かささぎを見たから
夜の散歩は特別な気分がする。もう大分夜も暖かくなってきたから,夜風が気持ちいい。なんだか湿気のある風だ,空は晴れて月が出ているのに,川の方から吹いて来てるから? 分からないけど,どこか懐かしいような落ち着く匂い。めいっぱい吸い込めば,気分がいい。周りに人が居ないせいか,なんだか優越感まで感じてしまう。高校三年生を迎えてしまって,ちょっと気が沈んでいた私には,ちょうどいい気分転換だ。
私は家の裏の田んぼ道を,愛犬の”ポンちゃん”と歩いていた。黄金色の毛並がふさふさの,堂々としたゴールデンレトリバーのポンちゃんは,私の歩く速さに合わせて,私の横を静かに歩いてくれている。月明かりにその毛並を光らせて,今日もポンちゃんは神々しさを感じさせる頼もしさだ。私が夜にこの道を歩けるのも,ひとえに彼がそばにいてくれるおかげだ。
この辺りの田畑は,住宅街を背にして,向こうの大きな川まで広がっている,だっだぴろいところ。所々街灯はあるものの,それでも暗い。ポンちゃんがいなければ,とてもじゃないけれど,一人じゃ歩けない。おまけに,いつもの散歩コースの途中には,小さな古い神社がある。たしか,お稲荷さんが居るらしい。こう暗い中で,遠目から見ると,木々に囲まれたそこは,黒いこんもりとした何かに見える。風が吹けば,それがザワザワと不気味にうねるから,夜中にそんな所の傍を,わざわざ通りたいとは思わない。それでも,いつもの散歩コースを通るのは,ポンちゃんへの義理立てだ。
お母さんたちには「ポンちゃんの散歩に行ってくる」と言って来た。だから,名目上は,私がポンちゃんに付き合った形だ。でも,本当のところは,私がポンちゃんに付き合ってもらっているのだ。
決心をつけるために,夜の空気に当たりたくなった。ポンちゃんの散歩は,歩きながら考え事をしたいがための口実だった。
私は絵が好きだった。昔から好きで,小さい頃,よく絵を描いてはお母さんに褒めてもらった。というようりも,お母さんが褒めてくれるのが嬉しくて,絵を描いていたように思う。だから,何枚も描いた。その度,お母さんは褒めてくれた。だから,何枚も何枚も描いた。
小学生の頃に賞をもらった。たしか,農作業をしているおばあちゃんの絵だったと思う。担任の先生にすごく褒められたのを覚えている。それから,クラスの皆にも褒められた。
「美佳ちゃんは,絵が上手だね」
クラスのみんながそう言った。その言葉に,私は胸がきゅっとするような,独特の嬉しさを感じた。お母さんに褒めてもらった時とは違う嬉しさで,初めて味わう感情だった。
それから,学校では”絵のことなら美佳ちゃん”と言って,みんなで私のことをもてはやすようになった。特に,図工の,絵を描く時間は私の独壇場だった。
「ねえ,美佳ちゃん。絵の描き方教えて?」
友だちにそう請われて,私は先生にでもなったつもりで,こうするんだよ,ああするんだよ,と指図した。みんな素直だから,うんうんと頷いて,時には感心したような声を漏らして「ありがとう」なんて言ってくれる。そうして尊敬のまなざしを向けてくる。それがまた,楽しくて仕方がなかった。
また,夏休みの宿題に絵を描いて持って行けば,
「絵みせて!」
「ぜったい上手いよ」
と友だちみんなが,そんなくすぐったい言葉を言う。だけど,私は持って来た絵をなかなか見せようとしなかった。私は気付いていたからだ。そうすることで,私を満足させる言葉をみんながもっと言ってくれることに。実際,みんなは私を満足させた。そのときの私は,クラスの誰よりもだんぜん偉いような気持ちでいた。そうして,ふわふわとした幸福感に包まれて,たまらない気持に酔いしれていた。
絵を描けば褒めてもらえる。そうすれば嬉しい気持ちになる。だから描く。そんな気持ちで描いたって,何にもならないことなんて,当時の私は知るよしもなく,ただ盲目的に,ただ享楽的に,膨張する優越感を絵にしていた。
あれは,小学六年の夏休みだった。「美佳は絵が好きだから」という理由で,お父さんがとある美術館に連れて行ってくれた。「モネの展覧会をやってるんだ」と言って,モネの作品なんて一点も知らないくせに,お父さんはいかにも物知り顔だった。そんなお父さんに,いささかムっとしながらも,私はその美術館へ足を運んだ。そしてそこで,私は,モネの『かささぎ』に出会った。
穏やかな白い雪の世界を目の前にして,私はその絵にまるで魂を吸い取られてしまったかのようで,指先さえ動かせず棒立ちとなった。その絵は,あまりにも透き通っていた。午後の柔らかい陽光が侘しい村落の雪面を照らしているのが,じゃない。雪に覆われた,ひなびた生垣からのこぼれ日が,でもない。それとも,生垣の間にこしらえた,木の枝数本でぞんざいに組んだ粗末な扉の,そのてっぺんにちょんと座って憩うカササギが,いかにも超然としたただずまいなのが,でもない。その絵の全体としてあるものが,あまりにも透き通って見えた。
絵の中に見たものが何であるか,私は言葉にできなかった。幼い私には理解できるはずもなく,それが何であるかも知りようがなかった。しかしそれが,この絵を,このかささぎを,”美しいもの”たらしめている何かであることはわかった。この絵のあらゆる美は,全てそれを源としているのだ,ということはわかった。そしてそれは,透き通ったものとして,私には認識されたのだ。そう理解するのと同時に,私の頭の中に,今まで描いた自分の絵たちが,一つ一つ思い浮かばれた。そして,それらのうちいずれからも,目の前の一つの絵に存在する,透き通ったものが,そのかけらさえ見い出せないことに,私は愕然とした。そうして,私の絵は絵ではない,という思いが鋭く私の胸をえぐった。私はふいに泣きたくなった。情けなくなって,泣きたくなった。
帰りの車で,ずっと押し黙る私を,お父さんは「楽しくなかった?」としょんぼりした顔で心配してくれたけど,私はふるふると首を振るだけで精一杯だった。
それから,私は優越感という酔いからすっかり醒めてしまった。相変わらず私は絵を描き,みんなはそれを褒めてくれる。褒められるのは,確かにうれしい。しかし,以前のようには喜べなかった。私は褒め言葉に対してよく苦笑いを浮かべるようになった。
中学に上がって,周りの勧めもあって美術部に入った。そこでは散々絵を描いた。何枚も何枚も描いた。絵の腕はますます上達した。そしてまた,いくつか賞を取った。だけど,かつて『かささぎ』に見たあの透き通ったものを,私は自分の絵に見ることが出来なかった。いくら描いても,これは違う,それも違う,と思えてダメだった。そうすることを繰り返しているうちに,だんだん自分が分からなくなった。
あの時,『かささぎ』を見た時,たしかに私はそれまでの自分の絵に失望したけれど,これから先の自分にまで失望した訳じゃない。いつか自分も,あんな絵を描かなきゃいけない。そう思って,きっと描けるようになる,と決心した。決心したはずだった。それなのに,目標のはしっこさえ掴めていない現状に,私はどうしようもなくイラついてしまった。描けども描けども見えてこない。ついには,私は才能がない,と自分自身を責めるようになった。
だから,私は,褒められても,賞をとっても,素直に喜べなかった。それを周囲は何と思っていただろうか。他の部員の子たちは,私にどこか遠慮するようだった。はじめは,彼女らの態度が私にはよく分からなかった。けれど,顧問の先生の指摘で,部員の子たちの態度に合点がいった。
ある日,先生に「大島さんは絵を描くとき怖い顔をするわね」と言われた。私が放課後の部室で絵を描いた後,ちょっと休憩をしていた時だった。部活のある日ではなかったから,部室には他に誰もいない。西日の差す夕暮れ時の部室は,一人だと寂しいもので,運動部の掛け声や二階上の吹奏楽部の金管を練習する音が,遠いながらもよく聞こえた。そんな中で一人ぼうっとしてる私を,となりの準備室にたまたま用があった先生が見つけて,声を掛けてくれたのだ。そうして取り留めのない話をしてるうちに,ふと先生が思い出したかのように,私の絵を描くときの表情を話題にあげた。
「怖い顔,ですか?」
「そう。真剣なのはいい事だけど,ちょっと行き過ぎね」
「……そんなひどい顔してましたか?」
先生はちょっと笑って,
「ええ。ひどく睨みつけるのですもの,あなたの絵が可哀想になるくらいよ」
と,少しおどけたように言った。
睨みつけるという表現に,私は思わず絶句した。
「大島さんはもう少し,気楽に絵を描けるといいわね」
先生がどこか気遣うように言った。
その後は,暗くなる前の帰宅と部室の戸締りとを教師らしく言いつけて,先生は職員室に戻った。少しして私も家に帰った。
自室のベッドで横になりながら考えた。私の絵を描くときの表情。自分の絵を睨みつけながら描いているなんて。いつから,そんな表情をして絵を描くようになったのだろう。絵は,そんな風にして描くものじゃないはずなのに。そんなことは分かっているはずなのに。ショックだった。一体私は何がしたいのだろう?
理想に近づこうと努力しているはずだった。でも,私がやってきたことは全くの的外れ。自分が進んでいた道は理想へ続く道だと思ってやって来たのに,今私はどこ居るんだろう。それさえも分からないなんて。今まで何をしていたんだ。情けなかった。情けなくて,また,泣きたくなった。あの時から,何も成長していないじゃないか。それがあんまりにも悔しかった。
涙がぽろぽろとこぼれて,どうしたらいいのか分からなかった。私は迷子になっていた。どの道を進めば正解なのか。そもそも,どっちへ歩めばいいのかさえも,分からなくなってしまった。私はもう一歩も進めない迷子だった。
私は失意を胸に抱いたまま,高校生になった。相変わらず絵は描いていた。いや,描くとはとても言えない。それは,筆先に絵の具を浸し,キャンバスに塗りたくっているだけの行為だった。絵は未完成のまま放り出すことが多かった。何度やっても最後まで描けなかった。
美術部には入らなかった。何度か誘われたし,今も誘われるけれど,入る気にはなれない。一度,どうしてもというので見学に行ったことがある。ちょうどみんなで写生をやっているときだった。
案内の子が小さな声で色々な話をしてくれた。「部員みんなで絵を描くことは楽しい」,「お互いに見せ合って色々批評するから研鑽し合えるし,自分の成長を実感できる」。楽しそうな彼女のにっこりとした丸い顔から,その言葉が部活紹介のための宣伝文じゃなく素直な感想であることがすぐに分かった。きっと他の人たちも同じ気持ちで絵を描いているんだろうな。黙々と対象をスケッチブックに写す彼らの横顔をながめた。迷いなんて無いとでもいうような表情で彼らは筆を動かしている。本当に夢中なんだ。そして,私はその輪の中には決して入れないだろうことを再確認した。彼らのように,絵を描くことを楽しむなんて,今の私には到底出来ることじゃない。楽しく絵を描くってなんだろう? どうして私は絵を描かなければならないのだろう? そんな疑問が頭から離れなかった。
「大島さんの絵はとてもステキだから,ぜひうちの部に入ってほしいんだ」
見学の時に案内をしてくれた人は長谷部さんという名前で,クラスは違うけれど同じ学年の人だったため,それからたびたび声をかけてくれるようになった。彼女は私が中学の頃に賞をとった絵を知っているみたいで,とてもその絵をほめてくれた。
「そんなことないよ。ステキなところなんてどこにも……」
「とってもステキだったの! 大島さんはもっと自信持った方がいいよ」
「自信なんてそう簡単に持てるもんじゃないよ」
長谷部さんはとても難しいことを何のことは無いといった表情で言う。自信なんて。私は自分の絵に対して一つの自信だって持てないというのに。
落ち込んだ表情を長谷部さんに見せてしまったようだ。そんな顔をしていたものだから「元気を出すには甘いものを食べよう」と放課後一緒にクレープを食べる約束を強引に取り付けられてしまった。
それからというもの,長谷部さんとは学校の後にスイーツを食べにいくことが恒例となった。そこでの話題は色々。今日の数学の生生の寝癖のはなし,昨日見たテレビのはなし,近々やってくる定期考査のはなし,誰それが付き合ったというはなし。長谷部さんはその丸い顔を豊かな表情で彩りながら取り留めもないはなしをする。彼女の表情は多彩だ。彼女はよく笑う人だけれど,その笑い顔にも,おどけた表情やからかうような表情,作り笑いや愛想笑いを作ってみたり,思わず笑ってしまったという顔や思い出し笑いのような顔をしたり,ころころと変わるいくつもの笑顔を持っている。私はそんな彼女の,紙芝居のように移り変わる表情を見ているのが好きだった。
他愛もないはなしをしているうちに話題が美術部のことに移った。彼女はよく部活のはなしを私にする。きっと私の心を美術部に向けたいのだろう。一度断ったというのに,彼女も案外諦めが悪い。
「今度,部展をやるんだ。大島さんも来ない?」
「部展かあ……みんなで出すの?」
「うん。来週の土曜日に文化会館でやるから来なよ」
「うーん」
「大島さんだって,他の人の作品見るの楽しいでしょ? この前の見学のときもじっくり見てたし」
彼女はそう言うが,あの時見ていたのは絵じゃなく描いている本人の顔だった。思えば,あまり人の作品をじっくり見たことはなかったかもしれない。まともに見たのは教科書に載っている絵と自分で描いた絵ぐらいか。
「どうかな?」
長谷部さんが少し気後れしたように私の表情を伺ってくる。私が素っ気なく返事したせいだ。
「あ,うん。行ってみたいな」
そう言うと彼女はたちまち満面の笑みを浮かべた。それほど私の行くのがうれしいことだろうか。分からない。ただ,喜んでくれるのなら,流されるままにした返事も良かったと思えた。
美術部の展覧会は,あいにくの雨なせいか,あまり人が入っていないようだった。私は適当な時間に来てうろうろと会場を歩いていた。会場は大きなホールを借りていて,そこを白いパーティションで切って作品を並べている。室内はちょうど体育館のような造りをしていて,床はフローリングで奥に演壇がある。窓は高く,雨が降っているためもあって,陽は差し込んでこない。人の少ない室内はシンとして静かで,冷房が効いて少し肌寒いほどだった。これならゆっくり見物できるなあと,他人にはばかることなく人の作品をじろじろ見ていた。
長谷部さんは受付の当番だったから,そこで挨拶を済ませてしまった。「案内できなくてゴメンね」と謝られてしまったけど,私としては一人で見たかったからちょうどよかった。
色々の作品があった。テーマは「対立」だそうで,これを個々人で色々に解釈して描いているのが面白かった。ある人は,梢や幹をこれでもかと歪ませたおっきな大樹に小さな人々を登らせたものを描いていた。ある人は,のっぺらぼうな二人の男女を向かい合わせて,複雑できらびやかな模様が入った服を着させていた。確かに技術の差は色々だけど,どれも勢いのあるものばかりだった。
私にこうした絵が描けるだろうか。そう思ったとき,とてもでないけど描けないと思った。理由が見つからなかった。力を込めて樹木を歪ませて見せるのも,時間をかけて服の模様を描き込むのも。私の中にその理由が見つからなかった。そして,同時に,これを描いた人はどうして,こう描こうと考えたのだろう,と思った。その疑問は思いのほか私の心の奥深くまで浸みていくようだった。
「あれ,大島さん。まだ見てたの」
そう声を掛けられて,随分長いこと考え込んでいたことに気づかされた。声の主は長谷部さんだった。
「長谷部さん。ううん,そろそろ帰ろうかと思ってたとこ」
「そっか。ごめんね,一緒に見て周れなくて。いろいろと雑用振られちゃって」
「そんなことないよ,ひとりでも楽しかった。お誘いありがとね」
「そう言ってくれると嬉しいよ」
長谷部さんはニコニコとしながら「まだ係の用があるんだ。またね!」と言って会場の奥に向かっていった。私は会場を後にして,雨の降るなか帰路についた。濡れて黒色になった路上を夢中になって歩きながら,漠然としていながら私を強烈に惹きつけてやまない例の疑問について考えつつ,家に向かって歩いて行った。
それからというもの,ふとした瞬間にこの疑問を考えるようになった。起きて寝ぼけ頭で朝ごはんを食べるときや授業中に気の抜けた瞬間,休み時間自分の机でぼうっとしている時,廊下を一人で歩いている時,下校している時,シャワーを浴びている時,夕飯を食べている時,宿題をしている時,寝る前のひと時。そうした瞬間瞬間に,どうしたらこの疑問が解けるだろうかと考えた。描いた本人に直接訊いてみてもホントの所は分からないと思った。なぜなら,それは大変感覚的なことで,とてもでないけど言葉にできないからこそ,絵に表現したことだと思ったから。なら,私がどう思って筆をとるか,なんだ。それがきっと問題なんだ。私が「こう描こう」と思ったとき。その瞬間こそが問題なんだ。それが分からなければ,きっと疑問は解けないと思った。
私はちょっとしたどうでもよいようなものを観察するようになった。アスファルトを裂いて咲く小さなスミレや他人がカバンにつけている小さなアクセサリーが,どうしてか目を惹いた。一方で,美術館にもよく足を運ぶようになった。長谷部さんを誘って行くこともあるけど,大体は一人で行く。そこでルノワールやルソー,モネ,セザンヌ,ゴーガンの作品を眺めながら小一時間突っ立っていることも珍しくなかった。巨匠たちの作品を眺めるとき,その風景画の中に私の意識は迷い込んで,「こう描こう」を探索する長い空想の旅がはじまるためだ。木漏れ日の中や美しい湖面,青々とした山々の色調に意識が溶け込んで,その絵の住人になったような気がしてくる。「私」が絵の中に描き込まれて,そこに居る人々と交流を持ち始める。美しいドレスで身を飾った貴婦人は陽気に笑いながら菓子と紅茶を勧め,麦の刈り入れをする農民の女性は作業の手を止めて怪訝そうにこちら見つめる。舟遊びをする女性たちはにこやかに船上から手を振り,子供を連れて野原を散歩する真っ白の服を着た婦人は私に気付くと品の良い日傘を持ちながら小さくお辞儀をする。そんな彼らに挨拶をしようとするとき,私の意識は不思議と彼らの表情へと集まるようだった。
その表情に触れたいと思った。そこに,私の求める何かがある気がしてならなかった。だけど,それは所詮は絵でしかない。触れた所で実感を伴った何かが返ってくるわけでもなかった。一枚の壁を隔てて,私の求める所を隠してしまっているかのようだ。それが,私とこれを描いた人との隔たりなんだ。私はもどかしくて仕方がなかった。叶うならば,ルノワールやルソーやモネやセザンヌ,ゴーガンを,まさにこの絵を描いている瞬間に乗っ取って,キャンバスに穂先をつけるその筆の感触をこの手で得たいと思った。
どうしたら,私はこの一枚壁を壊せるだろうか。向こう側に辿り着きたかった。
期末テストが近づいてきたためか,放課後になると教室に残って勉強している人たちが目立ってきた。グループを作って勉強会をしていたり,一人で黙々と問題集を解いていたり。そんな訳で,学校全体がなんだか勤勉な雰囲気に包まれていた。私も暢気にしている場合ではないなあ,とは思うものの,なんだか真剣になれなかった。とにかく,テスト勉強はやらなきゃいけないので,家に帰ってやろうと,机の中に置きっぱなしだった教科書をいくつか引っ張り出して,カバンに詰めていた。
「大島さん」
ぼおっとしながら帰り支度をしていたため急に声を掛けられてびっくりしてしまった。
声を掛けて来たのはクラスの委員長だった。
「え,えっと,どうしたの」
「進路希望の紙。まだ出してなかったでしょ?」
そこで,私は朝に急いで書いた進路希望調査票を思い出した。締め切りが今日の昼までだったから焦りながらどうにかして回答をうめたんだった。書いたことに満足して提出することをすっかり忘れてしまっていた。
「ごめんなさい……提出し忘れました。書いてはいるんだけど……」
「いいえ,わたしも注意していればよかった。紙は生徒指導室に持って行って。期限は過ぎているけど,直接,生生に渡せば何とかなるわ」
「うん,ありがとう! 謝ってくる」
委員長に挨拶もそこそこ,私は調査票を持って生徒指導室へ急いだ。
生徒指導室は文化部の部室が集まる文化棟の二階の一室だった。私はそこで,期限を守ることの大切さについてきっちり指導を受けた後,ややぐったりしながら部屋を後にした。高校生にもなって叱られるのはなんだか落ち込む。
「あれ,大島さん」
若干気落ちしながら教室に戻っていたところ,ばったりと長谷部さんに会った。
「おつかれー。部活?」
「ううん,ちょっと部室に野暮用。大島さんはどうしたの? 普段,こっちには来ないのに」
「生徒指導室。進路希望出し忘れてて,さっき出してきたの。指導を受けてしまいました」
「あーだから落ち込みモードなのかーそれはドンマイだねえ。じゃあ,あれだね,甘いの,行っちゃう?」
しょげてる私にかこつけて,長谷部さんはスイーツに誘ってきた。自分が食べたいだけな気もするけど,私も今は甘いものを食べて気を晴らしたいので,その彼女の誘いに乗ることにした。
長谷部さんが部室の用を済ますまで,私は自分の教室で彼女を待っていた。人は少なくなったけれど,まだ,勉強組が残っている。そうなると,参考書を開きもせず,ただぼうっとしている私はなんだか場違いのような感じがしてきた。彼らは将来のことを考えてテストに真剣に取り組んでいるのに,一つの答えも出せず目の前のことにも真剣になれない私だけ,独りぽつねんと,彼らの世界に異物として有るかのようだ。何となく居たたまれなくなって,カバンを持って教室を出た。廊下で長谷部さんを待とうと思った。
廊下は人気が少なく,シンとして広々としている。窓から初夏の西日が差し込んで来て,日なたに居ると暑いほどだった。私は陽を遮る柱を背にして,やっぱり,ぼうっとしながら来る人を待った。
しばらくすると,私の五組の教室からは二つ隣にあたる三組の方の教室辺りが,がやがやと騒がしくなってきた。と思うと,そっちの方の教室からぞろぞろと人が出てきた。そっか,彼らは理系のクラスだから今日は一限長いんだ。そうこう考えているうちに廊下が下校する人で溢れかえった。さっきまで広く感じた廊下は急に手狭になった。廊下の端で楽しそうな表情で立ち話をする人たち。これからどこかのファミレスで一緒に課題やろうみたいな話をしている。または,私のように人待ち顔の女子生徒,男子生徒。友達を待っているのだろうか,それとも,恋人を待っているのかな? 時折,人混みの奥に目をやって,目当ての相手を探してソワソワしている。そして,立ち止まる彼らの間を,喋りながら抜けていく二人組や三人組。課題もテストも気にせず遊びに行くようだ。あるいは,ようやく帰れるぞと言った晴れやかな表情で一人足早に通り抜けていくのもある。家で勉強するのかな,それとも,ゲームだろうか。
それら廊下の人々を何気なく一つ一つ眺めていたとき,ふと,視界が広くなった気がした。あらゆるものが,時を進めることを怠けたかのように,ゆっくりとしたものに感じられた。そして,廊下にバラバラとあった彼ら個人個人が,まるで,さっきまでバラバラだったパズルが一瞬で完成されるかのように,全体となって一つの群像として見えてきた。
唐突に,彼らは一つになった。
そして群像は表情を持っていた。それは絵だった。
私は弾かれたように駆けだして文化棟の一室を目指した。美術室は棟の三階にある。部室のドアに手を付いた頃には息が上がっていた。息も整えずドアをひくが,引き戸はびくとも動かない。カギが掛かっているようだった。
「ど,どうしたの,大島さん!?」
振り向くと,美術準備室から出て来たばかりの長谷部さんが,目を丸くして,こちらを見ていた。
「お願い,筆を貸して!」
長谷部さんは困惑した顔をしていたが,やがて,真剣な表情をして私の目を見つめた。そして,
「うん」
と言って頷いて,彼女はポケットから部室のカギを取り出した。
「ポンちゃん,私ね,そのとき本当に無我夢中だったの。後になって色々なことに気づいたわ。長谷部さんが,私が悩んでいることに気づいていて,色々気を遣ってくれてたとかね」
ポンちゃんはハッハッと息を吐きながら,前を向いてテクテクと歩いている。こちらのことなど気にしてないようだ。
「それから,廊下の絵が出来たとき,あの子,泣いて喜んでくれたの。私の絵を,あんなに喜んでくれる人が居るんだなって思えたの。嬉しかったなあ」
ポンちゃんが先に進みすぎたために,リードが少し張った。ポンちゃんは,また,私の歩調に合わせて歩みを緩めてくれた。
「私,その時,ようやく,描けたって思えたの。あの,かささぎを見てから,はじめて。……でもね,まだまだなの」
私は立ち止まった。ポンちゃんがこちらを振り返る。何となく,怪訝そうだ。彼は私の足元に近づいて,鼻をクンクン鳴らした。
「ね,ポンちゃん。私描けるかな」
しゃがみこんで,ポンちゃんの顔を両手で挟んだ。ポンちゃんは,まっすぐな瞳で私を見た。
絵を描きたい気持ちは,今はしっかりとある。私自身の絵を描きたい,という思いがある。でも,その描き方が,まだ,わからない。不安なんだ。きっと筆の持ちようなのに,その筆を持つ自分がわからなくなっていく。本当は,一生掛かっても分かり得ないことなんじゃ,って思う。だったら,やる意味なんてないんじゃないかって思えてくる。絵なんてただの趣味にして,普通の生活を過ごした方が,本当は賢いんじゃないかって思えてくる。たぶん,賢い人ならきっとそうする。でも,私はそんなに賢くなれない。
決心したんだ。だったら,この道しかない。
「行こ,ポンちゃん」
私は立ち上がって,リードを引く。ポンちゃんは黙ってついてくる。湿り気のある風が私の頬を撫でた。稲荷神社の木々がざわつく。
不安なのは,きっと仕方がない。仕方がないから,受け止めてあげよう。そうして,考えるんだ,これからどう進むのが良いのか。ちゃんと考えればわかるはずだから。それしか方法はないんだから。
だから,差し当たっては,お父さんとお母さんに,しっかりと思いを告げよう。
お母さんたち,何て言うかな。応援してくれると,いいなあ――。