057 撤退!
海を挟んだ先、工場地帯から黒煙が立ち上っている。
しかも見えるだけで、太い煙が三本。
「帰りたいけど、ちょっといまは無理だね」
駅は大混雑だろう。あの人数が駅に殺到したら、数時間は待たないと無理かも知れない。
「ヴァルトリーテ様に連絡してみるわ」
「俺も比企嶋さんに確認してみるかな」
周囲もスマートフォンに目をやっている人が多い。
どこかに連絡しているか、SNSやニュースを確認しているのだろう。もしくは、自分が発信源になっているか。
「もしもし、比企嶋さん? 祐二です」
『あら、どうしたの祐二くん?』
電話口から落ちついた声が聞こえてきた。
「いまユーディットと二人でお台場にいるんですけど、付近で不審な爆発が相次いだんです。工場地帯で複数の爆発があって、黒煙が立ち上っています」
『爆発? それも複数? もしかして……テロ?』
「爆発があったのは、コンビナートが見える工場地帯だと思います。海を挟んだ向かい側なので、詳しくは分かりませんが」
「ちょっとそれっ、大変じゃない! 二人は大丈夫なの?」
「いまお台場にあるフェスの会場にいるんです。帰ろうにも、客が駅に殺到して身動きがとれなくなってしまって……俺も肘を怪我しちゃって」
『祐二くん、大丈夫なの? いま港区にいるから迎えに行った方が良さそうね。ちょうどヴァルトリーテ様を送り届けようと思っていたところだし』
「そうですか。車で迎えにきてくれるなら助かります」
『ここからなら、三十分くらいかしら……いまヴァルトリーテ様からオーケーが出たわ、すぐに行くわね』
「助かります!」
宣言通り、比企嶋はものの三十分で指定した場所にやってきた。
「さあ、乗って」
助手席に祐二、後部座席にユーディットが乗り込んだ。
「来る途中、煙を見たわ。二人とも現場にいたんでしょ。どんな感じだった?」
「最初、近くで大きな爆発音がして、地面が揺れました。何がおきたんだと周囲を見回したら、海を挟んだ工業地帯で、爆発が何回か起きたんです」
「車からだと、煙の元は見えなかったからあれだけど、ただの火事とは思えないわよね」
「そうですね。この正月ですから工場は稼働していないでしょうし、無人だったんじゃないですかね」
「なるほどね。だとすると、いかにもテロって感じだけど、ニュースではどうなってるかしら」
ラジオをつけると、臨時ニュースをやっていた。
埋め立ての湾岸地帯で、原因不明の爆発が複数あったことと、付近の道路が渋滞、交通ダイヤも乱れているとアナウンサーが喋っている。
「原因についてはまだ何も言ってないですね」
「消火活動が終わったら、人の流入を制限してから原因究明かしらね。どこぞの組織か団体が犯行声明を出せば、話が早いんだけど……」
「叡智の会に確認を取ったわ。情報は入ってないそうよ」
後部座席の方から、ヴァルトリーテの声が届いた。
叡智の会から注意喚起があったが、日本は黄昏の娘たちの行動範囲ではない。
彼らが日本でテロを起こす意味はほとんどないだろうとのこと。
(だとすると、あれは誰がやったんだ? 目的はなんだろう……?)
一体だれが無人の工場やビルを爆破したのか。そしてその目的は?
テロか、会社に恨みを持った者の犯行か。
車の中でラジオを流し続けたが、それ以上の情報はなかった。
比企嶋が運転する車は、無事祐二の家に着いた。
――ダックス同盟 日本支部
ダックス同盟が日本へ進出した理由はいくつもある。
一番大きな理由は、日本がいまだゴランの勢力下でなかったこと。
米国を発祥としたダックス同盟は、欧州でゴランとシェア争いを演じ、負けに負けていた。
もちろん投資した分だけシェアを確保しているが、投資金額に見合うものではなかった。
そもそもゴランは、叡智の会の隠れ蓑。
表だって活動できない叡智の会に変わって、各国の支援を受けて活動しているのだ。
長い活動の歴史があり、国家ぐるみで支援体制が整っているゴランに商業戦争を仕掛けても、勝てるわけがないのだ。
ダックス同盟は、そのことを知らない。
米国政府のトップたちも投資家の集まりであるダックス同盟に、魔法使いの存在を教えていない。
彼らは信念もなく、ただ富を集めているだけの集団である。
自分が知り得た情報を自身の金儲けにしか使わないような連中と轡を並べて戦うことはできない。
つまりダックス同盟が、魔法使いや叡智の会について知る機会は、今後もない。
それゆえダックス同盟は、なぜ自分たちがシェア争いで負けるのか、不思議でしょうがなかったのだ。
欧州での戦いを避け、まだゴランの影響力の少ないアジア……中でも商業規模の大きい日本に進出したのは、当然な流れだったかもしれない。
日本に拠点をつくるため、複数のファンドが初期に五十億ドル投資した。
この試みは概ね成功し、いくつかの拠点と政界の野党議員と太いパイプを手にすることができた。
そのコネで根回しをはじめ、中小企業の買収作業へと邁進していった。
ここまでは順調だったと言っていい。
ひとつ誤算だったのは、中小企業といっても会社規模はそれなりに大きく、ひとつの会社を手に入れるのに、多大な資金が必要となることだった。
追加の資金調達が必要になったものの、計画を修正する必要はなかった。
派手にやると経済界で話題になるため、ひっそりと行うのだから、ゆっくりと時間をかけて投資していけばいいだけだった。
彼らは巧みに動いた。特異な技術を有し、有益な特許を持っていた企業は、軒並みダックス同盟に吸収された……はずであった。
だが、最後の一歩で失敗した。
日本政府の対応が早かったことと、ゴランが積極的に介入したせいだ。
政府はゴランと手を組み、ダックス同盟の排除に動いた。
借金で首の回らなくなった企業に対しては救済策を提案し、株の取得による経営権の奪取に向かった企業に対しては、ゴランがホワイトナイトとして立ちはだかった。
彼らからしてみれば、「なぜこんな不公平を!?」と思うだろう。
日本政府とゴランが協力してダックス同盟と対峙。
政界と財界が一丸となって巻き返してきたことによって、ダックス同盟の日本進出計画は、大きく後退してしまった。
このまま撤退しては、損ばかり大きくなる。
かといってここで損切りしないと、底のないドロ沼闘争が始まる。
そうなれば引くに引けなくなり、金を投下し続けることになる。
どうしたらいい?
彼らは一計を案じた。
「憎き日本政府に一矢報いるため、為替相場を円安に誘導する!」
彼らはいま、かつてないほど追い込まれていた。
年明けに、円での支払いが多数発生するが、現金が底をついてしまったのだ。
本国から追加融資は断られた。
ファンド仲間からドルを融通してもらうしかないが、ここで問題なのは年明けに支払うことになっている金が円であること。
1ドル100円の為替相場ならば、1億円を支払うには100万ドル必要になってくる。
もしこれが、1ドル150円の円安ならば、66万ドルで済むのである。
日本政府に一泡吹かせ、支払う金額、つまり米国のファンドから借り入れる金額を少しでも少なくするために円安へ誘導したい。
そこで考え出されたのが、日本の社会情勢不安による円安への誘導措置である。
為替市場が始まる前、つまり正月のうちに事件を起こせばいいのだ。
日本は危険だとばかりに、投資家が日本から逃げていく。
投資家が円を売り、ドルを買いに走るだろう。
できるだけ安い費用で社会不安を煽りたい。
そこで彼らが考えたのが、今回のテロであった。
テロ組織に狙われるような国に投資したいとはだれも思わないはず。
これで計画は完璧だと彼らは高笑いした。
為替取引が始まるまで、あと一日。
――ドイツ カムチェスター家
お台場で爆発が起きた日の夜。
ヴァルトリーテは、フリーデリーケに電話した。
ドイツではちょうど昼を回った頃である。
「……というわけで、こっちは大丈夫よ。そっちはどう?」
もしかして心配してるかもしれないと考えたヴァルトリーテの親心である。
「大丈夫よ、お母様。こちらは平和そのものよ」
「そう。正月に一緒にいられなくてごめんなさいね」
「ううん。屋敷にはベラルトもいるし、寂しくはないわ」
「でも安否が確認できてよかったわ。こっちはテロと決まったわけではないけど、身の回りには注意しておくから、あなたも十分気をつけなさい」
「はい。それはそうと……お母様」
「なにかしら?」
「爆発がおきたとき、お母様は別のところにいたんでしょ?」
「そうよ」
「すぐ近くにユージがいたって聞いたけど、大丈夫なの?」
「ああ、そのことね……それはもちろん……えっと、そうね。ユージさんのことよね。もちろん気になるものね」
そう言ってヴァルトリーテは、祐二を迎えにいったときのことを娘に語った。




