侯爵領が落ちた日の夜
暗くじめじめとした地下道から、ようやく外へと辿り着いた私達はほっと息をついた。
すでに夜の帳は落ちていた。ブライクさまは素早く双眼鏡を取り出すと、つい先程まで自分の故郷であった人の国の侯爵領を見渡した。
「火は上がっていないし悲鳴などもない。思っていたよりも静かだ。犠牲者がでていなければいいが。土地も荒らされないことを今は祈るしかないな。」
私が頷こうとした、正にその時。
がさり。私達がいる場所から少し離れた暗闇から、何かが動く気配がした。私が何か言うよりもはやく、剣を抜いたブライクさまが私の前に進み出る。ぴんと張った緊張の糸。私は瞬きも忘れ、息を殺す。
「誰だ。名乗れ。」
低く鋭い、男の押し殺した声が暗闇の中で響く。ブライクさまは少し迷ってから、魔の国での階級と自分の名を告げた。
「子爵家のブライクと申します。人の国より、只今生還致しました。」
すると、おお、と驚きとも喜びとも聞こえる歓声が暗闇の方から聞こえてきた。
「ブライクか。お前の父が亡くなり、お前も行方不明だと聞いて、心配してたんだ。」
大柄な男がのそりと顔を出し、剣の切っ先を下げたブライクさまの肩に手を置いた。その後ろにも人がいたようだが、男が手振りで何かを指示したようで闇の中へと消えていった。
「お久しぶりです。」
ブライクさまは剣をしまい、肩に置かれた手の上に自分の手を重ね、複雑そうな表情で頭を下げ簡単な挨拶をした。
「お前だけでも助かって良かった。旦那様も報告を待ってるぞ。すぐ、屋敷に向かった方がいい。」
男は軽く抱擁をするようにブライクさまの背中を抱き込み、少し離れたところにある大きな建物を顎で指した。
その光景に、私は息を飲んだ。
ブライクさまは、真っ白な騎士団の制服を着崩すことなくボタンを首までしめ、帯剣していた。その姿はまるで一幅の絵の様に優美で禁欲的であった。一方の男は、薄手の袖無しシャツをざっくりと身につけ腰には布のようなものを巻いている。そして厚い皮でできたベルトから、三日月型の大きな剣が揺れていた。簡素な服装とは対照的に物々しいその腰回りが、男をひどく好戦的に見せていた。
この相容れない二人が抱き合う姿に私は目眩をおこしそうになる。ここが南の前線であれば、二人は間違いなく殺し合っているはずだ。私は人の国で、魔族とは解り合えないと教わったことを思い出し複雑な心境になった。
「この子は。」
突然男の視線がこちらへと向き、私の体が強張る。その様子を感じ取ってか私の背中をさすりながらブライクさまが口を開いた。
「私の、妻です。」
その言葉に、男は眼を丸め、動きを止めた。そして私の頭のてっぺんから足のつま先までを食い入るように見つめ、ぽりぽりと頭をかく。
「おぉ。この子が、お前の、噂の奥さんかぁ。」
ふうん。ほお。なんか想像と違うなぁ。口の中で更にもごもごと独り言ちる男に、私は俯いた。そんな私を見てか、男は少し慌てて話を切り替える。
「それならお前は、本家の侯爵家の屋敷に向かえ。この子は子爵家の屋敷に、俺が連れて行こう。」
男の言葉に一瞬考え込んだブライクさまは振り返り、私に大丈夫かと目で問うてきた。私がしっかりと頷くと、ブライクさまは前を向き男に頭を下げた。
「よろしくお願いします。」
一人になることは不安だけれど、守られてただ見ているだけの人間にはなりたくない。私は心の中ですうぅと深呼吸し、震える心を落ち着けた。
去っていく後姿を見つめながら、私は大男の真正面に立つと優雅にお辞儀をした。せめてお辞儀くらいは、ブライクさまに見合うと思ってもらえたらいい。私は心の中で溜め息をつきながら挨拶を口にする。
「妻のオリビアと申します。よろしくお願いいたします。」
男はまたも、おぉ、と感嘆し、私の姿を見下ろしている。
「人族のお辞儀だな。それは。お嬢ちゃん、魔の国ではそんなに畏まらなくても大丈夫だ。まあ、あいつと離れるのは不安だろうが、すぐ会える。とりあえず、ついてこい。」
私は男の後ろを歩きながら考え込んだ。ブライクさまが敬語を使っていたことから察するに、この男の方が上の立場なのだろう。それなのにこの大男はまるで子供の様に感情をあらわにしていた。それに、早口だ。人の国では、偉い人ほど表情を表に出さず鷹揚な話しかたをする。魔の国には、この男の様に感情的な者が多いのだろうか。
「ここの領土のことは、聞いてるか。」
そんなことを考えていたら、男が気安く私に話しかけてきた。
「いいえ、実は、何も、聞いていないのです。」
困ったように少し笑った私を、男は振り返って見ると、そうかそうか、がははと大声で笑いだした。
「何も聞かされないまま、連れてこられたか。そりゃあお嬢ちゃんにとっちゃあ災難だったな。」
そして男は、先ほど顎で指した大きな建物を改めて指でさした。
「あれが、魔の国でのブライクの実家の子爵家の、本家にあたる侯爵家の屋敷だ。ここの領地も侯爵領。理由は簡単。密偵であるブライクの、家族を人質に取っているだろう。ブライクの人の国での領地と、隣同士のこの領地なら、地下通路を使ってすぐに行き来ができる。密偵は行き来をすれば、人質に情が沸く。裏切らなくなる。でもここを子爵家に任せたら、子爵家全体で裏切る可能性が出てくる。だから、人質のいる子爵家の屋敷を囲んで、侯爵家の領地がある、というわけだ。」
男の話に、私はこくりと頷いた。
すると男は、今度は前方に現れた、小さな小さな建物を指さした。
「あれが、子爵家の屋敷だ。あそこに、アダルジーザは閉じ込められてた。」
アダル、ジーザ。その響きは耳慣れず、私はもう一度口の中でその音を繰り返し呟いた。アダル、ジーザ。美しいが重々しいその名前を今までの人生で一度も聞いたことがない。
アダル、ジーザ。その音から浮かんできたのはブライクさまのお母様の凛とした姿だった。アダルジーザ。ブライクさまの、妹の名前。
10歳で魔の国へ渡り数年前に公爵家に嫁いだと聞いた。現在ブライクさまが28歳で、アダルジーザ様は一つ年下の27歳のはず。ということは15年近く、あの小さな屋敷に閉じ込められていたことになる。
いったいあの屋敷で、毎日何を考えながら過ごしていたのだろう。
「アダルジーザ様は、どのような方なのでしょうか。」
前を行く男が、私が呟いた言葉に足を止めた。その背中から、何かを躊躇っているのがうかがえた。私は、ああまた間違えてしまったのかと内心で溜め息をつき、他の話題を探し始めた時、男がまた歩き出した。
「アダルジーザは、あの屋敷から全く出てこなかった。服も、ずっと人の国のものを着てて、正直俺達は嫌な女だと思っていたんだ。」
語りづらい内容なのだろう先程とは打って変わった低く弱々しい声音に、私は耳をそばだてた。
「だが今考えると、ガキの頃に、今まで敵だと思ってた奴らのど真ん中に連れてこられて、頼れる人は月に一回来るか来ないかの父親一人。自分を守る為の鎧だったんだろうな、あの服は。」
鎧。私は乾いた唇を少し噛んだ。10歳の少女が鎧をつけなければ生きていけない状況に、アダルジーザ様は追い込まれていたのだ。
「俺達侯爵家縁の子供達がこの辺で遊んでいるところに、まさか一人で、声をかけにくるなんて、出来なかったんだろうな。けど、俺達はガキで、そんな心遣いは出来なかったから、ずっと鼻持ちならない女だと、悪口ばっかり言ってたよ。」
私は俯いた。過酷な運命は、過酷な状況まで呼び込んでしまうのだろうか。悪いことばかりが連鎖して、ずっと、ずっと続いていく。
「結婚も、まあ、あいつは光属性の攻撃魔法を持ってたしな、侯爵家縁の者ならば許されたと思うが、もちろん、誰一人、近づかなかった。」
アダルジーザ様は、ずっと、一人で、ひっそりと、年を取っていったのだ。
「それが数年前、突然公爵様々がおいでになって、嫁に欲しいと言った時には度肝を抜かれたよ。人質を外に出すなんてあり得ないだろう。だが公爵は相当な有力者だったから、我が侯爵家は拒否することができなかった。だから渋々送り出したんだ。」
良かった。その公爵がアダルジーザ様を連れ出してくれて。ブライクさまのお父様が、娘は公爵に望まれて嫁いだと言っていたからきっと今は幸せなのだろう。私はほっと息をついた。
「あいつはここを出る時、人の国の服を全部燃やしていったんだ。俺はそれを見て、やっと気づいたよ。あいつが出てこなかったのは、あいつだけのせいじゃない。俺達のせいでもあったんだってな。もっと早く、あの服を燃やせるように、声をかけてやればよかった。悪いことしちまったなって。今更ながら思うんだ。」
そう言って、ふうと溜め息をついた男の背中がまるで一回り小さくなった様に感じて、私はおそるおそる、声をかけた。
「でしたら、次にお会いした時に、笑顔で、話しかけてみては。」
男は私の言葉を聞いて、がはは、と盛大に笑った。そうだな。その通りだ。と大笑いし、振り返った。
「大人になるとそういう単純なことが、素直にできなくなるんだ。嬢ちゃんの言うとおりだ。」
それからまじまじと私を見つめ、お礼にブライクのことを教えてやろうと話し出す。
「あいつは確か、15位だったかな、初めてここに来たのは。妹に会いに来てたんだと思うが、妹とは話しもせず庭で剣を振っててな、まあ俺も剣を振ってたから、自然と話すようになったんだ。あいつは俺達の方には来なかったが、俺達が行けば、一緒に打ち合ったりしたよ。まあ、あの兄妹も、複雑だよな。兄は兄で、妹は妹で、色々思うことはあるだろう。」
そう言葉を濁した男に、私は頷いた。兄妹の関係は、思っていた以上に複雑なようだ。
「さあ、ついたぞ。ここからは、屋敷の者に聞いてくれ。また機会があったら、今度は人の国の話でも、聞かせてくれよ。」
私は頭を下げ、またもや男におお、と感激されてから、小さな屋敷の扉へと向かった。
そこには、老婆が一人いた。アダルジーザ様が居なくなってからはこの老婆が一人で屋敷を管理していたのだと言う。
私は体を清め、軽食をいただき、アダルジーザ様が使っていたという部屋に通された。家具はそのまま置いてあり使える、と言う老婆の言葉通り、置かれていた最低限の家具は清潔に保たれていた。けれど、どれも古く重くるしく若い女性が好むものではなかった。
この部屋に、小さな少女が一人座る光景を私は想像することができなかった。私ならば、早々に外に出ていたに違いない。もし外に出れないとしたら、私はどうしていただろう。
ブライクさまは、ずっと、家族のために自分を犠牲にしてきた。
妹が光属性だとわかってから母親に相手にされなくなり、妹が消えることを願ったと、彼は、泣いていた。
本当に妹が消えた時、喜んだのだと、彼は泣いていた。けれど結局、母親の愛情が彼に向くことはなかった。
成人し、妹が人質として魔の国で生きていることを知った時。この屋敷に来て一人で人の国のドレスを着ている妹を見た時。彼は、どう思ったのだろう。
居ても居なくても、母親の愛情を一心に受ける妹。けれどその妹は、一人ぼっち。憎いけれど、かわいそうな妹。
彼は、自分の行為を後悔しただろうか。恥じただろうか。申し訳ないと思っただろうか。
けれど、それでも、母親の愛情は自分には向かない。
だから全て自分が悪いのだと諦めて、家族に全てを捧げれば許されるかもしれないと思ったのだろうか。
ブライクさまの家族は、何かに捕らわれて、あがいている。救いは、あるのだろうか。私は彼を、救えるだろうか。
お義父様。お義母様。どうか、どうか、安らかに、お眠りください。