007 勉学に王道なし
暖かい日差しが教室の窓に差し込む、五月の下旬。
「なあ祐二、この後、カラオケって話があるんだが、どうする?」
放課後、帰ろうとする祐二を谷岡秀樹が呼び止めた。
「すまん、ヒデ。ここんとこ、忙しくてさ」
高卒認定の勉強に加えて、英語とドイツ語の学習がスタートしたため、放課後の祐二はまったく時間がなかった。
「忙しいって、この前もじゃんか。なんか最近、付き合い悪くない?」
「そうかな?」
「なんかおまえ、二年になってから、付き合い悪いぞ。今日は翔が、この前知り合った栄進女子の子を何人か呼んだみたいなんだよ。どうしても無理か?」
目下翔は、祐二と秀樹にとって、一年のときからの友人である。
髪を茶色に染めた翔は、チャラチャラした外見をしているが、祐二たちとは不思議とウマがあった。
翔は新しいものを探し回るいまどきの高校生で、ときどきこうして自分の交友関係内で合コンらしきものを開催している。
「いま本当に時間に余裕がなくてさ」
「バイト?」
「いや……習い事かな?」
「おまえ、塾とか通ってんの?」
「塾じゃなくて、英会話とドイツ語会話を少し……」
さすがに高卒認定の話はどうかと思い、もう一方だけを秀樹に伝えた。
「英語とドイツ語? ……まあ、どういう心境の変化か知らないが、おまえがやる気を出したんなら仕方ないな。翔には言っとくわ」
「ごめん」
「その代わり祐二、今度理由を教えてくれよ」
そう告げると秀樹は、さっさと行ってしまった。
たしかに最近の祐二は、付き合いが悪い。秀樹は理由があると察したようだ。
「俺も、こんなに忙しくなるとは思わなかったんだよ」
一人になった祐二は、天を仰いだ。
語学の講師が日本に到着してから、祐二の生活は一変した。
講義が夜まで終わらないのだ。しかも毎日。その後、家に戻って復習や与えられた課題をこなす。
「あの二人の講師、俺が音を上げるギリギリのところを攻めてくるし……やべっ、遅れる!」
限界の直前まで追い込む姿勢は、いっそほれぼれする程だと祐二は思っている。
無理をすればなんとか終わらせられるだけに、手を抜くわけにはいかない。
そんな生活を続けて、そろそろ一ヶ月になる。
「ええっと……今日はドイツ語からだったな。あの人、無表情だから怖いんだよな」
祐二は時間を確認し、大急ぎで駆け出した。
――統括会 東京支店事務所
統括会は全国に支部や支店を持つ、れっきとした公益財団法人である。
支部の通常業務は、小学生から高校生までの統一テストにおける業者の選定と実施。
生徒や学生、それに社会人を対象として、性格診断テストなども行っている。
これらの試験を行い、採点と分析を終えたのち、しっかりとしたデータを残すことを仕事としている。
そして支部ではなく、支店の活動はというと……。
「コーヒーを入れるけど、慶子くんはどうする?」
「いただきます」
統括会の東京支店のメンバーは、たった二人しかいない。
それもそのはず、統括会の通常業務は、東京支部が行っているからである。
ではこの東京支店は、たった二人で何をしているのか。
「祐二くんは、真面目に講義を受けているようだね」
支店長の塚原栄一は、コーヒーを淹れながら、そんなことを呟いた。
「半分嫌々みたいですけど、手を抜くことはしていないですね」
唯一の社員である比企嶋慶子は、お茶請けを用意しつつ、片手で器用にテーブルの上を片付ける。
「講師の受けは上々と聞いたけど?」
「もともと真面目ですし、素養があったのかもしれません。物覚えはいい方だと聞いています」
「だけど一年早く入学させろとは、総理も無茶なことを言う」
「翌年のサミットを睨んでのことでしょう。戦後五十年、この国から魔力のAクラス保持者は一人しか出ていませんから」
「ずっと供出金だけ取られていたわけだしね。それは分かるんだけど……祐二くんにとっては災難だろうね」
「外国には飛び級制度もありますし、たかが半年です。まあ、問題ないでしょう。あっ、これ……コーヒー豆、変えました?」
「ビルカマウンテンにしてみたんだ」
「よい香りとコクだと思います」
「そうか。よかった」
室内にコーヒーの香りが漂う。
塚原は、比企嶋が先ほど脇にやった資料をパラパラとめくる。
「これは叡智の会からきたやつ?」
「そうです。午前中に届いた月例報告書です。印刷しておきました」
「どれどれ……今月も相変わらずだねえ」
軽く目を通した塚原は、そっとため息をつく。
「島国日本のことは、欠片も載っていませんね」
「叡智の会に協力している日本人の魔法使いは数えるほどしかいないからね。金払いはいいから嫌な顔はしないけど、日本のことを報告書に載せるって発想すら、ないんじゃないかな」
「そういえば先月、ゴランの幹部がテコ入れに来ていましたね」
「日本の工業力を支えているのは、何千という中小企業だからね。そのひとつひとつと交渉などやってられないから、大元の経団連に顔を出したみたいだ」
「それ、効果あるんですか?」
「多少はあるのかな。経団連もバブル期のように、変な連中に食い物にされたくないだろうし」
1980年代の後半、金余り大国と言われた日本は、海外の有名な芸術品などを買いあさった。
それに目をつけたのが海外の投資家である。
彼らは美術商や評論家を巻き込んで、壮大なペテンを仕掛けた。
名画の値段をつり上げたのである。
複数の人物を介して間接的に名画を売買……その実、ただ身内で高値売買を繰り返しただけだった。
100万円の絵が1億円で複数回売買されれば、絵にその価値がつく。
決められた金額と順番で売買をやり取りしていれば、税金もかからない。
そうやって絵画の価値を高めていって、最終的には日本の企業に買わせたのである。
別に詐欺ではないし、その金額の価値を認めたのは日本企業なのだから、文句をいう筋はない。
結果、もとから絵を持っていた投資家や画商たち、値のつり上げに協力した投資家たちは大儲けした。
困ったのは博物館や美術館で、芸術作品の値が上がってしまい、新規に購入するのが難しくなってしまった。
「あのとき裏にいたのは、『ダックス同盟』ですよね」
「そう。昔、ウォール街でおこった世界大恐慌を生き延びた、数少ない投資家たちの子孫だね。日本では穴熊が一般的でないから分かりにくいけど、うまい呼称だと思うよ」
「彼らが性懲りもなく日本企業の懐を狙っているから、ゴランが動き出したと」
「ゴランとダックス同盟の代理戦争が、日本で勃発するかもしれない。不発に終わる可能性もあるけど……まあ、表のことはそうそう裏に影響を及ぼすことはないだろう」
「裏といえば……カムチェスター家の当主が亡くなりましたが」
「そうだね。当主としては迂闊だった……と後なら言えるけど、四六時中テロを警戒できるものでもないし、運が悪かったのかな」
「欧州では、かなり苛烈に『黄昏の娘たち』を追い立てていると聞いています」
「先代……いや、先々代当主の妻の意向だろう。名前はたしか……エルヴィラといったかな。彼女は傾きかけたカムチェスター家を建て直した女傑だよ。相当苛烈な人だと聞いている。彼女が陣頭指揮を執っているのなら、ありえる話だ」
「それほどですか?」
「若い頃、バラバラになりかけていた一族をまとめ上げたとの噂だ。いまでもカムチェスター家の団結力が強いのは、彼女がいるからだと言う人がいる」
「なるほど。私のような小心者からすれば、あまり会いたくない人物ですね」
「えっ?」
「えっ?」
「……コホン。そういうわけで、だれが魔導船の船長になるのか、みなが注目している。新当主が立ったと聞いたし、当主と船長の両輪体制で行くことになるだろう。カムチェスター家は今後、難しい舵取りが求められるだろうね」
そう言って塚原は、報告書をテーブルに置いた。
お茶請けのクッキーをポリポリと食べる比企嶋の頬は、リスのように膨れている。
塚原はそんな比企嶋から目を外し、コーヒーを一口、飲んだ。
「うん、やっぱり豆を変えてよかったね」
「…………(もぐもぐ)」
それに対する返答は、クッキーの咀嚼音だった。