005 驚きの提案
「日本政府の決定で、一年早く入学って、どういうことですか?」
「企業秘密です」
比企嶋は、人差し指を唇に当てた。
「いやいや、そんな冗談はやめてくださいよ。俺の一生に関わることなんですって。日本政府の決定は分かりましたから。でも、理由はあるんですよね。それをちゃんと説明してください」
「祐二様のおっしゃることはもっともです。ですが、理由については秘密とさせていただきます」
「比企嶋さん、ふざけている場合じゃないんです。本当のことを言ってください!」
「本当ですよ。国の最高機関の意志ですね。有り体にいえば政治家や官僚のトップが祐二様を一年早く通わせることに決めたのです。私たち統括会にも、覆す権限はありません」
「なぜ政治家や官僚のトップが、俺の進学を気にするんですか? 比企嶋さん、何か隠していますよね?」
あくまで理由を告げない比企嶋に、祐二はイライラした。
「もし隠していたら、どうなのです? 祐二様は進学を辞退されますか?」
「できるんですか?」
「無理強いはできませんので、泣く泣くですけれども、私は諦めます。ただ……」
「ただ……?」
「納得されない方もいらっしゃるでしょう。その方は、祐二様のもとへ足を運ぶかもしれません」
「もしかしてまた、官房長官が説得に来るのですか?」
「いえ、その上の」
「その上ってまさか……この前官房長官も言ってましたけど、まさか総理大臣なんて言うんじゃないですよね」
さすがにそれはありえないですよねと、祐二が念を押す。
「忙しい方ですし、ほんの月に二、三度、遊びにくる程度ですよ、きっと」
比企嶋は否定しなかった。
祐二の顔が強ばる。
「困ります! 兄ならまだしも、俺は総理大臣と会っても、話すことなんて何もないですからっ!」
「それは困りましたね……」
比企嶋はしなやかな指を頬に添え、思案顔をする。
「総理で無理とすると……それより上のお方にご登場を願うしかなくなります。その場合の調整は、だれがするのでしょうか。本当に困ります」
「えっ?」
「ですが、総理が膝を折って頼み込めば、かしこきあたりにおかせられましては、動いてくださるかもしれません」
比企嶋の言う『総理大臣より上』に、祐二は心当たりがあった。
「まさか、千代田区にある」
「さあ……確かめてみますか?」
祐二は勢いよく首を横に振った。明らかにそれは、開けてはいけない箱なのだから。
比企嶋にそんな権力があるとは祐二も思っていない。
だが、官房長官と外務大臣が揃って如月家にやってきたのは、つい先日のことである。
少なくとも彼らは本気なのだと、祐二が理解するのに十分な出来事だった。
その上はもうないと思うのは早計である。
「……分かりました。一年早く進学します」
「分かっていただけて嬉しいです、祐二様」
極上の微笑みをうかべる比企嶋に、祐二は背中が薄ら寒くなった。
絶対に何か隠している。
それだけは確信できた。
――ドイツ南部 ラーベンスブルクの町
町から郊外に延びる一本道。
その先に、ひときわ大きな屋敷がある。
屋敷は、ドイツ貴族であるカムチェスター家の持ち物だ。
広い敷地には、手入れの行き届いた美しい庭があり、古めかしい噴水と綺麗な薔薇園が見てとれる。
庭の片隅にある石畳を歩く二人の女性。
一人は先月、カムチェスター家の新当主になったばかりのヴァルトリーテ。
流れるような金色の髪と、きめ細やかな肌を持つ女性で、年齢は三十七歳ながら、三十代前半でも通用しそうなほど若々しい。
もう一人は、その母であるエルヴィラ。
ヴァルトリーテより幾分背が低いものの、まだまだかくしゃくとしている五十五歳。
ややくすんだ金髪を後ろに束ね、眼光は猛禽類を思わせるような鋭さを持っていた。
「あの子はまだ部屋から出てこないのかい?」
「ええ。……申し訳ありません、お母様」
「アンタが謝ることじゃないよ。……それで、医者はなんと?」
「お医者様は、心因性のショックで塞ぎ込んでいると」
ヴァルトリーテの言葉に、エルヴィラは大きなため息をついた。
「父親の死を間近で見て、ショックを受けたのは分かる。だけどね、時は待ってはくれない」
「はい。そのことは、あの子も重々承知しています」
「後継者なしでは、魔導船が維持できない」
「……ええ」
「葬儀は済ませたし、当主就任も終わった」
「はい」
「だけどね、終わったのはそれだけ。アタシたちには、使命がある」
「分かっています」
エルヴィラが一方的に喋り、ヴァルトリーテが言葉少なに頷く。
この母娘の会話を老境に差し掛かった執事が、遠くから見つめている。
庭師は早い段階から、姿を消している。
母娘の会話は続く。
「早いうち、魔導船の後継者を見つけなければならないんだよ。それができなければ、魔導船は自壊する。アタシはもう、あんな姿を二度と見たくないね」
「見つかるでしょうか」
ヴァルトリーテが不安そうに尋ねた。
「見つけるしかない。分家の中にも候補は何人かいるが、すぐには無理だ」
「はい」
「素質でいったら、あの子が一番さね。成長すれば、魔導珠に最後まで魔力を注げられるかもしれない。だけど、成長を待っている時間はない。違うかい?」
「いえ、違いません」
「栄光なる十二人の魔導師の一人であるカリアッハ様の血を引き、一定以上の魔力を有している者をすぐに見つけ出さねばならない。アタシたちは何をすべきだい?」
「すべての分家に、当主の名で伝えました。名乗り出る者がいるかもしれません。他に手があれば、それをします」
「……ふう。クリストフが生きていていればね……あの子が成長するか、分家から優秀な婿を取るまで待てたのだけど、そんな余裕はなくなった」
エルヴィラは大きく顔を歪め、憎悪の篭もった目で虚空を睨んだ。
「クリストフを襲ったヤツらには、いつか報いを受けさせるさ。黄昏の娘たちには、相応しい地獄を見せてやる。絶対にだ。草の根を分けてでも探し出すし、アタシたちが本気だということを骨の髄まで分からせてやる!」
先月、カムチェスター家の当主を狙ったテロがあった。
魔界で二ヶ月間の任務をこなし、久し振りに実家へ戻ってきたクリストフは、娘にせがまれて、町へ買い物に出かけた。
護衛はいた。
だが、マシンガンの銃撃を前にしては、護衛が何人いようとも意味はなかった。
魔法使いは万能ではない。
鉛の弾が相手では、いかな魔法とて無力である。
父親にできるのは、一緒にいた娘を庇うことだけ。
フリーデリーケは父親に庇われながら、愛する父が息を引き取る姿を目にしてしまった。
以来彼女は、部屋から出ようとしない。
心の痕はいまだ大きく、そして深いのだ。
「心の病は分かった。だけど、それとこれとは話が別だよ」
「ええ、分かっています、お母様」
ヴァルトリーテとて娘のことは心配だ。
だが、それ以上に心配なことがある。
「カムチェスター家の魔導船はいま、所有者がいない。唯一魔力を供給できる船長が不在なのだ。このままでは、船を維持する魔力が尽きて自壊する」
「ええ」
「そして我が一族で、一番魔力があるのはあの子になった」
「もしかしたら、まだ他にも……」
「いるかもしれないが、期待薄だとアタシは考えている。あらゆる手を尽くしても駄目だったんだ。簡単に見つかるとは思えない」
「では……魔導船を機能停止させるしか方法はありませんね」
ヴァルトリーテの言葉に、エルヴィラは難しい顔をした。
「たしかに魔導船の機能を停止させれば、かなりの魔力が温存できる。一年は持つだろう。だが、それで何になる? 次に励起させるには、新しい船長の魔力で満たされた魔導珠が必要さね。あの子にそれができるかい? できなければ、アタシらはご先祖様に顔向けができなくなる」
エルヴィラは大袈裟なことを言っているのではない。
ヴァルトリーテもそのことはよく分かっている。
「ですがあの子の心はまだ、癒えていません」
娘は父親を亡くしたばかり。その尻を叩くことはしたくない。
少なくとも今だけは、そっとしておいてあげたい。
ヴァルトリーテは、そう思うのであった。
「アタシだって孫娘は可愛い……でもねえ」
そこまで言って、エルヴィラは黙った。
フリーデリーケは、カムチェスター家唯一の希望である。
彼女がその気にならなければ、魔導船の自壊は免れないのである。
「お母様……」
「猶予は1年だよ。それは覚えときな」
「はい」とヴァルトリーテは神妙に頷いた。
実は、この作品には挿絵が各章5枚程度(全体で30枚くらい)あります。
イラストレーター様にはすぐに連絡がつく(というか最近話した)ので、掲載許可を得ようかと思ったのですが、イラストは買い切りなので、某サイトの元社長に話をしないと駄目なことに気づきました。
お願いすれば、おそらく掲載許可が出ると思いますが、いろいろ考えて挿絵はなしということにしました。