黄昏の誓い〜木漏れ日の思い出〜
そよ風の吹く気持ちいい天気だ。
家の周りにある木々が揺れ、空が青々している。
「ねえねえ桜、もうすぐ夏も終わるんだね」
黒髪黒目の少女が嬉しそうに聞く。縁側でぼうっとしていた黒髪に紅の瞳を持つ少女――桜は憂鬱そうに答える。
「私はこのままずっと夏であって欲しいんだけど」
「冬の方が景色も綺麗よ」
正反対の事を言う梓に桜はふうっとため息を着く。
家が近所にあり、同じく呪術を使う同士として一緒に居るが正直桜は梓の事が嫌いだった。
他人の言う事を聞こうとしない。何を言っても頑固で頑なに否定ばかりする。そんな彼女と居ると精神的に疲れるのだ。
どんなに離れたくても親同士も仲がいいため、無理がある。同士と言うだけあって一緒に呪術の稽古もするので彼女から離れる事が出来ないのだ。
おまけにどうやら梓は桜を心から分かり合える親友だと思っているらしい。何でもかんでも桜に相談したりする。
「今日はどんな稽古をするのかな?」
「さあね。今日は新入りが入るって聞いてるけど」
「胡蝶は男の子が来れば喜ぶだろうけど女の子が来て欲しいな」
胡蝶は紅花家の裏側にある紺水家の息子だ。同じように呪術の稽古を教わっている。
この三人の中にもう一人加わるのだ。
もちろんその一人については桜も調査済みだった。母から聞いたところ、男であるそうだ。ただ家の事情で梓の家に寝泊りするのだと。
さすがの梓も詳しい事は聞けていなかったようだ。
「男、だそうよ」
「ま、これじゃあ胡蝶が大喜びじゃない」
「いいでしょ、年頃の女ばかりに囲まれているよりは」
「もう桜ったら。本当は胡蝶が新入りにとられたりしないか心配してたくせに」
「!」
ついこの間、その情報が入った時に桜は事もあろうか梓に相談していた。
――後からこうやってからかわれるの分かってた筈なのにどうして言っちゃったのよ!
顔を赤らめ、梓を鋭く睨みつつも胡蝶の事を思い浮かべていた。
呪術一族の末裔として強く、優しく、頼りになる男だ。そんな奴に桜はついつい惚れてしまったのである。
ちなみに梓曰く胡蝶は好みでは無いのだと言う。
「もっと感情を表に出さないような冷静な方が好みよ」
安心させるように梓が言う。その屈託の無い笑顔に桜は渋々頷くのであった。
稽古の際、早速新入りが紹介された。
隣にいる胡蝶は目をきらきら輝かせていた。彼の希望通り、男であった事がよほど嬉しいらしい。
氷のように冷たい瞳。でも不思議めいて何を見ているのか分からない程虚ろとも言える。後ろに束ねられた長髪も男としては珍しい。
「……紫苑」
一瞬呟いた言葉。それが何を伝えようとしていたのか最初はさっぱり分からなかった。
しかしすっかり解釈した胡蝶は彼の手を握り、握手した。
「紫苑って言うのか。俺は胡蝶だ。宜しくな」
ああ、名前を言っていたのか。
胡蝶の言葉でようやくさっきの呟きを解釈した桜はふと梓の方を見た。
梓は呆然と立ち尽くしていた。それどころか、感動しているかのように震えている。
そう言えば、こういう冷静な人が好みだったとか。さっきそう言ってたはずだ。
だが梓が発した言葉はまた別の事だった。
「貴方、紫苑って言うの……?」
「……知ってる」
握手していた手を離し、紫苑が梓に向き直る。
「俺は君の許婚だ」
「えっ」
初めて聞く事柄に桜と胡蝶は目を丸くした。
まさか梓に許婚が居たとは思いも寄らなかったからだ。それに梓の家は紅花家や紺水家のように跡取り重視をしていない血筋だと聞いている。それなのに、許婚が存在していたとは――。
「そういう事どうして言わなかったの?」
「だって、名前は知ってたけど会った事は無かったものだから」
頬を薄紅に赤らめ、梓がうっとりと紫苑を見つめた。感情の見えない以前とした態度だったが、ふいにそれが和んだかのように感じた。
たった一度会っただけでこんなに親密な感じになるとは梓も恐るべしだ。
それと同時に梓に置いて行かれた様な気がした。あまりにも躊躇している桜とは大違いだ。
――やっぱりああやってはっきりする人の方が胡蝶も好みなんだろうな……
ふと桜が胡蝶へと視線を向けると何故だか胡蝶が少し険しい表情を浮かべていた。さっきまであれほど嬉しがっていた彼とは一変、緊張感でピリピリした気が伝わってくる。
「どうかしたの?」
小声で尋ねると、何も言わずに胡蝶は背を向け何処かへ行ってしまった。
既に二人の世界へと入ってしまっている彼らを止められるわけも無く、桜は一人真面目に稽古を始めた。
それからと言うもの、胡蝶は紫苑と話してもあまり楽しそうにしなくなった。
紫苑の側には必ず梓がいる。どうやらあれから更に関係が親密になったようだ。こそこそと二人で何処かへ出かけたり、勝手に稽古を放棄したり、怪しい行動が増えている。
もちろん桜はそれを咎める事などしない。人の色事に首を突っ込めばややこしくなるだけだからだ。逆にそんな二人が羨ましくてついつい見惚れてしまったりする。
その度に胡蝶が紫苑へと突っかかっているような気もするのだが。
喧嘩になればもちろん叱られて罰として木へ縛り上げられる。被害者である紫苑でさえ巻き沿いだ。
そして今日もまた二人はいつもの木へと縛られていた。
がっくりと首を垂れてうなだれる胡蝶と何も感じていないように目を細める紫苑。あまりの有様を見て梓はふうっとため息を着いた。
「こうもほぼ毎日喧嘩されたら、困る」
「しょうがない。奴が俺へ油を注ぐから」
「またそうやって紫苑のせいにして!」
とうとう桜から本音が漏れた。
いかにも業とらしい喧嘩に気付いていない訳が無い。
「ちゃんと紫苑に謝りなさい!悪いのは胡蝶よ!」
「ちょ、ちょっと桜……」
制するように梓が桜の衣の裾を引く。確かに今のは少しばかり言いすぎかも知れない。でも、これでは標的にされた紫苑があまりにも可哀想だ。別に何もしていないのに。
さすがの紫苑も本当は心の奥でだいぶ参っていたらしい。すすすと音も立てずに桜の後ろへ隠れる。
桜が紫苑を守った事に更に苛立ちを募らせた胡蝶はとうとう懐から札を取り出した。そして呪文を唱えようとする。
「駄目よ、胡蝶!」
鋭く叫んだ梓の声も届かず、胡蝶は今までに無い勢いで呪術を発動させる。
「生い茂る木の葉よ、刃となり襲い掛かれ!樹葉乱舞!」
途端に木々から葉っぱが抜け落ち、それが空中に浮いたかと思った刹那襲い掛かる。
両手を広げ、桜が紫苑の前に立ち塞がる。それでも胡蝶の呪術は止まらない。本人がはっとして慌てて呪術を止めようとした時には。
ザシュザシュッ
「ああ!」
あちらこちら桜の身体は容赦なく切り裂かれた。梓が恐怖に身を震わせ、悲鳴を上げる。
自分を庇ったが故に傷ついた桜の姿を見た紫苑は瞳孔を収縮させたまま唖然としていた。腕にも足にも鋭い傷があり、少量ながらも確実に血が流れ出ている。
その場に膝をつき、桜は前のめりに倒れた。
「桜……!」
初めて紫苑が桜の名を呼んだ。
虚ろ目ながらも桜はふっと微笑んだ。声には出なかったが彼女は確かにこう言った。怪我、してない?と。
無言でこくこくと頷いた紫苑は優しく桜を抱き上げた。
「……俺が運ぶ」
俯いたまま胡蝶が手を差し出す。
紫苑は彼らに話し合いの機会を与えた方がいいと判断して、桜を引き渡した。掌にじんわりと伝わってくる温かさが離れる。
とぼとぼと歩き出す胡蝶の背中は見るからして落ち込んでいた。それもそうだろう。苛立ったとはいえ人を傷つけるのは修行の掟に背いている。それ相応の罰は覚悟しなければならない。
勇敢にも自分を守るために盾となった少女。
――今まであんなに美しいと思える女が居たか?
ふいに腕を絡ませ、梓が紫苑にしがみつく。
「いくら何でも胡蝶、やりすぎよ」
「いくら、とは……?」
「ああ、胡蝶はね敵対心を抱いていたのよ。彼、桜の事が好きだから」
「敵対心?好き?」
首を傾げる紫苑に対して梓は、もうこれだから男はと頬を膨らませる。
胸に残るこの気持ちの正体をまだ見抜けず、紫苑はもどかしく自分の胸ぐらを掴んだ。
「あまり悪く思わないで。あとは桜と胡蝶の問題よ。でも、やっぱりあの二人だけではどうしようもなさそうだから一緒に行きましょう」
「……はあ」
梓が言っている事があまり理解できないのだが、とにかく二人を応援すればいいのだと割り切る。
胡蝶が消えていった方角へと二人も歩き出す。
この先には修行道場がある。これは紅花家が誇る大きな呪術専門の道場だ。一般の人でも素質さえあれば呪術が使えるようになるのだ。
師範を務めているのは桜の父にあたる紅花菜。彼自身は風属性の呪術が得意で、風を自由に操る事で他の呪術も補うという効率のよい呪術を扱える。
ただ一つだけ難点がある。それは一人一人の生徒を溺愛している事だ。そのため争い事があれば厳しく罰する。この時、必ず説く言葉がある。
「いいか、呪術は人を傷つけるためにあるのではない。守るべきものを守るためにあるのだ」
いかにも正当な言葉だとは思うが、理由くらい聞いてから罰して欲しいものだ。頭に血が上ると人の話を全く聞かない。せっかくいい事をいっても台無しだ。
そして二人が道場へ辿り着いた時には怒鳴り声が外まで聞こえていた。
嫌でも耳を塞いでしまう音量に表情を歪ませる梓。紫苑とて苦い表情を浮かべている。
誰が怒鳴られているのかは明らかだった。
「何故このような事になったのだ!あれほど人を傷つけるように呪術を使うものではないと叩き込んでおると言うのに!」
顔を真っ赤にして式服を着た中年の男性が胡蝶を叱っている。彼こそ桜の父親だ。
「ましてや私の娘を傷つけるとは……!」
「決して彼女を傷つけようとした訳ではありません。結果的にこうなってしまったのです」
「戯言を言うで無い!」
拳を床に叩きつけ、血走った目で胡蝶を睨みつける。泣く子も黙るとはこう言う状況だ。
頭のてっぺんからもうすぐ湯気が立ち上りそうだ。そうなればだいぶ髪の量が減っている彼の頭髪が消滅してしまうだろう。
口を挟むのもおっくうだったが、紫苑は静かに口を割った。
「師範様、彼女を傷つける結果となってしまったのは私のせいです」
部屋の中に入り、胡蝶の隣に正座する。いつものように彼が反抗する事は無かった。それどころか片目を細めて信じられないように紫苑の方を見ている。
後ろに束ねてある長い黒髪が逆立つように殺気立っていた師範も出鼻をくじかれたように唖然としていた。
「彼女は胡蝶と喧嘩していた私を守ろうと盾になって傷ついたのです。ですから、彼女を危険な目に合わせた私にも責任があるのです」
深々と紫苑はその場で頭を垂れた。
「どうか私にも見合った罰をお与え下さい……」
その真剣さに胡蝶も確信する。彼は間違いなくこの件で桜に惹かれてしまったらしい。あまり悠長に喧嘩している場合でも無い。
さっさと面倒事は片付けた方が良い。そう判断して胡蝶も深く頭を下げた。
しばらく黙って二人の姿を見つめていた菜だが、やがて立ち上がって静かに言った。
「一週間道場の出入り禁止だ」
本来なら破門されてもおかしくない事をしたのだ。これはまだ軽い罰だ。
思ったよりも軽い罰で梓は密かに安堵のため息を着いた。
颯爽と菜は和室から退いていった。恐らく娘の所へと向かったのだろう。彼にとって亡き妻とのたった一人の子供である。愛情をここまで注ぐのも分かる。
先に立ち上がったのは胡蝶だった。
彼の瞳には見えない強き感情が宿っていた。その威圧感に冷や汗が紫苑の額に浮き出る。
「俺はずっと前から桜の事が好きなんだ。お前なんかに渡しはしない。たとえ桜がお前を愛し始めているとしても振り向かせて見せるさ」
妙に自信有り気な口調で淡々と言うと胡蝶もさっさと和室を出て行った。
影で聞いていた梓も信じられないと言わんばかりに口元を押さえた。まさか紫苑が桜に惚れてしまったとは……。
親同士の了承だけで交わされた契りが紫苑を縛り付けるものになるとは思えない。だとしたらとにかく紫苑がこれ以上彼女に惹かれない様にしなければ。
――桜はちゃんと私を理解してくれている
それを根拠に覚悟を決めた梓は隠れていた影から抜け出す。
もちろん梓の姿を見た紫苑は目を丸くしていた。だがそんな事が重要なのではない。重要なのは、彼女に近づけない事だ。
「今日は帰りましょう……。しばらくは私も一緒に家で書でも読むわ」
「そうだな」
再び紫苑の腕に手を絡ませる。
この手が離れてしまう事など、許してはなるものか。
「……んっ」
身体のあちこちが痛い。
とてもじゃないが、力を込めて動く事もままならない。
ゆっくり目を開けると、そこは見慣れた自分の部屋だった。
しばらく天井をぼうっと見ていた桜だったが、ふいに意識を失う前の事を思い出して慌てて起き上がろうとする。
「私……!」
全身から悲鳴が上がったように激しい痛みが走った。そのまま桜は蹲る。
――そう、紫苑を庇った私が怪我をして意識を失った。また喧嘩になっていたら!
何よりも悲しさが込み上げていた。
桜は別に紫苑の事を想っているわけではない。桜が本当に止めたかったのは、胡蝶が他人を傷つけようとした事だ。
人を傷つければ身体の傷よりも心の傷が深く深く残る。それをしばらくは引きずらなければならない。そんな悲しい思いを胡蝶にさせたくなかった。もちろん、紫苑も傷ついてはならなかった。
あんな事になった理由は分からない。最近の胡蝶の行動は明らかにおかしかった。
――何かあったのかしら……?
ようやく刺す様な痛みが治まって、顔を上げると丸い満月になりかけた月が顔を覗かせていた。
月が満ちる時、闇の力は強くなる。そんな言い伝えを聞いたことがある。
この異変と、何か関係があるのだろうか。
「そう言えば、ここで月見をした事があったわ……」
時を少し遡って、とある日に梓と胡蝶で月見をした事があった。完璧な丸い形をした月に三人とも感動していたのだ。
幼き頃のほんの小さな思い出に浸りながら桜は月を眺めていた。
――私は、優しくて、ちゃんと見守ってくれる胡蝶が好きなのね
多少の自覚は今まであったものの、これ程深く胡蝶の事を想っていたとは自分でも分かっていなかった。だから今までの胡蝶で無くなってしまった胡蝶が見知らぬ者に見えて仕方が無かったのだ。
責めて彼が変わってしまった理由が分かればいいのだが。
と、近くの茂みが音を立てて揺れた。訝しげに桜がそちらを見る。
茂みから出てきた影は月光に照らされて正体を見せる。
「こ、胡蝶……?」
「静かに。俺は師範に謹慎処分を言い渡された身だ。見つかったら破門は免れないだろう」
危険を冒してまでここへやって来たのだ。それなりの理由があるのだろう。
彼の元へ四つん這いになって近づく。彼は最近見ていた機嫌の悪そうな顔ではなかった。むしろ今までの優しい目をした胡蝶だった。
包帯だらけの桜の姿を見て胡蝶は頭を下げた。
「悪かった。ごめん」
それが謝罪の言葉だと判断するのに数瞬かかってしまった。
優しい彼の言葉を聞くと、何故か涙が出そうになった。ああ、この人こそ私の愛する人なのだと。
大丈夫だよ、と言いたくても声が出ない。肺にうまく空気を吸い込めない。熱いものが喉につっかえているのだ。
何も言えずとも、胡蝶は桜の意図をしっかり理解してくれたようだ。少しはにかむ。
堪えきれずに一粒、涙が零れ落ちた。でも顔は穏やかに微笑んでいた。
「良かった……」
ようやく言えた言葉がそれだった。
理解しづらかったのか胡蝶が軽く首を傾げた。
「胡蝶が、変わって離れていってしまうのかと……思ったから――」
ふわり、と優しい風が吹く。
その風に押されるかのように胡蝶が桜に近づく。同じ目線で見つめ合えるようにしゃがむ。
次の瞬間、胡蝶の顔が急接近した。唇に柔らかく温かい感触が伝わる。
何が起こったのか頭の中では分かっていたが、どういう反応をすればいいのか分からずに桜は呆然としていた。
唇の感触が無くなり、彼の顔も少し遠ざかったと思えば今度は強引に抱き寄せられていた。
「俺は、ずっと昔からお前を見ていたんだ。なのに、お前は全く気付かずに紫苑ばかり見ているし不安だった。だから……」
「ちょ、ちょっと待って。私、紫苑ばかり見ていた?」
「見ていたじゃないか!」
拗ねた様な声で胡蝶が抗議する。
「……それ、たぶん私が紫苑と梓を羨ましいと思って見ていたのを勘違いしただけよ」
「えっ」
「だって、私だってずっと胡蝶の事見ていたんだもの。でもあまり意識してくれてないのかななんて思ってたり……」
お互い目を丸くして見つめ合う。
結論だけを言えば、お互いがお互いの事を想っていた――つまり両思いだったと言う事になる。
途端に二人の顔は熟した林檎のように紅潮していた。慌てて離れて顔を背ける。
まさかこんな事だったなんて、と桜は両手で頬を押さえた。お互い想っていたのに、勘違いが原因ですれ違っていたのだ。
心臓がドクドク脈打っている。顔だけでなく、身体全体が燃えるように熱い。
「……どうやら勘違いだらけだったらしいな」
恐る恐る桜が頷く。
「両思いだったらもう我慢しなくてもいいな」
夜の闇の中、彼の瞳が月光を反射して光る。
身体の痛みさえも忘れて桜は立ち上がり、胡蝶の元へ歩み寄る。
そっと背伸びをして彼の唇に口付ける。時が止まったかのように二人ともしばらく動かなかった。
重なる二人の影を確認した茂みに隠れていたもう一つの影も森の中へと引き返す。
「何だ、上手くいったんじゃない」
別に心配する事は無さそうだ。梓は別に師範から謹慎処分を受けたわけではないので出入りは別に自由だ。だが二人が密会しているのを見つけて影で見守っていたのだ。
どうやら二人は両想いだったようだ。まあ、昔から気付いてはいたので当然の結果とも言えよう。
――二人の関係が露となればいくら紫苑でも想いを断ち切ることが出来るでしょう……
森の近道を掻い潜って自分の家へと向かう。だが、もうすぐ森を抜けると言う所で見慣れた影と出くわしてしまった。
紫苑だ。
居る事を悟られないように慎重に隠れる。
どうやらこの近道を通って桜の元へと向かおうとしているようだ。
今は胡蝶と桜の二人きりにしておいた方がいい。一瞬考えた後梓は茂みから姿を露にした。
梓の姿を見つけた紫苑が驚いた表情で彼女を見る。梓はわざと追いかけて来たかのように息遣いを荒くした。
「何処へ行くつもりなの」
「……気分転換に散歩へ。あまり眠れないものだったから」
そんなの嘘だと見抜いている。
だが気付いていないフリをして納得したかのような素振りを見せる。
「私も一緒に行くわ」
二人並んで歩き出すも、気まずい雰囲気が漂っていた。
隣に居るのに心はここに無いかのようで梓は切なかった。今の彼には梓の声は届かないようだ。
――お願い、私だけを見て。桜は胡蝶と言う想い人が居るのよ。その邪魔はしちゃ駄目。だからこっちを向いてよ、紫苑……!
心の叫びは誰にも届かない。
あれから一週間が経った。
桜の傷も回復し、今日から修行に復帰する。
そして謹慎処分を受けていた胡蝶と紫苑も今日から修行に復帰する事となった。
久しぶりに呪術の式服を着た桜は帯を引き締めながらちょうど月夜の出来事を思い出していた。
あの後胡蝶とは全く顔を合わしていなかった。恐らく師範にばれたら大変だと判断したからだろう。我が師範は鬼の形相で怒るので恐ろしいからだ。自分の父の事はよくよく知っているつもりだ。確かに危険を冒してまでしょっちゅう会いに来られても困るのだが。
――何も連絡無いと心配するじゃない……
とにかく早く会いたくて仕方が無かった。
いつもの時間より早めに道場へと顔を出した桜は先に修行を始めた。
一般の場合、あまり高度な呪術は教えない。使用方法を間違えたらとんでもない事になってしまうからだ。
しかし家が道場であり、古来からの呪術一族となる桜はまた別だ。道場は無いものの同じく呪術一族である胡蝶も同様だ。
強大すぎる力はいずれ悲劇を生み起こす。人の感情は単純だが、思うようには本人も操れない。だからこそ悲劇は起きるのだ。
――絶対、もうあんな事はさせない。彼が誰も傷つけなくていいように私が強くなるわ
指先に神経を集中させ、集まった気を天空へと放つ。その先には悠々と空を飛ぶ一匹の鴉。
バシュッ
乾いた空気音と共に鴉が目の前に落下した。彼女の術が見事に命中したのだ。
羽を傷つけたせいで飛べずにもがく鴉にそっと桜が手を差し伸べる。口の中で素早く呪文を唱える。
すると周りの木々達が深緑の光を放ち始め、その光が吸い寄せられるように鴉の元へと集まってくる。羽の傷がみるみる治癒していき……――。
光が止んだと同時に鴉は再び大空へと飛び上がった。そのまま姿が見えなくなる。
「大した技術を持っているのだな、君は」
胡蝶の口調ではない。振り向くと、紫苑がいつの間にやら立っていた。彼の気配には全く気が付かなかったのだ。
既に鴉の姿は無いと言うのに紫苑は見送るかのように上を見上げた。
「やはり、一族と一般人は違うのだな」
「それは当然の格差だと思うわ。長年ずっとこれを本業にしてきた家の者とつい最近修行を始めたばかりの人なら差もあって当たり前よ」
「……もし」
「ん?」
紫苑はごくりと唾を飲み込んだ。
「もし、君が危険な目に会う時は今度は俺が守る」
木々が揺らぐ。風の音が沈黙の空間を透き通っていく。
にこりと桜は微笑んだ。
「それってこの前のお礼にって事よね?」
あまりの天然さに紫苑は開いた口が塞がらなくなる。
「私なら大丈夫よ。誰も傷つかなくて良かった。私はそれだけ、いえそれが幸せなのよ。この身が滅びようとも構わない。その代わり、誰もが傷つかなくてもいいようにしたかっただけなの。だからあまり気負いしないでね」
がくっと俯いた紫苑に桜はやんわりと微笑むだけだ。
――今なら誰も来ていない。なら……
一つの決断をした紫苑は向き直った。真剣な眼差しで桜を見つめる。
さすがの桜も彼の真剣な表情に真顔になる。だが、彼女が抱いたのは悪い予感だった。
その予感は見事、的中した。
次の瞬間。紫苑は桜を強く抱きしめていた。長い髪が視界に広がる。
彼女を抱きしめたまま、紫苑は小さく言った。
「俺は……君の事を愛してしまった」
体全体から力が抜ける。
何故。どうして彼は自分にこんな事を言っているのか。彼には梓と言う存在が居ると言うのに。
なのに、この状況は一体。
『誰も傷つかなくていいように』
――私には胡蝶が居る。そして彼には梓が居る。この想いは、受け取れない……
「っつ!」
渾身の力で紫苑の拘束を解き、林の中へと逃げ込もうとする。
だが彼の大きな手が桜の肩を強く掴む。振り向き様、幹の太い木へと押し当てられる。頭と背中に激痛が走った。
桜はどうしていいのか分からなかった。答えはもう出せているのに声が出せなかった。
拘束されたまま、紫苑の顔が桜に近づく。
自然と涙が零れていた。
涙を一目見た瞬間、紫苑は慌てて後ろへ後ずさった。恥じるように視線を逸らす。
「……すまなかった、まだ返事も聞いていないと言うのに」
「謝るくらいなら最初からしなければいいじゃない」
目の淵に溜まった涙を拭い去り、桜はきっと紫苑を睨みつけた。その迫力に紫苑もびくっと身体を震わせる。
言葉を紡ごうとしたその時、ゴロッと石が移動する音がした。
その方向を見ると、わなわなと唇を震わせている梓の姿があった。目は見開き、信じられないと言わんばかりに紫苑を見ていた。
梓はとうとう耐え切れなくなって踵を返し、走り出した。
「梓!」
追いかけようとした桜を後ろから出てきた手が制した。
「お前が行っても誤解を招くだけだろう」
「こ、胡蝶」
「久々に会ったらいきなりこれかよ、紫苑」
「……」
彼は黙ったまま、梓の走った方角へと走り去った。
――どうしよう、梓にも胡蝶にも見られていたなんて!
あんな事をされて黙っていた自分に非が無いなんて言い切れる訳が無い。
「わ、私は」
「俺はお前の事、信じてるから」
遮るように胡蝶が言った。その表情は優しいような、悲しげなような曖昧だった。
恐らく彼も混乱しているのだろう。まさか紫苑も同じ人物を愛していたとは……。
つい最近までは確かに梓と紫苑の関係の方が明らか親密だったはずだ。なので、てっきり桜も胡蝶もお互い好き合っているのだとばかり思っていた。
どうやら胡蝶が心配していた通りになってしまったらしい。罰の悪そうに切り出す。
「あれ程桜に近づけないようにしてたって言うのに」
「ちょっと、それどういう事!」
「あ、いや、その……」
「……まさか、この前紫苑を攻撃したのは焼きもちが原因で?」
「――そうだ。俺がどれだけ振り向いてもらおうとしても常にお前は紫苑の側に居るし」
首を傾げつつも桜はその時の状況を思い出す。
確かに紫苑の側に偶然居る事が多かったような……。おまけにあの時も完全に胡蝶ばかりを責め、紫苑を庇っていた。それでは焼きもちをやかれても仕方が無い。
かなりの誤解を与えてしまっていたらしい。こんな事で焼きもちをやく胡蝶も子供じみているし、自分にも全く意識が無さ過ぎて呆れてしまう。
「知らない間に結構傷つけていたみたいね」
「それもお互いにな」
馬鹿らしくて少し微笑む。
だがそれも一時と続かなかった。胡蝶の誤解は解いた。あとは梓の誤解を何としてもとらなければならない。
「胡蝶、ついてきてくれる?」
「もちろんだ。これは三人だけじゃなくて、四人全員の問題だからな」
「ありがとう」
二人もまた一緒に彼らの後を追った。
限りなくある緑の木々に囲まれた道を走る。この道は一本道なので何処か道無き道を抜けない以上は恐らく彼らはこの先に居るだろう。
傷ついた表情を見せた梓。彼女からしたら、親友に裏切られたと思っているだろう。
決して傷つけるつもりは無かった。それに傷つけることも無いと思っていた。だって親友だから。
焦って走るせいでいつもなら躓かない小さな小石に引っ掛かって転びそうになる。
「あっ」
とうとう決定打として思いっきり地面へ前のめりに倒れた。石が棘のように肌を刺激する。
掌に力を入れて立ち上がろうとしたが、石が刺さって痛みが走る。ただその場に崩れるしか無かった。
情けなさに涙が込み上げてくる。
こんな事になるのならばあの場できっちり片付けて置けば良かった。
と、身体が持ち上がる。胡蝶が起こしてくれたのだ。
「焦ったって何も変わらないだろうが。逆に本当にしなければならない事を見失う事になるぞ」
「分かってるわ!」
目をごしごし擦って何事も無かったかのように立ち上がる。膝に纏わり付いた砂利を払い落とし、きっと道の先を見据える。
そしてゆっくり歩き出す。だんだん加速して再び走る。
「何がどう違うのよ!」
梓の叫びが聞こえる。
しばらくすると紫苑と梓の姿が見えてきた。減速して遠目で二人の様子を観察する。
「皆して私を騙していたのね!桜は胡蝶が好きだと言ってたけど、本当は紫苑の事が好きだったのでしょう!そして紫苑も桜の事を想っている。もちろん胡蝶もこの事を知っていて、掌で私は遊ばれていた訳でしょう!」
「違う!俺は嫌がる桜に無理やり詰め寄ったんだ!決して想い合っていた訳じゃない!」
「どうして!どうしてこんなに貴方の事を想っているのにどうして貴方はそれに応えてくれないの!」
「君の想いはちゃんと知っている!でも一緒に居たいのは桜の方なんだ!別に君が嫌いな訳じゃないのは分かってくれ!」
怒号が交わされる光景を見ていられなくて、桜は顔を背けた。
二人の仲がこのまま引き裂かれてしまったら、それは全部自分のせいだ。
「桜……」
胡蝶が優しく肩を叩く。彼の優しさが好きだ。でも、今はこの優しさに頼ってはいけない。
ふと梓がこちらを向き、硬直した。紫苑も梓の視線の先を追い、言葉を失う。
しばらく硬直していた梓だったが、きっと桜を睨みつけた。その目は完全に桜を憎んでいた。
「私はずっと信頼していたのに」
彼女の紡ぐ言葉が重々しく耳に響く。まるで呪いの言葉でも唱えられているような感覚だ。
あんまり彼女の事は好きではなかった。離れられるなら嬉しいとあの頃の自分ならそう思うだろう。でも今は心から大切な親友だと言える。誤解されたら嫌だ。これからも側で一緒に居たいと初めて思えた存在だからこそ、失いたくない。
でもその思いとは逆に、二人の間がみるみる離れていく。
「消えて」
ひゅっと胡蝶が息を呑んだ。
「皆私の前から消えて!二度と私の前に現れないで!」
ぱんっ
乾いた音が響く。
桜は紫苑の頬を力の限り叩いていた。彼の頬が微かに赤みを増す。
「私は悪いけど、貴方の気持ちには応えられない。そして、梓を傷つけた貴方なら尚更の事よ。私に対する謝罪は要らないから、彼女を傷つけた事を謝罪して!そしてその償いもするべきよ」
きっぱりと切り捨てた。
結局誰かが傷つかなければ事は好転しないと考え、桜は紫苑を傷つけた。
ここで引けば失う物が多すぎる。だから引けない。
「……そう、だな」
俯き加減のまま紫苑が呟く。
そのまま地面に膝をつき、梓に向かって土下座した。
「本当に、悪かった」
梓の目からぽろぽろと涙が零れた。同じく膝をついて紫苑の肩にそっと手を置く。
これでもう大丈夫だろうと判断した桜は踵を返した。あとは二人でじっくり話をすればいい。梓となら後日ででも仲直りできるだろう。今ので桜にはその気が無かった事がはっきり証明されたはずだから。
胡蝶も桜と同じ判断をして踵を返そうとした。だが、紫苑の異変に気が付いてしまった。
俯き加減でよくは見えないが、紫苑はぎりりと奥歯を噛み締めていた。そして長く垂れた髪の隙間から桜の事を睨みつけていた。
恐ろしさを感じた胡蝶は見なかった振りをして慌てて踵を返した。
ここで背中を向けてしまった事が後にどういう結果を生む事になるのか。桜と胡蝶、そして本人達もまだ知るよしも無かった。
紫苑と梓はそれ以降修行に行く事は無かった。
家にも戻らず、森の中に呪術で隠された小さな小屋でずっと過ごしていた。
桜の行動には驚かされた。だが、それで自分が誤解していた事に気付かされた。決して桜は自分を裏切ってはいなかった。
それなのに酷い言葉をぶつけてしまった事を許す事が出来なかった。そんな自分は彼女の元へ行ける訳が無い。
――ごめんなさい、桜
心の中で謝罪の言葉を呟いた。
そして奥の部屋に閉じ篭もったままの紫苑の様子を窺うために立ち上がる。
あれから一度も紫苑とは一言も会話を交わしていない。部屋の中に閉じ篭もって出てこないのだ。どれだけ呼んでも返事が無い。
「紫苑……?」
襖の前で名前を呼んでみる。返事は返ってこない。
きっとろくに食べ物も食べていないだろう。このままでは体が持たない。
ゆっくり襖に手をかけ、少し開けて中の様子を覗き見る。
そしてそこに広がる光景に梓は目を見開いた。体中が震え上がる。
彼が部屋の中で何をしていたのか。沢山の禁断の書物に囲まれて闇の呪術の研究をしていた。彼の身体からは黒い霊気が漂っていた。
――何故、どうして紫苑の心が闇に染まってしまったの……!
「手に入らない……これ程愛していても、届かない」
その呟きに梓は全てを理解した。
桜が拒絶してしまった事で紫苑の心が脆くも崩れてしまったのだ。そこに闇の霊気がどんどん吸い寄せられて邪悪に染め上げてしまったのだ。
ここまで深い想いを桜は知っていてこうしたのだろうか。
だとしたら……許せない。
憎しみが生まれる。長い黒髪が無造作に波打ち、邪悪な霊気を吸い寄せる。
身に纏ってた衣が黒く染まっていく。苦しさはない。ただただ、愛する者を傷つけた存在が憎くて憎くて仕方が無かった。
とうとう全てが黒く染まり、閉じていた目を開けた。
修行をしていた時の数倍の力が漲っている気がする。やはり闇の力の威力は相当な物だ。
これを使えばいくら呪術一族の血を引く者でも倒せるだろう。
梓の心も脆く崩れ去っていた。
――桜さえ居なくなればきっと紫苑はこちらへと目を向けてくれるわ!
半開きになっていた襖を全開し梓、後の漆黒の姫は告げた。
「花嫁を迎えに行きましょう、紫苑」
後は計画通りに事を進めればいい。これも全て愛するが故の始末だ。許されるに決まっている。
「梓……」
家の縁側で桜は一人佇んでいた。
もうすぐ夏も終わり、秋がやって来る。そんな話をここでしたのが昔のように思えてくる。
誤解は解けたはずなのに、梓はあれから一度も修行に顔を出していない。
――私の思いは、届かなかったのかな?
全ては紫苑が自分を愛してしまった事から狂い出している。彼の想いさえ途切れれば元通りになれる筈なのだが。
まさか、拒絶したと言うのに諦めて居ないのだろうか。
「家にも帰っていないなんて、ほぼ許していないと言っても同じじゃない……」
「おい、桜」
どたばたと胡蝶が慌てて桜の元へとやって来る。
「何よ、私が滅入っているの知ってるでしょう」
「それが、梓と紫苑が話したいって来ているんだよ」
「……何ですって?」
気持ちの整理がついた、と言うことだろうか。すなわち、決別を言いに来たとも取れる。
何となく、結果が嫌な方向へと進みそうな気がして桜は少々躊躇っていた。だが、ここでぐずぐずしていても今と変わらない。
とりあえず会ってもう一度話してみよう。そうすればきっと分かり合える。
「心配要らないさ。俺がついてるから」
肩を支えてくれる胡蝶の存在に桜は安心感を抱いた。彼がそう言ってくれれば大丈夫な気がしてくる。
野外での修行で使われる森の中にぽっかりと空いた空間に二人は立っていた。
相対する様な位置につき、しばらくお互い何も言わずに沈黙していた。
一番最初に口を開いたのは紫苑だった。
「我らは今日、復縁をするために来たのではない」
口調が明らかに変わり果てて居た。それだけじゃない、二人とも様子がおかしい。
見るからにして邪悪な霊気を纏っているのだ。前までこんな霊気を持ってはいなかったはずだ。
恐怖を抱いて桜が一歩後ずさる。と、見えない壁に阻まれてぶつかった。どうやら結界を張られているらしい。
「我が望む事、それは桜をこの手にする事だ!」
黒い羽が何処からとも無く現れ、まるで木の葉が舞うように胡蝶を襲う。
「ぐうっ……」
風圧で息が出来ないのだろう。胡蝶が苦しそうな呻きを漏らす。
その様子を見た紫苑は笑う。その笑顔は完全に光を失い、狂気に狂っていた。
桜が胡蝶を助けようと呪符を出した時。
「そうはさせないわよ」
隣に立っていた木から枝が伸び、呪符を握っている右手首を縛り上げた。
痛さに片目を瞑りつつも、桜は梓を睨みつけた。
黒く塗られた唇、漆黒の衣。彼女の容姿そのものは黒が基調だったので全身が黒に染まった塊のように見える。
彼女もまた純粋さを失っていた。
変わり果てた二人の姿に桜はもう戻れない事を悟った。どんなに願おうとももうあの頃の二人は帰ってこないのだと。
「紫苑は貴方が愛する人が憎くて憎くてこうなったのよ。恨むのなら自分のしでかした事を恨みなさい!」
梓の爪が瞬時に伸び、桜の首元に当てられる。
依然苦しそうな呻きが聞こえる。胡蝶が苦しんでいるのに自分は何もしてあげられない。
はっと桜は思いついた。呪符を使わず、なおかつ手も足も使わずに呪術を使う方法を。
すうっとゆっくり息を吸う。焦っていたって何も変わらない。その言葉を思い出して。
桜は優しい声で歌い出した。彼女の声が森に響き渡る。
紫苑も梓も桜の予想外な行動に目を丸くして静止する。胡蝶も呼吸する事さえ忘れて彼女を見つめる。
決して歌詞など無く、ただ音が流れていくだけの歌。だが、これは……――
次の瞬間、紫苑の背後で炎の渦巻きが突如現れた。瞬時の出来事だったので反応が遅れる。
「この歌に誘われし炎神の使い達よ、敵を焼き尽くせ!」
服に燃え移り、紫苑の全身が業火に包まれる。続いて梓にも炎が迫り来る。
しかし梓は臨機応変に身体を動かして回避した。その代わり、桜の手首を縛っている木に火がまともにぶつかった。
瞬く間に木が燃え上がり、黒く焼けていく。桜の手首を縛り上げていた枝も拘束力を無くし、灰と散る。その好機を見逃すわけが無かった。
とっさに呪符を使い、呪文を唱える。
「風よ、渦となり彼の者を拘束せよ!」
風が巻き起こり、渦を作り出す。それが逃げ出した梓を逃がす事無く捕らえる。
それとほぼ同時にバンッと言う音がした。紫苑が気を集めて炎を弾き飛ばしたのだ。一方胡蝶は紫苑の呪術から脱出し、攻撃態勢に入っていた。
「胡蝶、傷つけては駄目!」
「そんな事、分かっているさ!」
反動で動けずにいる紫苑に呪符を貼り付ける。すると紫苑は石にでも化したかのように全く動かなくなった。
両方を捕獲したのはいいものの、これからどうすればいいのか対応に悩む。
「離せ!何故我を受け入れてくれない?何処が駄目なのだ!」
紫苑が叫ぶ。
「貴方は胡蝶を消そうとしたわね」
それは今までに無い、怒りの篭った声だった。紫苑も言葉を呑む。
幼馴染みである胡蝶でさえもここまで怒りを見せる桜は初めてだ。
「貴方は罪を犯した。それは私の大切な人を傷つけようとした事。そんな事をするような人では無いと思っていたのに」
腰にさしてある短剣を取り出し、その切っ先を紫苑に向ける。銀色に剣が光る。紫苑の表情が強張る。
梓が暴れ出す。
「桜!紫苑を殺したらこの私が呪い殺してやる!姿形が分からなくなるほどぼろぼろにしてやる!」
「私もそれ位に紫苑に怒っているのよ!」
桜が怒鳴る。梓が口を塞ぐ。
素早く桜が剣を引きつける。
「待て!桜!」
それは一瞬の出来事だった。
桜は紫苑目掛けて前へと短剣を突き出した。だが、そこには紫苑の姿など無かった。
と急に腕を掴まれ、地面へと押し当てられる。
「つっ……!」
目の前には紫苑の顔。
「退きやがれ!」
横から胡蝶が紫苑を蹴り飛ばす。手を差し伸べられて、迷わずその手を掴んで立ち上がる。
再び相対した双方は一緒に別々の呪術を発動させ、ぶつけ合う。
ドオンッ
砂煙が立つ。
「まだまだ!」
互いに傷つきあいながらもまた呪術を発動させ合い、ぶつけ合う。何回も、何回も。
どれくらいぶつけ合っただろうか。
両方とも衣服はあちこち破けたり、焦げたりしてぼろぼろになっていた。髪の毛も乱れてまるでやつれきった姿のようだ。
息遣いは荒く、そろそろ限界が近づいてきている。
――こうなったのは、確かに全部私のせいよね……
脳裏に蘇るのはだいぶ昔に父から教わった事。確か胡蝶も一緒に居たはずだ。
父は二人を見据えてこう言った。
「代々紅花家と紺水家は協力し合って栄えてきた。実はそこにとんでもない秘術が隠されているのだ」
「とんでもない秘術?」
「封印術、なのだがこれはお互いが協力し合って使う呪術だ。どちらかが媒体となり、もう一方が呪術を発動させる。それによって強大な魔の力を封印する事が出来るのだ。しかし……」
言葉が途切れたが、父は静かに言った。
「媒体となった者は全ての力を使い果たして、死ぬ」
お互い見合って青ざめていた。
どちらかが死ぬ。その呪術は最後の術として頭の隅に一応置いておけと父が教えてくれた事。
封印なら殺さずに済む。その代わり、こちら側の犠牲が必要になってしまう。
胡蝶を犠牲にする?そんな事、出来るわけが無い。愛しているからこそ、彼だけは死なせる訳にはいかない。
ならば……――。
「胡蝶」
ゆっくり告げる。
「最後の手を使いましょう」
何の事かすぐに胡蝶は思い出した。直ちに首を振る。
「駄目だ。それを使ったら……」
「私は大丈夫。時には犠牲も必要でしょう?私はこの命を捧げてでもこの世界も貴方も守りたいの。だから、お願い」
もしここで彼らを逃がせばあの邪悪な力が災いを呼ぶ事は目に見えている。それくらいの正しい判断は彼にだって出来るはずだ。
「……もう、どうしようもないんだな。桜の考えは俺では変えられないんだな」
こくりと静かに頷く。彼らが何事かとたじろく。
恐る恐る胡蝶は桜の胸の辺りに印を描く。するとその印が光り始め、彼女の身体が浮上する。
次の瞬間、凄まじい光の光線が紫苑と梓を襲っていた。
この時、桜には全く何も見えなかった。ただ聞こえていたのは紫苑の呻きと梓の悲痛な叫びだけだ。
紫苑は封印され、梓は何とか逃れて姿を消した。
対象を失った光はみるみる小さくなり、やがて消え失せた。
術が消えた今、桜は身体のだるさに苦しんでいた。意識を保てるのもあと僅かだ。意識を失う事、それは死へと繋がっている。
「桜!」
胡蝶が駆け寄る。彼は今にも泣き出しそうな顔をしていた。きっと今の自分は今にも消えてしまいそうな表情をしているのだろう。
「桜!しっかりしろ!紫苑は封印出来たぞ!漆黒の姫は逃してしまったけど、これであんな強大な術を使えないだろう」
「……胡蝶、私はもっと、もっと貴方と……一緒に、居たかった」
自分でも震えていると分かるような声で言った。
「何言ってるんだ。いつだって一緒だ。あの約束は例え来世になっても果たして見せるさ。絶対な」
「あの約束……私達が、結ばれる……誓いの事?」
ようやく愛し合えた二人は密かに結婚の誓いをしていた。親にばれたらどうなるか承知の上で。
とうとう胡蝶の瞳から涙が零れ落ちる。
「約束……よ」
これならきっと必ず神が再び巡り合わせてくれるだろう。
安心感と共に真っ黒な世界へと意識が落ちていく。虚ろな目がゆっくり閉じていく。
力なく腕が地面に落ちた。
全ての時が止まったかのような衝撃だった。
「桜……?」
彼女の身体を揺すっても彼女は起きない。既に息が止まってしまっている。
もう何をしても彼女は戻ってこない。
いくら誓いを立てて来世で会えるとしても、こうやって残されるのはあまりにも残酷だ。残酷すぎる。
封印され、動かない紫苑を睨みつけながら胡蝶はありったけの声で空に絶叫した。
平凡で、穏やかだった日々。
あれから全てが崩れ落ち、何もかもが壊れた。桜は関係性も、命も失った。
そしてまた、生まれ変わりである杏と彰にその責任を背負わせようとしている。
――本当に私って最低ね
自嘲的な笑みを微かに浮かべる。
梓は現在漆黒の姫と名乗り、紫苑を目覚めさせようと力ある者の血を集めている。
彼女がこうする事は予想出来ていた。愛する人が封印されているならばだれだってその封印を解きたいに決まっている。
――人の想い人を封印し、そして元親友にとどめを刺そうと思っているなんて皮肉だわ
茶器に入った茶が鏡のように景色を映し出す。そう、今は秋。月が綺麗だ。
この月のように美しかったあの日々。
決して忘れはしない。まだ光であった梓の事も、紫苑の事も。
一人静かに桜は戻らぬ木漏れ日の日々に酔いしれていた。
ここで今一度予告(宣伝かよ)
もう一作この黄昏の誓いの短編を公開する予定です。しかし作者の都合により、かなりの時間がかかりそうな事だけご了承頂きます様、宜しくお願いします。