「君たちはどう生きるか」の限界
昨年漫画化され100万部以上売れた作品の、岩波文庫版を今更ながら読んだ。
末尾近く、「僕、ほんとうにいい人間にならなければいけないと思いはじめました」とある。
コペル君と叔父さんの世界は、「いい」ことと「悪い」ことで色分けされている。
作中では、まるでプラトンの言うように、「善のイデア」が存在するかのような
世界の捉え方が描かれる。そして人間はより「いい」方に進んでいかなければならないとか。
吉野源三郎による初版は1937年だ。当時の子供が読む分にはいいだろう。
しかし2017年、明けて18年の我々はもはや、
何が「いい」ことなのかを決める絶対的な基準を持たない。
宗教が力を失ってから、科学、皇国史観、共産主義、経済と、
人間がすがってきたものは色々あるが、
「これが正解だ」と差し出してくるものはもはや胡散臭い。
私の思う「いい」こととあなたの思う「いい」ことは異なる。
日本の「いい」、アメリカの「いい」、フランスの「いい」、中国の「いい」、
北朝鮮の「いい」は全て異なる。
それらはすべて時と場所、人間の社会という都合が決めるものだ。
「いい」「悪い」などない。
そのうえでどう生きるかを考えなくてはならない。
「君たちはどう生きるか」が示せるのは、作者が書いた当時に想定したように
20世紀の日本人の子供へのメッセージにすぎない。
21世紀の大人が必要以上にこれを賞賛するのは、
思索という登山を三合目あたりで放棄することだ。