しい。
同時にフリーデリーケは、祐二にこれを見せた意味に気ついた。
(悪魔はルシファーやサタン……この場合、ルシファーの別名という説もあるけど、悪しき者であることは変わらないわよね。でもそれが、本当に起きたことだとしたら?)
大昔、天使と悪魔の大戦が実際におき、天使側が勝利した。
それを忘れないように儀式として残しておいた。
だが、公にするには憚れる何かがあった。
そのため、秘儀としてこの聖ミカエル祭の日に、一部の者たちだけで儀式を継承していた。
「その悪魔って……もしかして、侵略種のこと? 足で踏んづけたのは、かつてキリスト教徒が倒した魔蟲なのかしら」
それはフリーデリーケの想像だった。
だが、シスターマリーはよくできましたとばかりに、微笑んだ。
「えっ? 侵略種って、概念体だから通常攻撃が効かないんだよね」
大学の授業で習ったばかりだ。
石碑が侵略種を模していると聞いて、祐二が狼狽える。
「そう。もし魔蟲が倒せるんだとしたら、それは魔法を使ったとしか、あり得ないわ」
「魔法……教会で魔法……そんな」
祐二は呆然と、そう呟いた。
――ケイロン島 牢屋 強羅隼人
つい先日、隼人の身柄は地元の警察署に引き渡された。
そして数日、何もすることがない隼人は、牢の中でずっと頭を抱えていた。
「マジかよ」
こんなはずではなかったと、何度も自問する。
まず、認識が甘かった。
立入禁止であることは知っていたが、ここまで大事になるとは思わなかった。
大学構内なのだから、規則を破ったところで、どうにでもなると考えていた。
研究施設といっても、特別科の学生が出入りしているのである。
それに紛れてしまえばいいと、簡単に考えていたのだ。
警備員に追いかけられたときも、すぐに逃走を選択した。
捕まらなければいいのである。
追いつめられたときは困ったが、強引に抜け出す方法を採択した。
だが結局、囲まれ、捕まってしまった。
おそらくは説教が待っている。
数時間は我慢するしかないなどと考えていた。
まさか、警備員の詰所でスパイのような扱いを受けるとは思わなかった。
あそこで行っている農業実験で、将来にわたって何百億ユーロを稼ぎ出す価値があると説明を受けた。
それだけ重要な施設なのだと説明されて、ようやく周囲の対応にも理解できた。
「俺はスパイなんかじゃない」
そう言ってみたが、「それを決めるのは我々だ」とにべもない。
厳しい尋問の合間に隼人は「大学はどうなる?」と質問した。
「籍など残っているものか。それどころか、日本に帰ることすら難しいだろう」
脅しているわけではない。相手がそれを事実として捉えていることに、隼人は恐怖した。
ここではじめて、軽率な行動を後悔した。
現在隼人は、スパイとして拘束されている。
たしかに、入学時のオリエンテーションや、もらったパンフレットにも似たようなことが書かれていた。
何があっても、絶対に農業試験場には入らないこと。
赤字でデカデカと書かれていたのを覚えている。
それを隼人は破ってしまった。
これまでの努力がすべてパーだ。
退学は免れないらしい。いや、すでに退学になっている可能性もある。
家族や友人にどう言えばいいのか。
「なんで特別科だけ……おかしいだろ」
こんなことになって悔しいと隼人は思う。
ゴランの将来を担う特別科の学生は、農業試験場にも出入り自由だ。
授業の校舎がその中にあるのだから。
一般の学生には、特別科で何が行われているのか、知る術がない。
隼人が捕まったことから考えれば、最先端の研究を行っているのだろう。
スパイ――それを盗もうとフェンスを越えてきたと思われたわけだ。
「人に会いに来たと話しても、取り付く島がなかったしな」
「夏織に会いに来た」、「夏織を呼んでほしい」と願っても、叶えてくれなかった。
あくまでスパイとして扱われ、尋問が終わると、そのまま警察署の留置所に入れられたのである。
「妙に頑丈だしな、ここ」
警察署内のことは詳しくないが、ただの牢にしては頑丈過ぎるし、警備も万全と言えた。
複数の鍵を使わなければ開かない扉、至る所にあるカメラ、銃を構えた警察官たち。
物々しい雰囲気に、隼人の心は早くも萎えてしまった。
しかも牢内だというのに、手錠はつけられたまま。
不便この上ないが、それだけ厳重な扱いをされていると思うと、気が滅入ってくる。
「ごめんなさい」したら無罪放免と考えていただけに、最近は夜も眠れない。
数人の警察官が現れ、牢の鍵を外した。
「本国に護送する」
「本国って……ギリシア?」
ここはギリシアが持つ島のひとつだ。ゆえに隼人はそう考えた。
「いや、ドイツだ。そこでスパイとして裁かれることになる」
腰に縄を打たれ、手錠をつけたまま牢から出された。
背後でガシャーンと扉が閉まる音が響いた。
隼人はいつしか、大粒の涙をこぼしていた。




