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「ああ……。これでようやく、私はここを出れる」
事情の説明とか、そういうものはどうでもいいようで、ライサンダーは映し人を見つけたことに歓喜し、すぐにでも脱出する気だ。すっと手を横に広げると、私達を囲む鏡の全てにライサンダーの姿が映る。その中の一人が歌いだせば、呼応して他のライサンダーも歌い始め、すぐさま大合唱となった。
響くのは魂の歌で、この間聞いた時のような穏やかさが消えており、背筋に戦慄が走る。鏡もガタガタと音を立てて振動し、今にも割れそうだ。だが、そんなことお構いなしに歌はどんどん大きく、盛大に、厳かになっていく。
「なん……だ、これ……」
「坂上君!?」
坂上君が胸の辺りを押さえて膝をつき、うずくまる。額には脂汗が浮かんでいて、呼吸も荒くなっている。
「ライサンダー、やめて! 彼、苦しそうだよ!」
どれが本体だかわからなかったから、全部に向けて叫ぶ。けれど、どのライサンダーも何も反応を返してはくれず、歌い続けていた。どうしたらいいかわからなくて、私はうずくまる彼に抱きしめることしかできない。
「さぁ、私を引き寄せてください」
正面のライサンダーが一人だけ歌を止め、手を差し出した。
坂上君は相変わらず苦しそうなのに、ゆっくり手を鏡へ伸ばす。その行動は意思に反しているのか、体中が小刻みに震えている。
二人の手が重なると、鏡は淡い光を帯びて揺らめき、その揺らぎの中から悠々と、ライサンダーはこちらの世界へと歩み出て来る。そして踵を鳴らして、軽やかに降り立った。
「ああ……。これで戻れる」
両手を眺めながら開いたり閉じたりして、本当に助かったことを確かめ、天を仰ぐ。彼の目には鏡の前に倒れこんだ映し人が、映ってはいないらしい。
「坂上君! 坂上君、大丈夫!?」
もう胸は押さえていないが、息は荒く苦しそうなまま。まさかこんな風になるなんて聞いていない。
「ライサンダー、どういうことなの!?」
背を向けていた彼は、マントをなびかせながら振り返った。
「魂を引っ張って頂くのです。多少の負担は仕方ありません。でも随分と強い魂のようですね、それくらいで済んだのなら、大丈夫でしょう。さすが私の映し人」
最初会った時は王子様のようだと思った。おとぎ話から出てきたみたいだと思ったその雰囲気のカケラも、今の彼には見当たらない。その豹変ぶりに対応できず、間抜け面をさらしている私の姿が鏡に映り、目が合った。
鏡の向こうの私は、哀しそうに目を伏せる。
だが、それはおかしい。私は目を伏せていない。目を大きく開いて、ずっと鏡を見ていた。
そして鏡の中の私の腕の中から、坂上君の姿が消える。何も抱えていない私はのっそりと立ち上がり、瞳を哀しそうに揺らしながら静かに右手を前に出し、鏡に押し当てた。
何が起こっているのか、不安で押し潰されそうで怖くて、まだ回復もしていない坂上君に助けを求めるようにぎゅっと抱きしめてしまう。そして、茫然と〝私〟が出てくるのを眺め続けた。
鏡と言う、そこにあるはずの破れない壁は意味をなさず、通り抜けてきた私はその姿は違うものに変えていた。
私よりもっと色が白く、私の髪より夜空のように漆黒で長く、その瞳はアメジストのように輝いている。言われなくても、何故だかわかる。
彼女が魔女だ。
思っていたよりずっと、魔女は美しく、儚げだった。
「ハーミア」
鏡の中から現れた魔女を見て、ライサンダーはゆっくりと腰に携えた剣を抜いた。
「ライサンダー……。どうして? どうして出てしまったのですか?」
震える声、悲哀の浮かぶ双眸、とても彼を閉じ込めた悪人だとは思えないほど、魔女は切なげだ。
「あなたはそこにいなければ殺されてしまうのに!」
「それが王の望みならば、喜んでこの首を差し出しましょう。王の意思に背くなど、許される事では無い。これは反逆です」
「違う! 私はただ、あなたを助けたかっただけなのです!」
魔女は今にもこぼれんばかりに涙をうかべながら、いやいやと首を振っている。憐憫を抱かせる様子に気を取られていると、坂上君がゆっくりと体を起こした。
「一体、どうなってるんだ……?」
疲労の浮かぶ様子で説明を求めてくるが、答えられず困惑する。
「わからない」
私はただライサンダーを助けたかっただけ。
彼は妖精の騎士で、悪い魔女に次元の狭間に閉じ込められて、助かるには映し人が必要。それは坂上君で、だからライサンダーは助かって魔女が現れた。でも——。
「——魔女もライサンダーを助けようとしたみたいなの」
しどろもどろで上手くできない説明だけど、坂上君はなんとか理解してくれたみたいだ。納得はしてないだろうけど。
「どっちにしろ、迷惑なやつらだ」
一番被害をこうむった身としては当然の感想だが、その片棒を担いだ私としては少しだけ居たたまれない。
「ライサンダー、お願いです。どうかまたあの場所へ戻ってください。でないと王はあなたを殺そうとするでしょう」
急に風が巻き起こる。
魔女の起こした風はライサンダーを中心に渦を巻き、彼を鏡の中へ押し戻そうとしているようだった。
あまりにも強い風に吹き飛ばされそうになり、ふらふらしている私の頭を坂上君が押さえつけ、自分ごと伏せた。彼の呼吸が耳元で聞こえる。
風は収まるどころか強さを増して竜巻と化し、ライサンダーの姿を覆い隠す。しかし一閃、ライサンダーの太刀筋が光となって縦に走った瞬間、風の渦はバラバラに弾け飛んだ。
「ハーミア、無意味です」
風を切り裂き、剣を高く掲げた騎士が姿を再び現す。魔女は少しだけひるんだが、かぶりを振ると両手を大きく広げた。
鏡が派手な音を立てて粉々に弾け飛ぶ。同時に迷路は紺碧の異空間へと塗り替えられ、鏡の破片は星のように瞬き始めた。その星が集まって帯になり、ライサンダーを捕らえようとうねり行く。それを剣で造作もなくいなすのは、やはり騎士という感じだ。どの光の蛇も、ライサンダーを捉えることはできない。
ライサンダーは避けながら間合いを詰め、一気に魔女へと踏み込む。薙いだ剣を避けてバランスを崩し、倒れこんだ魔女の喉元に切っ先が突きつけられた。
「ライサンダー……」
魔女は諦観の混じる懇願のまなざしで、今にも自分を殺そうとしている人物を見上げる。しかしライサンダーは非情に告げた。
「ハーミア、謀反の疑いであなたを誅殺します」
「止めて!」
反射的に坂上君の腕の下から抜け出し、自分でもわからないうちに魔女の前に立ちふさがっていた。振り上げられた剣が、かすかに揺れる。
「ライサンダー、ダメだよ、止めて! 魔女が悪い人には見えないもん!」
それどころかライサンダーを助けようとしていたみたいなのに、どうしてそんな人を殺そうとするんだろう。そんなの絶対ダメだ。
「綾、彼女は王に背いたのです。それは許されることではない」
「その王様ってライサンダーを殺そうとしてるんじゃないの? なら彼女は助けてくれたんじゃない! 感謝するべきだよ」
足が震える。掲げられている剣は、いとも簡単に命を奪える本物だ。体がすくんでしまうけど譲ることはできない。魔女を助けたいという不思議な感情が、私の中に溢れかえっていた。
「アヤ」
ため息交じりに呼びかけられる。
「これは我々の世界の問題です。あなたには助けて頂き感謝しています。ですが、これは別の話。そこをどいてください。一緒に切り伏せますよ」
「嫌だ! どくもんか!」
「鈴代、戻って来い……!」
まだいつものように動けない様子の坂上君が私を呼ぶが、ここを退くわけにはいかない。どいてしまえば剣が魔女の命を奪ってしまう。振り上げられた剣が妖しく光るのが目に入り、迫りくる恐怖と痛みに備えて強く、強く瞳を閉じた。
金属音が耳に響き、私はゆっくりと目を開いていく。剣はライサンダーの腰にある鞘に戻されていた。
「恩人に仇なすわけにはいきません」
その一言で私はへなへなと力なくへたり込み、安堵のため息が漏れた。
ひとしきり息を吐き出し終わると、振り返り魔女を見る。今だ絶望の淵にいる彼女は暗い顔をしていた。
「綾、礼はこれで返したとします。もう会うことも無いでしょうが、お元気で」
儀礼的な物言いでマントを翻し、踵を返す。魔女には一瞥もくれず、名残惜しさのかけらもなく歩む足音は冷たい。
「ちょっと待って! ライサンダー!」
いくらなんでもそれはないだろう。
慌てて立ち上がり追いかけようとしたその瞬間、空間がぐにゃりと歪み足元がおぼつかなくなる。
「えっ? ちょっ……! わっととっ!」
トランポリンの上にでも乗ってるかのように、足元は揺れて覚束ない。踏ん張り切れずバランスを崩した瞬間、私は真っ暗な闇に飲み込まれていった。