いよいよ展示会が近づいてきた
「また来ることになるとはな」
ゆっくり過ぎてやきもきしてくる電車に揺られ、何とか自宅最寄り駅まで帰ってきた。駅からまた自転車を飛ばしてきて、観光案内施設ひえいやの前に俺はいる。開館して割とすぐに1回、前回の美術部を案内したので2回、今日で来るのは3回目だ。無料の足湯があるとはいえそう来るものではない。足湯につかっているのは大抵ご近所のおじいちゃんおばあちゃんで、地元に金を落とす観光客ではない。
いきなり来たのはいいが誰と話せばいいんだろう。観光案内係りの人でいいんだろうか。
「すみません、ちょっと相談があるんですけど」
「はい…どうされました?」
40代くらいの女性だろうか。首から下げている名札から、桑原さんという方だと分かる。ちょっと驚いた表情をしているが、制服姿のどう見ても地元の子どもが観光案内所に来るのだから不思議に思われて仕方ない。
「禰津屋旅館の者なのですが、7月の第3週に1週間高校の美術部の作品を展示する企画を立てています。それに合わせて、その週の土日に、禰津屋旅館に来た人だけでなく、 日江井温泉全体の観光客に向けてちぎり絵が体験できるコーナーを設けたいと思ってるんです。そこで、こちらの施設の一角をお借りできないかと思いまして…こちらがその企画書です」
「へえそんな企画を計画してたの!まだ高校生なんでしょう、偉いね〜企画書まであるなんて…ちょっと見せてもらうね」
一気に口調がくだけたが、どうやら俺の企画に心動かされてくれたようだ。そうなればしめたもの、許可をくれることを祈るのみ。
「開催日は特にここではイベントもないし大丈夫よ。あそこの写真が飾ってある部屋に、施設の余ってる机や椅子を搬入してもらえばいいかな。10時から16時まで開催っていうのも大丈夫。チラシを置いたりポスターを飾るのも問題ありません。ただ、正式な申請書を書いてもらわなきゃいけなくて、保護者の方の署名ももらっておきたいんだけどいいかしら?」
「全く問題ないです!明日持ってきますね」
「急がなくても大丈夫だからね。それにしても凄いねー。学校でそういうことをやる授業でもあるの?」
「いえ、僕個人がやりたいと思ってやってるだけで、美術部の人に個人的にお願いしました」
「あらそうなの!地元のために企画するなんて、地元を大切に思ってるのねえ。ありがたいわあ」
桑原さんはお喋り好きな方だったようで、この後5分くらいお喋りすることになった。隣町生まれ育ちだが、旦那さんが日江井出身で結婚を機に引っ越してきて既に20年近く住んでいるらしい。この辺りに仕事がないから結局隣町で働いていたが、この施設がオープンする際求人していたのを知り応募したそうだ。
隣町は隣町でこの辺以上に観光するところがない(色々頑張ってはいるのは知っている)。桑原さんはこの温泉地のことは結構気に入っているそうで、よくマッサージを受けにそこここの旅館まで足を運んでいるそうだ。
今月企画されているイベントのチラシももらってしまった。ミステリーツアーにバンドフェスティバルがあるそうだ。ミステリーツアーはクイズラリーでどうやら景品がもらえるらしい。バンドフェスティバルはうちよりももっと大きな旅館のロビーやホールを使って20組以上のバンドが演奏するそうだが、やはり知っているバンドはない。
「地元を大切に思ってる、か」
さっき桑原さんに言われた言葉が頭で響く。俺は地元を大切に思っているんだろうか?企画を考えてからもう1ヶ月以上経っているが未だにそんな感覚はない。展示が終わる頃には何かしらはっきりした感情が芽生えるだろうか。
「こんなに頑張って企画しているんだ。大切に思っていないなら何だというのだ?自信を持て、隆人!」
「自信を持てって言われてもなー。あっ…そういえば紙粘土の下絵、ほぼ真っ白じゃん!親父に申請書書いてもらったらすぐに取り掛からないと」
「うんうん。温泉のためにやることが沢山あってよいなあ、羨ましいぞ」
「阿須間の手でも借りたいぐらいだよ」
「肩でも揉んでやろうか?」
「透けるじゃん!!!」
なんでこんな漫才をしてるんだ…?訳がわからないがこれも阿須間流の和ませ方なんだろうか。…いや、絶対何も考えてないな…。
家に帰ってきて親父に署名をもらうことができた。あとは下絵だな。頭の中にイメージはあるのでそれを何となく描いてみる。
まず玄関、ロビー、受付、廊下と描き、客室を一室だけ中が見えるような感じで作ることにする。屋根がなく室内を覗いているようなイメージだ。そして内風呂は思い切って省き、露天風呂をくっつける。こんな感じで超小型旅館を作りたい。そしてロビー、客室、露天風呂でそれぞれ違う服装や表情の宿泊客も用意する。うん、我ながらいい感じではないだろうか。あっさり出来過ぎな気もするが。
大雑把には出来た。実際作る段階で困りそうだからもう少し詳しいところまで描き込んでおこう。細部は実物を見ないと自信がないので、お客さんに出くわさないことを祈りながら実際に旅館へと足を運んでみた。自分の下絵と現物を見比べると、いかに俺の絵が下手かが分かるがそれを恥ずかしがっている場合ではない。
途中で風呂掃除を挟み下絵を完成させることはできたが、いざ紙粘土の袋を開けて作るとなると踏ん切りがつかない。
もう1日くらい寝かしておこう、そうしよう。
翌日ひえいやへ行き桑原さんへ書類を提出した。またお喋りに多少付き合わされてしまった。ミステリーツアーの参加者が少なくて困っているそうだが俺は曖昧に笑っておいた。
これで無事にちぎり絵講座を開催できそうだ。
和紙だけは用意しないといけないので今週末にでも買ってこよう。紙粘土を作る傍ら、ちぎり絵も多少は練習しておきたいので今度美術室でみんなと一緒にやればいいだろう。いきなり美術室に押しかけてちぎり絵をやろうというのも迷惑だろうから、来週の月曜あたり1時間くらい時間をもらえないかメールで訊いてみた。返事がぱらぱらと届いたがみんな月曜で大丈夫だそうだ。
ちぎり絵のことを考えつつも、紙粘土を何とかしないといけないと思い、一晩寝かした下絵を見てみた。特に修正したいところなどは思いつかないしこのまま作成に入ってしまっていいだろう。
手がぷるぷる震えそうになるが、なんとか袋を開けて紙粘土を小さくちぎって手に取ってみた。ほんのりしっとりしていて気持ちいい。
袋の開けた口は乾燥しないように輪ゴムで縛っておこう。
一番最初に作るのはやはり玄関だろう。入り口の扉を作り、中へ入って上がってくるところ、ロビーまでの床を作ってしまう。全体のバランスが知りたいから床だけ全部作るのがいいかもしれないと考え、廊下、客室、風呂場入り口までの床を作ってしまう。
後でそれぞれの大きさがぐちゃぐちゃで合わないということがないよう、注意を払って大きさを細かく測りながら作った。気がついたら寝る時間を過ぎていたので慌てて手を洗って布団へ潜る。
集中していた俺を邪魔しないためか、珍しく静かにしていた阿須間が「おやすみ」と囁いて去っていくのが見えた後、眠りに落ちた。
紙粘土の作業でヒーヒー言っていたら週末になってしまっていたので買い物に行くことにする。前回はわざわざ大型店で普通の紙粘土を買ってしまったので、今回は100均で和紙を揃えたいと思う。2店舗違う系列の100均を回ることにした。割と距離があるが隣町まで自転車で移動する間、やっぱり田舎で人がまばらなので阿須間と気兼ねなく話すことができた。
店を回った結果、模様が入っていたりと値段以上の価値を感じる和紙もあったが、貼り絵に使いやすそうな無地の物を中心に買うことにした。15色くらい各2部買うことにして合計30部。1部が結構大きいのできっと足りるだろう。100均とはいえ結構な出費になってしまったが仕方ない。
日江井には100均などあるはずがないので初めて100均に来た阿須間は驚きで目を回していた。「これが100円、あれも100円…?このお店は何故倒産しないのだ!?従業員は給料をもらっているのか?」としきりに不思議がっていた。100円以下の費用で作ってしまえる商品ってことなんだよなあ。どうやってここまでコストを下げているんだろう。企業努力に頭が下がります。
和紙を買ったはいいが、来てくれるお客さんは一から自分で何のちぎり絵を作ろうか思いつく人ばかりではないだろう。そんな人のために下絵や作り方なんかが載っている本を買っておこうと思う。本を買うなら学校最寄り駅の本屋が品揃えがいいから来週買いに行こう。きっと1500円もあれば買えるだろう。
本の代金に紙粘土と和紙の代金も足したら軽く6000円を超えてしまう。高校生にこの出費は結構痛いが仕方あるまい。まだ100均を見た興奮から冷めやらぬ阿須間をなだめながら家へと自転車を漕いだ。
「さて、ではちぎり絵を作ってみましょうか!」
部員達と約束していた月曜の放課後になった。台紙と糊は部室にあるものを借りるので、和紙だけ持参してきている。下絵の載ってる本はまだ買ってないが、美術部の人ならきっと自分たちで下絵ぐらい描いてくれるだろう。
案の定動物や植物、果物なんかをささっと描いてくれたので助かった。あとは和紙を貼るだけなのだが…。
「結構ちぎりにくいね」
「あっ取りすぎた…」
和紙独特の繊維といえばいいのだろうか、その影響で綺麗にちぎるのが結構難しい。
貼るのも素手だとちょっとやりにくい箇所があるのでピンセットもあったほうがいいんだろうか。これは100均で用意すればいいな。
あらかじめ練習用に簡単な物を作るよう指示を出していたので、1時間もせずにみんな完成させることができた。
近くで見ていた阿須間は和紙ちぎり絵がすっかり気に入ったようで、今度自分の似顔絵でもちぎり絵で作ってくれと頼んでくる。似顔絵か、大変そうだな。全部終わって材料が余ったらね。
これで和紙ちぎり絵がどんなものか部員達もなんとなく掴めただろうし、講座当日も何とかなるだろう。
片付けを終え、部員各自が作品作りに戻っていく。ちらっと見た感じだとだんだん形になってきてるようだ。俺も負けてられないな。挨拶をしてから部室を去った。
帰りの電車に乗る前に書店と100均に寄り、目当ての本にピンセットも手に入れた。
これで必要なものは全て手に入ったはずだ。台紙と糊だけはまだ授業や部活で使うかもしれないから夏休みが始まる直前までは借りられない。それだけ忘れないようにしないと。
さて、週末の講座はこれでなんとかなる。ただし肝心の展示物が出来ていない。7月の1週目終わりには完成させたいと言っていたから、あとちょうど3週間あることになる。想定外の出来事でも起きなければなんとかなりそうだ。
まだ床と壁の一部しかできていない紙粘土に向かって今日も作業に励もうじゃないか。
あとすっかり忘れていたが期末考査まで2週間ぐらいになったしまったのでその勉強も並行して行わないといけないから結構大変だ。
ここから7月1週目までは特にこれといった出来事はなかった。時々放課後に美術室に顔を出したり、図書館で期末考査の勉強をしてから家に帰ってからは作品作りに集中した。細かいところが気に入らなくて作り直したりして結構時間がかかってしまい、期末考査のある7月1週目が始まるまで完成には至らなかった。なんとか完成したのを今度は色付けをしていく。色付け後にニスを塗ることも考えたが、つやつやさせない方が温泉の雰囲気になじむかと思い、敢えて塗らないことにしてみた。色付けのことを考えながら毎日試験を受けるのは結構骨が折れた。色塗りのことを考えるあまり回答用紙に色塗りと書きそうになって慌てて消したこともあった。どれだけ追い詰められてるんだろう…?
いつもより試験勉強に割ける時間が減ってしまったが、平均点以上は取れるんじゃないだろうか。いつもだいたい80点前後なので、多少下がっても60〜70点だろう。赤点にはならないしまぁ平気だろう。母さんは苦い顔をしてぐちぐち言うかもしれないが。こんな企画なんてやってるからよ!とか言いそうだな…。まあ聞き流すんだけど。
試験期間も終わり、色塗りも大体は終わった。夏休み前最後の週の7月2週目が始まる。先週の試験が返されるが、点数は大体70点台で母親の愚痴はギリギリ免れたかもしれない。生徒は夏休み直前ということで気もそぞろで、教師もそれを仕方ないと流している。
美術部を覗いてみたが、やはりみんな試験勉強との両立は大変だったようで、ようやく最後の仕上げに入ってなんとか終わらせようと頑張っている。一方で、鈴谷くんや関野さんは意外にも早く完成したようで、今は細かいところの手直しをしているようだ。
俺は自宅で作業していたわけだが、同時期に作業をしている人がいるというのはこんなにも心強いものなのだと痛感した。自分1人で作品を作っていたら絶対に途中で投げていた。
俺も作品の全体を見直して、細かいところまで塗り直したりした。これ以上やることがないと感じたので、これにて完成とする。稚拙さは否めないが、素朴で温かみのある色合いと作風を目指したつもりだ。
この前の美術部員訪問時に、この旅館にこの土地の魅力は、やっぱり派手さなんかではなく地味でも落ち着いていてどこか懐かしく心が和むところだと思った。それをなんとか表したくて、紙粘土で作った宿泊客の表情も、入り口付近にいる人は少し硬いけど、客室や温泉と奥に進むほど柔らかく落ち着いた表情に変えるよう工夫した。
企画を考えた時点では、作品を作るかどうかすら定かではなかったのに気がついたらそれなりに満足いくものができてしまっている。5月頭の俺には想像もできないことで、当時の俺に伝えたら冗談だろうとまともに取り合ってもらないだろう。
最初の頃は、俺にとっては日常な温泉と、他者にとっては非日常な温泉のギャップを表現したいとか言ってた気がするが、俺には難しすぎてできなかった。俺の技力が上がればそのうちそんな抽象的な作品も作れるようになるだろうか。将来の課題にしたい。
7月2週目も平日が終わり、今日は土曜日だ。昨日のうちに同級生の智に展示会とちぎり絵講座をやることを伝えておいた。温泉地を笑ってたこいつだが、俺が休み時間や放課後にこいつを放って1人で色々と準備したり、真剣に取り組んでたことを知ってるからか、今度は笑わなかった。来てくれるかは分からないが、これを機会にうちの温泉地のことを知ってもらって、笑うようなところじゃないことを知ってもらえたら嬉しい。
さあやっと夏休みが始まる。つまり、展示会も来週から始まるということだ。ポスターなどで事前に宣伝しようかとも思ったが、展示会自体は基本はうちの旅館に泊まりに来る人が対象なので、事前に宣伝するのはあまり効果がないかということで特に貼らなかった。折角ひえいやに寄ったのに頼んでおけばよかっただろうか。とりあえず展示会当日に詳細をまとめたポスターを貼っておく予定だ。土日のちぎり絵講座のポスターも別に用意しておかないといけないから結構まだ用意するものはあった。ちぎり絵講座に関してはチラシも用意したい。いずれもパソコンでざっくり作成して、データを持ってコンビニで印刷してしまう。地元にコンビニがないので隣町のコンビニまで親父につれてきてもらっている。親父が母さんを説得してくれなければ今回の企画自体成り立たなかったわけで、手伝ってくれて本当にありがたい。どちらのポスターも1時間もかけずに簡単に作成してしまった。無地なのは寂しいので、ちぎり絵のポスターのみ先日美術部員と一緒に作成したちぎり絵を背景に使用している。ちぎり絵のちらしはポスターを縮小したものなので手間は全くかかっていない。ポスターは4枚ずつ印刷して、チラシは40枚印刷しておいたので足りなくなることはないだろう。展示会はA3、講座は人を集めたいので人目に少しでも触れるようA2にした。A2のポスターはA3を2枚くっつけて1枚になるようだから綺麗に繋げないとな。
印刷した紙を傷めないよう細心の注意を払って手に持ち、店内をうろうろしていた親父に声をかけて帰ろうと促す。折角コンビニまで来たんだからとアイスを俺の分まで買ってくれた。母さんたちには内緒だぞといたずらっぽく笑い、2人して車の中で食べてしまった。阿須間が羨ましそうにこちらを見つめてくるが、気が付かないふりをした。家に帰りポスターを慎重にくっつけた後、急いでひえいやへポスター2枚ずつとチラシ20枚を持っていく。桑原さんがいつものように座っており、笑顔で俺を迎えてくれた。
「いよいよなのねえ。準備はばっちり?」
「はいなんとか。こちらのポスターとチラシ、貼ったり置かせてもらったりできればと思ったんですが、いいでしょうか?」
「勿論!空いてる好きなところに貼っちゃっていいわよ。ちらしはこの辺りなんてどう?」
桑原さんの好意によって結構目立つところに貼らせてもらえた。ちらしも同じようなイベントのものが並ぶ中で、比較的分かりやすいところに置いてもらえて一安心だ。貼られたポスターを見つめて阿須間が満足そうに笑っている。
あとは明日親父に学校まで作品を取りに行ってもらい、月曜からの展示に備えておくだけだ。俺の作品も完成しているので準備は万端と言えるだろう。残りのポスターとちらしは旅館の方に持っていこう。
あと一応アンケート用紙とアンケート回収箱も作っておいたのだ。回答してもらえてもごく少数だろうが、置いておくことが大事だ。家にあった無地の菓子箱を改造して簡単に作ることができた。アンケート項目もちゃちゃっと作ってしまえたのでかなりお手軽だった。
そんなことを思いながら家に帰って俺の部屋の扉を開けると、そこにはポスターを作成していた数十分前とは様変わりした光景が広がっていた。
「なんだよ…これ?」
「ひどいな。ひえいやへ行く前はなんともなかったというのに」
棚の上には、俺が数週間かけて作ったミニ旅館の紙粘土が無残にもバラバラにされた状況で散らばっていた。
細かいところまで曲がらないように注意を払って作った柱などが折られ、宿泊客の人形は首が胴体から離れ、足ももげていた。温泉は千切れ、ぐちゃぐちゃに置かれている。床も折られて元の形が一目では分からなくなっている。
「…嘘だろ」
「落ち着くのだ、隆人。まだ時間はある。それに言っていただろう、紙粘土だから水で柔らかくすればある程度はくっつけて元に戻せると?今からでも…」
「そんなのどうでもいいよ!!!それよりも誰がこんなことをしたかだ!」
バンと音を立てて扉を開け、2段飛ばしで階段を下りていく。台所に向かうと夕飯の準備をしている祖母と母さんがいる。
「ねえ、俺の部屋入ったりしてないよねぇ!?」
「何よ急に大きい声出して。あんたの部屋なんて入ってないわよ。さっきからここでお婆ちゃんと夕飯の支度してたんだもの」
「隆人、夕飯もうすぐできるからね」
この2人の様子から犯人ではないと判断し、急いで隣の茶の間を覗く。背後から母の「何なのあの子ったら。最近変ね」というぼやきが聞こえる。誰もいないのできっと親父は今はまだ宿の方で仕事をしているのだろう。
そうなると自動的に犯人は1人しかいなくなる。再び2階へと駆け上がっていき、ノックもせずに思い切り兄貴の部屋の扉を開けた。
「いきなり開けるんじゃねえよ」
「おい…俺の部屋の粘土、壊しただろ」
「……だったらなんだっていうんだ?」
プッツン。俺の中で今まで溜まりに溜まったものが破裂する音が聞こえた気がする。その勢いのまま俺は拳を振りかざし、兄貴の右頬をぶん殴った。阿須間の制止しようとする声が聞こえた気がするが無視をした。
「痛ってえ…なにしやがる。口ん中切れただろ」
「お前は昔からそうだ!俺よりなんだって上手くできて、なんだって俺よりも優遇されて。俺のこと見下してるのは知ってるけどなんでこんなことするんだよ?!やっと俺にもお前じゃ出来ないこと見つけたて思ってたのに…!」
「お前にしか出来ないことなんてないんだよ。お前はただ俺より劣ってるってことを認めたくないだけで、跡継ぎからも逃れて田舎からも出てこうとしてる。俺と比較されないで呑気に生きたいだけだ。俺が今回の企画に参加してたら、お前よりもうまく指揮がとれたし、うまい作品だって作れた。お前のやってることは、俺がいないところへただ逃げてるだけって言うんだよ!」
「逃げるのの何が悪いんだよ!逃げてもそこで上手くやれればいいじゃないか!!」
「そんなのは負け犬の正当化だ!正面から向かってきたことなんてないくせに!」
「おい2人とも、その辺にしろ!」
兄貴とのつかみ合っていて気が付かなかったが親父が仕事を終えて戻ってきていたようだ。取っ組み合いになっていた俺と兄貴を引っぺがして、どうしてこうなったか説明を求めてきた。
「こいつが!勝手に俺の部屋に入って作品を壊しやがった!謝りもしないで、逆に俺に対して批判ばっかりしやがる」
「本当のことを言ったまでだ!そんな下手な作品、ただ自分が逃げてますって言ってるようなもんだ」
「隆匡、急にどうしたんだ?最近隆人がずっと頑張ってたこと知ってたはずじゃないか。それを壊すうえに色々言うだなんて…」
「前から気になってただけだよ。なかなか言う機会がなかったから今回やったってだけ」
「それにしてもおかしいぞ。その頬を見る限りもう殴られてるみたいだから、父さんからは殴らないでおくけど、あとでちゃんと話は聞かせてもらうからな。隆人、先に台所に行ってなさい。もうすぐ夕飯が出来るはずだ」
「…うん」
頭の中が机の中身を全部ひっくり返したみたいにぐちゃぐちゃだ。全身血の気が引いたようで寒気が止まらない。自分が今どこを歩いているのかもよく分からない。ふらふらしながら階段を降りていたら躓いて1階まで滑り落ちてしまった。
「大丈夫か!?どこかひねったり折れたりしてないか?」
「…」
阿須間の問いに答える気力がない。2階から父親の「大丈夫かー?」という声がするが特に返事をせず、台所に入ると母と祖母が配膳を始めたばかりのようだった。
「今の音、階段から落ちたりしたの?すごい音したけど。ちゃんと足元見なさいよ。なんかお兄ちゃんと喧嘩してる声がしたけどちゃんと後で仲直りするのよ。ただでさえ受験で大変なんだから、心配事増やさないで」
「…」
俺のこの表情のどこを見れば仲直りできる余地があるというのだろうか。俺の席に座る気がなくて入り口でぼーっと突っ立っていたら、おばあちゃんが「座んなさい」と言うのでしぶしぶ座った。口に入れた食べ物は全部味がしなくて触感も嗅覚も味覚も全部どこかに置き去りにしてしまったような気がした。
食べ始めて少し経つと、親父とあいつが台所にやって来たが、視線は一切合わせずに残った食べ物をかき込んで自室へと戻った。手伝いの食器洗いはやる気がしないが、きっと親父が母さんに適当に言って免除させてくれるだろう。ベッドの上にうつ伏せに倒れこみ、そっと目を閉じる。食べた直後に寝ると牛になるとか聞くが、今なら牛でもなんでもいいから俺以外の存在になりたかった。
「隆人…。辛いだろうが、兄が言ったことは脇に置いておくのだ。今やらねばいけないことは分かっているだろう?」
「…ああもう!!放っておいてくれよ!こんな時もまた、頑張れ応援してるぞ、とでも言うつもりかよ?いっつもそればっかりだ!俺の気持ちなんて聞きもしないで…」
「そんなつもりはない。ただずっと頑張ってきたのがこのままでは勿体ないと思ってだな」
「うるさいっ!どっかいっちまえよ!俺しかお前が見えなくて頭がおかしくなったのかと思ってた。やっぱり俺がおかしいんだ…あの松井って人もきっとどこか変なんだ」
「隆人!私のことを何と言おうが構わない。ただ、自分を下げずんだり、松井や他の人をけなすようなことを言うのはやめろ。…嫌がるだろうが、それでも私は隆人のことを信じている。では望み通り姿を消すとしよう。ではな。短い間だったが毎日が楽しかったぞ」
そう言い終わると本当に姿を消したらしく、うつぶせの状態から上半身だけを起こして部屋を見渡したがどこにも阿須間は見当たらなかった。今生の別れみたいな挨拶をしていった気もするが、どうせ明日にでもなればまた来るんだろう。気にせずそのままベットの上で寝転がっていた。少し顔を上げれば壊された紙粘土が視界に入ってしまう。何も見たくない。このままこの世が終わってしまえばいいのに。
ベッドの上でふて寝していたらすっかり夜も遅くなってしまっていた。23時を過ぎていて、いつもならとっくに風呂掃除をし終える時間だ。呼ばれなかったということは、きっと親父あたりが代わりにやってくれてそっとしておいてくれたんだろう。そういうさり気ない優しさがありがたい。
風呂にも入ってないし歯も磨いてないし、服もそのままだ。さすがにこのまま2度寝する気にはなれなかったので1階へ降りていく。きっと風呂のお湯は抜かれてしまっているからシャワーでも浴びておこう。
そう思って1階の廊下を歩くと茶の間から声が聞こえてくる。中に入る気はしなかったので耳をそばだててみる。どうやら親父と兄貴が何か話しているようだ。
「最近勉強とか学校で疲れてむしゃくしゃしてたってのもあるけど…。俺は進路が決められちゃってるのに、あいつだけ自由に選べるじゃん。それを俺よりも劣ってるから何かしら選ぶしかないと思い込んでさ。あいつだってやりたきゃ温泉で働けばいいんだよ、なんだったら跡継ぎだってやればいいんだ。むしろ俺より手伝いしてて旅館のこと知ってるだろ。それなのにさ、俺へのあてつけかなんだかしらないけど、展示会なんて企画して。俺の立つ瀬がないよ」
「そんな風に思ってたのか。まあ隆匡だけ手伝いが少ないのは俺も気になってはいたし、よく話し合わないまま跡継ぎになるようにしてしまったのも申し訳ない。立つ瀬がないなんてことはないし、隆人の企画が気になるんだったら隆匡も手伝っても良かったんじゃないか?」
「壊しといて今更手伝うなんてありえないよ!」
「隆人が地元のことあんまり好きじゃないの、隆匡も気がついてただろう?父さんは多分、地元自体が好きじゃないというより、自分の嫌な思い出を連想させるからそれに引きずられて嫌な感情を持ってしまっているんだと思うんだ」
「俺だって特別好きなわけじゃないよ。まあ、あいつの嫌な思い出って言ったら…俺と比較されたこととか?」
「それもあるかもしれないな。まあなんだ。壊してしまったことは一度きちんと謝って、その上で今回の企画も手伝いなさい。自分がどれだけのことをしたかは分かっているだろう」
「…」
「ちぎり絵講座もやるって言ってたからな。その手伝いでもしたらいいんじゃないかな。隆人がずっとあの調子だったらちゃんと参加できるか怪しいし、まだ1週間あるとはいえ隆匡が支えてやってくれ」
「隆人が落ち込む理由を作ったやつが隆人を支えるなんて皮肉だね」
「自分でそれを言うか?いいか、明日ちゃんと心から謝るんだぞ」
「うん」
長居しすぎたかもしれない。そろそろ2人が出てきてしまいそうだ。俺はそっと茶の間から離れて洗面所へ向かった。顔を洗って歯を磨いたが、シャワーを浴びる気はしなくなったので明日の朝にでも浴びよう。
翌日の日曜朝、学校に行く日と同じ時間に起きてシャワーを浴びた。今日は学校の美術室までみんなの作品を親父と一緒に取りに行く日だ。先生がわざわざ休日出勤して美術準備室の鍵を開けてくれるみたいだから頭が下がる。
完成したみんなの作品はまだじっくり見たことがない。見られるのを楽しみにしていたのだが、俺の作品が壊された今どうでもいい気持ちの方が勝ってしまっている。怒りは静まったのにとてつもない虚無感が襲ってくる。主催者としては責任を持って最後までやり遂げなければいけないとは思っているのだが。いつもだったら阿須間が、部員の作品が見られることに喜んでワーワー言っているだろうにいないお陰で静かだ。
朝飯を食べようと台所に向かおうとしているところで兄貴と出くわした。苦虫を噛み潰したような顔で俺をじっと見つめた後、「悪かった」と頭を深く下げてきた。こんな態度の兄貴を見るのは初めてで、あっけにとられてしまう。1日経って冷静になったのもあるが、珍しいものが見られて面白いという気持ちが作品を壊された憤りに勝ってしまった。
「いいよもう」
「俺が壊したやつ、直さないのか」
「うーん直してもくっつけた跡が目立ちそうだから展示するのには不向きなんじゃないかと思って」
「…俺が言うのもなんだけど、よく出来てたと思うから直せば?」
「…ふふっ。本当だよ。壊した張本人が言うなよな」
兄貴も少し笑顔になった。こんな風に軽口を兄貴と叩くのは本当に久しぶりな気がする。内容はひどすぎたが。兄貴が「飯食うんだろ」とそのまま背を向けて台所へ向かっていくのでそれを俺も追いかける。台所で家族揃って飯を食べていると、「俺も作品引き取りに行くから」とボソッと兄貴が呟いた。どうやら一緒に来てくれるらしい。びっくりして「お、おう…。ありがとう」とワンテンポずれた返事をしてしまう。口を開けば兄貴とは嫌味の応酬みたいになってたから、普通に会話するのが逆に不思議な感じがする。
朝食を食べ終え、学校までの長い道を親父の車に揺られていく。後部座席で兄貴と並んで座るがやはり落ち着かない。家族で出かけるときはいつも俺が助手席だったから変な感じがする。
「おい、その美術部の部員、何人参加するんだ?」
「全部で4人だよ」
「じゃあ旅館には4つしか作品が飾られないってことか。少なめの方がその分引き立っていいのかもな。…お前の分も直せば5つだ」
「…今日からちょっとずつ直して、展示期間中に間に合うようにしようかな」
「おっ隆人、直す気になったか!実は父さんまだ完成したの見せてもらってなかったんだよ。楽しみに待ってるからな」
「楽しみにされるほどのもんじゃなかったけどね。まあできる範囲でやってみるよ」
父と息子2人、計3人での会話。これも懐かしい感じがする。普通に暮らしてたようだけど、どことなくよそよそしかったもんな。今回の企画がこんな風に家族を近づけるだなんて思いもしなかった。温泉に若い人を関わらせるのが目的で始めたことだったのに、思わぬ副産物があったものだ。
学校に着き、俺は生徒用玄関から入り、職員用玄関前で待機している親父と兄貴を迎えに行った。ちょっと歩きづらそうだが来客用のスリッパを履いてもらい、職員室まで付いてきてもらった。先生に挨拶をして美術室まで向かい、美術室と美術準備室の鍵を開けてもらった。作品を早く運び出さなくてはいけないのについ眺めてしまいそうになる。「あとでゆっくり見ようぜ。展示位置も決めなきゃだしな」と兄貴に声をかけられ我に帰り、手近にあった田中先輩の作品を持参した紙袋に丁寧に入れる。玉木さんと関野さんの作品も傷つけ合わないよう丁寧に袋に入れた。鈴谷くんの作品は兄貴が持ってくれた。親父はもちぎり絵用の台紙に糊も持ってくれている。展示に使う壁に貼る用のテープなんかも貸してくれるとのことなのでありがたく持って行く。先生に鍵を閉めてもらい、挨拶をして別れた。
いよいよ明日から展示なんだ。まったく実感がわかない。今朝家を出る前に旅館の方に展示会とちぎり絵講座の案内を貼り出してきたのだが、俺という容れ物に入っている何かが勝手にやっていることで、俺本体はそれを外から眺めている感じだった。
展示期間中は壊れた作品をちびちび直していればいいだけで(夏休みの宿題もそういえばあるが)、問題はちぎり絵講座だ。兄貴も手伝うようなことを話していたがどうするのだろう。そもそも人は来るんだろうか。
どこか他人事のような気持ちで家に帰ってきて、美術部員の作品をそろりそろりと俺の部屋に置いた。作品名に制作者名を書いた展示用の簡単な紙も用意しないといけない。自宅のプリンターで印刷した紙を厚紙に貼ってあっという間に完成だ。
「何をしたらいいか一個一個確認しながら」やっていくといいというのは松井さんに教わったことで、やるべきことを時系列に全部書き出して一個一個確認している。しかしそれでも何か忘れているような、これでいいのかというぼやっとしたものに襲われる。
「もう準備終わったのか?」
作品紹介の用紙を作っていると、兄貴がノックして部屋に入ってきた。俺の部屋に兄貴がいるのもなんだか不思議な感じがする。
「あとは作品の配置を決めるぐらいかな。どうしようかっていう大体のアイディアはあるけど」
「さっき運んできた作品を見たけど、まず左側から水彩画、彫刻、油絵、切り絵って流れがいいんじゃないか」
「俺も大体そんな感じで考えてた。それでいこう。アンケートは最後の作品の横に置けばいいな」
「お前アンケートまで作ってたのか。まめだな」
「あんまり回答こないだろうけど作っておくにこしたことはないかなって」
「…それだけこの企画に力入れてたんだな」
「?なんか言った?」
「なんでもねえよ。それより、作品直すんだろ。手伝うことあるか?」
「結構細かい作業になるから俺1人で大丈夫。それより兄貴には宿題教えて欲しいかも」
「分からないところがあったら持ってこいよ。今日はずっと俺の部屋にいるから」
「ありがと」
「ん」
それだけ交わすと兄貴は自分の部屋へ戻っていった。なんとなく顔が嬉しそうに見えたのは気のせいだろうか。やれやれそれよりは今は作品を直さなくては。どこから手をつけたものか途方にくれるが、作品を作ったときと同じように玄関から直していくことにしよう。
昼食をとり、午後も4時が過ぎる頃まで気がついたらずっと作業に没頭していた。同じ姿勢をとり続けたので全身が硬くなっている。1/2くらい直せただろうか。水につけて柔らかくしてなんとかくっつけたり、それでも無理なら残っている粘土で補強する形でくっつけ直したり、一から作り直したりした。この調子でいけば展示会の後半までには飾れるんじゃないだろうか。くっつけたところは多少デコボコして不恰好だが、ぎりぎり鑑賞に堪えうると思う。直していながら気がついたのは、ぱっと見では結構ひどく壊されている風なのに、意外と雑な壊し方だということだ。壊してやろうという思い切りが足りない気がする。兄貴は心のどこかで壊すことに抵抗があったんじゃないだろうか。お陰で修理は作った時ほど時間がかからずに済みそうだ。
いつもならこんな時、阿須間がそばでずっと励ましてくれてるのだろう。今だって「もうこんなに修復が進んだのか!さすが隆人だな!」とか言うに違いない。阿須間の声が聞こえないのはうるさくなくていいが、あのうるささに慣れてきた俺にとっては静かすぎた。兄貴との縮まった距離が阿須間の不在を埋めてくれたようで気にならなくなってしまっていたのかもしれない。だがそれはすごく寂しいことだ。そもそもこの企画をやろうと後押ししてくれた阿須間が近くにいてくれなかったら玉木さんにメールする勇気はなかったかもしれない。鈴谷くんにきついことを言われた時もあそこまで冷静で入られたのも阿須間が側にいてくれて励ましてくれると知っていたからだ。日江井温泉に来たみんなを案内した時堂々振舞えたのも、そもそもこの温泉地の神様が俺のそばにいるからというのが大きかった。そして兄貴に作品を壊されてしまった時も、目的を見誤らないよう落ち着かせようとしてくれた。ずっと俺を肯定し応援してくれたんだ。俺はどこかで阿須間に甘えていたのだろう。そんな相手に最後にぶつけた言葉は酷く冷たいものではなかったか?そう思ったらいてもたってもいられず、俺は部屋を飛び出した。
行くとしたらまずは公園近くの阿須間が祀られている神社だろう。そこにいてくれればこっちとしては探す手間が省けるのでありがたい。
走って公園に駆け込むと子ども達が遊園器具で遊んでいるのが見えた。相変わらず阿須間の神社はひっそり佇んでいて誰も参拝していない。ゆっくりと近づいて様子を伺うが、阿須間の姿はそこにはなかった。
次に思い当たる場所といえばどこだろう。温泉はあちこちにある上、勝手に中まで入ることができる旅館はうちのところぐらいだから探すのは難しい。各旅館の入り口と、大きい旅館のロビーぐらいまでならなんとか入り込めたが、阿須間はやはりいない。
せんべい屋に和菓子屋はどうだろうか。近くまで寄って見たが店内にもいない。ジェラート屋はどうだろう。一旦家に帰ってチャリに乗り行ってみるも、どこにも見当たらない。困った。温泉街を端から端までゆっくりチャリで通ってみるが見つからない。
あの風呂場での出会いから1日たりとも阿須間と離れたことがなかったので、どうしたら再会できるかわからない。阿須間が欲しがってた食べ物でも供えてやればいいんだろうか。今度お供えすると言ったきりあげていなかったのを思い出した。試すべくまたまた家へ帰って財布を持ち出し、せんべい、きんつば、ジェラートを買ってきた。こんなに奮発したんだ、これで出てこなかったら会った時文句を言ってやらねばと、自室の机の上を片付け小さな祭壇のようなスペースを設けた。「阿須間が戻って来ますように。俺が悪かった。酷いこと言ってごめん。また一緒にいたいんだ。直接謝りたいから出てきてくれよ」と手を合わせながら小声で呟くが、辺りはしんとしている。あいつ食い意地張ってそうなのに…。ジェラートは溶けるから俺がこの場で食べるとして、せんべいときんつばは家族で食べてしまおう。
本当にもう会えなくなってしまったのだろうか。お手上げかと思ったその時、松井さんのことを思い出した。そうだ、あの人も神が見えるんだ、俺みたいに見えなくなった時があるかもしれない。ちぎり絵講座のことも詳しく伝えてなかった気がするから電話して聞いてみよう。粘土を壊されて腹を立てたとき失礼なことを言ってしまったので若干後ろめたかったが、本人に直接言ったわけではないので心の中で誠心誠意謝っておいた。
「はいもしもしー!松井です」
「松井さんこんにちは。岡上です。この前堤防で神様達と一緒に会った…」
「あー岡上くんか!こんにちはー!元気かい?」
「はい元気にしてます。急に電話してすみません、ちょっとお聞きしたいことがあるんですがいいですか?」
「はいはいどうしました?」
「松井さんは急に神様と会えなくなった時ってありますか?」
「神様と?それはないねえ。川の神様は、堤防の工事してる間中ずっとこっちのこと見てたし、今だって変わらずに見えるからね。何かあったの?」
「実はちょっと…喧嘩というか、俺が腹を立てちゃって…。酷いことを言ってしまったんです。そしたら、別れの言葉を言ってどこかに行っちゃって。それ以来会ってません。地元はくまなく探したんですがどこにもいませんでした」
「うーん。それは困ったね、どうしたものか。神様自体が消滅したってことはないだろうから必ずどこかにいるはずだよね。それに温泉地の神様だから、そう長期間は地元から離れないはずだ。今までだって精々岡上くんが学校に行くのについていったくらいだろう?」
「そういえばそうですね」
「岡上くんと鉢合わせしないようにうまく逃げてるんじゃないかな。向こうは移動なんて透けるし簡単なわけでしょ。こっちから探すのは分が悪いよ。あと他には可能性として、岡上くんに神様が見えなくなってしまったってこともあるのかもしれないけど、それは例えば川の神様とか他の神様のいる所に行って本当に見えなくなったか確かめないといけないね」
「えっ…そんなことってあるんですか!?」
「あくまでも可能性の話だよ。なんせ神様が見える人は知ってる限りだと僕と岡上くんしかいないから、そんな事例があったかなんて分からない。ただ、しばらくしても温泉の神様に会えないままだったら、川の神様に会いに行ってみて確かめてもいいかもね。変わらず川の神様が見えるなら何か知ってるか訊いてみてもいいだろうし、見えなくなっていたのならそういうことなんだろうね」
「あいつ…あの温泉の神様が食べたいって言ってたもの全部お供えしたんです。俺が悪かったって謝りながら。それでも出て来てくれなくって…。俺が見えなくなってたらどうしよう。あんな別れ方なんて最悪だ」
「そもそも何がきっかけで喧嘩をしたんだい?」
「俺が作った展示予定の作品が、俺の兄貴に壊されたんです。それで頭に血がのぼるのと同時にもうどうでもいいやっていう無力感にも襲われて…。そんな時にあいつは落ち着いて、目的を忘れずに、作品を直すよう言ってきたんです。あいつの言うことは正しかったのに、それが受け入れられなくて俺は我を忘れてきつい言葉を投げてしまったんです」
「そんなことがあったんだね。壊された理由がどうであれ、辛かったでしょう。大変だったんだね。そんなことがあったんなら僕でも落ち着いていられないから、つい思ってもないことを言っちゃうのも分かる気がするよ」
「そう言っていただけると助かります…」
「でもそんな神様が展示会前にいなくなるだなんて不自然だな。そんな言葉をかけてくれるぐらいなんだ、本当に楽しみにしてたはずだよ。絶対に見にくると思うよ」
「そこなんですよね。見にくるとは思うんですけどどのタイミングで来るかなんて分からないし…あっそうだ、松井さんにまだ話してなかったんですが、展示会の週の土日にちぎり絵講座をやるんです。その時なら開催する時間も決まってるし、俺もほとんどいるから見に来たあいつに会えるかもしれない」
「おっ面白そうなことやるんだね。元々展示会のために日江井へは行こうと思ってたんだ。どうせなら講座をやる日に行こうかな」
「はい是非来てください!10時から16時まで、地元観光施設のひえいやって所でやってます。材料は全部揃ってるので手ぶらで来てください。その場で美術部員と俺が一緒に作り方をお教えします。下絵が思いつかなければ見本が載ってる本もあるから大丈夫ですよ」
「おお〜宣伝上手だね。これは行くしかないな。そんなに熱意を持ってやってる講座なんだ、きっと温泉の神様も見に来てくれるよ」
「それを願ってます」
「土曜と日曜のどっちになるか分からないけど行くからね。じゃあそれまであんまり思い詰めるんじゃないよ。きっとなんとかなるから」
「ありがとうございました。また週末に!お待ちしてます」
阿須間に一番会えそうなのはちぎり絵講座の土日だということが分かっただけでもありがたい。遊びに来てくれるようだし松井さんには感謝しないと。それまでには俺の作品も修理が終わっているだろう。以前より不格好でも阿須間には見てもらいたい。早く阿須間に会いたい。そんな思いが募る中、日曜は終わり月曜がやってくる。展示会が始まる。
展示会が始まるといっても、その間特にやることはない。初日の朝なんて、お客さんが廊下をあまり通らないであろう時間帯にこっそり作品を飾り、ポスターやちらしなんかを設置し、アンケートも忘れずに並べるだけで終わった。
こうして並んだ作品を見ると、みんな同じ温泉地を表現しているはずなのに違いがはっきりしている。同じ訪問日に同じ景色を見て、同じものを食べたはずなのに、こうも違う作品が生み出されるとは興味深い。開催の許可を取るときに両親が心配していた、宿の雰囲気に合わないものなんて1つとしてない。俺の作品が同じ日から並べられなかったので、置くはずだった端っこの場所がなんだか寂しい感じがする。早くここに飾れる様頑張らねば。
受付係の人が作品に一番近い所にいるので、1日の終わりにどんな反応があったか聞いてみようと思う。俺は作品の修復とその息抜きに夏休みの宿題にでも取り組むことにする。
最初の2日間は特に何もなかった。受付の人によると、通りかかったお客さんが眺める程度で、わざわざ展示会を見るだけに宿に寄った人はいないようだ。まあ大々的に広告もしていないし、そもそも大勢来られても騒々しくなるから困る。少し閑散としている感じもあるが、今よりもう少し人が来るぐらいで丁度いいのだろう。割とじっくり鑑賞する人も中にはいたそうで、そういった話を聞くととても嬉しくなる。アンケートを書いてくれた人はまだいない。
俺の粘土作品は修復が終わったから明日から並べようと思う。急いでいたので少し荒っぽい直し方になってしまった。まだ乾ききっていないが、置いているうちに乾くだろう。美術部員からもどんな感じかとメールで質問されるが、悪くはない滑り出しだと答えている。やはり勝負は週末だ。そのときにどれだけ講座に人を呼べるか、旅館にも足を運んでもらえるかだ。ちぎり絵講座に来てくれた人に配る、展示会のチラシを追加で印刷しておいた。それぐらい来て欲しいという期待を込めて。
お客さんの反応は分からないのだが、展示を見た家族は廊下が賑やかになっていいねと言ってくれた。反対していた母は特に何も言わないが、その表情から前向きには受け止めてくれているようでほっとした。ずっと支えてくれていた父はそれぞれの作品について結構細かく見ているようで詳しい感想を聞かせてくれたし、祖父母も若い人が関わるのは良いことだと肯定してくれている。家族にこんな風に褒められたのはいつ振りだろう。いつから俺は兄貴よりもダメな弟だと決めつけていたんだ?こんな風に認めてもらえるじゃないか。家族からの反応だけでこんなにも嬉しい。
この2日間阿須間は見ていないが、きっと俺と会わないようにして展示を見に来たに違いない。それこそ修復作業中だった粘土作品も、俺が寝ている時とかに覗きに来たんじゃないだろうか。早く俺に姿を見せてくれますように。
3日目から5日目も滞りなく過ぎていった。ようやく俺の作品も仲間入りできて一安心だ。完成してみれば意外と他の部員のものに引けを取らないんじゃないかと自惚れだろうが感じてしまう。作ると決める前はうじうじしていたが、作ってしまえば本当になんてことはなかった。修復する羽目になるとは思わなかったが。
受付係曰くお客さんの反応は最初の2日間と同じ感じだそうだ。ただアンケートが1つ回答されていて、緊張しながらその内容を確認した。回答者の方は近隣県からいらして1泊されたご夫婦で、丁度高校生ぐらいのお孫さんがいらっしゃるそうだ。偶然にも美術部に入っていて、そのことを思い出しながら楽しく鑑賞した、温泉を見て回るのが更に楽しみになったと書かれていた。とても達筆だ。このアンケート用紙を見ると嬉しさで顔がにやけてしまう。早く美術部員たちに現物を見せたいが、取り急ぎ写メにして全員に送った。みんなも嬉しかったようで、明るい内容の返信が届いた。
5日目までの間阿須間の姿は見えなかった。本当にどこにいるんだろう。夏休みの宿題は先に済ませてしまう派なので自室にこもってずっと勉強していたが、段々飽きてきた。最近話すようになった兄貴は学校の夏期講習があるとかで家にいない。両親も祖父母も変わらず仕事だ。こんなとき阿須間がいてくれたら一緒に遊べるのに。しかしいないものは仕方ない。明日の講座に備えて準備をして、緊張してなかなか寝付けない体を無理やり横たえた。
6日目になった。今日と明日はちぎり絵講座だ。10時から13時までと、13時から16時までの3時間ずつに2分し2人ずつで対応することになっている。俺は両日とも終日当番だ。早めに準備するために9時半くらいにひえいやに入れてもらい、会場(というほど大がかりではないのだが)を設営するためにあれこれ運んだり設置したりとあっという間にひえいや開館の時間まであと少しになってしまった。桑原さんも今日は働いているそうで、準備していたら「頑張ってね」と声をかけられた。
10時から13時までは俺と玉木さんが担当だ。初日だし朝からということで家の近い玉木さんが立候補したそうだ。確か顧問の橋場先生も今日か明日に来てくれるそうだし、部員のみんなも家族が遊びに来てついでに近場を観光していくとのことだ。俺たち主催者側だけでも既に温泉地に来る人が何人もいるのだから、それだけでこの企画に意味があったと感じるが、それで満足していてはいけないんだろうな。この少しの時間が手持ち無沙汰だなと思っていると、小さな声で玉木さんが喋り出した。
「ねえ岡上くん…。ついに展示会も終盤で、ちぎり絵講座の日も来たね。この企画、実は最初は断ろうと思ってたの。最初にメールくれた時もすごくびっくりして、断りたかったのにうまく返事ができなくて…。あんまり人と違うことやりたくなかったし。でも昌子ちゃんもやるっていうし、ちょっと挑戦してみようかなって。一応私も自己紹介の時日江井が出身地だって言うんだけど、みんなあんまり知らなくて、しょうがないよねっていう気持ちと悔しいっていう気持ちが両方あったの。だから今回、日江井のこともっと知れて良かったし、胸を張って他の人にも来てって言えるようになったと思う。今回は誘ってくれてどうもありがとう」
「そんな…お礼だなんて。俺こそ感謝しなきゃいけないのに。いきなり訳のわからないメール送ってびっくりさせちゃって今でも申し訳ないと思ってる。そんな風に今回の企画が玉木さんの心に残ってくれたなら、俺もやった甲斐があるよ」
いきなりの話にどきりとした。確かに玉木さんには最初話を聞くのすら嫌がられていたんだろうなとは思ったが、それだけじゃなく感謝までされていたとは。玉木さんも日江井出身だと堂々と言えず辛かったのか。こんな身近に同じような気持ちの人がいたならちゃんと話しておけば良かった。
もっと話したい気持ちはあったが、10時になってしまいひえいやが開いたので会話はお休みすることにした。同時に客は入ってこないのでゆっくり待つとしよう。10分くらいしてようやく何人か入ってくる。俺たちの場所はひえいやに入って右手奥で少しわかりにくい所にある。これではなかなか人が来てくれないかもしれない。
「よお。うまくやってる?」
「兄貴!来てくれたの?」
「お客さんちらほらいるじゃん。もっと前に出て呼び込んだら?」
「えっ…いいのかな」
「いいも悪いもあるかよ。ほら、こっち歩いてくる人がいるじゃん」
急にやってきた兄貴にドキッとしたが、そういえば手伝いに来るとか言っていた気がする。どうするんだろうと思っていたら近づいてきた40代くらいの女性に、「おはようございます。無料のちぎり絵講座をやっているんですが、よかったらやってみませんか?」と話しかけている。あの顔は俺が見たことのある笑顔と違う。所謂営業スマイルって感じがする。何故か俺の方が緊張してしまう。女性の方がやろうかどうか迷っているようで、どれぐらい時間がかかるのか訊いてきた。兄貴が俺の方を見てくるので代わりに答えろということだろう。「簡単なものなら2、30分くらいですね」と返事をする。それならやっていくとのことで、兄貴は俺にだけ分かるよう、「やったな」と口だけを動かして見せた。
兄貴は会場から少しひえいや内側寄りの所に立って、近くに来た人に声をかけるつもりのようだ。俺と玉木さんで最初のお客さんである女性に早速作り方を説明する。椅子に腰掛けてもらい、教本を見せながらどんな作品を作りたいか訊いてみる。短時間で簡単に作れるものがいいそうなので、複雑じゃない下絵のものを探してみて幾つか見せる。その中でも花の絵にすることにしたらしく、まずは画用紙に鉛筆で薄く線を引いてもらう。お手本の絵を真似て描くのが結構難しいようで、「あら線ががたがたになっちゃったわ」と恥ずかしがっている。そんなことないですよとフォローしつつ、次の作業を指示していく。お手本通りでなくていいので好きな色を選んでもらい、その和紙をちぎって糊でどんどん貼っていってもらう。皺にならないよう丁寧に貼っていき結構あっという間に完成した。
「なかなかいい感じに出来たんじゃないかしら?」
「はいお上手ですね」
「色も素敵だと思います!」
俺と玉木さんで相手を褒める。満更でもない様子だ。
「あなたたち学生さん?」
「はい、僕が企画したんですが、日江井出身の高校生でして、美術部の人に手伝ってもらって運営してます」
「地元の人が企画したの?凄いわね~」
「今日は観光でいらっしゃったんですか?」
「そうなのよー。県内からなんだけどちょっと遠出してね。温泉に入ったり、山と海まで行って、神社によって帰ろうかと思って。じゃあそろそろ行くわ。頑張ってね」
「ありがとうございます!楽しんできてください」
「是非ご自宅に飾ってくださいね」
手をひらひらさせながら女性は去っていった。近くに立っていた兄貴もありがとうございますと頭を下げる。少し離れたところで立っていた男性に、「何作ってたの?」と話しかけられていた。きっと夫婦で遊びに来ているのだろう。
「ねえ隆人、旅館の展示会のこと伝えた?」
「あっ…忘れてた」
「私も忘れてました…すみません」
「次からは忘れるなよ。ちらしもあるんだしそれ渡せば?」
さすが兄貴、主催者の俺よりしっかりしてる。そういえば仲が悪くなる前、小さい頃はこんな風にうっかりしがちな俺のことをいつも助けてくれてた気がする。いい思い出もちゃんとあったんだな。
それから13時まで、昼食が食べられない玉木さんは気の毒だが頑張ってもらった。兄貴1人に呼び込みをさせるのも申し訳ないので、俺も入り口の反対側に立って声をかけることにした。玉木さんはこういうのは苦手そうなので座って休憩しててもらった。ひえいや自体に人が来てくれないことにはどうにもならないから、どんどん来てくれるように祈って待っていたが、夏休みに入った大学生らしい人、子ども連れの家族、ご老人など色んな年齢層の人たちがやってきた。その人たちに声をかけていくと、半分くらいはやると言ってくれた。観光気分で来ているから普段と違うことがしたくなるのかもしれない。同時に対応できるのは精々2〜3人なので同時に沢山来られても困るのだが、なんとか回すことはできた。展示会の案内も忘れずにすることができ、行くと言ってくれた人もいた。帰ってから受付の人にどれだけ人が来たか聞くのが楽しみだ。玉木さんは恥ずかしがり屋だと思っていたが、結構来てくれた人に話しかけていて、頑張っているのが伝わってくる。展示用に作ってくれた作品は水彩画で、旅館を正面から描いたものだった。透明感があって滲んだ色あいがすごく綺麗で、旅館の雰囲気が幻想的な感じになって見えた。普段見慣れた景色を違うレンズを通して見るようで新鮮な気持ちになれた。
13時からの当番である鈴谷くんがやってきて、ようやく玉木さんと交代になった。兄貴は先ほどお昼休憩に行ってまだ戻ってきていないので、兄貴が来たら俺もお昼休憩に行こう。実はお腹がさっきから鳴りっぱなしだ。お客さんがいる時は運良く鳴らず、恥ずかしい思いをせずに済んだ。そんな俺の腹具合を知ってかしらずか鈴谷くんは声をかけてくれた。
「俺1人でも平気だし、お昼行ってきたら?」
「でも来たばかりで1人じゃ大変でしょ?」
「腹を鳴らされる方が困るから早く行ってきて。自分でなんとかやるから」
「…はい」
あの鈴谷くんが1人で大丈夫なのか大いに不安だ。ぶっきらぼうなだけならまだいいかもしれないが、何か失礼なことを言って怒らせたら大問題だ。心配そうに振り返ったが「大丈夫だから行けよ」という感じで顔をいぶかしめられただけだった。早く戻ろうと心に決め、ひえいやから自宅へ急いで向かった。
家に着くと兄貴が昼食を食べ終えたようで、流しで洗い物をしていた。兄貴が自分で家事をするのはなんだか物珍しく、じーっと見ていたのに兄貴が気づいた。
「隆人、帰ってきたなら早く昼飯食べろよ。カレーだぞ」
「うん食べる」
ご飯にカレー、福神漬けを皿にいそいそと盛る。今日のカレーは夏野菜カレーだ。席に着くと兄貴も俺の正面に座ってきた。
「ぼんやりして疲れたのか?昼からいけるか?」
「平気だよ。ただ兄貴が食器洗ってるの見るの滅多にないからつい」
「普段は手伝わなくていいって言われちゃってるからな。別にやってもいいんだけど。 隆人だけ色々やらされてるのも変だけど、お前文句言わないしそういうことになっちまった」
「兄貴は変だって思ってたの?てっきり満足してるんだと思ってた。なんか母さんの圧力に押されたっていうのもあるけど、兄貴なら仕方ないかなって」
「隆人のそういうとこ、よくないと思うぞ。何かあるならはっきり言えよ。別にお前と俺で同じ兄弟なんだから。今年は受験だから正直あまり手伝いたくないけど、息抜き程度にたまにやるなら全然いいし」
「…じゃあ兄貴も週1くらいで皿洗いに風呂掃除、一緒にやる?」
「おう。曜日決めて一緒にやるか」
「風呂掃除はやり方が一応ちゃんとあるからそれをまず覚えてもらってからかな。1人でやるの結構大変だったから助かるよ」
「隆人は手伝いっていうより従業員並みに働いてると正直思ってたよ。だってうちの主要な商売道具みたいなもんだろ温泉って。それを男湯全部任せるんだもんな。子どものやる範囲超えてるんじゃねーかな。給料貰っちまおうぜ」
「はは、お小遣い上げてくれればいいのにね」
兄貴と話していたら気がつくと30分近く経っていた。早く戻るつもりだったのに。さすがに鈴谷くんが心配になってくる。皿を洗って一緒にひえいやへ戻ることにした。
「はいそんな感じです。次はその絵に合わせたお好きな和紙を選んでください」
「(あの鈴谷くんが普通に対応してるー!?しかも結構うまい!)」
そこに広がっていた光景に俺はどうしても驚いてしまった。50代くらいのおじさん3人組を1人で相手していた。失礼ながら、初対面の俺への発言のようなことを言って相手を激怒させ、企画どころじゃなくなったらどうしようと心の片隅では思わなくもなかったのだ。それがひょっとしたら俺よりも上手くお客さんに指示を出しているじゃないか。表情は硬いが、お客さんは普通にちぎり絵に取り組んでいるようだから問題ないのだろう。驚きの光景に目が吸い寄せられていたが兄貴に肩を叩かれ、俺は鈴谷くんの助太刀に入った。
3人のおじさん達は金魚、ひまわり、すいかと何色も使う題材に挑戦していて、完成まで45分くらいかかっていた。その間、子連れの親子が子どもに体験させたいとのことでやって来て、その対応を俺がすることになった。犬が好きとのことで、下絵を見ながらやっているはずがほぼオリジナルの犬になったのでもう好きにやってもらうことにした。和紙が上手くちぎれなくて下絵を大きくはみ出してしまったが本人は楽しそうだ。30分くらいで完成して、手を糊でベトベトにしていたのでひえいやのトイレまで案内してあげた。
ひえいやに来るお客はたまに途切れるが、それでも講座に来てもらう分には困らないぐらいだと思う。やっぱり鈴谷くんの対応はうまい。淡々とした喋り方にあまり変わらない表情でも、言うことは適切だ。鈴谷くんが作ってくれた彫刻は、うちの旅館の露天風呂に入って気持ちよさそうにしている男の人と雉を彫ったものだ。雉は伝説にちなんで加えてくれたんだろう。ちゃんと調べてくれたことに嬉しくなる。露天風呂は人がいないところなら写真撮影してもいいかと実は訊かれていて、いいよと答えていたのがこの作品に生かされたようだ。デフォルメされているが温泉の再現度は高いと思う。
それから16時まで何組かお客さんの相手をして無事1日を終えることができた。和紙や台紙も明日の分まで足りそうだ。教本も買っておいて正解だったし結構ちゃんと準備できてたようで胸を撫でおろす。
兄貴が呼び込みが上手かったのは意外だった。でも旅館の跡を継ぐことになっているんだから、接客が上手くできないといけないだろうし、本人も意識しているのかもしれない。中学で生徒会長もしていたので、人前に出ることが普通にできるんだろうな。俺もお客さんが誰もいないときは一緒に立って呼び込みをしたが、兄貴のように上手にできただろうか?きっと声も小さかったし表情もぎこちなかったと思う。どこか恥ずかしさが抜けきらなかった。明日は慣れて上手く対応できるといいな。
そして何よりも阿須間だ。阿須間を今日も見なかった。あいつちぎり絵講座楽しみにしてたんじゃないのかよ。きっと俺に見つかるまいとこっそり天井とか壁の隙間から覗いていたんだろう。そう考えると腹が立ってきた。きっかけを作った俺が悪いのだから逆ギレなのかもしれないが、いい加減出てきてくれたっていいじゃないか。一発殴ってやりたい、透けるけど。会ったらちゃんと直接謝って仲直りしたいのにな。
俺の思いをよそに、展示会の最終日、日曜はやってきた。講座も今日で終了だ。昨日は講座に来た人が5人くらい展示会に来てくれたようだ。受付の人がちぎり絵を手にした客が来たと言っていたから間違いないだろう。アンケートも4つも回答があったそうだ。これで全部で5つのアンケート用紙が記入されたことになる。今日の分と合わせて内容は美術部と共有したい。現物は夏休み明けに持参しよう。
今日も俺は10時から16時まで当番だ。兄貴もまた呼び込みを手伝ってくれるらしい。受験生なのに2日連続で時間を使って大丈夫なんだろうか。俺の粘土を壊したことを相当反省しているんだろうな。逆に申し訳ない感じがするが、壊された直後の俺だったらこれくらいして当然だし全然足りないと考えてそうだ。
10時から13時まで当番の美術部員は関野さんだ。人見知りしなそうだし明るくテキパキ教えてくれそうで俺の心の負担が軽くなる。俺は今回の展示会で必要に駆られて見知らぬ人に話しかけるようになったが、そもそも人見知りだし人づきあいが得意な方ではない。やってみたら意外と出来たというだけで、得意だと感じたことは一回もない。だから美術部員と兄貴が一緒にやってくれるのは本当にありがたい。10時少し前にひえいやに集合し、関野さん、兄貴と一緒に準備をして開館を迎えた。
13時までに来たお客さんの人数は昨日と大体同じくらいだ。俺と兄貴は2日目なのもあってか昨日より呼び込みからの教えるまでの流れがかなりスムーズになった気がする。
予想していた通り、関野さんは人懐っこい感じでお年寄りから子どもまで笑顔で対応してくれた。展示会では油絵で旅館を描いてくれていた。旅館入り口周辺の様子を描いてくれているのだが、油絵効果なのか重厚な印象を受けるので歴史の長さが感じられる気がしてすごく良いと思う。こんな厳かな感じの場所がお客さんを最初に受け入れているのかと思うと、手前みそだがなかなか良い旅館なんじゃないだろうか。
そして驚いたことに、クラスメイトの智がやって来たのだ。俺が日江井温泉出身と言っただけで笑ったあいつが、だ。夏休みに入ったから家族がどこかへ遠出するということで、日江井までやって来たそうだ。智の家は学校を挟んで俺の実家とは反対方向にあるので、日江井温泉にまで来るのは1時間半くらいかかるんじゃないだろうか。
「よお隆人、来てやったぜ」
「来てやった、じゃないでしょ」
「痛っ!殴らないでねーちゃん」
「お姉さんいたんだ。案内しといてなんだけど、本当に来てくれると思わなかった。 温泉で笑ってたし」
「それまだ根に持ってたのかよ?!」
「あんたまた何か変なこと言ったのね?すみませんねこいつが迷惑かけて~。いつも仲良くしてくれてありがとうございます」
「いえこちらこそ。俺、部活に入ってないし同じ出身中学の人も少ないんで、クラスで話しかけてもらえて助かってます」
「先に展示会の方も見てきたよ。お前の粘土のやつ、力作じゃん。なんか直した跡があった気がするんだけど1回壊れたの?」
「(意外と目ざといんだよなこいつ…)いや~ちょっとね。作りが甘かったみたいで折れちゃってさ、ははは」
「もー智、そういうこといちいち口に出さない!ごめんなさいホントに」
「いつもこんな感じなんで大丈夫ですよ」
「いつも!?ちょっとあんた、いっつも迷惑かけてるんじゃない!」
「うおっ、余計なこと言うなよ隆人!」
「すみませんそういう意味じゃなくて…!」
その後もしばらくこんな風に賑やかなやりとりが続き、やっとちぎり絵を始めるに至った。お姉さんは大学生だとのことで、仲の良い姉弟でなによりだ。ちぎり絵を作っている間、連れてきてくれたご両親はひえいやのお土産や観光案内を見たり足湯に入っているらしい。お姉さんは自宅で飼っている犬をちぎり絵にしたいとのことで、智は特に希望はないとのことだったので教本から猫の絵を選んでいた。なんで猫なのかというと、智は猫派で本当は猫を飼いたかったのにお姉さんの希望が通って犬になったからその当てつけなんだそうだ(そう言ってまたお姉さんにどつかれていた)。2人とも要領がよく、俺たちが教えることはほとんどなくて30分もせずに完成させていた。お姉さんが作った犬はジャックラッセルテリアという犬種だそうで、その良さをしばらくの間語られてしまった(智が適当なところで止めてくれたので助かった)。その後足湯から戻ってきたご両親と一緒に観光へと戻っていった。
13時からはまた兄貴と時間をずらして休憩を取り、田中先輩と一緒に当番をした。田中先輩もどちらかというと物静かな方だが、物腰が柔らかく人当たりが良いので心配は全くしていない。切り絵を展示会には出してくれていたが、白と黒の2色で旅館の庭を表現してくれた。白と黒の対比が綺麗で、切り口も場所によって鋭かったり丸みを帯びていたりで引き締まった印象を受ける作品だ。他のみんなが作った作品とは一番雰囲気が異なっている。多様性のある展示物が揃っていて主催者としては嬉しい。
この時間帯は松井さんと顧問の橋場先生が来てくれた。松井さんは川と堤防を、先生は山の風景を作っていたが、2人とも凝り性のようで1時間くらいかけてじっくり作っていた。松井さんは、その後阿須間に無事会えたかこっそり訊いてくれたが、俺からは首を横に振るしかできなかった。大丈夫、なんとかなると肩を叩いて励ましてくれたのはありがたいが、最終日の今日会えなかったら一体いつ会えるんだろう。この後旅館の展示会に寄ってから温泉に入っていくと帰っていった。先生も作品を作り終えてから、今回の企画に対して労いの言葉をかけてくれた。展示会にはもう寄ってきたそうで、どの作品もよくできていると褒めてくれたし、実は今回参加していない美術部員にも宣伝してくれたらしく、何人か見に来ているかもしれないとのことだった。他の部員たちは喋ってばかりにしか見えなかったが、俺たちが作品を真面目に作っているのを見て影響されたそうで、新学期からは心を入れ替えると話している生徒もいるらしい。お世話になった美術部にも少しは恩返しできそうだろうか。
それから何人かの相手をして、16時になったのでちぎり絵講座もおしまいだ。片付けを終え田中先輩、兄貴、俺の3人で帰ることにした。講座は終わったが展示会の方は風呂掃除をする時間帯まで続け、終了時点でアンケートの回答は5つ入っていた。松井さん、橋場先生、智とそのお姉さん、一般の方からだった。全日程で10のアンケートが回答された。展示会の来場客数は宿泊客も入れて合計100人未満だろうか。ちぎり絵講座は20人来てくれた。決して多くはないが、無名の高校生たちが開いたにしては悪くないと思う。
展示物を片付け終え、風呂掃除をするために風呂場へと移動する。結局、阿須間は来てくれていたのだろうか。あいつと最初会ったのもこのお風呂だったんだよな。企画をやるなんてこれっぽっちも思ってなかった俺が最後までやり遂げられたのは間違いなく阿須間の後押しがあったからだ。どうにかしてお礼を言いたいし、その前にまず謝りたいのに。そんなことを考えながら、掃除道具片手に風呂の扉を開けた。十分慣れたはずの湿気と湯気で顔を一瞬歪ませるも、中へと足を進めていく。風呂のお湯を抜こうと湯船に近づこうとしたその時、あることに気がついた。浴槽に誰かいる。髪の長い男がこちらに背を向けているのが見える。足が早まり、滑って転びそうになりつつも浴槽へと飛び込んだ。
「阿須間!」
「やあ隆人。久しぶりにお湯をいただいている。気持ちいいな」
「なんでっ…出てきてくれなかったんだよ、あんなに楽しみにしてたのに…。俺が酷いこと言ったからだってのは知ってる。でも寂しいじゃん、一緒に参加できなかったなんて!」
「お供えしてくれていたのは嬉しかったし、その場に出て行きたかったのを我慢するので大変だったんだぞ。隆人が会いたがっているのは十分伝わってきた。でもな、私もいっその事第3者のお客さんとして参加してみようと思ったのだ。喋り相手がいないのはつまらなかったが、ちょっと違う視点で見ることができたと思う」
「それで、何か面白かったのかよ…」
「隆人が1人でも頑張ってくれていた。それが分かっただけで私は満足だ」
「なんだよそれ、意味わかんない」
「この辺りの住人で俺を見ることができた人が隆人だけなのに何か意味があると思い、半ば無理やり企画をやらせることになってしまったんじゃないかと心の片隅では反省していたのだ。だからその元凶の俺がいなくなったら隆人の態度も変わるのかと思ったが、そんなことは全くなかった。毎日一緒にいたというのに、私は隆人を見くびっていたいたのだな。すまなかった」
「やめてよ、謝るのは俺の方なのに。あの時はごめん。粘土を壊された時阿須間が言っていたことは正しかったよ。俺が冷静じゃなかったんだ。いつも阿須間には励ましてもらってたし、展示会の間くらい俺1人でもちゃんとやれるはずだって思おうとして、頑張ったんだよ」
「立派になったなあ。実は伊与部も来ていたんだぞ。川の辺りから離れたことがなかったからここまで来るのに難儀したようだが、俺と一緒に作品を眺め、ちぎり絵講座も天井から覗いていったのだ」
「声かけてくれればいいのに!水くさいな」
「ここしばらく口をきかなくなったことは怒られたし、その場で仲直りしろと迫られて困ったがな。なんとかなだめることができた。あやつは楽しんで行ったし、隆人によろしくと言っていた。仲直りといえば、兄ともきちんと仲直りしたようで安心したぞ」
「兄貴の件だけど、来週から一緒に風呂掃除することになったから!兄貴も阿須間が見えればいいのに」
「前に部屋に入って勉強の様子を覗いていた時は私に気がつかなかったからどうだろうな」
「つまらないな」
「それで隆人よ。今回の企画で日江井温泉のことは好きになれたか?」
「そうだと思う。こんなに温泉のこと沢山考えたの初めてだよ。温泉と無関係だった人たちも、色んな角度から温泉のことを考えて表現してくれた。それを見るだけで自分も考えられたし、日江井には日江井なりの良いところもあるんだって思えたよ。ただ、若者を呼び込むっていう目的はあんまり果たせなくて申し訳ない…」
「何を言うか。美術部員にその家族や友達。隆人の同級生だって家族と来てくれただろう。十分賑ったさ」
「そうかな…俺のイメージする若者で盛り上がるっていうのは、もっとこう、数百人くらい来てくれないと」
「それだと禰津屋もひえいやも狭いな」
「そうなったら他の大きなホテルとかを会場にするさ」
「そうか!では来年はそうしようか!」
「ええっ!?まだやるとは言ってないでしょ?!」
「今回は2ヶ月しか準備にかけられなかったのだ。今度は1年もあるぞ。さあどうする?」
「ら、来年は受験生だし?」
「うーむ。他のものを巻き込むのが大変なら、隆人1人で超大作を作ってみてはどうだ?
1年がかりでやってみるなんてそうそうできないぞ。それに美大とやらを受けるのにも役立つかもだ」
「超大作ねえ」
また阿須間の口車に乗せられてしまいそうだ。1年もかかる作品なんて、今回の企画より大変なんじゃないだろうか。それに日江井温泉を盛り上げる、若者を呼ぶっていう当初の目的から離れてきてるし。阿須間的には温泉に関わることをやってくれればそれで完璧って感じなのだろう。適当すぎないか?
「でも今回の企画で気がついたのは、俺自身何か作るのも良いけど、他の人が作ってくれる場所をアレンジするのが結構好きだってことかな。色んな人が美術に関わる場所を作るっていうの?」
「おお、素晴らしい気づきだな!うんうん、隆人はきっとそういった方面に秀でているのだろう。温泉のためだけでなく、隆人自身のためにもなったようで私は嬉しいぞ!」
「いや、秀でているっていうより好きって話なんだけど…」
「そのような機会もまた設けたいな。それこそ大学に進学してからでもいいんだぞ?今度は大学の友人たちと何か企画でも立てるがいい!最初に話していた大学と地方のこらぼとやらは時間をかけて企画していたのだろう?そんなことが今度はできるのではないかな」
「あー雑誌のあれか。大学の人たちを連れて、地域振興の一環として出来たらより多くの人に来てもらえそうだよな」
「期待は広がるなあ隆人よ。何をするにしても私はいつだって応援するぞ!」
「はいはい。いつも応援してくれてありがとう」
こうして阿須間との出会いに始まった企画は、阿須間との再会によって幕を閉じた。長かったようで短かった2ヶ月と数週間が終わろうとしている。この期間に経験したことは、普段だったら決してやらない新しいことばかりだ。ほとんど喋ったことのない人に話しかけた、親に自分からやりたいことを伝えた、企画書を作った、などなど数えればきりがない。
温泉が好きになれたというのはその通りだが、小さい頃の好きだったとは意味が違う。小さい頃温泉が好きだったのは、こののどかな景色にぽつぽつと温泉宿が並んでいて、せんべいの焼けるいい匂いがして、俺の世界が回っているこの日江井という地自体が好きだったからだ。
いつしか成長するにつれて、そんなのどかさが逆に退屈さに感じ、そんな土地に残る兄貴の方が優秀なことに引け目を感じてしまっていた。そんな諸々の感情を今回の企画は洗って綺麗にしてくれたように思う。
今はこの温泉地が作り出すもの、そこに集って楽しんでいく人、この環境そのものが好きだと言える。兄貴との再び会話するようになったのも思わぬ副産物だ。兄貴へのコンプレックスとないまぜになった地元への複雑な感情がほどけてきた気がする。
日江井で暮らしていくのはあと1年半ぐらいの予定だが、この企画のおかげで後悔はせずに済みそうだ。改めてそのきっかけをくれた阿須間を見ると微笑み返してくれた。俺も笑い返し、今日も風呂掃除に精を出すのだった。明日からのお客様が温泉で疲れを癒してくれることを祈って。