060 飛行機の中で
祐二たちを乗せた飛行機は、無事、日本を飛び立った。
一度陸を離れたからには、もはや後戻りはできない。
「というわけで、話してもらうわよ」
祐二の左隣で、ユーディットが歯をむき出し……いや、ニッコリと微笑む。
ユーディットは祐二の左腕をしっかりと掴んで、身を寄せてくる。
「そんなことしなくても、逃げないから……」
祐二は、ユーディットから離れようとして失敗する。
できるのは、わずかな身じろぎのみ。それも半ばで止まってしまう。
というのも、祐二が反対側に身を寄せると、そこには……。
「私も非常に興味ありますわ」
フリーデリーケが、真剣な表情で問いかけてくる。
つまり祐二はいま、男ならだれでも一度は夢見る『両手に花』の状態である。
あこがれシチュエーションの上位に君臨するであろう、両手に花。
それなのに、なぜか祐二の顔は引きつっている。
「ねえ、ユージ。こっちむいて」
「なにかな、ユーディット」
心を落ちつかせて、祐二は何気ない風を装う。
「いま、何を考えているの?」
「何って、ははっ……」
この逃げ出せない状況では、やれることは限られている。
さて、どう誤魔化そうかと思考を巡らし……。
「ヴァルトリーテさんはどうしているかなと思って……ははは」
「お母さんは、あそこにいるわよ。ほらっ」
フリーデリーケに言われて斜め後方を振り向くと、ヴァルトリーテが手を振っていた。
ドイツ行き便は、搭乗率が百パーセントに満たなかったらしく、直前でもチケットが取れた。
「そっか、そこにいたのか。よかったね。ははは……」
搭乗後、ヴァルトリーテが、チケットと祐二たちをキャビンアテンダントに見せ、「あの子たち、どうしても一緒がいいらしいので、席の移動よろしいでしょうか」と頼んだのである。
キャビンアテンダントは、困り顔の祐二に若干引いたあと、「どうぞ」と微笑んだ。
というわけで……。
「ほかには、何を考えているのかしら?」
二人が祐二の顔を下から覗き込む。
両腕を取られたままの祐二は、自然と天を仰いだ。
もちろん機内の天井が見えただけだ。
なぜ、このような状況になったのか。
時間は少しばかり遡る。
(くっそ、比企嶋さんめ……)
比企嶋は、夏織の写真を二人に見せ、そのままフェードアウトしている。
まさかの裏切り。万死に値すると祐二は考えた。
だが、逃げた比企嶋に構ってはいられない。
フリーデリーケとユーディットに睨まれた祐二は、「搭乗時間が迫ってるから!」と説明を後回しにした。
秘技「面倒なことは先送り」である。
「そんなこと言って、逃げるつもりじゃないでしょうね」
「そ、そんなことあるわけないじゃないか」
ギクッとする祐二が目を泳がせ、助けを求めるようにヴァルトリーテを見ると、彼女は何か名案でも閃いたかのように、ポンッと手を叩いた。
そしてフリーデリーケに「すぐに帰りのチケットを購入しなさい。あとで席を替わってあげますから」と促したのである。
飛行機のチケットは、比企嶋が手配していた。
三人が横に並んで座れるようにしたと言っていた。
「えと、ヴァルトリーテさん……」
祐二が何かを言おうとするよりも早く、「時間が迫っているのはたしかね。フリーダ、急ぎなさい」と相成ったのである。
運悪く……いや、運良くチケットは取れ、その後フリーデリーケは、片時も祐二のそばから離れなかった。
それどころか、「ドイツまでたっぷり時間はありそうね」と言い出したわけである。
飛行機はすでに日本を離れている。
祐二は、左右を美少女二人に挟まれたまま、これから何時間も過ごさねばならない。
もっともヴァルトリーテとしても、あまりこのような強引な手は使いたくない。
だが、祐二をカムチェスター家に引き込むのはもはや既定路線。
祐二の子が、次代の船長になる可能性がもっとも高く、手放すわけにはいかないのだ。
日本人と結婚するから、やっぱり日本で暮らすと言い出された日には、一族に顔向けができなくなる。
ここはぜひとも自身の娘、もしくは一族の者にがんばってもらいたかったのだ。
日本からドイツまで、約十二時間のフライト。
祐二は、左右を美少女に挟まれた至福の時を過ごすことになる。
具体的には、夏織のことについて、祐二が覚えている限りを洗いざらい話すことになった。
しかも繰り返し、絶え間なく……。
「なんでこんな目に……」
「ねえ、ユージ。いまの発言、どういうこと?」
「私も気になるわ」
「……ごめんなさい。なんでもないです」
「じゃ、続きを聞かせてもらうわね」
「あっ、ユージ。喉が渇いたら言ってね。飲み物をもらってくるから」
「休憩は一時間につき、十分あればいいわよね」
「………………ははははははは」
飛行機がドイツの空港に到着して、乗客が次々とタラップから降りてくる。
その中になぜか一人だけ、やけに疲れた顔をした東洋人がいたという。
その姿を見た人たちは、「彼には死相が浮かんでいた」と評したという。
――ダックス同盟
一月四日の早朝。
大発会――日本での為替取引が始まった。
年末年始はどの国の為替市場も閉まっており、世界で最初にスタートするのが、日本市場である。
これは、日出ずる国である日本が、もっとも早く日の出を迎えるからに他ならない。
前日の爆発騒動を受けて、ドル円相場は大きな上窓からスタートするものと思われた。
為替市場における窓とは、市場が閉まっている間に情勢が動き、市場が始まった直後、前日の値より大きく上か下に動いたときに発生する。
チャートの線が途切れるのだ。
円安が進めばグラフは上を向き、上窓が開く。
逆に円高が進めば下窓が開く。
今回の場合、上窓スタートするものと思われた。
だが、フタを開けてみれば……。
「なぜ、下窓が開いている!? 投資家の円売りはどうしたんだ?」
市場の予想に反して、急激な円高スタートとなっていた。
つまりドルが売られて、円が買われたのである。
しかも窓が開いた状態からスタートした後も、チャートはジリジリと下降を続け、窓を塞ぐ動きは見せなかった。
たとえば、土日を挟んだ月曜日に窓が開く、つまりチャートの線が途切れることがある。
多くの場合、市場が始まった直後に、一度は窓を閉める動きをする。
窓閉めをせずに一気に動く場合、値動きの予想が付かなくなることもしばしばである。
これは大変と、円売りをしていた個人投資家たちが、こぞって損切りをはじめた。
中には、いまから乗ろうと円買いに走る者も出た。
それゆえ、状況――円高は一気に加速する。
「なぜだぁああああ?」
某所で、とある男の叫びがこだまする。
日本の政治や経済に不安があれば、円安になる。円売りは加速するはずなのだ。
ダックス同盟に所属する男は、そう考えていた。
だが実際は、その反対の動きを見せている。
彼……いや、彼らは大いに狼狽えた。
「一向に収まる気配を見せない……」
「マズいぞ、このままでは、損ばかりが広がってしまう」
「俺たちが借り入れた金が、みるみる溶けていく……」
彼らは真っ青になった。
午後になっても円高が進み、投資家たちのロスカットを巻き込んで、為替市場は個人投資家たちの狩り場となった。
「我々はどうすれば……」
「このままでは粛清されてしまう」
「会社も消えるぞ」
前日の爆発騒ぎ。何をどう考えても、円高になるはずがなかったのだ。
それゆえ、全力で円売りを仕掛けていたため、彼らの含み損は膨大な額となっていた。
「一体何でこんな……」
「なぜこんな……」
「どうしてこんなことに……」
彼らは最後まで気付かなかった。
今回円高が進んだ理由は、日本市場の特殊性――日本人独特の考え方にあったことを。
正月明け、一番に開くのは日本市場。
為替の値動きには、日本人の動向が大いに反映されている。
彼らは知らなかった。
過去、日本で大地震や台風が直撃すると、なぜか日本市場は円高へ進む傾向があったことを。
これは主婦や大学生、サラリーマンが小遣いを使って行う、素人の投資が多いことも関係している。
彼らは、日本のインフラが破壊されるたびに「日本は破壊されたインフラを戻そうと金を使う」ことを経験として知っており、条件反射のように円買いを始めるのである。
主婦の小遣いを馬鹿にしてはいけない。
日中に大地震が来れば、その数分後から急に円高になったりもする。
天変地異で円が買われるのである。
今回、ダックス同盟が目論んだ「危険を感じて日本から資金が流出する」という目論見は、素人同然の個人投資家たちによって阻まれたことになる。
おそるべし、素人。おそるべし、日本の個人投資家。
爆発事件がおきたとき、日本市場が閉まっており、アメリカ市場が開いていたら、逆の現象が起きただろう。いや、日本以外、どこでも同じ動きをするはずである。
そう考えれば、ダックス同盟の仕手戦は、仕掛ける相手、そしてタイミングが悪かったという他ない。
結局のところ、彼らは素人に止めを刺されたことになった。
蔡一族を率いるリチャード・蔡がこの事実を知るのは、もう少しあとになってから。
アメリカはまだ真夜中である。
これで第二章が終了です。
閑話を二話挟んでから、第三章へと続きます。
この為替取引の話はいまはどうなんでしょうか。
10年くらいはやっていたのですが、いまはさっぱりです。
ユロ円は動きが大きいので、ドル円をちまちまと。
あとランド売りを少しずつ、それこそ10年くらい持っていました。懐かしい。。。
……で、普通の先進国では、テロや災害がおこると一気に資金が外へ流れでてしまいます。
なぜか日本は逆で、今回それを書いてみました。
大地震の直後とか、本当に円高になるんですよ、不思議ですね。
それでは引き続き、よろしくお願いします。




