第19話 悪役令嬢は仇を見つける
その日はライジングの合宿日であった。
合宿はおよそ十日間掛けて行われる。
そして合宿初日の練習メニューは……
遠泳だった。
「はぁ……クリストファーに習っておいて良かった……」
ぜぇぜぇと息を切らし、水から上がったフェリシアはしみじみと呟いた。
新キャプテンとなった、アーチボルトの主張はこうだ。
新メンバーとして加わったクリスティーナ・ウォールドウィンのためにも、今年は去年と同様に体力をつける練習メニューをやりたい。
しかし長距離を走るだけというのは、どうしても“飽き”と“慣れ”が発生する。
それに足の筋肉ばかり鍛えても仕方がない。
少し練習メニューの方向性を変えたい。
そこで彼が考えたのが『遠泳』である。
言うまでもなく長距離を泳ぐのには肺活量と体力が必要となる。
だから泳げば泳ぐほど、体力強化に役立つ。
加えて水泳は全身の筋肉を必要とするので、長距離走よりは(おそらく)全身を鍛えやすい。
そして空中を飛び回るラグブライと、水中を泳ぐ水泳は似ている(気がする)。
また今の季節は夏なので、冷たい水の中で泳ぐ方が、炎天下で走るよりは、肉体的な疲労も少なく、より長期間練習ができる。
……と、まあそういう理論である。
正直なところ、このアーチボルトの主張を聞いたフェリシアは「……推測が多くないか?」と思ったのだが、それを否定できる根拠を出すことができなかったので甘んじて受け入れた。
尚、遠泳をやる代わりに長距離走がなくなったかというと、そういうわけでもない。
むしろ余計にハードになっている疑惑がある。
そのせいか合宿が初めてのクリスティーナは死にそうになっていた。
可哀想に……
(というか、クリスティーナのためなら、練習メニューを優しくしてあげるべきなんじゃないか?)
もっとも、そのせいで生温くなるのはフェリシアにとっては不利益なので、そのことは言わなかった。
何だかんだでフェリシアもアーチボルトの同類だった。
「はい、これ……フェリシア」
「ああ……ありがとう」
フェリシアはアナベラからタオルを受け取った。
体を適当に拭きながら、日陰へと移動する。
遠泳と言ってもぶっ通しで泳ぐわけではない。
ある程度泳いだら、休憩を挟むことが決められていた。
アーチボルトはスパルタだが、無理はさせない。
限界ギリギリを見極めるのが得意な男だ。
……まるで領民から税を絞る領主のようではあるが。
「泳げるようになっておいて、良かったね」
「あぁ……それは本当に良かったぜ」
幸いにもライジングのメンバーの中に泳げない人は一人もいなかった。
尚、もし泳げない場合は遠泳の代わりに長距離走だったようだ。
長距離走と遠泳、どちらが辛いかと言えばどちらも辛いが、真夏の暑さを考慮に入れると長距離走の方が辛い。
(まあ……それに日焼けはないしな)
魔法学園のプールは屋内にある。
よって日焼けの心配がないのは幸いだった。
「ところでお前に話があるんだが……」
折角なのでフェリシアは休憩時間を使って先日のル・フェイの話をアナベラにすることにした。
お互いベンチに腰を掛け、そしてフェリシアはできるだけ分かりやすくル・フェイの話を要約して伝えた。
もっとも……『フェリシアが一番の当事者である』ということは、心配を掛けたくなかったので伏せたが。
「と、いうわけで……お前の“前世”とやらの名前を教えてくれ。別に差し障りはないだろ?」
「うん、良いよ」
アナベラは元気にそう答え……
それから無言になった。
そして首を傾げる。
「……私の名前、なんだっけ?」
「アナベラ・チェルソンだろ。ついに呆けたか」
「そっちじゃないよ!」
「安心しろ、今のは私の“ボケ”だぜ」
と、そんな小粋なジョークを挟んでから……
フェリシアは真剣な表情で尋ねる。
「本当に覚えてないのか?」
「いや……何か、こう……喉まで出掛かってるんだけど……うーん、タナカじゃない、スズキじゃない、サトウでもないし……」
散々唸ってから……アナベラはペロっと舌を出した。
「忘れちゃった」
「……」
フェリシアは真顔になった。
するとアナベラは慌てて言い繕う。
「い、いや、ふざけてるんじゃないんだよ? 本当に覚えてないの!」
「いや、まあ……嘘だとは思ってないぜ」
若干、ふざけたのは本当だろうなと思ってはいるが。
アナベラは真剣な話をしている時にふざけはするが、嘘は言わない……はずだ。多分。
フェリシアはそう思いながらアナベラに尋ねる。
「今までの人生で、自分の前世の名前を思い出す機会はなかったのか?」
「うん……だって使わないし」
「……まあ、そうだな」
今のアナベラは『アナベラ・チェルソン』なのだ。
前世で死んだ謎の女とは全くの別人である。
……と、そこでどうしてアナベラが自分の前世の名前を思い出せないのか、一つの仮説を思いつく。
「やっぱり、私の前世って嘘っぱちというか妄想というか、存在しないものだったのかな?」
「いや、お前の前世がお前の前世であるか否かはともかくとして、存在しなかったというわけではないと思うぜ」
ル・フェイはしっかりと、その目でゲームの実在を確かめたのだ。
ならばそのゲームで遊び、不幸な事故で死んだ女性もまた実在していると考えて良いだろう。
何を思ってアナベラに前世を埋め込んだのかもしくは『転生』させたのかは分からないが、一から記憶を捏造するよりは、誰かの実際の人物の記憶をコピー&ペーストする方が楽なのは確かだ。
「多分だが、『名前』はお前をアナベラ・チェルソンとして固定するのに不都合だったんだろう」
「……どういうこと?」
「名前を名付けるという行為は、もっとも原始的な魔法の一つだぜ」
フェリシアが使い魔の鼠に『カレット』と名付けた時。
フェリシアが両親から『フェリシア』と名付けられた時。
アナベラが両親から『アナベラ』と名付けられた時。
その時初めて、それはただの鼠から『カレット』に、人は単なる人から『フェリシア』や『アナベラ』へと変わる。
また名乗りを上げる時も同様だ。
お互いに名前を知らない状況では、フェリシアにとってアナベラはただの同年代の女の子だ。
しかしアナベラが自身を『アナベラ』と名乗ったことで、初めてフェリシアはアナベラをそこら中の一般的な女の子と区別して『アナベラ』と認識する。
命名とは、名前とは、世界から一つの対象を切り取り、区別する行為だ。
「つまり、どういうこと?」
「要するに……お前の前世の女の名前――仮称アーチボルトだとすると――が記憶に残っていると、お前は『アナベラ』ではなく、『アーチボルト』になっちまうってことだ」
「あー、それは嫌だな」
可哀想なのは勝手に例として出され、「嫌」と言われたアーチボルトだ。
なお、アーチボルトは先ほどからクリスティーナに対して熱血指導をしている。
フェリシアはそんな二人を見ながら「私もあんな時があったなぁー」としみじみと思った。
「でもそれって重要なの?」
「うーん、『名前』に関しては私も専門外だからな。でもまあ、運命がそれで決定するとも言われるし、お前の自意識が『アナベラ・チェルソン』か『前世の女』、どちらにあるかは、“そいつ”にとっては重要なことだったんじゃないか?」
別の世界の出身だけれど、今はこの世界の住民である。
今はこの世界にいるけれど、自分の故郷は別の世界だ。
この二つでは大きく価値観や行動が変わるだろう。
アナベラに前世を埋め込んだ“そいつ”は、前者でいて欲しかったと考えられる。
「何がしたいんだろうね? “その人”は」
「さあな……人かどうかは怪しいが……」
ル・フェイの考察が正しければ、何がしたかったのかはおおよそ見当がつく。
フェリシアを今の状態に持ってくること。
それが“そいつ”の目的だ。
その上で何をしたいかは見当も付かないが……
しかし“そいつ”がアルスタシア家を没落させたかったのは、確かであり、そして“そいつ”の計略通りにアナベラは動き、結果的にアルスタシア家を没落させた。
(……つまり私にとっては仇、というわけか)
フェリシアは思わず……自身の口角が上がるのを感じた。
アルスタシア家という家には、血統にはすでに興味はない。
今のフェリシアにはそのような“俗世”よりも、“真理”の方が重要だからだ。
しかし決して割り切れているわけではないし、恨みがないわけではない。
だがこの恨みをアナベラやブリジットに向けるわけにはいかない。
そのせいでフェリシアは怒りや憎悪のぶつけ所に困り、悶々とする日々を送り、時には物に当たったりしていたのだが……
これでようやく、“対象”が見つかった。
(どんな手段を使ってでも、見つけ出して、後悔させてやる……)
と、フェリシアがそう思ったその時。
「ひゃん!」
フェリシアの唇から思わず声が漏れた。
頬に冷たい物が触れたからだ。
「な、何をするんだ!」
冷たい物の正体は水が入った水筒だった。
アナベラがそれをフェリシアの頬に当てたのだ。
「水飲むかなと、思って」
「……そ、そうか。うん、ありがとう」
フェリシアはアナベラから水筒を受け取った。
そして……少し前から変な顔でこちらを見てくる男を睨みつける。
「さっきからこっちを見て、何の用だ?」
「い、いや……お前が変な声を出したから、何事かと」
そう言ってマルカムは頬を掻きながら目を逸らした。
フェリシアは気不味い気持ちになりながら、水筒の水を飲んだ。
アナベラはきょとんとしていた。
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