012 登場は突然に
「それで比企嶋さん、なんでここにいるんですか?」
「ただの休暇です、祐二様」
祐二が滝を見てから旅館に戻ってくると、ロビーで日本酒を手酌している比企嶋がいた。
小瓶が二本、すでに空になっている。
「信じるわけないじゃないですか。今度は何を企んでいるんですか?」
「本当に休暇ですよ。ちゃんと有給申請もしています。統括会の業務とは何の関係もありません」
「…………」
それを額面通り信じるほど、祐二はお人好しではない。
だが、ここで追及しても、はぐらかされるだけだろう。
「祐二様は好きにされて結構ですよ。私も好きにしますので」
「……分かりました。俺は温泉に入って、部屋でゆっくりすることにします」
「どうぞ、ごゆっくり」
手の代わりに、比企嶋は徳利を振った。
言葉通り、祐二は温泉に向かった。
離れの露天風呂が使えるというので、着替えとタオルを持ってそこへ向かう。
「……あの二人、どういうつもりだったんだろう?」
祐二はこの温泉旅館の娘、飯綱と伊吹のことを考えた。
二人に連れられ、祐二は滝を見てまわったが、実のところ、それどころではなかった。
ふたりとも祐二にベタベタと身体を密着させてくるのだ。
鼓動が早くなり、顔が赤くなって、観光どころではなかった。
「秘境の散策と、滝は感動ものの絶景だったんだけどなぁ……」
景色を楽しむ余裕も、余韻を味わうヒマもなかった。
いくらなんでも、あれが通常の接待でないことは、祐二にも分かる。
人気のない場所でグイグイと身体を密着させてくるのだ。
祐二が変な気を起こしたらどうなったことか。
そもそもそれを狙っていたフシすらあり、祐二は湯に浸かっているにもかかわらず、身体が冷えた気がした。
「比企嶋さんの行動も謎だし、何がなんだか」
高二になってから、祐二の周囲がおかしい。通常ではないと思う。
そして祐二だけが、その理由を知らない。
そんな感じだ。
「とりあえず、考えるのは止めよう。ここでは心と身体を休めて、リフレッシュすればいいんだから」
祐二は身体を洗うため、湯船から出た。
――ガラッ
不意に木戸が開いた。
祐二が目をやると、旅館の女将、野滝が立っていた。しかも裸で。
いや、手ぬぐいで一応隠している。胸の下を少しだけ。
隠れているのはへそのみ。防御力でいえばゼロに等しい。
「えっ? あれっ?」
「背中をお流ししますわ、祐二様」
その言葉で、野滝が間違えて入ってきたのではないことが分かる。
「あの……その」
すべて見えていますとも言えず、祐二は下を向く。
「さあさあ、遠慮せずにどうぞ、お座りになって」
祐二を座らせ、野滝は後ろに回る。
手近なポンプから液体せっけんをプッシュし、それを祐二の背中に塗りたくる。
両手をゆっくりと拡げ、顔を祐二の耳元に近づけた。
「かゆいところがあったら、言ってくださいね」
「あ、あの……」
「どこがかゆいのかしら」
「ち、違います……その……あ、当たって……ます」
祐二の背中に密着した野滝は、ふふふと笑い。
「当ててるのだけど……嫌かしら」
後ろから祐二の胸に手を回し、野滝はまたもや耳元で囁く。
「……っ!」
祐二が何かを答えるより早く、木戸が勢いよく開かれた。
「――ジャーン! お邪魔しにきました」
自ら発した擬音とともに登場したのは、胸と腰に手ぬぐいを巻いた比企嶋だった。
「ちょっと、アナタ!」
野滝が抗議の声をあげる。
「私の地獄イヤーが、祐二様の危機を察したのです」
「何言ってんのよ! どうせ指向性マイクで盗聴してたんでしょ。統括会はこれだからっ!」
「何のことか分かりません。それより祐二様、前は私が洗って差し上げます。さあこちらを向いて、開けっぴろげてください!」
「嫌です」
「それはつれないですね。背中はいいんですか?」
「背中も必要ありません」
祐二は、ようやくいつもの調子を取り戻した。
野滝が比企嶋を睨みつける。
比企嶋は「ニヤリ」と笑い、追い打ちをかけた。
「それと祐二様、あまり密着されると、心が乱れてふいに『視える』こともあるかもしれませんよ」
「みえるって、ちゃんとタオルで隠してますけど……えっ?」
首を傾げる祐二の後ろで野滝が息を呑む。
「企業秘密です……よね、鬼島様」
「…………」
野滝が恨みがましい目で比企嶋を睨む。
「とりあえず、俺はもう上がりますね」
祐二は前だけを隠して、出て行ってしまった。
「あーあ、せっかく身体を洗って差しあげようと思ったのですが、祐二様は意外とウブなのですね」
比企嶋が残念そうにつぶやく。
部屋に戻った祐二は「ヤバい、ヤバい」と何度も呟き、「どうすれば?」と布団の中で自問した。
結局、このことが原因で、祐二は一日早く帰還した。
ちなみにこの四連休、祐二が飛騨に一人旅している間に、秀樹はくだんの彼女にフラれたらしい。
「卒業後、親戚の工場で働くつもりだって彼女に言ったら、ドン引きされたんだよ。それから連絡が来ないんだ。ブロックされてるみたいだし……なあ、どうしたらいいと思う?」
土産を渡しに行った祐二に、秀樹は長い愚痴を吐き出した。
――統括会 東京支店
「……というわけで祐二様は、一日早く帰還することになりました。暴走したゆえの自業自得ですね、いい気味です」
比企嶋の言葉に、支店長の塚原は苦笑いを浮かべた。
「いいのかい? 一応あれは、政府肝いりの企画だったはずだけど」
「無理強いするなと念を押したのに、グイグイ迫ったのは探女の方です」
比企嶋はしれっとそんなことを言う。
「もしかして探女の能力が効かないのは、分かっていた?」
「その可能性は高いと考えていました。探女……昔の『サトリ』ですか。彼女たちの能力は、魔力を媒介とした精神感応です。魔力の多い人には効果はないでしょう」
「最近、ゴランの幹部が来日したときにも呼ばれたと聞いたけど、それじゃあ」
「ええ、経団連が高い報酬を約束して呼び寄せたようですが、おそらく無駄骨だったかと。そもそも身近にお相手候補がいるのに、祐二様をわざわざ秘境に向かわせる必要はないのですよ」
「お相手候補? ああ、壬都家か。あそこはゴラン寄りだしね。政府としては、できるだけ自分たちと繋がりのある家に入ってほしいのだろう。壬都家には同い年の娘さんがいたよね」
「偶然ですが、祐二様と同じ高校です」
「比企嶋くんは、彼女とくっついた方がいいと考えている?」
「そうですね。統括会……いや、叡智の会の利益を考えるのでしたら、二人がくっつくのは賛成です。壬都家は活躍期間こそ短いですが、日本で唯一Aクラスを輩出した家です。祐二様の婿入り先としては、最良ではないでしょうか」
もちろん、本人たちの気持ちが大事ですけど、と比企嶋は言った。
つまり今回の飛騨旅行、比企嶋は最初から潰す気でいたのだ。
「あまり政府と喧嘩しないでくれよ」
塚原は一応、苦言を呈す。
「大丈夫です。立場はちゃんと弁えています。現に祐二様のことは、叡智の会にも報告していないではないですか」
日本国政府から、叡智の会への連絡は時期尚早と言われている。
祐二がAクラスの魔力を保持していることは、叡智大に入学すればすぐに分かることであるため、塚原も比企嶋もその要請に従っている。
ただ、この猶予期間に、祐二を国内の有力な魔法使いの家系とくっつけようとする行為には、反対なのだ。
中型船すら操ることができる魔力を保持しているのだから、叡智の会でしっかりと貢献してもらいたいのが本音だ。
そもそも統括会は、叡智の会の下部組織。
比企嶋たちの給与もそこから出ている。
比企嶋たちが叡智の会の利益を代弁するのは当然のことで、たとえ叡智の会が各国からの供出金で運営されているからといって、日本政府の意見を尊重するものでもない。
「比企嶋くん、彼のことを壬都家に伝えるのは禁止だからね。間接的に叡智の会に伝わってしまうから」
「心得ております。日本政府からくれぐれもと釘を刺されていますので、その心配は無用です」
「それならいいけど……本当に頼むよ、フリじゃないからね」
「はい、それはもう、重々承知しています」
今度は比企嶋の方が苦笑した。




