12
鼻先を何かがくすぐる。深緑の香りにそれが草だとわかり、徐々にまぶたを上げていくと視界の先に緑色しか見えない。
「あいたた……」
打ったらしく腰や背中が痛む。それでも体を起こして遠くまで見えるようになると、愕然とした。そこは私の知っている風景ではない。
青々とした芝生に生い茂る草花、木々たち。私の住む所では滅多に見なくなった自然がここにある。立ち並ぶ木々の奥には、夜空に輝く満月の光を透き通すような水晶の城が見え、明らかにここは地球ではない。となると思い当たるのは一つ。
「私、ライサンダー達の世界に来ちゃったんだ」
おそらく空間が戻る時、ライサンダーを追いかけていたせいでこっち側に落ちたのだろう。ずっと信じていた妖精や魔法のある世界、そこに今いる。嬉しくなって思わず飛び跳ねてしまう。
「すごい、すごい! ねっ? ねっ?」
この喜びを分かち合いたくて辺りを見回す。が、誰もいない。
坂上君も紗衣ちゃんも律君も、魔女やライサンダーすらいない。私は一人ぼっちだ。加えて帰り方もわからない。
普通こういう場面では不安になるべきだろうけど、どうしても好奇心や喜びが勝ってしまうのは、私の良くないところかもしれない。
「いや、でも嬉しいし、テンション上がりまくりでしょう」
一人ごちて頷く。
とりあえず帰るためには誰かの手助けが必要だろうし、力を貸してくれる人を捜さなくてはいけない。できればライサンダーを見つけて文句を言って、あわよくば助けてもらおう。
一人ぼっちの探検隊の結成だ。
ちょっと楽観的過ぎるかもしれないが、ピクニック気分で歩き出す。幸い遊園地に行くということで、動きやすい服装だったから歩き辛くはない。
随所にある色とりどりの花は、鈴の様な音を鳴らしたり、引っ張ったら伸びるのもあった。白亜の様な幹の樹にはパステルカラーの葉が生い茂っている。落ちている石すら宝石のように煌めいている。
私達の世界とは全く異なる植物を眺めながらぐんぐんと進んで行けば、本当に冒険に出た気分になってきて、思わず鼻歌もこぼれだす。
目的地はとりあえず水晶の城に決めてみた。
あそこなら絶対誰かいるだろうし、よく目立つから迷わないはずだ。城に住むのは大体王様で、だとすればライサンダーのいる確率も高いってもんだろう。王様は城の奥に引っ込んでるだろうし、こそりと動き回って、ライサンダーを見つけるくらいできそうだ。まぁ実のところそれは建前で、ただあそこに行ってみたいだけだったりもするけど。
空に月が出ているのだからこちらの世界は夜みたいだけど、不思議とそんなに暗くない。時折光る花や石があって外灯代りになっているのもあるが、月がとても明るいからだ。私達の世界の月より大きく見えるし、明るいんじゃないだろうか。
進むのを恐れないほどには足元が見えるおかげで、城への距離はどんどん縮まっていく。いつの間にか敷地内にでも入ったのか、森というより庭園と言えるくらいには、周りが整い始めていた。
「……いけ…せん…」
ふいにどこかで話し声がして、足を止める。
何が起こるかわからないのだから警戒した方が良いだろう。そっと茂みの陰に隠れて様子を窺う。
「いけませんわ。タイタニア様に怒られてしまいます」
「何、あやつは気になどせんよ。それに、そなたの美しさを前にして、どうして口説かずにおれる?」
黒髪の男が女の人を引き寄せる。まさに逢引の真っ最中で、お子様な私には目の毒。
「そんなことおっしゃって。わたくし、知っていますのよ。最近はハーミア様にご執心だと。噂になっていますわ」
「ただの噂よ。ハーミアはタイタニアの友人だ。加えて堅物ときている。いくら口説こうと心を預けてくれまいよ」
「まぁ! ではわたくしは簡単に預けるとお思いで?」
男女はくすくすと笑い合いながら、つかず離れずを繰り返している。私にはよくわからないけれど、これが恋の駆け引きというやつなのかもしれない。
見た感じ女の人は女官とか侍女とかなんだろう。髪は編み込んだアップスタイルにしているけど、飾りなどはしておらず、着ているドレスもシンプルで、色合いも藍色で落ち着いていて、スカーともあまり広がっていない。別の人を立てるような出で立ちだ。
それに反して男の恰好は「私は偉いです」と公言している。ゆったりとしたガウンは袖も布をたっぷり使っていてヒラヒラしてるし、裾、袖と金糸で意匠を凝らした刺繍が施されている。まとったマントも真紅で鮮やかだし重そうで、これで身分が低かったら分不相応だ。
やんごとなきご身分の使用人のつまみ食いってやつはどこにでもあるらしい。
とりあえず、この人達に見つかると面倒なことになりそうなのは確か。特に男の方は位もプライドも高そうで、関わり合いたくない。そっとこの場を離れようと動くと、なんてお約束なんだろう、お尻が隠れていた茂みにぶつかり音を立てた。
「誰だ? 誰かいるのか?」
男の方がこちらを見てくる。良くない展開だ。
「いるのなら出て来い」
声色が低く脅すようになるが、出るわけにはいかない。妖精の世界に人間一人、それが良いことではないことぐらい私にもわかる。息を止めてじっと動かず、あっちに行けと祈りながら気配を消すしかなかった。
「私の——王の命令がきけないのか?」
「王様!?」
言葉が勝手に口を出て、慌てて押さえたが間に合わなかった。
素っ頓狂な声を上げてしまい、もうここに人がいない振りはできなくなる。こんなことになるなら、猫の鳴き声でも何でもしておくべきだった。
王様といえばライサンダーを殺そうとしているヤツで、会いたくないヤツの筆頭だ。どう考えても友好的に「はい、帰してあげるよ」ってことにはならなそう。
どうしたら良いかわからず身動きできずにいると、王はゆっくり歩み寄ってきて、隠れていた私を見下ろした。目が大きく見開かれる。
「——人、間……?」
「人間? 人間って……誰か!! 誰か来てぇ!!」
まるで怪物でも見たような女性の叫び声で、たちまち人が集まってくる気配がする。きっと集まってくるのは騎士、もしくは兵隊とか武装した人達だろう。そんなのに囲まれるなんて冗談じゃない。下手すればその場で成敗されそう。逃げ出すしかない。
「待て!」
「逃がすな!」
案の定、不穏なものを携えた男達が集まってきた。
来た道を私は駆け戻り、どうせ道はわからないのだから無造作に色んな方向に走る。下手に一直線に逃げない方が撹乱できるかと思ってしたのだが、何とか上手くいったようで隙をついて木の陰に隠れることができた。
さっきまで楽しく見ていた自然は味方してくれて、木の脇にいる私に気付かず兵士達は走り抜けていった。まずは一安心かもしれない。
しゃがみこんで呼吸を整える。緊張や全力疾走のせいで喉がからからだ。
「全くあの人、人を化け物みたいに……!」
見た目的にはそんなに大差ないのに、すごい叫び様だった。これで角でも牙でも生えてるんなら納得できるけど、乙女盛りの思春期娘としては許せない扱い。それに、大体何で王様があんなところにいるんだ。王様は王様らしく、城に引っ込んで執務でもこなしていれば良いのに、よりによって使用人のつまみ食い。名君とは程遠そう。
イラつきながら空を見上げれば、月はまだ静かに輝いていて、先ほど見た魔女を思い出させた。
魔女は悪い人には思えなかった。というか、ライサンダーを助けようとしたんだから良い人だ。しかも二人は仕事仲間とか、そういう関係以上に親しげで何かありそう。それを無下にするなんてライサンダーに腹が立つ。しかも坂上君に負担もくると、どうして前もって言ってくれなかったんだろう。
「坂上君、大丈夫かなぁ……」
最後に見たのはまだ苦しげに倒れこんでいた姿。私のせいで辛い目に合わせてしまったし、折角彼が伝えてくれたことに対して、まだお礼も言えていない。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「無事でいてくれると良いんだけど……」
激しかった動悸も落ち着き、静けさを取り戻した耳に水音が届く。その音を聞けば、喉が強烈に渇きを訴え、引き寄せられるように音を頼りにたどって行くと、草に覆われた先に池を見付けた。
池は夜なのに青空を映したように透き通った色をしていて、不可侵の聖域のよう。触るのがためらわれて屈んで水を覗き込むと、綺麗な水は鏡のように私の姿を映し出した。
「ひどい顔」
髪はぼさぼさだし、走った時にやったのか、かすり傷、切り傷だらけで汚れてる。朝起きた時には、まさかこんなことになるなんて、思ってもみなかった。ここは夢にまで見ていた不思議の国だけど、今はすごくいつもの世界に戻りたい。
「私の顔じゃなくて、あっちの世界を映してくれれば良いのに」
なんとなくつぶやいただけの言葉。それに反応するかのように水面が揺れ、波紋が広がる。淡い光を湛えた奥に、ぼんやりと何かが映り始めた。
『鈴代はどこに行ったんだ?』
まだ疲労の残る坂上君の声が届く。水面には魔女に詰め寄る彼の姿が映っていた。
顔を覆って嘆いていた魔女はビクリと体を震わせると、ゆっくりと涙にぬれた顔を坂上君に向けた。
『おそらく、あちらの世界に……。彼の転移に引きずられてしまったのでしょう……』
魔女は疲弊した様子で、声もか細く頼りない。そりゃそうだ、人助けしたのに仇で返されたんだもん。
『助けに行かないと……! あんた、あっちの世界に行く方法知ってるんだろ? 連れて行ってくれ』
『無理です……。私はもうあちらには帰れない。戻ってもライサンダーは——!』
また泣き崩れる魔女を前に、坂上君は焦れたのか少しだけ語調が強くなる。
『泣くのは後にしてくれ』
彼の言葉に、魔女はまた体を震わせた。
『あんた達の事情は知らないが、鈴代は巻き込まれて、今、知らない世界に行っている。せめて、その責任くらい取ったらどうなんだ? それさえ終われば泣くなり、あのライサンダーだっけか? アイツをぶっ飛ばすなり、好きにすれば良い。殴るのなら手伝ってやる』
坂上君は拳を握り、請け負う。やっぱり無理矢理引っ張らされたのが、腹に据えかねているらしい。
それでも怒りに我を忘れず、厳しい言葉を掛けてはいるが、一応魔女の事も気に掛けてはいるらしい。彼なりの励ましなのだろう。
私のせいで大変な目にあったのに、それでもいなくなった私を心配して、助けに来てくれようとする。そんな彼を見ていると何だかくじけた心に光が灯る。
なんて優しい人なんだろう。
「坂上君」
届くわけがないと思いつつも呼びかけてしまう。
でもやっぱり届かなくて、彼は何とか魔女を説得しようと、色々訴えてるみたい。光は弱まったのに合わせて、声や映像もぼやけてしまい、もうはっきりとしていない。
「坂上君、ありがとう」
本当はきちんと目の前で言いたい。彼の目を見て言いたい。それは無理そうだから言葉だけ、届かないけどここから送る。
すっかり元の池に戻ってしまったのを見て、私は立ち上がる。
兎にも角にも元の世界に戻らなくてはいけない。まずは友好的な人を捜さなければ。まぁ、さっきの人達の様子を見たら、ちょっと難しい気もするけど、一人くらいはいるはずだ。
『——……の』
両手を握り締めて気合を入れたところで、また声がして、私は池を見下ろす。
もしかしたら、また坂上君達が映ったのかと思ったら、全然違った。
『そこの者、返事をなさい』
映っていたのは輝かんばかりの金髪に、サークレットを付けた美女だった。