まさかこんなことになるなんて
「はぁ、今日も風呂掃除か」
まだ手つかずの広い浴槽を扉越しに見つめてため息をつく。小学生の頃から掃除させられているので慣れたものだが、それでもやはり愚痴りたくなる。俺は岡上隆人。高校2年生。この温泉街、日江井温泉に位置する旅館の一つ、禰津屋の次男だ。ちなみにここは内風呂なので露天風呂も併せて掃除しなければならない。客が利用した後の風呂掃除が寝る前の日課となってしまっている。日課とするならもっと生産的なことがしたいものだ。掃除はマイナスになったものをゼロに戻すだけだ、プラスは生み出さない。決して新築当時の綺麗さには戻ったりしない。そう考えると掃除自体がくだらなく思えてしまい怠けたくなるので、深く考えないよう頭を切り替える。
うちの旅館はこじんまりしていて多くても30人くらいしか泊まれない。温泉自体も狭くはないがそこまで広くもないと思う。同じ日江井の他の旅館はもっと広いところもあるし、うちみたいに小さいところもあるからお客さんの好みや予算で選んでもらう感じだ。自家厳選の温泉が売りではあるのだが、内風呂と露天風呂が男女別に一つずつと、貸切用の露天風呂が一つあるだけで特に特徴はない。露天風呂は檜の浴槽で、露天風呂付き和室も3室ほどならある。居心地の良く落ち着ける、日常の喧騒を離れてゆっくりできる場所、というのを提供していることになっているが、俺にはただの狭くて古い建物にしか見えない。
さっき言ったようにこの辺りは温泉地で一応観光地ということになっている。一応、と言ったのは温泉以外は特に何もないからだ。観光がしたいとなったら隣町まで車で出ないといけない。隣町にはこの県で最大の神社、競輪場、地元のどの辺りにいても大抵視界に入る山の頂上まで行けるロープウェイなどがあり、半日くらいだったら時間を潰せる。更にその隣町まで行けば魚の浜焼きなども食べられる港町の魚市場、水族館なんかもある。この温泉街だけではぶらぶらして時間を持て余し、名物のジェラートを食べせんべいを齧る以外はやることがないのだ。ここに来る旅行客は大抵近隣の観光と併せてやって来る。
とにかく中途半端、それがこの温泉地。この地域で一番最初に開湯したのは250年前とのことで、短くもないが他にももっと歴史のある温泉地もあるなんとも言えない立ち位置だ。傷ついた雉が傷を癒したという伝説から雉の湯とも呼ばれていて、先先代の天皇陛下が泊まりに来た宿があることが唯一の誇りと言えば誇りかもしれない。しかし温泉以外の観光資源もないし仕事がないので若い人は都会へと出て行ってしまう。若い人の人口はどんどん減っているらしく、俺の通った地元の小中学校は、俺の代にクラスが1つ減ってしまった。
とまあ観光地としてのこの温泉街の情報はすっかり頭に入ってしまっている。それよりも目の前の仕事に集中しなくては。仕事を開始すべく、デッキブラシとバケツに入れた洗剤などの掃除道具を手に浴室の扉を開けた。客が一通り使用した後の22時過ぎの風呂場は湿気で一杯だ。お湯の循環は止めたので、湯船からさっさとお湯を抜かないといけない。バケツを片隅に下し、デッキブラシ片手にお湯を抜きに行こうとしたその時だ。浴槽に誰かいる。髪の長い男がこちらに背を向けているのが見える。髪は束ねてから入ってほしいし、そもそも温泉の利用時間は終わってるのに気が付いてないのかな。お客さん、利用時間は終了してますよ、という声が喉まで出かかったとき、俺はあることに気が付いてしまった。気が付きたくなかったが。後ろからでよく分からないが、この男は着物のような服を身にまとったまま浴槽につかっている。一体何を考えているんだろう。こんな変な客に声をかけるのは嫌だな。そんな風に思ったのもつかの間、その男が立ち上がった。
「あっ、あの利用時間は…」
そこで声が止まった。いや出なくなってしまったというのが正しい。浴槽にいた男が音もなく上がってきたのだが、その着物は一切濡れている様子もない。それ以上におかしいのは、この男が浮いているということだ。足が地面についていないし、足を動かさずに歩いているではないか。それにしてもやたら整った顔をしている。意志の強そうな釣り目に目が吸い込まれる。体つきは結構がっしりしている。いやいやそんなことを考えている場合ではない。幽霊なのか?俺は金縛りにあったかのようにその場で動けなくなってしまった。そうこうしているうちに男がすぐ目の前まで近づいてきて口を開いた。
「私が見えるのか?いやぁ、驚いた。ここに初めて温泉が湧いた時から通っているが、私が見える人間に会ったのは初めてだ!お主の名はー」
「でっ、でっ」
「で?」
「出たあああああああ!!!!」
ようやく動いた口で腹の底から声を出し叫び、後ずさる。男はぽかんとした顔でこちらを見ている。早く逃げるべきなのに足が動かなくなってしまった。少しの間見つめ合っているとパタパタという足音とともに女湯を掃除していたバイトのおばさんがやってきた。
「大きい声出してどうしたの、お客さんに聞こえたら迷惑じゃない。ゴキブリでも出た?」
「た、助かった…!見てくださいあそこに幽霊が…濡れないし浮いてるんです!」
思い切り幽霊男を指差す。しかし入り口から浴室を覗き込んでくるおばさんは怪訝な顔をしている。
「誰もいないじゃない。からかってるつもりかもしれないけど、ちゃんと掃除しないとお母さんに怒られるよ!」
「えっちょっと待っ」
そう言って無慈悲に立ち去っていくおばさん。かくして再び浴室に幽霊男と2人きりになる。まさか放置されるとは思っていなかったのであっけにとられぼうっとしてしまったが、そんな場合ではない。今度こそ急いで逃げ出さないと。ようやく動くようになった足を動かし、幽霊男に背を向けようとした時だった。
「まあ待て。私は幽霊じゃないぞ。歴とした神だ。この地で温泉が人々に親しまれただした頃からずっといるぞ」
「神!?」
勢いよく振り返って幽霊男、改め神様をまずまじと見つめる。自称神様を見るのは初めてだから本当に神様かどうか判断が出来ない。信じていいんだろうか。
「何か神だと証明できるようなことはないんですか?」
「うーむ証明とは難しいな。証明になるかは分からんが、この地域に阿須間神社があるだろう?あそこは私を祀った神社で、普段はそこで暮らしている。今夜はたまたまこちらの温泉に遊びに来ていたのだ。そうしたら私が見えるおの子がいるではないか。いやあ嬉しくてな、ついつい声をかけてしまった」
「はぁ、そういえばそんな神社ありましたっけ。あの丘の当たりですかね」
どんどん話が脱線してきている気がするが、この地域の温泉の神様ということか。近所の小高い丘の脇にひっそりと佇む小さな神社が住処とは。小さい頃丘のふもとにある公園に遊びに行く度に近くを通りかかったが、お参りしたことは一度もないし、参拝客がいるのも目にしたことはない。近所の人がたまに掃除やらをしに来ていることはなんとなくわかったが。それほど信仰されていそうにないのに今日まで神としてよくやってこれたな。
「百数十年前だったか、当時の天皇がこの温泉地に泊まりに来たであろう。お主の旅館ではなかったがその時は私以外の神もぞろぞろ集って見学していたぞ」
「へえ〜。実感わかない話だったけどそんな感じだったんだ。ねえねえ、神っぽい能力は何かないの?浮いたりするのは幽霊でもできそうじゃん」
「神っぽい能力かぁ。特にないな。この地の温泉の一層の繁栄を祈ることぐらいだな」
「うーんお祈りかー」
なんとなくくだけた話し方にしてしまったが、神様は気にしていないようなので続けることにする。今の話は幽霊でもつくれそうな話ではあるが、そこまでして神のふりをしたがるのも変な感じだし、きっとこの男は本当に神なんだろう。なんだか面倒臭いしそういうことにしよう。
罰当たりだろうが正直幽霊と大差ない気もする。いや幽霊のこともよく知らないけど。
「それにしても不思議だな。こんな狭い地域なのになんで今まで会わなかったんだろう」
「うむそれは私も不思議だ。この辺りの温泉はその時の気分で色々回っているが、お主が生まれる以前から続けていることだから会っていてもおかしくはないな。何故このように出会ったのか、きっとこの出会いには意味があるのではないだろうか。他でもない温泉の神である私に会ったということは、きっとお主にこの温泉をより繁栄させるための使命でも与えられたのではないか?」
「なんだよそれ!そんなこと言われても何も出来ないぞ?!」
「ふふふ、きっとそうに違いない!素晴らしいではないか、応援するぞ!」
「勝手に決めつけないでくれよ…」
そうとうややこしいことにされてしまった。完全に相手のペースに飲まれている。これじゃあいけない。
「そんな嘘くさい話信じないからな。今日初めて見えたのは…えーとたまたまだ、たまたま!」
「楽しみだなぁ。どうやって盛り上げてくれるのか?あ、そういえばまだお主の名を聞いていないぞ」
「俺?俺は岡上隆人。ちなみに、神様はなんて名前の神様なんだ?」
「私は阿須間という。神社と同じ名前だ。よろしく頼むぞ」
「うんよろしく。あれ、そういえば何しに来たんだっけ…あっ掃除!掃除しないと!」
「おおそういえば掃除に来たのだったな。ほれほれ見ててやるから頑張るといい」
「あんたが掃除するわけじゃないのになんか偉そうだな?!」
「まぁ神だしな、ははは」
にこにこ笑いながら掃除する俺にまとわりついてきた。まあすり抜けるから邪魔ではないんだけど。この神様といると調子狂うな。こんな感じで阿須間は掃除が終わって部屋に戻るところまで着いてきて、寝ようとしているところもにこにこ見てくるもんだから面食らった。なんか想像してた神様とイメージが違う。俺の想像する神様はもっとこう、静かで厳か、離れたところから見守っているイメージなんだが、阿須間は自分のペースを貫く不思議系といった印象だ。
「あのーいつ帰るの?」
「うむ神社にいても暇だしな。隆人にしばらく着いて行こうと思う」
「それ着いて行くじゃなくて憑いて行くじゃない!?それに寝るとこ見られるの恥ずかしいんだけど」
「うーむでは私も寝るか。添い寝してやろうか?」
「ええっ何言ってんの?それに透けるじゃん!」
「ははは冗談だ。目を覚ますころにまた戻ってこよう。おやすみ」
「おやすみ」
ようやく解放されてほっとする。幽霊じゃないどころか神様でご利益があるかもしれない存在なんだけどどうも振り回されてしまう。風呂掃除に行っただけなのにとんだ目にあってしまった。明日の朝もまた来るのか…疲れそうだな。うだうだ考えていても仕方ない、明日のことは明日考えよう、と問題を先送りして寝てしまうことにする。電気を完全に消した部屋で布団にくるまって願う。明日の俺、頼んだぞ!あっそういえば阿須間に何時に起きるか教えてない…まあいいか…。
「隆人~、隆人~、朝だぞー!起きてくれ」
「…今何時?…5時過ぎたばっかりかよ!教えなかった俺も悪いけど、こんなに早く来ないでくれよ…まだ寝てるよ」
「しかし、隆人の両親と祖父母だと思うが、男女4人はもう起きて旅館のほうへ行ったぞ?」
「あー…親とじーちゃんとばーちゃんはいいんだよ。働きに行ってるんだから。俺は学生だから寝てていーの」
翌朝、早くに起こしに来た阿須間にため息を吐きながらモゴモゴと会話に応じる。うちの親と祖父母は大体朝5時くらいに起きて旅館の仕事をしに行く。夜間は担当の職員が交代で起きて必ず誰か1人は起きている状態を維持している。朝一番に夜間特に何もなかったかなどを確認し、その日1日の流れを確認したりしているようだ。
一応宿の現在の経営者は親父夫婦で祖父母は引退したことになっている。なっている、というのは、祖父母が家にじっとしている人ではないから今でも手伝いに行っているという意味だ。俺だったらいい歳になったらさっさと隠居してしまいたいというのに。
「うーむだが隣の部屋のおの子も起きているぞ?隆人の兄弟か?」
「…その人は放っておいていいの」
隣の部屋の人間は1人しかいない。俺の兄、隆匡だ。県内で一番偏差値の高い高校に通っていて、勉強に集中するため夜も早めに寝て朝早く起きて勉強しているようだ。俺よりも実家の手伝いが軽めなのは気のせいじゃなく、あからさまに贔屓されている。勉強になるべく専念してほしいからとのことだが、1日ほんの数十分の手伝いを毎日したところでそこまで勉強に響くんだろうか。父さんは贔屓する気はないようなのだが、母さんが俺よりも優秀な兄を大層気に入っているからこの贔屓がまかり通ってしまっているし、俺も文句を言わない。そして祖父母は思うところはあるようだが教育には口出ししてこない。兄貴は中学時代は生徒会長を務めていて、俺の中学から唯一偏差値一位の高校へ進学した生徒として注目を浴びていた。1つ年が離れているだけの兄弟なのに、頭の出来も顔のつくりも違い、兄貴はイケメンともてはやされるが俺は特に何も言われない容姿だ。いろいろ違いすぎて嫉妬する気も起きないし、親や周囲のもてはやしも仕方ないよなと納得するようになった。
「顔を少し見たが隆人とはあまり似ていないな」
「よく言われる。じゃあもう1回寝るから。俺の起きる時間6時なんで、これからはこんなに早く来ないでくれよ」
「あいわかった。暇だから隆人の兄の様子でも眺めているかな」
阿須間の気配が遠ざかり、俺はもう一度布団にもぐりなおして目を閉じた。とはいえさっきの会話ですっかり目も覚めてしまっており眠れそうにないのだが。くそっ阿須間め…。
結局6時に携帯のアラームが鳴るまでの間、もう一度眠りにつくことはできなかった。
「頭がぼーっとする…」
「今度こそおはよう、隆人」
「おはよ」
あくびをしながら階段を下り、洗面所で顔を洗い歯を磨いてから台所へ向かう。
「おはよう」
「「おはよう」」「おーおはよう」
きちんと返事を返してくれるのは祖父母と父親だ。母親も兄貴も返してこない。それでも無言で食卓につくのは落ち着かないので挨拶はする。
「隆人、あんた昨晩ゴキブリが出たとかで大きな声だしたそうじゃない。お客さんに聞こえたらどうするの。ちゃんとしなさいよ」
「ん、気をつける」
あのバイトのおばちゃんお喋りなんだよな、それにゴキブリ見たことにされてるし…。母親の小言は今に始まったことじゃないので適当に流す。特に会話なしで朝食をすませるのはいつものことだ。今日の献立はご飯、鮭の粕漬け、味噌汁、おひたし、漬け物とよくあるパターンの和食だった。
俺の家から最寄り駅までは自転車で15分くらいかかる。電車の本数が少ないので1本逃すと30分くらい待つことになってしまう。キヨスクすらない駅ホームでぼーっとするのは辛いものがあるので自然と早めに行動してしまう。俺以外にも同じ中学出身者で通っている人も1人だけいるのだが、相手は女子でそれほど仲良くもないので自然と1人で通学することになった。兄貴も乗る方向は同じなのだが俺より1本早い電車に乗っているので一緒にはならない。朝食を食べ終わってからゆっくりする時間が俺にはあるが、兄貴は食べた直後に駅へと急いでいるから大変そうだ。俺の乗る電車は市の中心地に通う人ばかりが乗る少しだけ早めの時間なので、近辺に通学する知り合いには残念ながら会えない。けど今日からは1人じゃないのか。
「隆人、自転車に乗ったのも初めてだが、電車に乗るのも初めてだぞ。今日は初めてづくしだ」
「何百年行きてて乗らなかったなんて意外だよな。好奇心旺盛そうなのに、そんなにあの場所が気に入ってたのか?」
「気に入っているも何も、あの地の温泉の神だからな私は。そう離れもしないさ」
最寄り駅で電車が来るまでの間、阿須間と雑談する。この駅までは自転車2人乗りでやってきた。といっても後ろに乗られても重さは感じないのだが。どうせ乗せるなら女の子が良かったけど、神ならご利益があるかもしれないよしとしよう。電車の中は隣駅まではそこそこ人がいるから喋っているところを見られるのはまずいので、今の内に閑散とした駅ホームで喋っておく。俺が独り言をぶつぶつ喋ってる風にしか見えなくてもなんとかなる。
「隆人の学校を見るのも今から楽しみだ。今時の子どもはどのような学び舎でどんなことを学んでいるのだろう」
「学校では大人しくしててくれよ。話しかけられても無視するからな」
「おお冷たいな。まぁいい、適当に楽しむとするさ。ところで学校の人は温泉のことをどれだけ知っているのか?遊びに来てくれたりするのか?」
「…入学してすぐの自己紹介で、爆笑された」
「爆笑とな!?どういう意味だ?」
俺が口を開きかけたところでちょうど電車がやってきた。人が減るまでしばらく静かにしててと言い聞かせ電車に乗る。一駅先で降りる人がそこそこいるのでようやく座ることができた。ボックス席に1人で腰掛けると、前の席に阿須間が座った。
「もう喋っても良いか?それで先ほどの続きだが、爆笑されたとはどういうことだ?」
このことがずっと聞きたかったようでそわそわしている。そんな中悪いけど話すのは面白くないことだ。
「なんかまぁ温泉地に住んでるってのがツボに入ったみたいで笑われた。あと日江井せんべいって言われた」
「一体何がおかしいんだ?笑うことではないと思うがなぁ。一度来て温泉に入ればその良さが分かるはずだ!」
「うーんうちの旅館だけじゃなくて、あの温泉地は全体的に来るお客さんもっと年上だし、俺たち世代だと良さが理解できないんじゃないかな?」
「なんと…!温泉は年齢問わず誰にでも等しく開かれているというのに!」
「でもずっと温泉見守ってたなら分かってるはずでしょ、10代の客が少ないってこと。せいぜい家族旅行で連れられて来るぐらいじゃん」
「むむむ理解はしたが納得はしないぞ!私は若い衆にももっと入ってもらいたいのだ…」
ここまで話してしょんぼりされてしまう。俺だって同級生にからかわれたりするのはいい気分じゃないし気持ちは分かる。でもどうしろっていうんだ。
その後は阿須間を適当に励ましてから面倒なので話題を変え、雑談をしながら高校へ向かった。終点まで45分ほど、そこから自転車で10分くらい。なので俺の通学時間は1時間を超えている。
学校に着いてからは口をきけないときつく言ってあるし、授業が終わる時間も教えているからその頃になったら戻ってくるよう伝えてある。意外と大人しく聞き入れてくれたので逆に心配だったが特に問題なく放課後まで過ごすことができた。
今日は進路希望調査表が配られた。今週中に提出することになっているが、俺は温泉宿の後を継がずに東京の美大へ行こうと思っている。まだ親には話していない。
次男だから跡を継ぐ意思がないことは何となく伝わっているだろうし、向こうも期待していないだろう。なんせあの優秀な兄貴がいるのだから。少し前に大学で経営学を学んで宿のより良い運営に取り組みたい、といったことを話して母さんを喜ばせていた。
俺が美術が好きなのも伝わってはいると思う。学費の面で美大への進学は反対されそうな気はするが、そこはほんの少しでも安い学費の大学を見つけて説得するしかない。
俺は家が遠いことと実家の手伝いを理由に、もとい言い訳に、特に部活には入っていない。なので授業が終わり次第さっさと家へ帰る。
「早い1日だったな。もう帰るのか」
「うん特にやることないし。授業中とかどこいってたの?」
「適当に校内をぶらぶらしていた。色んな授業の様子が見られて面白かったぞ。今の時代子どもたちはあのように学んでいるのだな。途中で飽きてからは近くの川沿いの道を散歩していた」
「あの土手は4月になると桜で綺麗なんだよ。うちの学校のボート部もあの川で練習してるし、散歩すると気持ちいいんだよな」
「そうなのか。来年その季節になったら花見でもしようか」
「阿須間と2人きりだとぼっちで花見してるみたいになるな」
笑い合いながら帰路につく。朝は少し落ち込んだみたいだったから元気そうで安心した。
「ところで隆人よ。思ったのだがな、若者が温泉に来たがるような催しをしたらどうだろうか!?」
…朝の話終わってなかったのか。
「隆人が私が見えるようになったのもきっとそのためだ!私も協力は惜しまんぞ、さあ若者を呼び込もうぞ!」
「ちょっ、ちょっと落ち着いて!いきなりすぎるよ」
「若者が日江井温泉に集う…素晴らしいではないか!今から楽しみだなぁ」
「そんな風に言われてもなぁ……正直に言うと俺そんなに温泉好きじゃないんだよね」
「なんと!?」
温泉の神様を目の前に言うことではないと黙っていたが、流れが面倒臭くなってきたので正直に話してしまった。あわよくば諦めて欲しいという魂胆だ。実家が温泉宿だから手伝っているだけで、物心つく前からそこには温泉があったし、気がついたら温泉はそんなに好きではなくなっていたのだ。
「てっきり温泉が大好きだとばかり…どうしてなのだ?」
「さあ、どうしてだろうな。小さい頃は好きだったはずなんだけど…」
「一体何があったのだ?私に何でも話すがいいぞ!せっかく温泉地に生まれ、温泉宿で育ったのに、温泉が好きではないなど悲しいではないか!」
直接的な出来事があったわけじゃない。
ただ気がついたら温泉があまり好きじゃなかった。元々は好きだったのになんでだろう。確か中学生ぐらいになってから嫌な気持ちが優勢になった気がするが何かあったっけな。
「自分でもよくわかんないや。ごめん変なこと言って。忘れてよ」
「いや隆人、これはきっと天啓だ。若者が温泉に集う、そして隆人も温泉が好きになる。そんな機会を作るべく私と隆人は出会うべくして出会ったのだ」
「うーんよく分かんないよ」
1人で目を輝かせてやる気になっている阿須間には悪いが、温泉なんかのために若い人を集めるようなことなんてしたくない。特に余計なことをせずに平穏に過ごしてきた俺の生活に波風を立てたくはない。
適当に相槌を打ちながら話を合わせながら家まで帰ってきた。
「ただいま」
返事は返ってこないが習慣なので声をかける。一旦2階の部屋に戻って部屋着に着替え、飲み物を取りに台所へ行くと兄貴がいた。
教科書とノートを広げて勉強している。兄貴は気分を変えるためにこうしてたまに台所で勉強しているところがある。部屋にずっといると集中できないらしい。俺はどこにいても集中できないが。
お互い通っているのは県立高校なので定期試験のスケジュールも似通っている。なので兄貴の高校もあと3週間くらいで試験があるはずだ。
おれは2週間前くらいから準備を始めるので今は特に何もしていない。
兄貴を横目にコップを取り、お茶を注ぐ。
「お前、進路とか考えてんの」
「えっ」
兄貴に急に声をかけられる。とっさのことで声が裏返ってしまった。
「考えてねーの?」
「ちょうど進路調査の用紙はもらったけど。なんで?」
「なんとなく。俺の進路の話は前話したからお前は知ってるだろ」
「経営の勉強だっけ。俺は…美大に…行きたいかなって」
「美大ぃ?はっ、お前は気楽でいいよな。勉強も大変じゃないし後も継がなくていいし」
出た、兄貴お得意の嫌味だ。あまり口をきかなくなったが、俺の兄貴はいつからか口を開けばこのような嫌味ばかり言うようになってしまった。昔はもっと仲のいい兄弟で、一緒に温泉ではしゃいでいたんだけどな。
「…俺だって色々大変だし、兄貴と俺は違うから当然だろ」
「へぇ大変ねえ。どう大変なんだか。まあ頑張ってくれよ」
ブチン。何の音か知らないが、俺の中で何かが切れた音がした。
「うるせえ!!!俺だってやってやるからな見てろよ!!!」
ダンッとお茶の入ったコップを思いっきりテーブルにぶつけそのままずかずかと2階の俺の部屋まで戻っていく。
兄貴がぽかんとした表情で俺を見ていた。あんな顔初めて見たかもしれない。傑作だったな。あっお茶いれたコップ置いてきてしまった。
「おお隆人よ、兄弟げんかはよくないが、よくぞ言ってくれた!ついにやる気になったのだな、若者を温泉に呼び込むと!」
「ああもうなんでもやってやるよ!なんか腹たってきた!兄貴がやってこなかったことをして温泉を盛り上げてやる!」
帰ってきてから静かだなと思っていた阿須間がどうやら一部始終を眺めていたらしい。あれは兄弟げんかの内に入るのか分からないが、つい腹が立って言い返してしまった。言い返すのなんてひょっとしたら初めてかもしれない。それで兄貴もあっけにとられた顔をしたんだと思う。
「若者を呼び込むイベントっていうのはよくわかんないし、多分派手すぎるのとか騒がしいのは温泉街の雰囲気にそぐわないから反対されると思う。若者を主な対象にしたいとこだけどそこは難しそうだ。俺も若者のはずだけど、どういうことが俺向けなのかわかんないし。だから今の温泉の方向性と離れすぎない感じでやってくしかない。そんなに人が沢山来てごった返すっていうイメージわかないから、少し来てくれる人が増えるとか、増えなくても来てくれた人がより楽しんでくれる感じを目指したい。阿須間がやりたかったこととは違うかもしれないけど」
「ふむふむ」
「温泉自体は多分悪くないんだから、その良さを引き立てられるような仕組みが必要なんじゃないかな」
「よく言った隆人!してその仕組みとはなんだ?」
「それが簡単に分かったら誰も苦労しないんだよ。そこでみんな苦戦してるんだからな」
「そうか、そう単純にはいかぬのだな」
しゅんとする阿須間。そうだなのだ、これは単純な話ではない。どこの温泉宿だって客を呼び込むために鋭意努力しているはずだ。基本的に同じ源泉で、同じ土地で経営している宿なんだ、差別化だけでも必死にしなければならない。ただでさえ客を呼ぶのに苦労しているのに、若者に焦点を当てて呼ぶとなると更に苦戦するんじゃないだろうか。
「あと企画する身としては俺も興味が持てるものがいいな。そうじゃないと途中で大変なことがあったら嫌になって放り投げそうだし。一瞬音楽フェスとかいいんじゃないかと思ったけど、音楽はそんなに興味ないや。そもそも観光協会がロックフェスをもうやってるみたいで、予算もそんなになくて有名な人は来ないし盛り上がってないみたい。あとフェスっていうと料理フェスとかかな。地元食材を使って何か作るって感じ。でも俺料理のことよくわかんないし、そもそもうちの地元で有名なものって他のところでも有名だからわざわざそのために日江井まで来ない気がするな。衛生面の管理も大変そうだからやる気がしない…」
「して、隆人も興味があることとはなんなんだ?」
「んー、俺の部屋見て薄々気がつかない?」
「隆人の部屋?…色んな絵が沢山飾ってあるなぁ」
「そう!わかる?これ全部印象派って呼ばれる絵なんだけどさぁ、市内で展覧会やるってなった時にお土産コーナーで見つけて買い占めてきたの。結構いい値段がしたけどあの場じゃなきゃ買えなかったから後悔してないし、大きさに合う額縁探してくるのもまた時間かかったけど楽しくてさ〜」
「おおう饒舌だな、よほど好きなのだなその炎症派とやらが」
「炎症派じゃなくて印象派ね!で、印象派に関わらず芸術が好きなんだよ。この雑誌も定期購読しててさ」
本棚から1冊の雑誌を取り出し阿須間に見せる。その本を阿須間は興味深そうに覗き込んできた。
これは隣町の本屋で中学の時から定期購読してる雑誌で、内容は美術に関するあれこれだ。俺の住んでる日江井に本屋は存在しないので隣町まで行かないとならず、地味に面倒だが仕方ない。
適当に中をペラペラとめくってみると様々な特集が組まれていて読んでいて飽きない。
「お?少し前の頁に戻ってくれるか?そうそうそこだ。美術大学とこらぼして町おこしとあるぞ」
「そういえばそんな特集あったな」
「こんな企画など良いのではないか?若者の視点を取り入れてあーととやらで町を賑わうようにする。隆人も好きな分野だし、この温泉地も盛り上がる!一石二鳥ではないか」
「へーどれどれ」
過去に読んだはずなのにすっかり忘れているので今一度目を通してみる。そこには閑散とした商店街に人を呼び戻すべく、美大生が商店街と協力してアートで飾り付けたり催し物をしたりと様々な工夫が凝らされたことが書かれていた。なかなか興味深いうえ、うちの温泉地でもできるのではと胸をはやらせながら文字を追うが、あることに気が付いてしまった。
「これちょっと俺が主催するには無理そうな気がする」
「なぜだ?」
「ここ見てよ。準備に1年以上かけてるよ」
つんつんと指差した個所を阿須間が覗き込む。そこにはどのようなスケジュールで美大がこの企画を行ったのかが書かれていた。まず担当チームが発足、共同研究がスタートしてから2年後にアートイベントがようやく開催されているのだ。その2年間に何が行われていたのか詳しくは書かれていないが、よほど丁寧にコンセプトを詰めたり企画を練ったりしたことがうかがえる。商店街とも何度もやりとりしたのだろう。来年は受験生で大学生からの未来も不確かな俺には責任が持てそうにない。
「うーむ。詳しくは知らないが、大学が授業の一環としても行った事業で、町の人たちとも関係を慎重に築く必要があったのだろう。隆人はそこまで大がかりなことに取り掛からなくてもいいのでは?例えば、隆人の高校にも確か美術部があるのではないか?学校を散策しているときにぽすたあとやらを見かけたぞ。そこに声をかけてみては?」
「うちの高校の美術部か。温泉の雰囲気にあった作品を作ってもらって飾れば賑わうかな?あんまり若者が来そうな感じはしないけど、若者『が』参加するっていうのは良いね。参加した人たちが温泉について考えてくれたり親しんでくれるわけだし」
ここまで話してみて、美術部とのつながりがないことに気がついてしまった。さっきも話した通り俺は帰宅部だ。同じクラスに美術部の知り合いなんてのもいない。
「思い出した。そういえば玉木さんが美術部だったな」
高校で唯一同じ中学出身の玉木さんは確か美術部のはずだ。せいぜい高校受験の時と入学式の時くらいしか話していないので今更どう話しかけたものか分からない。おとなしい人で俺が話しかけると緊張してるのがありありと伝わってくる。が、他に美術部の知り合いもいないし、兄貴に見栄を切った手前引くわけにもいかない。
「明日の朝電車で話せるかな。メールでもしとくか」
乗る時間帯は同じなのに離れた車両に乗ってる玉木さんだが、うまく捕まってくれるだろうか。社交辞令で交換したきりだったメールアドレスを選択しメールを打ち始める。
「うーんなんて書けばいいんだ?」
「美術部のことで相談したいことがあるから明日の朝電車で話したいとそのまま書けばいいだろう」
「そんなんでいいのかなー。身構えられそうだけど他に書きようもないもんな。まあ適当に久しぶり元気、とか挨拶も書いとくわ」
「うむ良いぞ良いぞ!」
「よし送れた!」
「返事が来るといいな」
「…あっ……あのさ、企画の話を進めるのはいいけど肝心なこと忘れてるよ。うちの旅館で本当にこの企画をやらせてもらえるのか確認しとかないと。美術部の人は参加するって言っても、旅館が許可してくれなきゃ意味ないし。はあ、大事なことなのにすっかり頭から抜けてた…やばいな」
「そうなるとご両親と話すのか。きっと頑張る隆人を応援してくれるに違いない!」
「…親父はともかく、母さんはどうかな。ちょっと不安だな。まあ今日の夕食の時に話してみるよ」
「応援しているぞ隆人!もはや開催待ったなしだな!」
「だから気が早いって!」
宿題や明日の支度をして夕食までの時間を潰した。夕食のときは皿洗いだけ手伝っているので準備はしなくてもいいので気が楽だ。
1階から母さんが「ご飯だよー」と呼んでいるのが聞こえたので返事をして部屋の外に出る。
兄貴と廊下で鉢合わせたが何食わぬ顔をして階段を下りて台所へと向かう。
「今日の夕飯は何かなぁ」などと、食べもしない阿須間が楽しそうに呟いた。こいつお供え物されたら味とかわかるんだろうか。
「いただきます」「…いただきます」
祖父母に両親は既に食べ始めているのでそれに俺と兄貴が加わる。
今日の夕飯はご飯、味噌汁、キャベツの味噌炒め、唐揚げだ。
言い出しにくいがこういうことはさっさと終わらせてしまうに限るので、視線をおかずから両親に移し、おずおずと切り出してみる。祖父母は基本的には宿の運営に口出ししないので両親の許可さえ取ってしまえばいいはずだ。
「あのさー、ちょっとお願いしたいことがあるんだけど…」
「何?お手伝いかお小遣いの話?」
「違う違う。ちょっとうちの宿でやりたいことがあって…。えっと、7月の3週目、夏休みに入ってからの1週間でいいからさ、宿の空いてる場所に作品を飾らせてもらえないかな…。高校の美術部の人に頼んで温泉をイメージした作品を作ってもらうと思ってるんだけど…」
「何言い出すかと思ったらそんなこと考えてたの?そんなことやってる暇があったらお兄ちゃんを見習って勉強したら?来年は受験生なんだし」
「お母さん、そう頭ごなしに否定しなくていいじゃないか」
やっぱり母さんは許してくれないか…こうなったら実現は難しいかな。もう玉木さんにメールしちゃったけどどうしよう。そう思った矢先、普段母さんに好きに言わせている親父が喋り出した。
「隆人が温泉のために何かしようなんて考えたの初めてじゃないか?」
「毎日お手伝いしてるじゃない」
「手伝いはやれって言われてるからやってるだろうしちょっと違うんじゃないか。折角隆人がやる気になったんだ、応援してやろうじゃないか。それに宿自体にもいいことはあるだろう。良い作品を飾らせてもらえばお客さんも楽しんでくれるさ。ただ、宿のイメージを損なうようなものは駄目だけどな」
「お父さんがそこまで言うなんて珍しいわね。分かったわ…。確かその期間は何も予定はなかったはずだし、渡り廊下とか空いてるところをうまく見つけて飾ったら良いんじゃない?」
「本当にいいの!?」
「ただしやるからにはちゃんと責任持ちなさいよ。宿のもの壊したり汚したりせず、終わったらちゃんと元どおりの状態にすること。お父さんも言ったけどこの宿の雰囲気を壊す作品もダメよ。良いわね?」
「ありがとう!きちんとやります!」
「もう急に何の気を起こしたんだか…まあ頑張りなさい」
「良かったな隆人。何かあれば相談しなさい」
「うん頑張るよ!」
会話の成り行きを見守っていた祖父母も口を開き喜びを表してくれた。途中で親に対して口を挟むかと思ったが無言を貫いたあたり全面的に両親に任せているんだな。
「隆人なりに宿のことを考えてくれてたなんて嬉しいねえ」
「企画を考えてくれるだなんてね。びっくりしたよ。どんな作品を作ってくれるのか楽しみだ」
「ふふふ。こうなることは私には分かっていたぞ!おめでとう隆人、あとは美術部の皆々に声をかけるだけだな!」
阿須間も祝福してくれた。家族がすぐ目の前にいるので返事はできないので、目配せでお礼をする。
この場にいて全く会話に入ってこなかった人が1人だけいる。兄貴だ。興味なさそうに食事を進めていた。
俺たちが話している間に粗方食べ終えたようで、許可をもらい興奮冷めやらぬ俺がようやく食べ出す頃には「ご馳走様」と言って食器を流しに置いて台所を出て行った。
手伝いが免除されているのは楽なようだが、家のことから除外されているとも言えるのかもしれない。兄貴はなんだか家族と一緒にいても1人違う場所にいるように感じる。
最後に仲良く話したのはいつだったろう。思い出せないまま俺は唐揚げを一口頬張った。
夕食を終えテレビを見たりしているうちに風呂掃除の時間になった。阿須間とたわいのないことを話しながら掃除を終えたが、その後俺が寝るまでの間に玉木さんからメールの返事はこなかった。
「隆人、朝だぞ、おはよう」
「おはよ…顔近いな」
阿須間の顔が目の前にある。すり抜けられるとはいえなんだか暑苦しくて手で遠ざける動きをしてしまう。
今日はちゃんと6時少し前に来てくれたようだ。アラームはまだ鳴っていないので設定を解除する。
朝になれば玉木さんから返事でも来てるかな、と思い寝たのだが何も来ていなかった。
そもそも女子とメール交換なんてしたことないからこれが普通なのかどうかもよく分からない。いや返事が来ない時点で普通ではない気はする。
いくら仲良くない男子からの突然のメールだからって無視するか!?こっちは相談したいことがあるってのに!俺が過去に何かしたのか!?
「返事は来ていたか?」
「いや、来てない。いつも離れた位置に立ってたとはいえ、今日の駅は気まずいな」
「直接話しかけるしかないな!私がついているぞ、大船に乗った気持ちでいるといい!」
あんた俺以外の人間に見えないやんけ、という突っ込みを飲み込み、そうするしかないよなとため息をついた。
身支度をして朝食を済ませ、自転車で駅へ向かう。いつもは音楽を聴きながら通学していたが、今は阿須間という喋り相手がいる。
人通りが少ないおかげで独り言をぶつぶつ喋っている(ように見える)姿が見られず、俺の社会での面子が保たれている。こういう時ばかりは田舎でよかったと思う。
人はいないが時々雉が畑を突っ切っているのを見たりはする。本当にのどかだ。
夏ごろは小虫が顔にぶつかってきて最悪目や鼻に入ったりするのだけはいただけないが。
駅に到着し阿須間に静かにするよう頼み、玉木さんが来ていないか目で探す。ホームの端っこに立っているのが見えたので彼女に向かって歩き出す。
すると向こうも俺が視界に入ったようで、気まずそうに目をそらし何だかそわそわしている。
「おはよう。昨日は急に変なメールしちゃってゴメンね」
こういうのは先に下手に出た方が勝ちだ。自分から挨拶し一言添える。
「お、おはよう…。ごめん、なんて返事しようか考えてたら思いつかないまま寝ちゃってた…」
「気にしないで。今日電車の中で話しても大丈夫?」
「うっうん大丈夫!」
どうやら話には乗ってくれるようで助かった。そうこしているうちに電車はやってきたので2人とも同じ車両へ乗り込んだ。
隣駅まで席は空かないし、いきなり本題に入るのも急かしてるみたいだからまずは雑談でもしようか。
「テスト近づいてきたけど、最近どう?」
「えーっと特に変わりないかな」
「そっかー」
「…」
会話が続かないーーー!おとなしい人だとは知ってたけど!気まずい!
阿須間が何か話しかけるのだ、と口パクしながら脇でうっとおしく応援してくれている。
「えーと…そうそう、学校遠いのも慣れると気にならなくなるもんだね」
「そ、そうだね…。勉強とか読書できるし」
「勉強してるの!?偉いね。俺はテストが近くない限りは音楽聴いたり雑誌読んだりかな」
「他にすることもないし…」
うんうんそのいきだとでも言いたそうな阿須間が見える。
隣に立っている玉木さんは、黒ぶちの眼鏡に髪を2つに結んでいて、いかにも真面目そうな印象だし、中身もそんな感じなんだろう。
ぎこちなく会話をつづけ、隣駅でボックス席が空いたので2人向かい合わせに座り、ようやく本題に入る。
「それで、昨夜メールした相談させてもらいたいことなんだけど」
「…うん」
「俺実家が温泉宿じゃん?それで盛り上げるために美術部の人の作品とかを飾らせてほしいなと思ってさ。また温泉に来たいなーと思ってくれそうなよい印象を持って帰ってほしいんだ。イメージとしては大げさに言うとこんな感じなんだけど」
カバンから雑誌を取り出し芸術で町おこしの特集号を見せると、じっと目を凝らして読んでくれている。美術部だしこういうのは興味あるんだろうか。
ちらりと目をやると阿須間も真剣な眼差しでこちらを見ている。口パクで何か喋っているが、恐らく「頑張れ」とかだろう。
「ここまで大々的に、長期的にする必要はなくて単発で十分なんだ。温泉のイメージに合った作品を展示したりして、温泉に来てくれた人の心により深く想い出が残るようになればいいなって…思うんだけど、美術部の人そういうのに興味ないかな?」
「うーん。面白い企画だし、顧問の先生や先輩たちは賛成してくれると思う。ただ…」
「ただ?」
「私の学年の部員はちょっと分かんない…」
「2年の部員ってこと?何人くらいいるの?」
「私を入れて10人で、部内で一番多いの。でもちょっと活動が…あまり」
「あまり?」
「作品作りをするというよりお喋りが中心になっちゃってて、それであまり来なくなっちゃった部員もいるし…。後輩もつられてお喋りするようになった感じかな。だから岡上くんの希望するような温泉宿に合った作品作りに取り組めるかっていうと怪しいかも」
「そんなになってたんだ、知らなかった。でも顧問の先生に先輩たちも賛成してくれるなら一部の人たちだけでもやれないかな?」
「分かんない…私も仲良い友達が行かなくなっちゃってから行きにくいし」
「そうなのか。でも一応先生や部長あたりに話はしてみたいから今日の放課後あたりお邪魔しようかな」
「本当に行くの…?」
「行ってみないと分かんないし。玉木さんも今日は来るの?」
「私は…やめとこうかな。ごめん紹介できなくて」
「いや俺から勝手に持ちかけた話だし気にしないで」
部員同士仲良くなれば話が盛り上がることもあるだろう。それでもあくまでも美術部に入ったぐらいだから絵を描いたりするのは好きなはずだ。興味を持ってくれる人がイベント開催に必要な人数ぐらいは集まるに違いない。
玉木さんと用件を話した後も同じ電車に乗っている訳で、はいさよならともいかず、ぎこちなくも会話をつづけたり、俺の持ってきた雑誌を貸したりして場を持たせ学校まで一緒に登校した。
入学式とか行事以外で学校まで一緒に通うのは久しぶりだ。
阿須間は満足そうな顔をして後をついてきている。
校内に入り3階につくと、玉木さんとはクラスは別なので廊下で「またね」と声をかけ別れた。
すると後ろから肩をポンポンと叩かれ、誰だろうと振り返るとクラスメイトの日高智が立っていた。
「おはよ隆人!見てたぜ~今の子誰だよ?」
「おはよう智。中学の同級生。久々に電車の中で一緒になって喋っただけだよ」
智はいいやつなんだが口が軽いので、嘘をついてない範囲で微妙に内容を変えて伝える。ちなみに初対面の自己紹介で俺が日江井温泉の地域出身だと聞いて爆笑した奴はこいつだ。だから智の第一印象は最悪だった。それでも今は仲がいいんだから人生どうなるもんか分からない。へらへらしているが意外と親切だし面白いやつで大抵一緒にいる。
「なんだ彼女でもできたのかと思ったよ、いっつも1人で通学してるからさ。ああいうおとなしそうなの好みともちょっと違う気がしたし」
「なんだよ俺の好みって…そんなの自分でも分かんねーよ」
「まま、いいじゃんいいじゃん。ところでお願いがあるんだけどさ、宿題のプリント写させてくれくれい!」
「またかよー。いいけど今度なんか奢れよ」
「マジ助かる!前店の駄菓子でもいい?」
「いいよ、昼休みに寄ってこーよ」
前店とは、食料品や文房具、駄菓子などを販売している個人経営の小さなお店だ。主にうちの高校の生徒向けに営業してくれているようで、高校の前にある店だから略して前店と呼ばれている。
中にちょっとした飲食スペースもあってうちの学校生の溜まり場になっている。
高校生相手にどうやって儲けているのか不思議だが、その辺は赤字じゃない程度で趣味の延長みたいな感じで経営してくれているのかもしれない。
その後、智に授業開始前にプリントを写させ、昼休みは昼食を早めに終え前店に駄菓子を奢られに行った。阿須間がいろんな駄菓子に囲まれて目を輝かせていたので、阿須間の分を今度買いに行こうと思う(といっても食べられないのでお供えするだけなのだが)。そうこうしている間に放課後になり、自分が担当している場所の掃除をさっさと終わらせ目的地に向かった。
「ここで活動してるんだよな」
美術室の入り口前に立つ。何だか緊張してきた。そばにいる阿須間が話しかけてくる。
「この中で授業中は真っ白な人の上半身やどう見ても偽物の果物を生徒たちは描いていたぞ」
「デッサンってやつだね。おれも1年の授業でやったよ」
「同じ物を見つめてひたすら描くとはなかなか大変そうだな」
「集中力はいるかな。さて、お喋りはこの位にしてそろそろ入らないとだな…緊張する」
「今回も応援してるぞ、隆人!」
俺が緊張しすぎないように話しかけてくれたのだろうか。こういう心遣いがありがたい。
ドアの向こうからは既に人がいるのだろう、話し声が聞こえる。
いつまでも突っ立っていては始まらない。意を決しドアを開けた。
「失礼します。あのー、美術部の方ですよね?」
「はい、そうですけど?」
美術室の中には生徒が十数人ぐらいいるが全員部員なのだろう。視線が俺に突き刺さり大変気まずい。
俺の高校は上履きの色でどの学年に所属するかが分かるようになっているのだが、ざっと見た感じ俺と同じ青色の学生が多い。2年生が一番多いという玉木さんから聞いた話通りだ。あとは1年生だ。
パッと見た限り何か作品を作っているようには見えず、皆手ぶらで机の上にも何も置かれていない。
「顧問の先生にお話があるんですがいらっしゃいますか?」
「あー、橋場先生なら奥の美術準備室にいますよ」
「ありがとうございます」
美術室には右奥の個室に美術準備室が備わっている。授業や部活で必要になる道具は大抵ここにしまわれていて、授業の場合は大抵先生が準備するので生徒は入る機会がない。実は俺も入るのは初めてだ。
「失礼します」
「はい」
美術の担当教員兼美術部顧問の橋場先生が何かの作業をしていた。恐らく版画だと思うが手にした大きなローラーのようなものに目が行く。
阿須間も準備室に入るのはどうやら初めてのようで、興味深そうに室内をうろついている。
「突然すみません。2年2組の岡上です。少しご相談したいことがあってお邪魔したのですが、お時間宜しいでしょうか…?」
「ちょっと手が離せないから作業しながらでもいい?」
「はい大丈夫です!そのですね…」
口頭だけで説明する自信がなかった俺は、手書きだがA4の紙1枚に簡単な企画書を書いてきていたのだ。
それを相手の視界にも入れつつ話をする。
「東区にある日江井温泉の出身で、実家が温泉宿を経営しているんです。そこで我が高校の美術部の方々に温泉をイメージした作品を作ってもらい展示をして、来てくれたお客さんたちに温泉が更に強く思い出に残るようにしたいなと思いまして…。期間は1週間ぐらいで。時期は夏休み始まってすぐの7月3週目辺りで考えてます」
「ふーん。いいんじゃない」
「えっ、本当ですか!?」
即答が来てつい驚いてしまった。この企画自体の実現が難しくなるから許可がもらえないと困るのだが、それでも瞬時にいいと言われるとは思っていなかった。
「最近は特にコンクールの募集もないから部員の手は空いているはずだよ。夏休み前に期末試験があるけど今から準備すれば十分間に合うでしょう。それに展示だけじゃなくて、週末に来場者向けの作品を制作できる会も設けていいかもしれないし」
「いいですねそのアイディア!来てもらったお客さんが見るだけでなく実際に何か作れるなら良い思い出になると思います。是非美術部員の皆さんに参加していただけると嬉しいです」
「そこなんだけどね。部員は全学年で18人いるんだけど、そのうち参加してくれそうなのは5人くらいなんだよね」
「半分もいないんですね。普段の活動で忙しいからですか?」
「いやそうではなくて…」
そこまで話した時、準備室の外(つまり美術室内)からドッと大きな笑い声が聞こえた。
さっきの部員だろうか。部活動をしながら喋っているにしては声が大きすぎる気はする。
「2年の部員がね、漫画とかアニメの話に夢中になっちゃってね。あんまり作品作りに熱心じゃないんだよね。注意してもまたすぐに話に戻ってしまうし」
「でも部員である限り作品を文化祭とかに出さなきゃいけないんですよね…?」
「文化祭は必須だね。でもそれ以外は任意だから変な話1年に1作品だけ作ればいいということになってる」
「じゃあ本人のやる気次第では、年に1ヶ月くらい集中して作品を作ればそれでいいってことなんですか」
「そうだね。でも今までの部員はこちらから案内すれば進んでコンクールに応募する部員ばかりだったし義務にはしてこなかったんだよね。それが今年の2年生が事情は違ってね。1年生もそれに引きずられてお喋りが中心だし。こんな風になったのは初めてだから自分も戸惑ってて。自主性を大事にしてきたのを変えるのも抵抗があるし」
「そんな事情があったんですね。最近来なくなった部員がいると耳に挟んだんですが、その人たちは積極的に活動したい人たちだったんですか」
「来なくなった子達はそんな感じかな。真面目にやってくれていたんだけど今の雰囲気になってから休みがちになってしまってるね。良かったら君から彼女たちに声をかけてみてくれないかい」
「えっ初対面なのにいきなり行って大丈夫ですかね?」
「僕からの紹介だといえば大丈夫。クラスと名前を教えるよ」
なんだか大変なことになった。見知らぬ女子生徒に話しかけに行くなんて初めてだ。
先生は俺の動揺を知ってか知らずか、近くにあったプリントの裏側にクラスと名前を走り書きしている。字が崩れていてかろうじて読める程度だ。その中には玉木さんの名前も入っていた。彼女たちというから全員女子なのかと思ったら1人男子の名前もある。
「あと3年生は受験勉強があるからどこまで参加したがるかは分からないが声はかけてみるよ。その企画書借りてもいい?」
「ありがとうございます!宜しくお願いします!」
お辞儀しながら企画書とついでにうちの温泉宿のパンフレットもお渡しする。
少しでもイメージをつかんでほしいからな。
「じゃあちょっと部員の反応を見たいから1週間くらいしたらまた来てくれる?その間にその子たちに会っておけばいいよ」
「分かりました。では1週間後にまた来ますね。よろしくお願いします」
「あっちょっと待って。美術室にいる1年と2年にも一応声をかけようと思うけど、せっかく君が来てるんだし今から聞いてみてもいい?」
「今からですか!?」
俺が少しためらいを見せると、横の阿須間は「絶好の機会ではないか、試してみなければ分からんぞ!」などどのたまっている。言うのは簡単でいいよなぁ。
先生と2人で美術準備室を後にして、美術室に戻ってきたわけだが、相変わらず部員たちはお喋りに興じているようだ。
「でさ、今週のチャンプでリバースが特に良くってさ~」
「あー分かる今週面白かったもんね。早くアニメ化して欲しいなー」
「リバースだったらウチは孔雀が一番すき!」
漫画の話で盛り上がっているようだ。俺はチャンプでなくサタデー派なのでよく分からない。
俺だったら楽しそうに話しているところに水を差してまで勧誘する気は起きない。きっと興味は持ってもらえないだろう。なのに今から先生は声をかけるっていうんだから残酷だ。俺が邪魔しに来た人になってしまう。
「ちょっと話したいことがあるんだけど聞いてくれる?」
先生が声をかけると会話をやめて振り向いてくる。話を聞く気はあるんだな。
「今こちらに来てくれた2年生の岡上くん、彼の地元が東区の日江井温泉なんだけどそこの温泉宿に展示する作品を作ってみないかと声をかけてくれた。展示期間は夏休み入って最初の1週間。企画書に温泉のパンフレットも貰ったから興味ある人は僕まで声をかけてね」
はーいとまばらに返事が返ってくる。あまり興味がありそうには見えない。
また会話が再開されるも、俺の持ち込んだ企画については誰も触れていない。
「じゃあ今声をかけた1・2年生の反応も含め、1週間後ぐらいに返事をするから。また放課後にでも来てね」
「分かりました、ありがとうございます。失礼しました」
先生に挨拶をし美術室を退室する。
俺のほうへ何人か会釈をしてきた部員はいたが、相変わらず会話は続行している。
「よかったなぁ隆人、生徒を紹介してもらえるとは。真面目に活動したがっているのならきっと力になってくれるぞ」
「うーんどうだろう。あの場にいた1・2年生の反応が悪すぎてそのことが頭から吹き飛んじゃってたよ。それに紹介してくれた人たちも、企画自体に興味がわかなければ真面目でも参加しないんじゃないかな」
「声をかけてみなければ分からんさ。前向きにいこう」
「ありがとう阿須間。今日はもう放課後で帰ってるかもしれないから明日から声をかけてみるか。あ、そういえば玉木さんも入ってるんじゃん。明日の朝また電車で話しかけてみよう」
「その意気だ!うまくいえば玉木が他のやる気ある部員も紹介してくれるんじゃないか?」
「うーん今朝話した感じだとどうなんだろう。企画自体に興味がなくはなさそうだったけど、部活動自体に嫌気がさしてるっぽかったからな」
「話してみないことにはなんとも言えんな。それに今は顧問からのお墨付きとなっているんだ、自信を持っておくれ。隆人の企画は素晴らしいぞ!若人が温泉と温泉を訪れる人々のために汗を流す、それだけで神をしていた甲斐があるというものだ」
「(神をする甲斐って何だ…?)」
阿須間が盛り上がっている。きっと阿須間の想像するイベントが頭の中では既に繰り広げられているんだろう。温泉が賑やかになっているのを喜んでいるに違いない。
そんなに期待されるとプレッシャーだ。俺がしようとしているのは、美術部の人には悪いが言ってしまえばすごく地味なものだ。しかしやれることをやるしかない。
まずは今夜玉木さんにメールして明朝の約束を取り付けよう。
自転車のペダルを漕ぎ駅へと道を急いだ。
しかし学校での勢いは何処へやら。1時間以上かけ家に帰り着き夕食を済ませ、玉木さんへのメールを打つために携帯に向き合い固まってしまっていた。
「隆人よ、先ほどからじっと携帯とやらを見つめているがどうした?見るだけでめーるが送れるのか?」
「そんな訳ないだろ…どう打とうかなと思ってさ」
「悩むことはない。今朝のお礼、美術部の顧問に会ったこと、顧問が賛同してくれて3年生にも声をかけてくれること、玉木にも協力してほしいことなどをまとめればよい。それだけだぞ?」
「…そう言われると簡単に思えてくる。阿須間ってすごいな、俺をやる気にさせるプロだね。(若干うっとおしいけど)」
「おお、ぷろとやらになったのか、それは嬉しいな」
「ちゃちゃっと打っちゃうからちょっと待ってて。送信したら宿題して、風呂入って、風呂掃除だ」
「うんうんいつも通りだな。付き合うぞ」
「…………だいたいこんな感じかな。どう思う?」
「どれどれ…いいと思うぞ。それに返事がどうであれ明日の朝同じ電車に乗るのは変わりないんだ、メールでの反応が芳しくなくても直接説得すれば良い。私も傍にいるからな」
「心強いな。じゃあ送信っと」
送信をタップしメールを送る。前回も返信は来なかったし返事には期待しない。ただこちらの用件をあらかじめ伝えられればいいのだ。向こうも一晩考えて参加するかどうか決めてくれるかもしれない。そう期待して机の上の宿題プリントへ向き合った。
翌朝、自転車をこぎながら田んぼに囲まれた道を進んで行く。結局玉木さんからメールの返事は来なかった。
「なんか緊張するな」
「いつも通りで良いさ。それに万が一断られても、3年生の先輩と紹介してもらった2年の部員がまだいるのであろう?それでも十分だと私は思うぞ」
「そうだな。量より質だしな!」
「それに隆人も何か作ればいいではないか」
「えっ俺が!?」
「隆人は美術が好きなのだろう?雑誌を購読するぐらいだ。きっと自分で作るのも好きなんじゃないか?」
「うーん見るのは好きなんだ。綺麗なものとか、面白い発想のものとか。作者がどんなこと考えて作ったのか考えるのが好きなんだ。だから自分でやるって考えがあんまりないんだよね。美術部も入ろうと思わなくて、中学も美術部じゃなかったし。本格的にやるのは大学入ってからで良いかなって」
「隆人も日江井温泉に対する想いを込めて作品を作ってみないか?きっと良いものが出来上がるぞ!温泉が好きではないと言っていたが、好きでなくても作品は作れるはずだ」
「温泉に対する想いかぁ」
正直どうだろう。物心つく前から温泉地に住んでいるから、温泉の有り難みなんて感じたこともない。むしろ本屋一軒すらない不便さ、最寄りのスーパーが潰れたこと、この県自体がそもそも美術館が少ない、展覧会が遅れて開催されることなど不満だらけだった。高校で日江井温泉地出身だと自己紹介をすれば笑われる。これだけ不満点が上がることを考えればむしろ不幸なのではないか?毎晩風呂掃除をさせられるし。温泉だって毎日入っているわけじゃない。
「うーん神様の目の前で言うことじゃないだろうけど、良いところが思いつかない…」「そうかそうかないか〜…ないとな!?嘘だろう隆人、こんな恵まれた地に生まれたのに?」
「ごめん、逆にすぐ傍にありすぎてその価値が分からないんだよね」
「むむむ温泉の神として悲しいし悔しいな…だが逆にその気持ちを作品に込めてみてはどうだ?」
「この気持ちを作品に?」
「昔から寄り添っていて近くにありすぎてあるのが当たり前、その価値が見えなくなっている。なかなか面白いテーマではないかな?そんな作品を形にしてはどうか」
「仮に作ったとしてそんなのを展示しても良いのかな?」
「良いとも。様々な想いを来た人たちに感じ取ってもらう。十人十色の温泉像が伝われば、客も温泉に対して色んな想いを馳せることができるだろう」
「そういうもんかなー。そこまで言うならちょっと考えてみるよ」
「私は絶対に作るべきだと思うぞ!企画のためだけでなく、隆人のためにもな。これから先美術品を鑑賞する際に影響するかもしれんし、美大とやらで勉強するよい準備にもなるのではないか」
「俺のためか…」
俺は温泉の跡継ぎでもないし大学も東京へ行くつもりだ。このままこの土地に対して誇りも持てないまま離れていくことに、寂しさのようなものがないと言えば嘘になる。
誇りを持てるなら持つに越したことはないのだろう。作品作りを通じて温泉に対する考えは変わるのだろうか。
駅の駐輪場に自転車を止めホームへと歩く。やっぱり昨日と同じで端っこに玉木さんが立っていた。この最寄り駅は温泉地からは少し離れた所にあって、玉木さんは駅よりに住んでいたはずだからあまり温泉地出身という意識がないかもしれない。そんな玉木さんでも自己紹介の時は便宜上日江井温泉のある所出身と言わざるを得ないから、俺のように笑われたりしたんだろうか。日江井温泉のことをどう思っているんだろう。
「玉木さん、おはよう」
「お、おはよう」
心なしか顔色が少し悪い。寝不足だろうか。ちょっと心配だ。
「ごめんね昨日もまた急にメールしちゃって。今日もちょっと電車で話してもいいかな?」
「うん…大丈夫」
顔色は悪くても表情は昨日よりは若干和らいでいる気はするし、嫌がっているそぶりもない。じゃあどうしてメールの返事はくれなかったんだろう?本当に寝落ちしたのか(そんな遅い時間に送ってないけど)、どう返事をしていいか分からなかったんだろうか(そんなに複雑だったかな)。
本題前に適当に雑談でもと思ったが、昨日話した話題で大体出尽くした感がある。そこを何とかひねり出したく、脳みそをフル回転させる。
「玉木さんのクラスってどんな感じ?」
「どんなって…どういう意味?」
「そうだなー、俺のクラスは担任が崎元で、なんかボケてるっていうか、ずれてるんだよ。だから皆でそんな崎元を見守ろうっていうゆるい空気があるかな」
「そんななんだ…うちのクラスは西橋先生だから厳しくて、そんな雰囲気ではないかな。みんな最初の頃はすごく緊張してて、最近やっと慣れてきた感じ」
「へー、うちとだいぶ違うね」
隣で阿須間もふむふむと頷いている。そういえば阿須間にもうちのクラスの話とかしてなかったな。まあホームルームに授業とか覗いてるしなんとなくは伝わってただろうけど。
神様だし授業なんて今まで受けたことなかっただろうしましてや学校に通ったこともないだろう。そう考えると今の生活は阿須間にとっては結構新鮮なんじゃないだろうか。阿須間には何故だか色んなことを経験させてあげたくなる。どんな反応をするのか見てみたいからだろうか。
ここで会話が途切れてしまい気まずさに顔を電車の外へと向けた。丁度田植え時期で今まで空っぽだった田んぼが緑色に彩られていく。この瑞々しい緑を眺めるのは嫌いではない。
ただし、冬に吹雪いたとき、周りが田んぼだらけで壁になる建物がないところを電車が通るのは最悪だ。風が強くで電車が止まってしまうからだ。去年はそれで吹雪の中1時間以上立ち往生したこともある。
そんなことをぼんやり考えているうちにやっと隣駅に着き、空いた席に玉木さんと向かい合って座る。ようやく本題だ。
「あのさ、メールでも書いた通り、昨日美術部に行ってきたよ。そこで顧問の先生と話して、日江井温泉で部員の人たちの作品を飾ったり、体験コーナーを設けたりする企画に同意してもらったよ。3年生の部員には先生から声をかけてくれるってさ。それで玉木さんとか、最近部活に顔を出していない部員達には俺から声をかけることになったんだ」
「そうだったんだ。先生こういうの嫌いじゃないとは思ってた」
「ただ他の2年生、玉木さんも言ってたみたいにあんまり活動してないみたいだね。短い間だけど俺と先生が話してる間中ずっとお喋りしてたみたいだし」
「うん…気が付いたら今みたいになってて。最初は喋りながら作品も作ってたんだけどね」
「先生もこんな状況が初めてで戸惑ってて、かといって強制的に何かやらせるのも抵抗があって今の状況になってるんだってね」
「岡上くん、美術部に詳しくなったね」
「ははは…結果的にね。そこで玉木さんにお願いなんだ。この企画に参加してくれないかな?日江井出身で、元々真面目に活動してたってことだし、これを機に部活に復帰するっていうのはどう?」
「うーん。興味なくはないけど…。大体想像はつくんだけど、その声をかけてみろって先生に紹介された他の2年生は誰がいるの?」
「えーっと、ちょっと待ってね。メモに書いてもらったんだけど…この人たちだよ」
昨日先生に貰ったメモを取り出して見せると、それを覗き込んだ途端玉木さんの顔が明るくなった。
「昌子ちゃんだ…昌子ちゃんにも声をかけたの?」
昌子ちゃんというのはメモに書かれている関野昌子さんのことだろう。
「ううん、まずは知り合いの玉木さんに声をかけて、それから他の人に声をかけようと思ってた」
「昌子ちゃんに会うなら私も行く。紹介させて」
「本当に!?助かるよありがとう!」
「その企画に参加するかどうかは昌子ちゃんに会って相談して決めさせて欲しいの」
「勿論構わないよ。早速だけど今日の放課後とかどうかな」
「多分大丈夫じゃないかな。一応昌子ちゃんにメールしとくね」
よっぽど仲がいいのか、さっきから嬉しそうだ。これは昌子ちゃんが参加するなら玉木さんは参加してくれるかもしれない。阿須間が「やったな」とにっこり笑ってくれた。
「メール送ったよ。昌子ちゃんから返事がきたら阿須間くんに連絡するね。もし会えることになったら、昌子ちゃんは4組だから、放課後教室の入り口に集合でいいかな?」
「うん分かった。ありがとう連絡取ってくれて、助かるよ」
「ううん。私も久しぶりに昌子ちゃんに会いたかったから。それにしても岡上くん偉いよね。おうちの宿のために頑張ってるんだもん。それだけ温泉に思い入れがあるんだね」
「思い入れかぁ…どうなんだろう。自分で企画しといてなんなんだけど、生まれた時から住んでるからね。だからこそこの企画で温泉に改めて向き合いたいなと思って」
「そっか…」
なんだかしんみりしてしまいお互い無言になる。でも嫌な感じの無言じゃない。電車の窓から流れる田園風景を目にしながら、時々喋ったりして学校へ向かった。
授業間の休みに届いた玉木さんからのメールによると、昌子ちゃんこと関野さんからの返事はOKとのことだった。これで放課後会うことができる。阿須間はメールの返事が気になったのか俺から離れずにいたが、とても喜んでいるようでハイタッチ(ただし透ける)をしてきた。ハイタッチなんてどこで覚えたんだろう?どこかの民家でテレビか何かでも見てるんだろうか。
放課後に4組の入り口前に向かうと既に玉木さんが待っていた。
緊張するが後ろに付いてきている阿須間が「大丈夫だ、うまくいく」と声をかけてくれる。
「お待たせ。関野さんは中で待ってるんだよね?」
「うん」
「じゃあ…入ろうか」
気合を入れてドアを開き教室の中を見渡す。
まばらだがまだ何人か生徒は残っていて、談笑する生徒、帰り支度をしていると思われる生徒など様々だ。
玉木さんが入室し、ある女子生徒の元へ向かって歩いてく。
「昌子ちゃん。久しぶり」
「和美ちゃん、元気してた?メールありがとう」
「うん元気だったよ。こちら、メールした企画を主催している岡上くん。同じ中学出身で、この前美術部に行って先生と話してきたんだって」
「へー、じゃああれも見たんだ。それでもやろうとするなんてすごいね」
「どうも初めまして岡上です。えっと、『あれ』っていうのは…?」
「お喋りしてる部員たち。ずっと喋ってばっかりだったでしょ?私それが嫌で部活行かなくなったのよね。こっちは真面目に絵が描きたいってのに、やれアニメがどうだ、やれ漫画がどうだでしょ。オタク研究会でも作れって話よ!」
「すごく気持ちは分かるよ。でも少数派だからとはいえ、本来の部活動を真面目にやろうとしている関野さんたちが出て行くのも理不尽な話だよね」
「そうなのよ!!!分かってくれる!?最初は私も注意してたわけ、でも何度も注意するのもしらけるし。無視するにはうるさいし。先生にも相談したけどあんな感じでしょ。どうしようもないなってことで行かなくなっちゃったのよ。文化祭の作品だけは作るつもりだけどね」
すごい勢いでまくしたてられる。よっぽど不満だったんだな。でも俺も自分の部活がお喋り部にされてしまったらすごく嫌だと思うから気持ちはわかる。隣の玉木さんがうんうんと頷いているから同じような気持ちで玉木さんも部活に行かなくなってしまったんだろう。
「その気持ちわかるよ。大変だったんだね」
「ホント大変だったわよ〜。部活行かなくなるのも癪だったけど、行ってもどうしようもないし。あっ私の話ばかりしちゃったけど何か話があるんでしょ?聞かせてよ」
「うん。俺は玉木さんと同じで日江井出身で、あの辺り温泉があるでしょ。実家が温泉宿やっててさ。そこで温泉に来てくれた人たちに、滞在が更に思い出深くなるような温泉関連の作品展示をやりたいと思って」
コピーを取っておいた企画書に温泉宿のパンフレットを渡す。そういえば玉木さんに渡していなかったと思って玉木さんの分も用意しておいた。
2人がじっと企画書やパンフレットに目を通してくれている。緊張するなあ。
「ど、どうですかね…?」
「うん…面白いと思う!去年コンクールに作品を出したことはあるけど特に入賞できなかったから反応なんてないし、文化祭で校内に飾っても見てくれる人は家族や友達ばかりで学校関係者が中心でしょ。私と無関係の人が、泊まることになった宿で偶然見た作品から何かしら感じ取ってくれるかもしれない…そんな機会って滅多にないからありがたいかも」
「じゃあ参加してくれる!?」
「私でよければ!でも今まで私がどんな作品作ってたとか知らないでしょ。単に美術部でやる気があるからってだけで参加していいの?」
「そこまで大袈裟に捉えなくていいんだ。趣旨に賛同してくれて、何か創作意欲があればそれで十分!」
「そっかなら安心。それじゃあしばらくの間よろしくね」
「こちらこそ!」
1人参加者を確保して、やっと一歩前進だ。阿須間が関野さんの隣に出てきて満面の笑みを浮かべながら「良かったなぁ、良かったなぁ」と言葉を繰り返している。俺も自分の顔が大きな笑顔を作っているのがわかる。
「あ、あの…私も参加していいかな?」
「そうよ、和美ちゃんもやりなよせっかくの機会だし、日江井出身なんでしょ。一緒にやったらきっと楽しいよ!」
「玉木さんも参加してくれるならありがたいよ。日江井出身の人とそうでない人、違う立場の人の作品があったほうが面白いだろうし」
「といっても私の住んでるところは温泉街とは離れてるんだけどね。それでも一応地元だから他の人よりは詳しいと思う。同じ出身ていう意味でも、岡上くんも何か作らないの?」
「誘ってきた本人なんだもん、参加したらいいと思うよ!」
「玉木さんに関野さんまで…。うんそうだね。そのことについては考えてて。俺の中で温泉って生まれた時からすぐそばにあったもので、特別なものでなく日常の一部で、でも来てくれる人は大抵非日常を求めてやってくるんだよね。そのギャップみたいなものをうまく表現できたらなあとは思ったりしたかな」
「なんだ、もう考えてるんじゃない!あとはそれを形にするだけじゃん」
「うーん。形にするとどうなるか想像できないんだよね」
「それを考えるのが芸術なんだから!一緒に頑張ろうよ」
「岡上くんもやろうよ…。私も昌子ちゃんもやるんだし…」
「そこまで言われたらやらないなんて言えないなぁ。ようし俺も頑張るか!」
「やったあ!」「良かった…」
阿須間も「そうか心を決めたか隆人!私はずっと信じていたぞ、きっと良い作品ができると信じている」と言って俺の決意を支持してくれた。
俺にこんなに仲間ができるだなんて。生きてきて初めての経験かもしれない。
中学の時は剣道部だったけど基本的に1人で取り組む競技で、他の部員と一緒に助け合っている感覚は俺にはなかった。練習の時に連帯感は生まれたりはしたけど、何かを作り上げて共有するというのとはちょっと違った気がする。そもそも弱小な部活だったので県予選でもすぐに敗退していたし、みんなもそんなにやる気はなかった。
阿須間に背中を押されたとはいえ、自分で考えた企画を他の人を巻き込んで成し遂げる、初めての経験を共有する、なんだか奇跡みたいだ。
「じゃあ、展示期間に間に合うよう、各自作品を作り始めてもらえればと思うんだけど、その前に何か聞いておきたいこととかある?」
「ある、っていうかそもそも日江井温泉自体私は行ったことないのよね。やっぱりそこをイメージして作品を作るなら一度は行かなきゃだと思うのよ。パンフレットもらったけどそれだけじゃ良い作品が出来る気がしないわ」
「正論だ…そうだよね1回は見ておきたいよね。毎日住んでるところだからその意識が抜けてたよ、ごめん」
「謝ることじゃないよ。なんなら顧問の橋場先生に旅費を部費で賄えないか掛け合ってみるし」
「それいいね。昌子ちゃん、良かったら日江井に来た勢いでうちにも泊まっていってよ」
「えっ和美ちゃんのお家泊まりたい〜!お喋りしようよ!昌子ちゃんが話してた飼ってる犬にも会いたいし」
「うん来てきて!親に話しておくから」
「えっと、盛り上がってるところごめん。部費で出してもらうなら顧問の先生や、参加するかもしれない他の3年生、まだ声をかけていない2年生もみんな一緒に来る感じがいいのかな?」
「そうだねそれが良さそう」
「私と岡上くんは現地集合でいいよね」
「うんそんな感じで。1週間後ぐらいに先生のところに話に行くことになってるから、その時に詳しい日程を決めようか。あと俺から声をかけなきゃいけない人がもう1人いるから、その人の反応も見て参加人数が決まる感じかな」
「ちなみにそのもう1人って誰?」
「この人なんだけど…」
先生の走り書きのメモを見せる。のたうった文字で玉木さんと関野さんの名前が書かれている下に、鈴谷拓三という名前が書かれている。
「あー、鈴谷くんね。喋ったことないけど確かに美術部員ね」
「鈴谷くんかぁ…」
2人の表情がさっきまで明るかったのに影が差した。この人が一体どうしたんだろう。不安になってくる。
「どんな人なの?」
「それがよく分かんないのよね」
「ほとんど喋らないの…」
「無口な人なのか。俺もそういう人とは何喋っていいのか分かんないな。でも先生がここに名前書いたってことは最近の美術部に合わなくて行ってないってことだろうし、何か思うところがあるかもしれない。会うだけ会ってみないと…だよね?」
「前向きね〜本当は気がすすまないけど、明日の放課後でも会いに行くなら付き合うよ?和美ちゃんも来てくれないかな?」
「うん大丈夫」
「それは助かるよ、話したことがなくても一応顔見知りの人がいてくれた方がありがたい!」
「部活には行ってないから授業終わり次第きっとすぐ帰っちゃうと思う。連絡先も知らないし。私と和美ちゃんは5組前にすぐさま集合して、帰ろうとしたら引き止めることにしましょ。その前に岡上くんが来てくれると一番良いわね」
「わかった、なるべく早く行くようにするね」
「じゃあ今日のところはもう終わりかしら?」
「そうだね、今の段階で話せることは全部話したと思う。付き合ってくれてありがとう」
「昌子ちゃんどこか寄って帰らない…?」
「いいねいいね、クレープでも買ってこうか!岡上くんはどうする?」
「いや俺は遠慮しとくよ、楽しんできて」
「そう?じゃあまた明日ね」
「明日もよろしくね」
「またね」
さすがに仲良しの2人の間にまで割って入ってクレープを食べる気にはなれない。それに智あたりに女子といるところを見られたらまた明日何か言われそうだ。
実際にこの2人が参加するとのことで、企画が本当に実行されるんだと現実味を帯びてきた。
これでもうやるしかないと気が引き締まると同時に、胃のあたりが少しだけざわざわする。
2人と別れさて帰ろうかと自転車置き場に向かう中、校内からずっとそわそわしていた阿須間が喋り出した。
「おめでとう隆人。もはや今回の計画は成功したも同然だな!」
「気が早すぎない?!まだ俺含めて3人しか参加するの決まってないけど?」
「3人でも十分な展示になるではないか。展示期間が待ち遠しいなぁ」
「まだ作品が出来てすらないよ。気が早いんだから…」
「私は本当に嬉しいぞ。企画が行われるからだけでなく隆人がこんなに日江井温泉のために頑張ってくれている。その事実だけで十分ありがたいのだよ」
「温泉のために頑張ってるというか、成り行きでそうなったというか」
「ふふふ。やはり私の考えは正しかった!私と隆人は日江井温泉をより良くするために出会ったのだ」
「その話好きだよねぇ。まあ好きなように思っててよ」
「照れずともよい!私と隆人は名こんびだものな」
「はいはい」
やっぱり阿須間のペースには飲まれてしまうが嬉しそうだからいいかと思ってしまう。
こんなに応援され期待されることなんて初めてで正直まんざらじゃないし。
今までこれといったことを成し遂げたことがない俺にでも出来るかな。にやけそうになる顔を抑えつつペダルを漕いで家路を急いだ。
明日会う人とも上手くいくといいな。
翌日はロングホームルームのある日だった。教師への挨拶が終了するとともに鞄を抱えて5組前に早足で向かうと、そこには先に来ていた玉木さんが両手で鞄を持って壁際に立っている。
「玉木さん、来てくれてありがとう」
「うん。ついさっき来たところ。鈴谷くんはまだ出てきてないよ」
「それならよかった。やっぱり俺も最初からいたほうが良いかなって」
ついてきた阿須間も、玉木さんに「やあ玉木、元気か?」と聞こえていないのに挨拶をしている。企画に参加してくれるのもあってすっかり仲間扱いのようだ。
玉木さんと少し話しているうちに5組もホームルームが終わったらしく、扉が開いて生徒が教室を出始めた。
もしも鈴谷くんが出てきたら顔を知っている玉木さんが教えてくれるだろう。そうでなければ人の流れが落ち着いたら教室に入って声をかけるだけだ。
「あっ鈴谷くん見つけた…」
「どこにいる人?」
「左から3列目の後ろから3番目にいる人だよ」
教室の中を覗くと玉木さんが教えてくれた席に座っている男子生徒が目に入った。机の上の荷物を片付け帰ろうと準備しているようだ。
帰られては困るからその前に教室にお邪魔して声をかけるとしよう。
玉木さんに目配せをして入室しようと合図し、一応小さく「失礼します」と声をかけてから教室に入る。
阿須間が「頑張れ隆人!応援しているぞ」と後ろから声をかけてくれる。
目指す先は鈴谷くんただ1人だ。
「あの、鈴谷くん。美術部で一緒の玉木です。ちょっと話したいことがあって…」
「初めまして。俺2組の岡上っていいます。少しいいかな?」
「…」
玉木さんから挨拶してくれて助かった。
全然喋らない人とは聞いていたが、本当に無言のままこちらをじっと見ている。これは俺たちとの会話に付き合ってくれるという肯定と捉えて良いのだろうか?
無言でいるのも気まずいので話を始めることにした。
「えっと俺、東区にある日江井温泉の出身なんだけど実家は温泉宿で、そこで7月に展示する作品を美術部の人たちに作ってもらえないかと思ってます。温泉をイメージした作品を作ってもらって、泊まってくれるお客さんの滞在がより思い出に残るようにしたいなって。同じく日江井出身の玉木さんと4組の関野さんが参加してくれるんだけど、鈴谷くん興味ないかな?」
「……ない」
「そ、そっか興味ないか…残念だな」
「…そんな展示しても思い出になんて残らないでしょ、こんな素人の高校生が作ったものなんて。そんなの見せられる客が可哀想だ」
「なっ、喋った!?と思ったら何言ってるの急に!?」
「ちょちょっと鈴谷くんそれはあんまりじゃ…」
「……」
無言で席を立ち鞄を取り帰るそぶりを見せる。
俺は何か言わなきゃと思うのだが、あまりにも想像していなかった反応をされて頭の中が真っ白だった。初対面の人間にこんな否定的なことを言われるなんて。
精々興味ない、参加しないぐらいの反応だろうと思っていたのだ。
ぼーっとする俺に対し、口を開いたのは阿須間だった。
「隆人!この企画はそんなものじゃないと言ってやるのだ!」
頭の中にようやく言葉が戻ってくる。何とか口を開け鈴谷くんに伝えようと試みる。
「あのっ鈴谷くん、俺の企画は幼稚すぎるものかもしれないよ。でも共感してくれたみんなと一緒に何かを作る、温泉のことを考えてくれる人がいる、それだけでも凄いことだって思ってるんだ。だからそんな風に悪く言うのはやめて欲しい」
「…自己満か」
じろっと睨みつけた後、鈴谷くんは去っていった。
「はあ〜…」と大きく息を吐き出す。やっと自然な呼吸が戻ってきた。
いつも俺がやることに否定的な母親でさえここまでのことを言わなかったので、よく知らない相手にここまではっきり否定されると驚きの方が怒りや悲しみに勝ってくる。
2人はどんな反応をしているだろうと横に目をやると、阿須間は「よく言ったな!」と俺を讃える一方、玉木さんは気まずそうに下を見つめていた。
鈴谷くんが去って少しした後、「ごめんごめん遅くなっちゃって」と関野さんが入れ違いにやってきた。すぐに雰囲気がおかしいことを察したのか少し緊張した面持ちで「…何かあったの?」と尋ねてくる。
「いやあ〜びっくりしたよ。ね、玉木さん」
「うん…」
「何か言われたの?」
「思い出になんて残らない、素人の高校生が作ったものを見せられる方が可哀想、自己満、だったかな、そんな感じのことを」
「はあ何それ!?何様のつもりだア!あいつだって素人の高校生でしょ!!」
「昌子ちゃん落ち着いて…!」
「何よそれ〜。そんなこと言われたら嫌になっちゃうわね。まあそのぐらいでやめたりしないけど!」
「関野さん…!ありがとう」
「腹立つじゃない!自己満なんかじゃない、見返してやるような展示会にしましょうよ」
「うん頑張ろう!あと言い忘れてたんだけど、先生が展示だけじゃなくて、週末に来てくれたお客さんが参加できる作品制作の機会も設けたらどうかって提案してくれたよ」
「なんだろう、ちょっとしたことが体験できる感じかしら?去年の文化祭では来た人が版画を刷ってそれをポストカードにして持ち帰れるようにしてたし、そんなのを想像してるのかもね」
「あれは結構反応良かったよね。版画のデザインは既に存在する絵を利用してたから、今回は誰かが1から作れたらいいよね」
「和美ちゃんそのアイディアいいわね!」
「そっか去年そういう企画をしてたんだね。また先生にも相談してみるよ」
「岡上くん、これで美術部には全員声をかけたの?」
「うんそうなるね。来週は3年生と他の1・2年生に参加したい人がいるか先生から返事を聞くことになってるから、その時に参加企画についても相談してくるよ」
鈴谷くんの不参加がわかった今、参加が確定しているのは玉木さん、関野さん、そして俺。最低でも3作品が並ぶのだ。展示会としての体裁はなんとか保てるだろうか。
「ねえそれも大事だけど、も一つ大事なこと忘れてない?」
「大事なこと?」
「日江井温泉を訪問するって話したじゃない!先生に掛け合って旅費を出してもらえないかも相談するって言ったでしょ?」
「あ、そうだったね。そのことも来週話しておかないとだね」
「私も一緒に行くわ。和美ちゃんも一緒に行かない?」
「うん久しぶりに先生と話したいな…最近顔出してないのは気まずいけど」
「まあそこはね…この温泉企画も部活の一環だと思えばちゃんと活動してることになるし大丈夫よ多分」
「じゃあ来週月曜の放課後一緒に先生に会いに行こう。それまでは各自好きに過ごしてもらえればいいかな。作品作りに入るのも訪問してからの方がいいよね?」
「まだ時間もあるしね。じゃあまた来週ね、よろしく!」
「よろしくね…」
玉木さんと関野さんはまた2人で街に繰り出して遊んでから帰るそうだ。
俺は阿須間と2人で帰宅するべく駅へと向かった。
まだ先生に話してもいないというのに、阿須間の中では参加者が日江井温泉に来ることは決まっていて、それを待ち遠しく思っているようだ。
「隆人よ、早く皆が来て温泉に入ってくれるといいな」
「うーん。よく考えたらうちの旅館、宿泊客以外に風呂は開放してないんだよな。先生とちゃんと話してないから分かんないけど、多分宿泊じゃなくて日帰りになるんじゃないかな。そうだとしたら日帰り客も使えるようにしてもらわないと」
「きっとそのようにさせてくれるだろう。温泉に入った感想を聞くのが楽しみだ!」
「阿須間は楽天的だよなあ。温泉の感想なんて昔から散々聞いてるんじゃない?」
「私の意識がはっきりしたのは、日江井温泉が開湯してから50年くらい経ってからだ。日江井温泉がある程度街として成り立ち、人々の温泉への思いがはっきりしてきてから私の神社が建てられた。その頃から200年以上ずっと温泉客を眺めているが、一度として飽きたことはないぞ。皆さっぱりした顔で温泉から戻ってくるのを見るのは非常にいい気分だ」
「200年以上か。俺だったら飽きちゃうな。でも阿須間は神様だからそれをするのが仕事みたいなもんなんだよね」
「人に祀られ、温泉で人々がより健康になるよう祈る、それが私の全てだ」
「温泉とは切っても切れない縁なんだね」
「そういうことだな」
生まれた時から自動的に温泉との繋がりがあるという点では俺と阿須間は同じだ。
ただ、俺が家を継ぐことはないだろうしその繋がりを自ら切ろうとしているようなものだ。
阿須間は繋がりを断つことは不可能だが、温泉と繋がっていることが存在そのものだからそれでいいのだろう。
今回の美術部との企画を阿須間に後押しされていなければ能動的に温泉とかかわることは一生なかったのかもしれない。
兄に腹を立てたことや対抗心があったこともきっかけの一つではあったけど。
この機会をくれた阿須間には感謝しなくては。企画を成功させることが阿須間への一番の恩返しだろう。
「俺、絶対この企画成功させて、お客さんに来てよかったって思ってもらって、美術部の人にも参加してよかったって思ってもらえるよう頑張るよ」
「うんうんやる気があるのはいいことだ。だが隆人は既に頑張っているぞ。肩の力を抜いて、美術部の仲間たちと楽しくやるがよい」
「ありがとう」
学校の最寄り駅が見えてきた。ここから先は人目が気になるので日江井の自宅最寄り駅に着くまでは阿須間とは話せない。
のろのろ進む各駅停車の電車に身を任せ、緑色の稲を眺めながら時間をもてあそんだ。
それから美術部顧問の先生に会いに行くまでの間は、特にこれといった出来事もなく、俺は普段通りの日常を過ごしていた。
親には日帰りでの温泉利用の許可はなんとかもらえたので、訪問日程を先生と詰める必要がある。
阿須間が学校についてきて授業中は付近の神と交流するようになったらしく、その報告をよく耳にするようになった。
なんでも学校近くの川の神様と意気投合したらしくよく会いに行っているそうだ。あの川神様いたのか…確かに長いし広いし教科書にも載ってるくらいだ。神様がいてもおかしくはないだろう。俺だけでなく阿須間も友好関係が広がったようで何よりだ。
顧問の先生に会いに行く当日の放課後、俺の教室前で玉木さんと関野さんに合流し美術室へと向かった。
関野さんは楽しそうな表情を浮かべているが、玉木さんは少しうつむき加減で普段よりもさらに口数が減っている。まあ最近顔を出していなかった部室に寄るのだから気まずさはあるだろう。阿須間はいつもと変わらず興味深そうに俺たちの後をついてくる。
「失礼します」と挨拶をし美術室の扉を開けると、そこには先週と同じくお喋り中の部員たちがいた。ただ今日は反応が違った。
「関野さんに玉木さん!久しぶり。最近部活来てなかったけどどうしたの?」
「久しぶり~。ちょっと他にやることがあってね…。今日は先生と話すことがあって来たの」
「えーうちらと喋りに来たんじゃないの?」
「それはまた今度ね!じゃ、先生のとこ行ってくるから」
不満そうな顔を一瞬見せたが、話しかけてきた部員は結局お喋りの輪に戻っていった。今日もチャンプの話でもしているんだろうか。
部員たちから離れて美術準備室へと向かい、そのドアをノックして開けた。
「「失礼します」」「失礼します…」
「お、岡上くん。2人に無事会えたんだね」
何か作業をしていた先生がこちらを振り返りながら「良かったね」と声をかけてくる。今日も版画に取り組んでいるらしくでかいローラーをお持ちだ。
「岡上くんと一緒ということは、2人は参加することに決めたのかな?」
「はい、私たち参加します。最近ちゃんと美術部の活動ができていなくて残念に思っていましたし、温泉宿に作品を飾ってもらえるだなんて滅多にない機会ですので」
「それは良かった。こちらでも美術部員に声をかけてみたけどね、3年生からは1人参加するとのことだったよ。あと紹介した2年生の鈴谷くんにも会ったんだよね?何故か私のところに参加したいと話しにきたよ」
「「「えっ…!」」」
思わず俺たち3人の声が重なった。あの鈴谷くんが?初対面なのにいきなり本音で俺たちに殴りかかってきた?人違いではなく?
あまり驚くことのない阿須間ですら「ほお」と声を漏らして意外がっている。
「僕たちが鈴谷くんに会いに行った時は、参加したがってる素振りなんて皆無でしたよ。それどころか素人の学生の作品なんかを飾ってどうするんだって言われましたし」
「そんなこと言われたの?うーん不思議だな。鈴谷くんはあまり口数が多くないけど、作品作りはすごく真面目に取り組む生徒だよ」
「自分の意見を相手に伝えるのが苦手な人なんですかね」
「ただのコミュ障じゃない!」
「昌子ちゃん…!」
「まあ僕としては参加してくれる人が増えるのは嬉しいですし歓迎します。鈴谷くんに言われたことにはすごく驚きましたけど、企画の意義を考え直すことができたので感謝しています」
横から関野さんが「本当に〜?」と言いたそうな目で見てきている。「さすが隆人、心の広い大物だな!」と阿須間は褒めてくれた。
それにしてもあんなことを言った後に俺たちの企画に参加するだなんてすごい度胸の持ち主だな。俺だったら気まずすぎて目すら合わせられそうにない。あんなにけなした企画に自分が参加するってどういうことなんだろうか。素直じゃないだけにしては捻くれすぎている。
「じゃあ参加者は鈴谷くん含めて5人か。ちょうどいい人数なんじゃないかい?」
「美術部の方が4人も作品を作ってくれるだなんて心強いです」
「岡上くんも美術部で共有してる道具とかは使ってくれてもいいからね」
「先生、私たちもまた美術部のものを使わせていただきます。あと気になってるのが、いつ日江井温泉を訪ねるってことなんですが…」
「そうだった、その話をしないとね。再来週の土曜日に日帰りで岡上くんのご実家のお宿にある温泉を利用させてもらって、辺りを一通り見てこようと思ってるよ」
「それで、旅費なんですが…」
「うん。部費が余ってるから出すよ」
「「やったー!!」」
玉木さんと関野さんがハイタッチしている。お泊まり会もするって話してたしよっぽど楽しみなんだろう。
再来週の土曜日か。親にその日は大丈夫か確認しておかないとな。本当は俺の実家の宿みたいに小さなところは日帰りの利用客に開放していないので今回は特別だ。地元でも大きい旅館は日帰り旅行客でも利用できるようにしているが、作品を展示するのが俺の家の宿な以上、利用しないわけにはいかないだろう。
先生の「温泉を利用させてもらって」という言葉で阿須間の目がきらりと光り、「待っているぞ早く来い!」と声を上げている。
「再来週の土曜日ですね。両親に確認しますので、万が一日程変更をお願いする場合は早急にお知らせします」
「うんお願いします。岡上くんに確認してもらって予定が確定次第詳しい計画を立てるから。また岡上くん経由で連絡するから、2人と鈴谷くんに連絡をお願いしてもいいかい?」
「…分かりました」
また関野さんが「本当に良いの〜?」と言いたげな目でこちらを見てきた。 それに対して頷いてみせる。俺は腹を括った。どんなことを言われようとこの企画を成功させる、それが俺がやるべきことだ。鈴谷くんにだって話しかけてみせるさ。そんな俺の意志を知ってかしらずか「応援してるぞ、頑張ろうな」と阿須間はいつものように声をかけてくれる。
「ではまた明日以降に両親からの返事を持ってきます」
「うん宜しく」
そう言って先生は版画に再び向かった。もう話は終わったから帰って良いということだろう。
「失礼しました」と声をかけて準備室を後にする。
美術室で関野さんたちは他の部員たちに少し目配せして「またね」と声をかけてから出て行った。
廊下で関野さんに、「ねえ、本当に鈴谷くんに話に行くの?」と確かめられる。やっぱりまだ気になっていたのか。
「大丈夫。今度は言われっぱなしにはならないし、何言われても気にしないよ」
「あんなこと言っておいて参加したいだなんて何考えてるのかしらね!」
「関野さんに玉木さんも色々思うことはあるだろうけど、付き合いを続けていけばどんな人か分かってくるだろうし、気長にいこうよ」
「岡上くんて心が広いのか、鈍感なのかどっちなのかしら…」
「昌子ちゃん!」
「あはは。多分鈍感なんだよ。俺が連絡取るから、どうしても嫌だったら2人は話さなくていいし」
「…もー、岡上くんだけにやらせたりなんてしないわよ。私も普通に喋るから!」
「そう?ならよかった」
鈴谷くんの話題はそれきりになり、早く日江井温泉に行きたい、楽しみだという話をしてから2人と別れた。ここからは阿須間と一緒にいつもの帰り道だ。
家についてから夕食の場で両親に許可をもらうのが最近の流れになってきた。今日は再来週の土曜日に日帰りで美術部の人たちと温泉に入ってもいいかの話をした。
一度話をしていたにも関わらず母さんは面倒くさそうな顔をしたが、親父は企画が進んでいることを喜んでくれた。運よく一部屋が予約がなく空いているからその部屋を午後から使ってもらい温泉に入ってもらうことで決まった。温泉を開放する時間もいつもよりずっと早くしてくれてありがたい。最寄り駅までの送迎車も出してくれることになった。
これで明日先生に報告ができる。あと鈴谷くんにも会いに行かなきゃだな。玉木さんだけでなく関野さんとも連絡先を交換しているので、2人にはメールで報告した。
関野さんからはすぐに「やった!!嬉しい♪」という返事が返ってきて、玉木さんからはしばらくしてから「ありがとう、良かった」という返事が来た。玉木さんからの返事はこれが初めてではないだろうか。メールを返してくれるようになって嬉しく思う。
2人は今頃今お泊まり会をどうするかの相談をしているに違いない。
風呂掃除に向かい、誰もいない浴室で阿須間と2人、日江井温泉訪問時の計画について話した。
阿須間はうちの宿だけでなく他の旅館の温泉に入ることも提案してきたが、さすがにいくつも温泉をはしごする流れではなかったので却下した。仕方ないから無料開放されている足湯には連れて行くことで納得してもらえた。なるべくたくさんの温泉に入っていって欲しいようで、若干まだぶつぶつ言っているが聞こえないふりをする。
公園近くの阿須間の神社もお参りしよう、温泉の神様が祀られている場所だから、と提案するとひどく嬉しそうに微笑んだ。それにつられ俺も笑った。
あとは近くで地元の素材を使ったジェラートと日江井温泉名物のせんべいを食べ、最近開店した古民家を改築したレストラン兼カフェでお茶をする案などが上がった。明日先生に提案してみよう。
その後も阿須間と和気あいあいと話しながら、内風呂も外風呂も風呂掃除を終え部屋へと戻った。
翌日、早く報告してしまいたかったので昼休みに職員室にいる橋場先生を訪ねた。阿須間には昼休みは用があるからと伝えてあるので、どうやら例の川の神様に会いに行っているようだった。訪れた職員室で座っている橋場先生というのは新鮮だった。いつも何か作っているイメージだったからだ。再来週の土曜午後、是非温泉に入りに来てほしいと言うと喜んでくれた。先生は他の生徒たちと一緒に学校最寄り駅から温泉最寄り駅まで2時ごろに到着する電車で来るとのことで、いつも通り3年生の先輩には先生から連絡を入れてくれるとのことだった。電車の時間を確認し、その便に乗ってくれるよう関野さんへ連絡を入れ、到着時間頃駅に来るよう玉木さんにも連絡した。
再来週の土曜日に決まったことを告げなければいけないのはもう1人いる。鈴谷くんだ。
みんなの前では気丈に振る舞ったが、正直に言うとまた何か辛辣な言葉を浴びせられるのではないかと少し不安ではある。けれど鈴谷くんは他の人が言ってくれないような本音でぶつかってきてくれる気がする。企画をより良いものにしたい俺にとっては貴重な意見になりうる。悪い方向にとりすぎない程度に受け止めれば良いんじゃないか。そう再認識して鈴谷くんの教室へと向かった。
前回会いに来た時は放課後だったので、このお昼の賑やかな雰囲気とは違った。しかし今の時間も1人でいる鈴谷くんの周りだけ空気が放課後に会った時と同じように感じる。一緒に過ごすような人はいないんだろうか。そこだけ時間の流れが止まったような、しんと静まり返ったような空気だ。
「鈴谷くん。今話しかけても大丈夫?再来週の土曜のことなんだけど」
「…」
「橋場先生から聞いたよ。美術部の人たちと一緒に温泉での展示企画に参加してくれるってこと。会った時の反応だと参加してもらえないと思ったから驚いたよ。でも嬉しかった、ありがとう」
「…別に。自己満でもどこまやれるか試してみてもいいかって思っただけだから」
「うん。思う存分腕をふるって作品を作ってよ。楽しみにしてるから」
「…自分で言うのもなんだけど、よく俺と喋れるよな。大抵の人間は2度と話しかけなくなる」
「(他の人にも初対面であんなこと言ってるのか…)まあ気にしてないというと嘘にはなるけど。今日も来るのちょっと緊張したし。でも鈴谷くんは本音で他の人が言いにくいことも言ってくれそうで、企画を色んな方向から考えられるかなって」
「変わってるな、あんた。そんな反応されたの初めてだ。…それで、何か用があって来たんじゃないのか?」
「そうだった!あの、再来週の土曜に参加してくれる美術部の人たちが温泉まで来てくれることになったんだ。旅費は部活で賄うらしいし、鈴谷くんにも来て欲しいなって。来られそう?」
「…行けると思う」
「良かった!それじゃあこの時間の電車に乗ってきてね」
鈴谷くんに電車の時間を指定して、連絡先を交換してから別れて自分の教室へと向かった。こんなに濃い昼休みを過ごしたのは初めてかもしれない。
「隆人〜!どこ行ってたんだよ?昼休み予定あるだなんて珍しいよな〜」
「ちょっとね!智に前ちょっと話したと思うけど、美術部の人たちと考えてる企画についてやることがあってね」
「ふーん。最近それで忙しいの?他のクラスの女の子と仲良くなったみたいだから彼女でもできたのかと思ってたのに違うんだもんなあ」
「女子といると無理やり彼女に結びつけるの、好きだねー」
「だってさ、俺たち十代、青春まっただ中じゃん!恋人作らないで何作るんだよ!」
「えっ作品とか?」
「真面目か!あー彼女ほしーよ彼女ー!」
「はいはい。できるといいね」
「絶対できると思ってねーだろ!!」
残りの昼休みは智とくだらないことを喋っているうちに終わった。放課後帰宅する頃に戻ってきた阿須間は、川の神に知り合いの神様を沢山紹介してもらったとかで舞い上がっていた。神様の付き合いもなかなか面白いものなんだな。そういえば俺は阿須間が見える様になったがそれ以外の神様は見えるんだろうか。神様が色んなところにいるなら道中を歩いていて見かけてもおかしくないはずだ。それとも、ぱっと見は普通の人間だから俺が見落としているだけだろうか。再来週の土曜日まですることもないし、明日の放課後にでも川の神に会わせてもらいたくなってきた。
「ねえ阿須間。その川の神様に俺も会うことはできないかな?」
「勿論だとも!川の神も隆人に会いたがっていたぞ。明日早速紹介しよう。きっと俺だけが見えるわけではないと思うから、川の神も見えるはずだ」
「俺の家の周りとか、通学路には阿須間以外の神はいないってことだよね?そうじゃなきゃ見えてないとおかしいし」
「いないと言えばいないな。それぞれの神が祀られている・留まっている場所が人通りの少ない所や少し奥まった場所だったりするし、そういった所の近くを通っても私もいちいち教えなかった」
「そうだったんだ。なんだか緊張するけど、阿須間と気があうってことはきっといい神様なんだろうな」
「いい奴だぞ。あの川からこの街をずっと見守ってきただけあっていろんな話を聞けて面白いと思うしな」
「それは楽しみだな。年齢っていうとおかしいかもしれないけど、何歳ぐらいの神様なの?」
「俺よりもずっと上だな。1000年はゆうに超えている。向こうも最近数えていなくてはっきり何歳か分からんようだ」
「1000年…!?そんなすごい神様なのか。気軽に会っちゃっていいのかな?」
「気にするな。俺のような若い神にも気軽に接してくれる神だからな」
「(数百歳でも若いんだな神の世界って)…なら大丈夫か。まぁ楽しみにしてるよ」
「ああ、私も紹介できるのが楽しみだ!」
あっさりと会えることになってしまった。向こうも俺に会いたがっているとのことだから大丈夫だろう。
1000年以上この地を見守ってきた神様、それだけの間に俺のように姿が見える人間には出会ったんだろうか?
最近は美術部の人たちとのやり取りですっかり気にならなくなっていたが、今になって自分の「神が見える人間」という立ち位置が気になりだしてしまった。
霊感だとかは(神は霊ではないが)小さい子どもの方が強くて見えたりすると聞くが、俺は小さい子どもとは言えない年齢だ。
この年で急に見えるようになったのは、それこそ阿須間が言うように温泉のために何かをするためだったのだろうか。
その点も含め川の神様には色々訊けたらと思う。
その後帰宅して寝るまでの間、阿須間に川の神様や他に会った神様の話をしてもらった。
聞けば聞くほど普通の人間と変わらない気がしてくる。ものすごく長生きしているということを除けば。
なんでもあの地域の神様同士のゆるいネットワークがあるそうで、何かあれば情報交換をしたりと積極的に交流することもあるそうだ。
明日川の神に会うという実感がなかなか湧いてこないが、いい出会いになりますようにと願って眠りについた。
翌日の放課後がやってきた。クラスも離れているので美術部の人たちには特に出会わなかった。阿須間と一緒にそそくさと教室を離れ(また智に「付き合いが悪い」と言われてしまったが)、学校近くを流れる川の堤防へと向かった。
川の神様と言っても相当長い川だが、この川全域の神様なのか、この付近限定なのか気になるところだ。
辺りをパッと見渡しても犬の散歩をする人、走っている人がぽつぽついるだけでそれらしき神様は見当たらない。
「阿須間、川の神様どこにいるの?」
「向こう側の堤防の、あの桜の木の下だぞ」
そう言われてそちらに視界をやると、確かに1人立っている姿が見えるがここからだと遠すぎてよく見えない。
川の向こう側へ行くのは久しぶりだ。兄貴の高校も川を越えた先の市街地にある。高校に入学したばかりの時、橋を渡ってその辺をぶらぶらしたものだったが、最近はほとんど行っていない。
そっち側には昔から存在する商店街があるがさびれていて新しい店が入ったと思うとすぐ潰れていたりする。
割と大きめのショッピングモールもあったのだが最近閉店してしまった。
それに対して川のこちら側、高校の最寄り駅でもあるこの県で一番大きな駅がある方だが、対照的に栄えていて人でにぎわっているし交通の便の良さもあって行きやすい。俺も学校帰りに寄り道で通りがかることができる。
美術部の企画で忙しくなる前は、よく智と一緒に時間をつぶしたものだ。
そんなこんなで、最近行く機会のなかった川の向こう岸に来ることになり少し気分が高揚している。
橋をのんびり渡りながら川の神様の方を見れば、段々とその姿がはっきりと見えるようになってきた。
髪が肩ぐらいまで伸びているが、肩幅などのがたいから考えるに男性のようだ。神様の世界では男性も結構髪を伸ばすんだな。阿須間のように和装をしている。
すぐそばにまで近づいたところで阿須間が声をかけた。
「やあ伊与部。噂の隆人を連れてきたぞ」
「おお阿須間。そちらが隆人か」
「初めまして…岡上隆人です。よろしくお願いします」
「本当に我々が見えるんだな。久しぶりにそのような人間にあったぞ」
「えっ俺以外にもそんな人がいるんですか!?」
「ちょっと前にな。この堤防の工事が始まる前ぐらいだな」
「それって…多分数十年前ですよね、『ちょっと』じゃなくて結構前ですよ!」
「ははは、そうかそうか。許せ」
このマイペースぶりに笑い方、阿須間に似ている。だから気があうのだろうか。
改めて眺めるその容姿は、優しそうなたれ目が印象的で、阿須間より少し線が細く見える。川の神だからずっしりした感じの人かと勝手に思っていたら違った。
「そんなに前ならその人、もうお年寄りになってますよね?」
「確か当時は40代だったと思うぞ。今は70を超えているはずだな」
「へえ中年になってからでも神様って見える様になったりするんですね」
「そやつは堤防の工事に関わっておってな。この辺りに頻繁に来ておった。そやつ以外は私が見えないから、最初は周りに怪訝な目で見られていてなぁ」
「あ〜、人前で話しかけてたんですね。俺もそれやりそうになりますけど、周囲には独り言ブツブツ言ってる風にしか見えないですもんね」
「ともかくそやつぶりに人間と話せて嬉しいぞ。何ももてなせないが今日はゆっくりしていってくれ」
「ありがとうございます」
「どうだ、なかなかいい顔をしているだろう?日江井温泉のために企画を立てて頑張ってくれているんだ。この前も美術部のちょっと難しいおの子も企画に参加させることに成功したんだ。これは間違いなく良い企画になるぞ」
「ほほお。それはそれは。私も一度行ってみたいものだな」
「是非来てください!まだ先ですけど、展示会は7月の第3週にやりますので。その頃に来ていただくのが一番良いかと」
「覚えておこう。阿須間の祀られている地というのも見てみたいしな」
「良い所だぞお。この地元の歌には、1度訪問するとその後2度3度と訪れたくなるという歌がある。その通りきっと何度も通いたくなるはずだ」
「そういえばそんな歌あったな」
阿須間が言っている歌というのは、日江井音頭のことだ。俺たち地元の子どもは小学校と中学校の運動会などで踊らされるので歌詞も振り付けも頭に入ってしまっている。
市内の高校に通うようになってから行事で踊らなくなってしまっていたが、そう言われればそんな歌詞だった。
実際に何度も通ってしまうというよりは、何度も通いに来てほしいという温泉側の希望が込められているのだろうが、歌自体は割と好きだったりする。
「更に楽しみになった。それまで頑張るのだぞ」
「はい、頑張ります!」
「ふふふ、首を長くして待っているといいぞ!」
自分はほとんど準備に関わっていないのに(俺に意見をくれたり励ましてくれたりはしているが)、阿須間はなんだか自慢げな顔をしている。こいつ調子いいなあと思いつつも、それだけ自分が祀られている地の温泉に仲間の神が遊びに来るのが誇らしいのだろうということは簡単にわかる。そんな機会を作ることができた俺も鼻高々だ。
その後は、俺以外に見えた人間についてもっと話を聞いたり、神様自身についての話を聞いた。
どうやらこの神様は、この川全体の神様というより、この堤防がある辺りの流域を特に司っている神様ということだった。
古くから人が住んでいる地域だったということで、治水の必要から神様の存在が生まれたらしい。
「生まれた」という表現が正しいのかは不明だが、とにかく自分の存在を意識し、自身が神だと認識することが神として「生まれた」ことになるようだ。
そういえば阿須間も温泉が出来て人々の思いが集まるようになってから自分という存在が生じたようなことを言ってたな。
俺以外に見えたという、堤防工事に関わっていた人は、工事が終わるまではそれなりの頻度で、工事が終わってからもしばらくの間は月に1回は最低でも訪れていたそうだ。
最近は数か月に1回来るかどうかで少し寂しかったらしい。自分の親の介護で忙しくしていたと思ったら、今度は奥さんの体調が悪くなってしまったそうだ。
神と人間で違う存在とはいえ、一度知り合ってしまった者同士が会えなくなるというのは寂しいのだろう。
ここまで話を聞いてみて、その見えた人と俺の共通点は、神が祀られている地域に深く関わるようになったという点だ。年齢はその人と俺は離れているから関係ないだろうし、住んでいる場所もその人は堤防と離れているし出身地も川近くではない。性別も同じだがあまり関係ない気がする。
俺は自分の住んでいる地元が阿須間の祀られている場所だからというよりも、今回の企画で能動的に関わるようになったということが理由なのかもしれない。
卵が先か鶏が先かという話をすると、俺は阿須間に出会わなければ企画を立てなかっただろうが、阿須間に言わせれば企画を立てるから阿須間に出会ったということになるのだろう。
こうして考えると俺と阿須間は会うべくして会っているのかもしれない。
その後も川にまつわる話を聞かせてしまった。近所の子どもが川に落ちたら溺れないよう流れが緩やかになるよう祈ったり、うちの学校のボート部が練習している時もいつも眺めて応援したりしているそうだ。
阿須間もだが、神といっても超能力のような力で好き勝手できるわけではなく、人々からの信仰心や祈りを力の源として対象物の繁栄や安定を祈り続けるのが役割だそうだ。
治水にまつわる話も面白かった。昔から川の氾濫など水と戦ってきた歴史が分かったしそれを見続けてきた神様も辛かったのではないだろうか。
話しだして気がつけば2時間以上経っていた。長居してしまったしそろそろお暇しようかと思い阿須間へ視線へやって頷いた。
「長々とお邪魔しました。そろそろ失礼しますね」
「もう帰るのか。また来てくれよ。いつでも歓迎するぞ」
「また隆人も連れて来るぞ。今度は他の神たちも呼んでおこうか」
「それはいいな。隆人、是非私以外のこの辺りに祀られる神たちに会って行ってくれ」
「それは楽しみです!また来ますね」
川の神様、伊与部さんに見送られながら堤防を後にする。橋を渡って向こう岸に戻る時も堤防からこちらにずっと手を振っていた。俺も阿須間も振り返したが、周りから見たら誰もいないところに手を振り続けていて怪しかったことだろう。
家についたら夕飯の時間になっていたので急いで済ませ、宿題を終わらせ適当に過ごしてから風呂掃除に向かった。俺の部屋もだが、特に風呂場は阿須間とゆっくり話す良い場になっている。今日感じたことを阿須間と共有しておきたいと思った。
「阿須間はさ、ずーっと温泉を司ってきたわけでしょ。その間辛くなったり孤独を感じたりはしなかったの?」
「いやないな。私はただ自分の役割を全うしてきただけだしな」
「その辺の感覚はやっぱり俺たち人間とは違うのかな。俺は今日の話を聞いてちょっとしんどそうだなって思った」
「どうしてだ?」
「こんなこと言ったら神様に失礼なのかもしれないけど…自分に特別な力があるでもなく、ただ目の前で起きる出来事を眺めてて、関わってる人間とも話せないんだろう?勿論事態が良くなるように祈ってるし無意味ってわけでもないんだろうけど。俺だったらやきもきするかな」
「特に私は感じたことはないな。人々が温泉により親しめるよう願い、見守り続ける。それで満たされているからな」
「そっか。変なこと聞いてごめん。阿須間がいいならいいんだ」
「私のことを隆人なりに気にかけてくれたのだろう。その心遣いだけで十分だ」
ふわりと微笑まれた。これでは何も言えなくなってしまう。
神にとってはこれが普通なのかもしれないが、「強いなあ」と思わずにはいられない。
こんな神と知り合うことができた俺は幸せ者だ。
その後も話をしながら風呂掃除を終え、寝ることにした。
それから美術部が温泉を訪問するまでありふれた日常が続いだ。
2年生の3人は作品作りにはまだ着手はしていないようだが、ホームページを調べたり自分なりにコンセプトを練ったりと努力してくれているみたいだった。
俺の方はいつも通り掃除に精を出すくらいで、出迎えの準備として顧問の橋場先生に相談しながらどこに行くかどの順で回るか計画を立てたぐらいだ。
阿須間はみんながやって来るのが楽しみすぎるようで日増しにそわそわしだした。
そして訪問日当日。午後2時過ぎの電車でやってくるのは、顧問の先生、3年生1人、2年生2人の4人だ。俺と玉木さんは駅でお出迎えし、みんなで送迎バスに乗り込むことになっている。
送迎バスの運転手は俺の親父だ。駅に向かうまでの10分弱、久しぶりに親父と2人きり(正確には阿須間もいるのだが)になった。
つい無言になってしまい黙っていると親父の方から話しかけてきた。
「初めてじゃないか、隆人の高校の友達が遊びに来るの」
「あ、そうだね初めてだ。いっつも市内で遊んでたから…この辺遊ぶところないし」
「高校生が温泉街を楽しむって言ってもなあ。半日もせずに飽きちゃうよな」
「でも今日来てくれる人たちは温泉地を題材に作品を作ってくれるからね。ありがたいことだよ」
「どんな印象を抱くかねえ。何もなくてつまんないと思うかな、はは」
「うーん。それだけじゃないとは思うから、何か見出してくれるといいよね」
「賑やかになるのはいいことだよ。正直隆人から温泉でやりたいことがあると言われた時は驚いたよ。隆人は温泉のことそんなに好きじゃないだろう?」
「そういう風に訊かれると答えにくいんだけど…」
「悪い悪い。なんとなく分かってるよ。大学もきっと地元じゃなくて東京あたりに行きたいんだろう?」
「…うん実は」
「お母さんともちゃんと話してるんだよ。その辺のことはお父さんがなんとかするから好きにしなさい」
「本当に!?反対されると思ってたのに」
「隆人には家の手伝いとか色々面倒もかけてるしな。ただし自分で責任を持てる範囲で選ぶんだよ」
「分かった」
「今日は楽しんできなさい」
「うん」
こんな話になるとは思ってなかった。親なりにちゃんと考えてくれてたんだ。家族は誰も理解してくれないというのが俺の考える家族だったのに。横から見ていた阿須間が「良かったな」と声をかけてくれる。意外に思っていたらもう駅に着いてしまった。親父は車の中で待機し、俺は駅へと迎えに行く。待合室、というよりただベンチが並んでいる部屋に入ると玉木さんが既に来ていた。家から駅まで遠くないから歩いてきたそうだ。挨拶をして適当に話していると電車がホームへ入ってきた。中から先生と引率された参加者たちが降りてくる。送迎バスに乗ってもらい、助手席に座った俺が後ろ向きになりながら簡単に今日の予定を説明する。
「あー。えーおほん。今日は遠いところお越しくださってありがとうございます。予定を確認させていただきますと、早速ですがまずは温泉に入ってもらいます。温泉を上がってからは、宿の一室を自由に使ってもらって構わないので、少し休憩してから温泉街を散策したいと思います。具体的に言うと、公園、ジェラート屋、せんべい屋、カフェに寄って、最後に足湯につかってもらってから帰ろうと思っています。何か質問ありますか?」
一気に話したが特に誰も質問はないようだ。阿須間だけが「その予定で完璧だ!」と1人盛り上がっている。ホッとして体を前向きに戻した。
先生が親父と、玉木さんと関野さんが喋っているが、鈴谷くんと初めて見る人(3年生の先輩だろう)は無言で外の景色を眺めている。
ちょっと心配だったが席も離れていて話しかけられないし、そんなに長時間でもないので我慢してもらうことにして俺も外の景色へと目をやった。
田んぼと畑、それに挟まるように並ぶ住宅地を走ること約10分、日江井温泉地一帯が見えてきた。
「うわあ、すごくいい雰囲気!」
「落ち着いた佇まいですね」
「ありがとうございます、さあどうぞお上りください」
「まずはお部屋に案内するので、そちらに荷物を置いてから温泉に行きましょう」
宿の入口付近で車を停め、降りてきた人たちが宿の入口や庭を眺めていて、全員が資料にするためか写真を撮っている。こんなに熱心に入り口の写真を撮っている人を見るのは初めてだ。作品を作るんだし写真を撮るのは大事だよな。
俺には古臭く見えるだけだった純和風の木造建築が、作品のためとはいえ写真の対象になるなんて嬉しい。阿須間も反応を見て得意げな顔をしている。
写真撮影が落ち着いた頃、ガラガラと引き戸を引いて中へと案内した。
先生が先に中へと入り受付で今日の代金を精算してくれているので、俺たちも中に上がる。
宿に入ると正面に生け花があるが、それ以外に飾り気はなくあっさりとした内装になっている。みんなの表情を見る限り宿の中も好感触のようだ。
部屋に荷物を置き、貴重品をロッカーに入れて温泉へと向かった。
男女に分かれると丁度3人ずつになった。男湯へは先生、鈴谷くん、俺で向かう。
「まず内湯につかってから露天風呂に行きましょう。今の時間は僕たちしかいないので貸切ですよ」
「それはありがたい。あまり貸切で温泉なんて使ったことはないからね」
「へえ…」
本来ならばこんな真昼に温泉は利用できないのだが、今回は特別に使えるようになっている。俺自身もこんな時間帯に温泉に入るのは初めてかもしれない。
服を脱いで風呂場に3人で向かう。
内風呂を見た2人の反応は可もなく不可もない感じだが、やはり自宅の風呂よりも広い風呂場を占領できるのは気分が良いようで表情は明るい。
「硫黄の匂いがするね」
「この辺の温泉は大体源泉掛け流しで、無濾過、無加水なんですよ。内風呂は大理石の床になってます。滑らないように気をつけてくださいね。ちなみにこの宿の男湯は僕が毎日掃除してるんですよ」
「手伝い?偉いじゃん」
「すごく質の高いお湯なんだね。肩こりが治りそうだよ」
湯船に入る前に体を洗わねば。阿須間は体を洗う必要がないので早々に湯船につかっていてなんとなく悔しい。早く入りたい気持ちを抑え全身を擦る。泡を流しきり、転ばぬよう慎重に湯船へと向かう。毎日歩いている場所だが転びやすいのには変わりない。片足ずつ湯船に入り、ゆっくりと肩までお湯につかった。
「温まるね」
「悪くない」
「いや〜、僕も久しぶりに入りましたけど気持ちいいですね!」
「最近毎日来るが毎日気持ちいいぞ!」と主張する阿須間を視界に入れつつ2人と会話する。
リラックスしてくれているのだろう、表情がすごく和らいでいる。
硫黄の匂いも最初は臭いと思っていたが慣れると嗅ぐだけで温泉の効果が倍増されるような気がしてくるのだから面白い。
まだ短時間しか入っていないのに肌も心なしかツルツルになった気がする。
肩が重かったのも軽くなったような。
内湯だけでも結構満足してしまったが、露天風呂もあるのでそのことを伝えていそいそと外へと移動した。
外に出た瞬間は肌寒さを感じるがすぐに熱めの露天風呂へ入って体を温める。
「最初はすごく熱いですけど、徐々に気持ちよくなってくるでしょう?」
「慣れるまで足先だけでも熱かったけど、確かに丁度良い感じになってきたね」
「…気持ち良い」
あの鈴谷くんから気持ち良いという言葉が聞けただけでも今日温泉に来た甲斐があるかもしれない。
3人とも静かになりただお湯の中でじっくり体を温めている。露天風呂からはちょっとした庭が眺められるようになっていて心が和む。浴槽は檜だが、その周りを掘り起こした岩が囲っている。なかなか雰囲気が出ていると思う俺もお気に入りの場所だ。毎日掃除していても露天風呂に関しては意外と見飽きないものだ。
湯気に囲まれながらぼーっとしているだけで体が溶けていきそうになる。
俺はこんなに良い環境に住んでいたのか…。ようやく温泉の良さが分かった気がする。日課の手伝いとして来ているだけだったのを反省した。
ちょっと親に頼んでこれから週に1回でいいから温泉に入らせてもらおうかな。阿須間と一緒につかるのも楽しそうだ。
それに友達を呼ぶのも案外悪くないかもしれない。笑いやがった智も温泉に入ればからかったりできなくなるんじゃないかな。
満足するまで露天風呂につかった後、これ以上はのぼせそうだということで上がることにした。
全身温まり、力も抜けて最高に気持ちいい。このままマッサージでも受けたら体の原型を保てなくなりそうだ。
うちの旅館では牛乳一気飲みに卓球ができないのも残念だが、この状態でもかなり満足した。
宿泊客ならば浴衣を着て館内で夕食までのんびりするところなのだろうが、俺たちは元の私服に着替えてこれから外を出歩かなければならない。
そう考えると日帰りなのがとても勿体無く感じてしまう。今度はみんな泊まりに来て欲しい。
女子がまだ戻っていなかったのでしばらく部屋で待っていたが、もどってきた女子の顔を見ると表情が来た時と全く違い、リラックスしていて存分に温泉を満喫したことが伺えた。3年生の先輩も緊張していた顔がほぐれている。女水入らずでゆっくりできたのだろう。
阿須間がものすごく喜んでさっきから部屋中を飛び回っている。浮けるのは知ってたけどこんなに飛んだり跳ねたりできたんだな、知らなかった…。ともかくみんな満足してくれたようで何よりだ。
全員揃ったので宿を出て次の目的地へと向かった。ここからは徒歩で行く。
今日1日は俺が簡単にガイドをすることになっている。少人数とはいえ地元を案内して回るだなんて初めてだし緊張する。そんなことを先日話したら阿須間がそっと手を握ってくれた(透けていたが)。その励ましに応えるためにも頑張らなくては。
まずは阿須間の神社がある公園へと足を延ばす。
「この公園には日江井温泉の神を祀った神社があります。折角なのでお参りしていきましょう」
「温泉の神がいるなんて初めて聞いたな」
小さな神社前に6人で集まって参拝を済ませる。一度にこんなに人間が参拝に来ることなんてあまりないんじゃないだろうか。手を合わせながら阿須間をちらりと見ると綺麗な顔で笑っていた。
「この神社がある公園は特に変わったものがあるわけではないですけど、蛍が見られるくらい小川の水がきれいです。蛍は6月中旬から7月上旬ぐらいにかけて見られます。展示をしている時期と少しずれていますが、運が良ければ見れるかもしれないですね」
「蛍が見られるなんてすごい!」
「そういえば小さい頃見に来たことがあったかも」
地元民だけあって玉木さんは蛍を見に来ていたようだ。知っている人がいると安心する。
公園を抜けて次の目的地であるジェラート屋さんへと足を向けた。
なんで温泉地でジェラートなのか不思議に思うかもしれない。俺も不思議だった。聞いたところによると、この土地は酪農をするのに悪くないそうで、俺が生まれる前から地道に酪農を続けている人がいるそうだ。そんな人が酪農で取れる素材を生かしたジェラート屋として10年以上前に開業したのだ。
もちろん温泉地のど真ん中でやっているのではなく、10分ほど駅方向に歩いたところに位置している。
地元の素材を使ったジェラートだけでなく、牧場で取れた牛乳が飲めるようになっていたり、乳製品の販売も行われていたりする。
地元のお米を牛のエサである飼料米として使うなど可能な限り地元の素材を使うように努力していて印象も良い。
一部の温泉はデザートにこのお店のジェラートを出したりもしているくらいで、すっかりうちの温泉地といえばこのジェラートというぐらい定着している。最近は東京にもチェーン店が進出したようだ。
「…というのがこのお店のあらましです。ジェラートも牛乳も、欲しい人はお好きなのを注文してくださいね」
俺が説明を終えると各々どの味にするか考え出し、メニューと睨みっこしている。ジェラートは全員食べるようだ。
羨ましくなったのか、阿須間にも「今度お供えしてくれないだろうか?」と頼まれてしまった。温泉にずっといるので開業当時からお店まで様子を見に来たりもしたそうだが、お供えにもらったことがないそうだ。
10年越しに阿須間の願いが叶うのか。叶えてあげられるのがちょっと嬉しい。そりゃジェラートは溶けるし、他に売ってるのも生ものばかりだもん、貰えないよな…。
何にするか決めた人から注文している。俺は一番人気だという牧場ミルク味のジェラートを注文した。味が濃厚だけどしつこくなく、冷たさで素材本来の味が引き立っている。いくらでも食べられそうなおいしさだ。
みんなジェラートには満足してくれたようで、美味しいという言葉が聞こえてくる。
折角なのでしぼりたての牛乳も注文してみた。こちらも濃くておいしい牛乳だ。家で飲んでいるのとどうしてこんなに味が違うんだろう。
チーズなどの乳製品のお土産も一通り眺めてから、また温泉地へ戻ることにした。
カフェに行く前に温泉地名物のせんべい屋に寄ることにした。そうだ、智に自己紹介で笑われた例のせんべいだ。鉱泉水で仕込んだせんべいで、薄くてサクサクしていてほんのり甘いのが特徴だ。一枚一枚が手焼きのこのせんべいには、温泉地にちなんだ絵と句が焼印で描かれている。
この温泉地といえばさっき食べたジェラートと並びこのせんべいだ、というくらい一部の人には思われているらしいので、来たからには寄らざるを得ない。なんで日江井に来たこともない智のやつがせんべいなんて知ってたんだろうと不思議だったが、それだけこの温泉地=せんべいという認識が広まっているんだろう。
もちろん購入は強制しないが、みんななんだかんだで買っていってくれた。家に帰ってから家族と楽しんでくれるといいな。
俺も買ったので帰ったら阿須間にも供えてから家族で食べることにしよう。
阿須間はせんべい屋の辺りの焼いている甘い匂いが大好きで、この辺を通る時はゆっくり移動しているそうだ。
せんべい屋の小さなお店から歩いて数分もしないところに、次に寄る予定のカフェがある。レストランの2階に併設されていて、開店してからまだ5年も経っていないはずだ。
築100年以上の古民家を利用して作られている。1回だけ家族と冬に行ったときは正直隙間風が少し寒かったのだが、古さの中に何とも言えない良さがあった。
レストランはこの辺りの物価で考えると少し高めだが、カフェは地元の和菓子屋のお菓子をお茶うけに出してくれるので紹介も兼ねて来ることにしたのだった。
入り口で靴を脱ぎ、少し軋む狭くて急な階段を上った先がカフェだ。
1階に比べ開放されている面積が狭いので小さな空間に感じる。部屋の中には小さな火鉢が置いてあったり、美術関係の本が並べられている。写真も飾ってあったりして初めて来たときはじっくり眺めたものだ。
美術部の人たちも興味深そうに辺りを見て回っている。が、その前に注文してしまわなくては。
俺含め全員が和菓子セットのほうじ茶を注文した。
このセットについてくる和菓子は、このカフェの道路を挟んで目の前にある和菓子屋で作られているきんつばだ。
あんこが苦手な俺でも食べられるほど美味しいのでついつい食べ過ぎそうになるが、あいにく今回出されたのは各自1つだけだ。
きんつばの甘さとお茶の温かさで温まったころ、最後の目的地である足湯が利用できる観光情報施設のひえいやへと向かった。
全身温泉につかった後足湯だけするというのも変な感じではある。なので入らなくていいという人には先に観光情報など眺めてもらうことにしたのだが、みんなもう一度足だけでも温泉に入りたいそうで全員で行くことになった。
今日の参加者にタオルを1枚持ってきてほしいと事前に伝えたのが無駄にならずほっとした。
俺たち以外にも数人先客がいたので邪魔にならないようなるべく固まって入る。
俺は並びがたまたま3年生の先輩の隣になった。まだきちんと話していなかったと思い、声をかけた。
「あの、遅くなりましたけど、2年の岡上です。企画に参加してくれるんですよね、ありがとうございます」
「そんなに畏まらないで。3年の田中です。宜しくね」
眼鏡をかけていて髪型はショートカット。真面目そうな人に見える。
「田中先輩は日江井に来たのは初めてなんですよね?」
「そうなの。だからすごく楽しみにしてて。この企画も先生に紹介されて参加したいって思ったし。実は温泉がすごく好きなんだよね」
「結構入られてるんですか?」
「家族も温泉好きだから、旅行でどこか行くときは温泉があるところになるべく泊まるようにしてるんだ。この県に他にも温泉地あるでしょ?仲見川温泉とかはそんなに遠くないから家族でたまに行くかな」
仲見川温泉はうちからだと車で2時間近くかかる。俺が通う高校よりもさらに北にあるが、そこもいい温泉だと地元で人気のようだ。
俺は行ったことがないが、行きたくなってきた。
阿須間みたいな神様もいるんだろうか。会えたら喜ぶかもしれない。
「仲見川温泉ですか。この辺りよりも広いイメージがありますね」
「うーん地域の広さで言えば確かにそうかも。でも日江井温泉の雰囲気、私は好きだな。小さくても色んな見所があるもん。温泉も気持ちよくて、ここに来てから飲んで食べたものは全部美味しかったし。展示の時が楽しみだね」
「……そう言ってもらえると嬉しいです」
同年代の人にこんなに地元を褒められるのは初めてで照れてしまう。
こんな風に受け取ってくれる人もいるんだな。笑われるだけじゃないんだ。
他にも先輩と話していたら結構時間が経ってしまった。足湯といえど長時間入ってると体が温まって熱いぐらいになる。俺は満足したので一足先に上がり、ひえいやの中をうろうろすることにした。
この温泉地の四季折々の写真が飾ってあるだけでなく、近隣の観光地紹介、地場野菜やお土産の販売など一通りのことを行っている施設だ。
俺は地元民なので特に珍しくは感じないが、眺めるだけでも十分に楽しい。
気がつくと他の人たちも全員上がったようであちこちに姿が見える。お土産を買っていく人もいるようだ。
みんな一通り見終えたようなのでそろそろうちの宿に戻るとしよう。
5分くらい歩いて宿に戻ってきた。これで今回の訪問が終わると思うと本当にあっという間だ。時間は4時ちょうどぐらい。だいたい2時間くらい滞在していたことになる。
このまますぐ帰るのもなんだし、部屋でお茶を一杯飲んでから帰ることにした。
お茶の用意をしながら今日1日のことを振り返ってみる。
この辺りで見られるものはほとんど見た気がする。他に見る所といえば、ここから10分くらい歩いた所にある酒蔵だろうか。未成年ばかりだし今は仕込みの時期ではないから今回は予定から外した。海も車で10分くらいで行くことができる。海辺にはサーキットがあったり海岸を眺めたりとやることはあるが温泉地からは外れてしまうので今日は行かなかった。
そう考えるとやっぱりやれることが少ないな。のんびりしたり集中したりするにはうってつけなのだろうが、若い人だとすぐに飽きてしまうかもしれない。
今日俺は温泉の魅力を改めて認識できたと同時にやっぱり気になる点も認識してしまった。この点については今後も考えていきたい。跡取りの兄貴なんかはどう思ってるんだろうか。ちょっと話したいと思ってしまった。
「岡上くん、お茶飲まないの?」
関野さんが不思議そうな顔をして俺を見ている。ぼーっと考え事をしていたらお茶がぬるくなるぐらい時間が経ってしまっていた。慌てて「今から飲むよ、猫舌なんだ」と誤魔化して一気に飲んだ。本当のところそんなに猫舌ではない。
これで1日の予定も終わりか。そう思うと、あんなに待ち遠しく、長く感じた今日が一瞬で消えてしまったようで寂しくなってしまった。
お茶を飲み終えたみんなで玄関へ向かい、送迎バスに乗り込んで駅へと出発した。
行きのバスの中では俺が若干仕切っていたが帰りは何もしなくていいかな、そう思い窓の外の景色を眺めていると後ろの席の関野さんが声をかけてきた。
「岡上くん、色んな所を案内してくれてありがとう。お陰ですっごく楽しかったよ!」
「本当?なら良かった。作品作れそう?」
「写真も結構撮れたし、どんな所かはよく分かったよ。あとは実際に手を動かしてみないとなんとも言えないかな」
「そうだよね。まだ展示まで時間はあるしゆっくり考えてよ。今日は玉木さんの家に泊まっていくんだっけ?」
「そうなの。だからみんなよりちょっと荷物が多いんだよね。客室に置かせてもらえたから助かったよ」
お泊まりをするとのことでうきうきしているようだ。関野さんと玉木さんだけ表情が違う。他の人たちは落ち着いていてもう帰るだけかといった顔をしているのに、2人はまだまだこれからだという顔だ。阿須間の顔もなんだか違う。生き生きしていて嬉しくてしかたない顔をしている。これは帰った後でお喋りが止まらなくなるな。
駅に着いたのでみんなを降ろした。次の電車までしばらく待つ人たちと、玉木さんちに行く2人とに分かれ、俺と阿須間は温泉地へ戻ることになった。
「ではここで解散となります。来てくれてありがとうございました。今後の流れとしては、各自作品作りを始めてもらって、展示会の7月第3週の1週間前、7月の第2週までに完成させてください。完成できた作品はまとめて宿に運んでもらいます。作品作りの道具や材料は美術部のものを使っていいそうです。何かわからないことがあれば僕か、作品作りに関しては橋場先生まで訊いてください。宜しくお願いします」
挨拶をして1日を締めくくった。お疲れ様でした、とみんな返してくれた。
駅を背にしながら、駅周辺のことを考えてみる。
駅前は小さな売店と食堂が一緒になったようなお店がある以外何もないので、みんなは椅子に座って時間を潰すのだろう。
駅も十数年前に自動改札化されたのをきっかけに無人駅となり寂れている。時折掃除の人は来ているらしいが、そんなに清潔には見えない。
温泉地と最寄り駅が歩くと30分以上かかるぐらい離れているのは不便極まりないが、逆にそれぐらい不便な方が秘境という感じがして味わい深いと思う奇特な人もいるらしい。
近所のおじちゃんとおばちゃんがクリスマスなど季節のイベントに合わせてイルミネーションで駅前ロータリーの広場を飾り付けてくれているが、だからといって何かが盛り上がるわけではない。
…これ以上考えるのはやめよう。俺は今日は温泉地のいい所を沢山見ただろう。いい気分で帰ろうじゃないか。
阿須間は1日中嬉しそうにしていたが周りにだいたい常に人がいたので喋ることができなかった。早く帰っていろいろ話したい。助手席の俺と運転席の親父の間に浮かんでいる 阿須間に視線を送ると、今まで見た中で一番美しい笑顔を向けてきた。
親父を見たと思ったのだろう、視線を返してきた親父と目が合った。
「隆人、みんな楽しんでくれたみたいで良かったな。長いことこの仕事やってるけど、父さんもこんな若い人たちばかり乗せてったのは初めてだよ」
「俺もほっとしたよ。これでみんないい作品ができるといいんだけど」
「地元を案内するなんて初めてだっただろ。どうだった?」
「多分ちゃんとできてたと思う。写真沢山撮ってる人もいたしちょっとは見所あったかなって」
「他所から来た人といると、普段住んでるのとは違う目線で見れるから面白いよな」
「見慣れてて面白くもなんともないことでも、向こうにとっては新鮮なんだよね。あの反応を見てるだけでも楽しかったな」
「隆人も何か作るのか?」
「一応作るとは言ったけど、正直何作っていいかわかんないし、悩んでる」
「折角だから何か作ったらいいんじゃないか?隆人は見る方が好きみたいだけど、自分で作ったら見方も変わるかもしれないぞ」
「うーん、ちょっと考えとく」
「まだ時間はあるしな。どっちにしろ応援してるぞ」
みんなを案内しながら温泉地を回ったことで、今まで感じなかったようなことに頭をめぐらせ、色んなことを考えたのは確かだ。
だがそれで必ずよい作品が作れるかというとそうでないだろうということが悲しい。
作ると言ったはいいが、何を作ればいいんだろう。もう少し考えよう。
宿の表に送迎車が停まった。俺の実家はこの裏手にある。
改めて宿の玄関を眺めてみる。なんだかみんなで来た時とまた違って見えた。どう違ったかまでは分からないが。
俺の部屋に入るとなんだか眠くなってきてしまった。慣れないことをして疲れたのかもしれない。ベッドの上で横になり昼寝をすることにした。阿須間とのお喋りはもうちょっと待ってもらうことにする。
その後夕飯を食べあれこれしているうちに風呂掃除の時間になった。待っていましたとばかり阿須間が話し出した。
「いやあ実に良い1日だったな、そうは思わんか?」
「俺もそう思う。こんな風に知り合いを案内するのも初めてだったし、ましてやうちの宿の風呂に入ってもらうだなんて」
「隆人のところの風呂は気持ちがいいからな。それに、あんなに筋道立てて観光するのは初めてだったから新鮮だったぞ。昔、旅行客に着いて歩き回ったこともあったがその時よりも観光している気分になれた」
「ここで観光の仕事につく人ってこんな風に人を案内して、魅力を伝えているんだなって。地元で働いている人のこと、正直今まで関心なくってどうでもいいって思ってた。でもこうやって1人1人がちょっとずつ努力して、お客に広がっていく仕事って面白いなって感じた」
「では、将来はここで働くのか?」
「それはまた違う話かな。やっぱり東京の大学に行って、地元以外で働きたいって考えてるし。ただ、どんな仕事をしたいかを考えるのにはちょっと影響したかも」
「きっと良い影響だな」
「わかんないけどね」
「それにしても、間近であれほど楽しんでいる者たちを見るのはやはり気分がいいな。見たかあの顔を!あれを見るためにきっと私は神で居続けているのだろう。また遊びに来てくれないだろうか」
「展示中に来るんじゃないかな」
「私が直接案内できればいいんだがな」
「俺も案内されてみたいな。今度2人でその辺見て回ろうか」
「大船に乗った気持ちでいてくれ!して、いつにする?」
「気早いな!」
笑いながら残りの箇所も掃除してゆく。こんな楽しい思いが出来るなら、展覧会がいつまでも終わらなければいいのにと思ってしまう。そうもいかないよなと冷静になり、水で床を流して掃除を終えた。部屋に帰る前にどうしても阿須間と話しておきたいと思って足を止めると、阿須間も不思議に思ったのかこちらを振り返ってきた。
「阿須間と前にも話したけどさ、やっぱり俺も作品作るべきだよね?」
「作るのに決めたんじゃなかったのか。私は作ったらいいと思うぞ。どうしてそんなに悩んでいるんだ?」
「こんなに偉そうに計画しといて、大したもの作れなかったら嫌だなって」
「はっはっは、そんなことを気にしていたのか!」
「そんなことって…俺にとっては一大事なんだよ」
「すまんすまん。他の者と比べたりなどしなくて良いではないか。俺は隆人が作るものを見てみたいぞ。隆人が作るからだ。理由はそれだけだ。ただ隆人だから作る、それではいかんのか?」
「…理由ってそんな感じでいいのか。ありがとう、ちょっと背中押して欲しかったから訊いてみたんだ」
「では作るのか?」
「そうしようかな、と思う」
「思う、ではなく、作る!だろう?」
「作る!…こんな感じ?」
「そうだ。その調子で作ってしまおうではないか。いつも通り応援するぞ」
「よーしやってやるぞ!」
「うんうん。元気があって良いぞお」
ちょっと風呂場に長居しすぎたかもしれない。サボっていると思われてはたまらないので足早にその場を去った。
6月に入った月曜の朝、早速美術部の人たちの様子を見たいと思い、まずは登校時一緒になる玉木さんにどうするか訊いてみよう。そう思い、まずはお泊まり会についてから話してみることにした。
「あの後関野さんが遊びに来たんだよね。どうだった?」
「楽しかったよ~。土曜はその後うちでずっとお喋りしてた。犬とも一緒に散歩しに行ったりとか。夜更かししてお喋りしちゃって次の日眠かったけど、親が隣町の神社と、海の方まで連れてってくれて。昌子ちゃんいっぱい写真撮ってたよ」
「そっかなら良かった。土曜は温泉地だけしか回らなかったもんね。この辺り観光するなら本当はそっちまでみんなで行けたら良かったんだけど」
「作品がテーマにするのは温泉だもんね」
「今週から早速何か作るの?」
「そのつもりではいるよ。記憶が新鮮なうちにどんなのを作るかだけでも決めちゃいたいし。ちょっと行きにくかったけど放課後部室に昌子ちゃんと行く予定」
「俺も顔出していいかな?」
「勿論。鈴谷くんに田中先輩も来ると思うよ」
「私も見学させてもらうぞ」と阿須間が告げた。
ちゃんと活動している美術部の面々が見られることに胸が躍る。
みんなの制作の様子を見ていれば、俺も何か思いつかないだろうか。後悔だけは残したくない。
玉木さんと話す傍ら何を作ろうかぼんやり考えながら電車に揺られ続けた。
放課後、再び美術室の前に立っている。授業中外に行っていた阿須間が戻ってきて、後で話したいことがあると言われた。わざわざ前置きされるなんて初めてだがどうしたんだろう。
気になるが先に美術部だ。扉に手をかけて中へ踏み入れた。
「失礼しまーす」
中には既に企画に参加する2年生3人に田中先輩がいた。4人で固まって他の部員たちとは距離を取っている。
他の部員たちは、前よりは心なしか声が小さい気はするが相変わらずお喋りしかしていないようだ。
「あっ岡上くん。岡上くんも作りに来たの?」
「作るにしても何を作っていいか分からなくて…ちょっとみんなのを見せてもらって考えたいんだけどいいかな」
「あんなに仕切ってたのに思いつかないの?」
「こら!鈴谷くんそんな言い方しないの」
「いや本当のことだから…気にしてないよ。後悔したくないから何か作りたいなって気持ちにはなったんだけど、肝心のアイディアがないんだよね」
「そこが一番難しいよね。私も昨日は撮ってきた写真眺めてどうするか考えてたよ。まだきっちり決めたわけじゃないから、今日はスケッチブックに色々描いて考えを練ろうかなって思ってるよ」
「そっか写真か。ちなみに、みんな絵を描く予定なの?」
そう聞くと玉木さんと関野さんは頷いた。鈴谷くんと田中先輩は違うらしい。
「私は切り絵にしようかなって」
「…俺は彫刻」
「切り絵に彫刻ですか!それぞれの特徴が出そうですね。どんな風に表現されるのか楽しみです」
「…そういう自分は何にするかぐらいは決めたの?」
「それもまだなんだよね…。できれば被らないものをものを作りたいんだけどな」
「被らないものか。そうなると悩むね」
「早く決めたいんですけどね。決まったらまた報告しにきます」
「納得いくのに決まるといいね」
一応今回の企画には簡単な規定のようなものがある。基本的にはうちの宿か温泉地の全体的な風景、もしくは抽象化したイメージなどにして、今回の企画に直接関わっていない他の宿や店を勝手に作品に登場させないこと。画材は美術部にあるものか、自分で扱えるものを用意して使えるなら基本的には自由。こんな感じでそう厳しくはない。なので俺も規則内で好きに作っていいわけだ。
ここまで考えたが、今日は思いつきそうにない。このまま美術室にいても邪魔になるだけだろう。挨拶をして美術室を後にした。阿須間が話したがっていたので人目につかない場所に移動すると、すぐに口を開いてくれた。
「あのな、昼過ぎに川の神に会ってきたのだが例の神が見えるという男が昨日会いに来たそうだ。隆人の話をしたら是非会いたいとのことで、連絡先のメモを渡そうと思ったはいいが我々では物が直接受け取れないだろう?だから木の陰に隠していったのだが、飛んでいってしまうかもしれないし、捨てられたゴミと勘違いされて回収されてしまうかもしれん。早めに取りに行ってくれるか」
「あの例の人が!?じゃあ今から向かおうか」
川の神がいる対岸へと早足で向かう。最近来ないと言っていたが見える人が来てくれたんだな。俺としても一度会ってみたかったのでありがたい限りだ。
「やあよく来たな。友人らが遊びに来て温泉地を案内したと聞いたぞ」
「はい、なんとかうまくいきました。それで早速ですが、メモというのはどこに?」
「すぐそこの小さな茂みの中に隠していた。濡れてもいいよう袋の中に入れていたぞ」
「ここか…どこだろう」
川の神が佇んでいる大きな木の横に、背が低い木が並んでいて茂みをなしている。
その中にメモを置いて行ってくれたようだが外側からだとどこにあるか分からない。
これは手を突っ込むしかないのだろう。周りを見渡して人目がないことを確認すると、思い切って手を入れてみた。
ごそごそと葉っぱ以外の感触をさぐっていると、少しつるっとしたものに指先が振れた。
それを指で掴んでみると、果たしてそれはコンビニのビニール袋だった。
この中に入っているのだろうかと中を開けてみると、小さな紙の切れ端が入っている。
「それだな。そこに連絡先が書いてあるはずだ。会ってみるといい。最近も忙しいようだが、市内に出てくるぐらいなら可能だと言っていたぞ」
松井和久と書かれた下に、電話番号に住所が書かれていた。住んでいるところは現在地から車で40分くらいといったところだろう。
「ありがとうございます。後で電話でもしてみます」
「それがいいだろう。して、隆人も作品を作ることにしたんだとな?」
「(阿須間、お喋りだなあ)はい。ちょっと抵抗があったんですが、思い切って作ることにしました。まだどんなものを作るかさえ決まってないんですけどね」
「焦らなくても大丈夫だろう。心に浮かんだものをそのまま形にすればよい」
「ありがとうございます。ゆっくり作っていこうと思います。ではまた来ますね」
「ああ。また進捗を聞かせてくれ」
「ではな」
松井さんか。70歳を超えてると言ってなかっただろうか。メールアドレスが書かれていなかったが、恐らくメールは使わない人なのだろう。
うちの祖父母は60代で携帯は持っているしメールも一応は使いこなせるが、どれだけ使えるかは人によりそうだ。
家に帰ってきて再びメモを開いた。会ったこともない人に電話をかけるのは初めてで緊張するが、思い切って番号をタップする。
呼び出し音が鳴り響く。なかなか出ないな…。一旦切ろうかと思ったその時、電話の向こうから声がした。
「はいもしもしー!松井です」
「あっあの、初めまして、岡上です」
「えーとどちらさん?」
「あのメモをいただきまして…茂みの中に隠していただいた…」
「あー!!あの!!!僕以外にも神様が見えるっていう高校生の子ね!!」
「そうです。あの、一度お会いしてお話を伺いたいなと思いまして」
「いつがいい?」
「平日の16時半以降か、土日なら大抵何時でも大丈夫です」
「そしたらねー。ちょっと確認するから待っててね……………来週金曜日の16時半はどう?」
「大丈夫です。どこでお会いすればいいですか?」
「とりあえず神様のいる桜の木の下でいいかな?そこが分かりやすいでしょ」
「では桜の木の下に、来週金曜16時半で。宜しくお願いします」
「はーいまたね」
嵐が通り過ぎた様な勢いにまくしたてられ、用件を話しただけで終わってしまったがきっと向こうも忙しかったのだろう。なんだか元気な人だったな。
ともかく来週の金曜日だ。それまでに俺もどんな作品を作るか決めてしまおう。
それからというもの、俺はいつも通りの生活を送った。朝起きて自転車で駅に行って、最近は玉木さんと電車で話すようになって、学校で授業を受けて、家に帰ってきて、宿題やって、風呂掃除して、寝る。
その繰り返しで、作品を作ることは生活になかなか食い込んでこない。
部屋にある美術雑誌を捲ってはセンス良いなーかっこいいなーと思うだけで自分の作品作りに生かそうという視点で見ることができなかった。
…決めてしまおう、そう決意したのは良かった。今日はいつだ?もう松井さんに会う週の金曜日放課後だ。
何を作るか決まったか?決まっていない。どういうことだろう。
昨日も美術部にお邪魔して、部員の人たちの作り初めの様子を見せてもらったがなかなかいい滑り出しに見えた。下書きが完成しそうな段階だったが、どんな作品になるかのイメージは掴むことができたからだ。
それに対して俺は何をしているんだ?何もしていない。
困った。作成開始が遅れれば遅れるほど、作品にかけられる時間は減る。
時間が長ければ必ずしもいい作品になるとは限らないだろうが、ある程度の作業時間は質の向上に欠かせないはずだ。
このまま来月まで何も決まらなかったらどうしよう。薄ら心配になりながら松井さんとの待ち合わせの場所に向かっていた。
桜の木の下で川の神と話しているおじいさんがいる。きっと松井さんだろう。本当に自分以外に神様が見える人がいたんだな。ようやく実感が湧いてきた。
「あの…松井さんですよね?」
「おっ君が岡上くん?初めまして松井です」
すっと手を差し伸ばされ、握手を求められたことを理解するのに時間がかかってしまった。
急いで自分も手を差し出すと、強い力で握られた。
ご丁寧にもピクニックなどで地べたに敷くシートを持ってきてくれたようで、2人でその上に座って話し出した。
「やっぱり神様が見えるんですね」
「自分以外で見える人にあったのは初めてで本当に驚いたよ。見えるようになったばかりの頃、同僚に見えるかどうか聞いて回ったんだけど変な顔されるだけでねえ。伊与部さんに久しぶりに会ったら神様が見える高校生がいるっていうもんだから、これは会うしかないと思ってメモを残していったんだけど、正解だったね。後ろにいるのは温泉の神様ですかね?松井と言います。伊与部さんから話は聞いています。日江井温泉の神様なんですってね」
「うむそうだ。来たことはあるか?」
「日帰り温泉なら行きました。外からも硫黄の匂いがして凄いですね。3種類も温泉があるし、打たせ湯で肩こりが楽になりましたよ」
「おおあそこか。私も好きでよく通っているぞいるぞ」
「話してたらまた行きたくなってきたなあ。そういえば岡上くんのご実家、温泉旅館なんだってね。毎日温泉に入ったりするの?」
「毎日風呂掃除ならしてますけど、入るのは滅多にないですね」
「お風呂掃除してるの!?偉いねえ〜。うちの孫は手伝いなんて何もしないよ。掃除だけじゃなくて入れてもらえないの?」
「掃除前にこっそり入らせてもらえなくもない感じですけど…あくまでお客さん用のお風呂ですからね」
「へえー厳しいんだね。僕だったら毎日でも入りたいねえ」
「身近にあるとかえって行かないものかもしれないですね。あの、松井さんは今身内の方の介護でお忙しいんですよね?だから余計に温泉に入りたくなってるのかもしれないですね」
「そうなんだよ〜。足腰にくるからねえ。また温泉でゆっくりしたいなあ」
「日江井にいらっしゃることがあれば、僕でよければ案内しますよ。そんなに見るところもないですしもう全部ご覧になってるかもしれないですけど…。酒蔵とか見学されましたか?」
「酒蔵なんてあったの?知らなかったよ〜。飲酒運転はできないからそうなったら1泊したほうが良さそうだね。一緒に温泉巡りでもしたら、おじいちゃんと孫に見られるかな」
「あははそうかもしれないですね」
「なんだか温泉宿で作品を飾る企画も考えてるんだってね?」
「はい。高校の美術部の人たちに参加してもらって、作品を作ってもらうことになりました。ちょうど先週末に温泉まで来てもらって、今週から作品作りに入ってもらっています」
「ほおー。自分でいろんな人に声をかけてやってるんでしょう。すごいねえ。岡上くんも何か作るの?」
「そのはずなんですけど…この2週間ずっと何を作ろうか考えてるのに何も浮かばないんですよ。部員の人たちは、絵だけじゃなくて彫刻に切り絵を作るって言ってるんです。俺はみんなと違うものを何か作りたいんですけど、どうしたらいいか分からなくて。学校の授業以外で何か作ったことなんてないし」
「悩んでるのかー。そこまで深刻にとらえなくていいんじゃない?作ろうと思ってるだけで十分すごいと思うよ」
「でも思うだけで自動的に作品が完成するわけじゃないですし…」
「どこかで無理だって思っちゃってるんじゃない?ほら肩の力抜いて!」
肩をつかまれゆさゆさと揺らされる。その若干強引な動きが決していやではなくて、むしろ心地よく感じてしまう。
「僕もね、堤防工事担当になったときこんな広い範囲の工事は時間もかかるし人手もいるし、一筋縄ではいかないから嫌だなーって本当は思ったんだよね。でもやるべきことを一つ一つこなしていったらちゃんと完成して、今座ってる場所としてちゃんと存在しているからねえ。本工事が始まって完成までに1年以上かかって、それから更に一般開放まで1年かけてるからね。息の長い事業だったわけよ。だから何をしたらいいか一個一個確認しながら、ゆっくりでもいいからやってみたらいいんじゃない?」
「一個一個ですか。まずどんな素材で作るかすら決めてないんですよね」
「アイディアが湧くまで画材売り場とか本屋でも眺めてみたら?ぼーっとてるだけでなくて自分から動いてみないとね」
「自分から動いて…ですか。画材売り場はまだだったので行ってこようと思います」
「そうやってちょっとずつやれることからやればいいんだよ。締切だけは気を付けたほうがいいけどね!逆算していつまでに何が出来ていないといけないかだけは把握したほうがいいかもね」
締め切りのくだりで松井さんはお茶目に笑って見せた。本当にその通りだ。7月第3週まではあと2カ月弱ある。そう考えると自分が悩んでいたことは小さなことに思えてくる。
少しぐらい始めるのが遅いからなんだというんだろう。松井さんに教えてもらった通り一個一個スケジュールに照らし合わせていけばいいんだ。やってやろうじゃないか。
この後は松井さんの堤防工事の時のお話を更に詳しく教えてもらい、川の神様との付き合いがどれだけ長いかを教えてもらった。川の神様が阿須間みたいに松井さんについて回っていないのが不思議だったが、川の神様曰く基本的に祀られている土地に留まっているのが神であって阿須間のように移動する方が珍しいようだ。そう聞くと阿須間がこんな風に俺について回っていていいのか心配になるが、半日くらいなら問題ないだろうとのことだった。
俺からは地元のことだけでなく学校の話をしたりした。家族以外でこんなに年齢が離れている人と話すのは初めてかもしれない。
阿須間とも色々話していた。初めて会う川の神様以外の神なのだ、色々聞いてみたくなって当然だろう。日江井の成り立ちから、俺と出会うまで、最近のことなど広く聞いていた。
気がついたら既に18時半を過ぎていた。帰りの電車の本数は1時間に1、2本くらいだから帰らせてもらいたいところだ。
「すみません、そろそろ帰らせてもらいますね」
「もうそんな時間かあ早いね。日江井や神様のこと、岡上くんのことも沢山知れて良かったよ。企画もうまくいくよう祈っているから。落ち着いて力を抜いて、かつスケジュール調整には気をつけてね。展示会も行きたいしまた予定教えてね」
「はいっ、アドバイスありがとうございました。うまくいくよう頑張ります!」
手を振る松井さんと川の神様に手を振り返し後ろ髪引かれつつも前を向き進む。
こうやって神様が縁になって人間関係が広がるだなんて面白いな。
思わずやる気を出させてくれただけでなく、アドバイスをもらってしまった。
何をしていいかわからない俺にとってはとてもありがたい。
早速明日に画材など見に行こう。
「うわー広いな…」
「ふむ、このような店があるのだなあ。初めて来たぞ」
かくして俺は、決めた通り翌日土曜に早速画材・手工芸専門店へ来た。駅から離れた場所にあるため、たまたま今日休みだった親父に頼んで連れてきてもらったのだ。
「ようやく作品作りに必要な道具を買いに行くよ」と話せば目を輝かせた阿須間もついてきた。
親父は同じ建物に入っているホームセンターにいるから用が済んだら呼べとのことだ。
この店は県でも最大級の品揃えらしく、15万も商品の種類があるそうだ。カルチャースクールもやっているようで、なんとなくそのチラシを手に取ってみた。
「かるちゃーすくーるとは何だ?」
「趣味とか教養のための講座のことだよ。このお店が主催してるのは美術や芸術に関するスクールだけど、一般的には書道とか、外国語とか、音楽、運動に関する講座をやってるところもあるみたいだよ」
見ると初心者から経験者まで、幅広い種類の作品が作れるようだ。ずらっと種類一覧が並んでいる。
押し花、書道、水墨画、日本画、陶芸、ステンドグラス、織物、ペーパークラフト、粘土造形、ビーズ、折り紙、レザークラフト、水彩画、油絵、肖像画、ちぎり絵などなど。
適当に手に取っただけだが結構参考になるんじゃないだろうか。絵画系は既にやっている部員がいるから除外。押し花で温泉を表現できるんだろうか、その辺に生えている草花でいいのか?よく分からない。ステンドグラスは難しそうだから候補から外す。織物も出来そうにない。そうなると俺にできで温泉を表せそうなものは粘土造形あたりだろうか。
一応店内全てをざっと見た上で、もう一度粘土売り場へと戻ってみた。
粘土といっても紙粘土、油粘土、樹脂粘土、コルク粘土、土粘土、オーブン粘土、石粉粘土…沢山の種類がある。俺が作ったことがあるのは紙粘土くらいだ。
作り方にざっと目を走らせてみて、良さそうだなと思ったのは紙粘土、樹脂粘土、石粉粘土だ。
うんうん頭を悩ませたが、使い方が一応分かっている紙粘土が安心だろうということで紙粘土を5つ買うことにした。色は乾燥してから家にある絵の具で塗ることにしよう。
わざわざ品揃えのいい大型展まで来ておいて知っているものを手にするのが俺らしいなと苦笑した。
選択肢がありすぎると逆に選べなくなって、結局よく見知ったものを買ってしまう心理と同じなのかもしれない。
頭の中にどんなものを作るかなんとなく思い描いてみる。うちの宿の温泉、客室、玄関、外から見た入り口を思い切りデフォルメして小さい宿を粘土で再現してみたらどうだろうか。
なんだかいいアイディアの気がしてきた。いけるんじゃないだろうか。温泉に対する複雑な気持ちとかは今の俺には表現できそうもないのでシンプルにいくことにする。
親父にあとは会計するだけで終わるとメールを送り、レジに並んだ。
やっと一歩前進できた気がする。ようやくだ。
家に帰りまっすぐ自室へと飛び込んだ。買ってきた粘土をレジ袋から覗いて見てみるとなんだか嬉しくてニヤニヤしてしまう。
「何を笑っているんだ?そんなにその紙粘土とやらが好きなのか?」
「紙粘土が好きっていうより、ようやくスタートラインに立てたんだなって思うとにやけちゃってさ。始まってすらいないのにね」
「材料を手に入れたんだ。あとは手を動かすだけだろう?松井も言っていたじゃないか。締め切りまでに一個一個できることをやるだけだと」
「ちょっと計画でも立ててみようかな。あと1ヶ月と数週間でしょ。大体6週間あるとしよう。最初の1週間で下絵、実際に粘土で形を作るのに3週間、最後の1週間で色塗り、でいけるかな?残りの1週間は予備ということで」
「問題なさそうに聞こえるぞ」
「よっしゃ!この通りにやれば完成できるよな」
「ところで、展示期間中の土日に来場客が参加できる企画を用意すると言っていなかったか?それはどうなったんだ?」
「………忘れてた。ど、どうしよう、どうしよう!?」
「落ち着け。まだ時間はある。具体的に何を作らせる予定だったんだ?」
「それすらも未定だよーどうしよう…」
「来週美術部顧問にでも相談すればよいではないか。確か提案してきたのは向こうだった気がするし、何かあいであがあるかもしれんぞ」
「そ、そうだよな。先生が言い出しっぺなんだ、何か考えてくれてるだろ〜。月曜に会いに行かなきゃだな」
「なんとかなるさ。私は確信しているからな」
「はいはいでました謎の自信!」
無条件で俺を肯定・応援してくれる阿須間のお陰でおちゃらける心の余裕が生まれた。
先生が何か考えてくれてますように。
「そういえばそんなこと言ったっけ。忘れてたな。まだ考えてなかった」
「へ…?」
先生が何か考えてくれている。そんな風に期待していたこともありました。
月曜の昼休みに職員室を訪れた俺を待っていたのはすっかり忘れていた先生だった。
「うーん最近僕が版画やってたっていうのもあるけど、版画なんてどう?」
「版画ですか?」
「元になる絵を掘ってしまえば、あとはローラーでインクを塗って刷ればいいだけだし、来てくれた人が自分で刷ってお土産に持って帰って貰えばいいかなと思って。インクに印刷する紙だけ用意すればいいから準備する側も手間がかからないでしょ。紙の色も数種類用意して選んでもらうようにしてさ」
「良さそうですね」
「ただね、その元になる版画を誰が作るかってことなんだよね」
「あっ…」
「岡上くん、作ってみたら?」
「僕がですか!?他にも作品作ってるんですけど…」
「ハガキサイズでいいからそんなに時間はかからないと思うよ」
「いやーでも下手なのしか作れないと思いますし、ローラーでインク塗るだけだと来てくれた人は自分で作ったって感じが薄いんじゃないですかね?もっと自分でやったんだって達成感があったほうがいいと思います」
「それもそうか。そこまで言うんだったら何かアイディアあるのかい?」
「えーっとえーっと…そうですね」
俺は慌てた。そんなすぐにアイディアが出るんなら最初から言っている。
この前の画材専門店でもらったチラシのことを思い浮かべる。何か思い出せないだろうか。
「…ちぎり絵、とかどうですかね。和紙なら温泉の雰囲気にも合うかなって」
横にいる阿須間が首をかしげる。どんなものか分からないらしい。多分見たことはあるんじゃないだろうか。後で画像を見せてあげよう。
「ちぎり絵かあ。いいんじゃない。画用紙は準備室にある大きいやつを4等分にして持っていけばいい。糊も貸すよ。和紙を貼るならでんぷん糊みたいなほうがいいんじゃないかな。ただ、一応岡上くんもそれなりに出来るように練習しておかないとだよ。一応来た人にやり方を教えないといけないわけだからね」
「すっかり頭から抜けてました…。自分でちゃんと出来るようになっとかないといけないんですよね」
「和紙だけはそちらで用意してね」
「わかりました。どれぐらいの数を用意すればいいですかね?」
「何人来るか次第だからなあ。ちょっと考えてみて。あとこの前の訪問で思ったんだけどね、岡上くんの旅館でやると手狭になっちゃうんじゃない?あの観光案内所のスペースでも借りられないのかな」
阿須間の顔がぱあっと輝いた。
確かに先生の言うとおりだ。うちの宿でやってしまうと、それほど広くない廊下で無理やり場所をとることになるし、同時に1人のお客さんしか参加できないだろう。俺たち運営側と一対一だと参加するほうもやりにくいかもしれない。
「一応親に話を通したうえで、案内所に相談して許可をもらいたいと思います」
「そうしてみて。じゃあまた何かあれば来てね」
俺の作品作りが増える状況はなんとか回避できて胸をなでおろした。
他には当日の役割当番について話した。俺は代表だし土日両方終日いることにした。先生には休んだらどうかと心配されたがこれぐらいどうってことない。家ならすぐ近くだし。あとの美術部員4人は、土日どちらでも半日いればいいことになった。先生も日曜に来てくれるらしい。
親には宿で作品を飾りたいということだけしか許可をもらっていない。ひえいやでやるなら親の許可はいらないだろうが、一応企画の一部としてやるのだ、宿泊客にも来てもらうためにポスターやチラシは設置させてほしい。そのためにも話を通しておかないといけないだろう。
「ということなんだけど、展示会の週の土日に、観光案内所のひえいやでちぎり絵講座やってきていいかな?」
「あんたうちの旅館に何か飾るだけじゃなくてそんなことも考えてるの?他のところに話を通すなんて面倒だからやめときなさい。飾るだけでも色んな人と調整して大変なんでしょ」
家に帰ってからの夕食の場。早速母親お得意の全面否定をいただいた。
「面倒かもしれんが、大事なことなんだぞ!」と阿須間は立腹している。
「お母さん、良い企画だと思うよ。うちの旅館のお客さんだけじゃなくて、温泉全体のお客さんが来てくれるかもしれないんだ。それに飾るだけだと当日は何もすることないもんなあ。うちの旅館でやってる企画の一部だって言えば旅館の宣伝にもなるんじゃないか」
「前もお父さんがそうやって隆人の言うこと応援するから更にやる気になっちゃったんじゃない。どうしてくれるのよ?」
「高校になってから地元に友達なんて連れてこなかった隆人が、1人で案内役として頑張って日江井をみんなの前で紹介してたんだよ。それを見たらね、やりたがってること応援してあげなきゃって猶更思ったんだよ」
「あらそう…じゃあ私は手伝わないからお父さん何とかしてくださいね。それだったらし好きにやったらいいわよ」
「場所を借りるなら保護者か学校の先生みたいな人の許可もいるんじゃないか?そうなったらお父さんの名前を出していいからな」
「ありがとう!」
母親と親父の顔を交互に見ながらお礼をした。阿須間に向けても少し笑顔を作る。またしても親父に援護してもらう形になってしまったが、やっぱりこの前の温泉訪問の時親父は俺をよく見ていてくれたんだな。胸がじーんとしてしまう。
あとは肝心のひえいやの許可をもらわなければ。断られたらどうにもならないのでこのちぎり絵講座自体おじゃんだ。
今日の開館時間は終わっているので明日行ってみよう。また簡単な企画書を持っていこうと思うが、今度は学校の人に見せるんじゃないと思うと、手書きじゃなくてパソコンで打ってプリンターできちんと印刷しようという気持ちになった。
夜遅くなるまでになんとか作り終えた。学校が終わってから直接向かうので鞄の中に自分用も含め2部入れておこう。
翌日の放課後、話に行かねばというはやる気持ちで、急いでも早い電車に乗れるわけでもないのにペダルを思いっきりこいだ。
後ろの座席では「隆人、今日は早いなあ、あははは」と阿須間がのんきに笑っている。