【閑話03】 秀樹のニヤニヤが止まらない(1)
「……行っちまったな」
谷岡秀樹は、走り去る車の後ろ姿を眺めた。
去年あたりから、祐二はとても忙しそうだった。
何かあるとは感じていたが、本人が話すまで聞かないことに決めていた。
英語とドイツ語を話せるようになったと聞いたときには唖然としたが、祐二ならできるのではないか。
そんな風に思っていたので、「がんばったな」とだけ伝えた。
何か目標ができて、そのために英語とドイツ語が必要なのだろうと考えていた。
それがまさか、叡智大への入学準備だとは、秀樹も想像できなかった。
「……ふう、私もがんばりますか」
壬都夏織が何やら気合いを入れている。
「そういえば……」
ふと秀樹は声を漏らした。
夏織が秀樹の方を向く。
「どうしたの、谷岡くん」
夏織は秀樹の名前を覚えていたらしい。
一年生のとき、祐二ともども夏織とは、同じクラスだったのだ。
「いや……そういえば、壬都さんも叡智大を目指しているんだったよね」
「そうなんだけど……なんかそれ、みんなに言われるのよね」
困ったことにと、夏織は苦笑した。
「そりゃ……あのスーパースターが毎日言ってるから」
「うーん、困っちゃうわよね」
首を傾けた夏織は、何だかふてくされているように見えた。
スーパースターこと強羅隼人は、初詣のときにナンパした巫女から聞いたと、周囲に吹聴している。
ナンパしている姿を見た同級生もいることから、それは真実なのだろう。
「なんで叡智大に?」
夏織ならば、軽々受かってしまうのではないかと秀樹は思う。
「うふふ……それは秘密なの。でも、どうしてもって言うなら、ある交換条件で、少しだけ教えてあげてもいいかな」
「どうする?」と顔を覗き込んでくる夏織に、「ああ、そりゃみんな恋に落ちるわ」と、妙に納得した。
こうやってスッと胸の内に入ってくるのだ。
どんな男でも、メロメロになること請け合いだ。
「交換条件が何か知らないけど、オレはもちろん、オーケーだぜ」
「そう? だったら、連絡先を交換しましょう」
「……へっ?」
「谷岡くんは、如月くんと親しいんでしょ」
「……ああ。三年間、同じクラスだったしな。互いに腐ってる縁だって呼び合うくらいには、親しいと思う」
「今日の見送りもそうだし、驫木神社のお祭りにも一緒に来てたくらいだしね」
「なんで知って……」
去年の夏、秀樹は祐二を夏祭りに誘った。
その時のことを夏織は知っていたようだ。
「だったら、ときどきでいいから如月くんの情報を教えてくれるかな? もちろん、友情が壊れない範囲で構わないから」
つまり、秀樹と連絡先を交換するのは、祐二の情報を得るためのようだ。
「いいぜ」
もちろん秀樹は即答する。
「じゃ、さっそく」
夏織と秀樹は、互いの連絡先を登録した。
(まさか、『姫』と連絡先を交換出来るとは思わなかったな)
秀樹は、おもわず顔がにやけてしまった。
「よかったわ。ちょうど向こうの様子を知りたいと思っていたの」
「だったら、アイツに直接連絡先を交換すればよかったんじゃ?」
その方がよっぽど手っ取り早い。
だが、夏織は首を横に振った。
「ノイズを入れたくなかったのと、家の事情かしら。私にも考えていることがあるから」
「……?」
「あそこは少し特殊なのよ。なので、真っ新な状態で行きたいというか、自分の目で判断して決めたいというか」
「うーん……向こうに派閥があるとか?」
「あっ、それ、いい表現ね。そのようなものだと思ってくれていいわ。向こうに行くまでは、しがらみのない状態でいたいと思ってね」
「よく分からないけど、まあ、そういうことなら」
「ふふっ、ありがと。……それでね、私が叡智大を目指した理由なんだけど」
「……う、うん」
核心に迫ってきたと、秀樹は唾を飲み込んだ。
「父と叔父、そして大叔父が叡智大の出身なのです」
どう? 驚いた? と夏織ははにかんだ笑みを浮かべた。
「なっ、なんだってぇえええ!?」
もちろん秀樹は大いに驚いた。
「大っぴらに話して回ることじゃないから、内緒ね」
夏織は「しぃー」っと人差し指を口に当てた。
「まさか……えっ? ホントに?」
「もちろん、本当よ。だから私も家族が出た叡智大を目指しているの。どう? 分かったかしら」
「ああ……すごく、よく分かったぜ」
家族が何代にもわたって叡智大の出身ならば、目指すのはおかしくない。
親の出た大学というのは、子供にとって憧れのひとつなのだ。
「というわけで、ウチで働いている巫女さんは、その辺のことを知っていたのよね。家族内で普通に話していたし。だからつい、漏らしちゃったんだと思うけど、結構広まっちゃたのよね……」
「なるほど、家族内の会話を聞いて知っていたら、そりゃ……」
巫女が迂闊だったというよりも、スーパースターのナンパがうまかったというべきか。
どちらにしろ、秘密だとは思っていなかったに違いない。
「あのね、谷岡くん」
「なに?」
「今日のこと、いろいろ秘密ね」
「いろいろって言うと、祐二のことも?」
「そう。きっと学校的には、ただの海外留学ってことになると思う。それといま私が言った話もすべて二人だけの秘密」
「わ、分かった」
まさか、夏織と二人だけの秘密ができるとは、秀樹は夢にも思わなかった。
それもこれも祐二が叡智大に進学したせいであるし、夏織が陽キャの距離感で、秀樹と接しているからだろう。
「ふふっ、約束ね。絶対に破っちゃだめよ」
「も、もちろんだぜ」
「ありがと。……じゃ、私は行くね」
また学校でと、夏織は去っていった。
それを呆然と見送ったあと、秀樹は手で口を隠し、地面を向いてしゃがんだ。
「マジかよ。姫と連絡先を交換しちゃったじゃねえか」
何度見ても、夏織の連絡先が登録されている。
幻ではなかったのだ。
それをじっと眺め、秀樹は今後の高校生活に思いを馳せる。
祐二からの連絡はちゃんと夏織に送ろう。そう心に誓うのであった。




