第八話
正義とはなにか。十四歳でホークバレー騎士団に配属されたハロルドは、今日に至るまでずっと自分に問い続けてきた。
法律を守り、それに従うことだろうか。悪を倒し、弱い者を助けることだろうか。答えはいまだ出ていない。ただひとつ言えることは、完璧な正義を実行することは不可能であり、自分にできることは限られているということだけだ。
パンを買うために代金を支払わなければならないように、なにかを得るには代償が必要だ。盗賊を捕らえるためにジェマの夢や善意を利用したことも、多くの市民を救う為にオビを犠牲にすることも、正義を貫くために必要な代償だと彼は信じていた。
辺りを激しい光が包み込み、オビと怪物の姿が掻き消える。轟音が空気を震わせ、砕けた石畳の破片が舞い上がり、雨のように降り注ぐ。土埃と煙が風によって徐々に晴れ、焦げ臭い煙が埃と共に流れていく。
ハロルドは目を疑った。落雷をまともに受けたはずのオビが、何事もなかったかのようにそこに立っていたのだ。
オビは水から上がった犬のように頭をぷるぷると振り、自分を攻撃した人間に視線を向ける。ハロルドの体には攻撃に回せる魔力は残っていない。オビの眼差しに気圧され、ハロルドは無意識に一歩後退っていた。
オビはハロルドの隣で膝をついていたジェマの姿を見止めると、ぱあっと明るく笑って手を振り、能天気な声をあげる。
「ジェマー! オビがやっつけたよー!」
飛び跳ねるオビの足元には、白い毛並みの獣人が倒れていた。オビが言っていたように、その獣人は確かにウィーゼルだった。息はあるようだが、立ち上がってくる様子はない。
「ああ、びっくりしたあ」
不意に聞こえた声に、ハロルドはびくっと肩をすくませる。声のほうを見ると、ジェマが安堵の混じった苦笑をハロルドに向けていた。
「脅かさないでくださいよ。本気でオビのことやっつけちゃうのかと思ったじゃないですか」
「いや……ああ、そうか」
本当はそのつもりだった、などと言うわけにもいかず、ハロルドは曖昧な返事をする。
こちらに駆け寄って来るオビを見て、ハロルドの体に緊張が走る。オビはハロルドを無視してジェマに駆け寄り、頭を撫でられてゴロゴロ喉を鳴らす。ハロルドは抜きかけたレイピアを収め、恐る恐る歩み寄る。
「貴様、なんともないのか」
ハロルドに声をかけられたオビは、ぷいっとそっぽを向いた。ジェマが代わりに答える。
「大丈夫、みたいですね。呪いの影響が無いか、一応検査を受けさせて来ますね」
「……ああ、そうだな。そうしてくれ」
ジェマがオビを連れて医務室へ向かったのを見届けた後、ハロルドは部下を呼び、ウィーゼルを運ぶよう指示を出した。怪物化は解けているので、もう危険は無いはずだ。現場を部下に任せ、ハロルドは襲撃事件の収束を報告するべく団長のもとへ向かう。
炎上したのは兵舎の居住棟とその周辺であり、留置所の壁にも爪痕などの攻撃の痕跡はあったものの、他の施設に被害は無かった。
ハロルドは中庭を抜け、団長室のある塔へと向かう。塔は三階建てで、一階は一般市民にも開放されている図書館、二階は会議室になっている。らせん状の階段を上った最上階に、その部屋はあった。
階段を上ってすぐにある鉄製の扉をノックすると、扉はひとりでに開いた。ひとりでに、というのは語弊があるが、正確には中に居る人物による仕掛けである。
扉は特注の魔法扉に団長が手を加えたもので、魔力の波長を感知して開閉する仕組みになっていた。
就寝中を除き、部屋の主が中に居るときは訪問者に反応して開くが、主が留守のときは決して開かないという仕組みになっている。団長室には機密書類や命令書が保管されているので、よからぬ輩の侵入を防ぐための用心である。
扉が開いたので、部屋の主は在室のはずなのだが、定位置であるはずの事務机に団長の姿は見えない。
「七番隊隊長、ハロルド・リースであります。事態収束の報告にあがりました」
「ああ、すまない。今手が放せないんだ。中に入ってかけていてくれないか」
部屋の奥から声が飛んで来る。ハロルドは「失礼します」と言って部屋に入り、書類の積み上がった机のそばで待機する。
来客用の革製のソファはすでに煤にまみれたマントと剣に占領され、椅子には何故か鉢植えが乗っていた。団長の椅子に座るわけにはいかないので、ハロルドは立ったまま待つことにした。
物音が聞こえる位置から推測するに、団長は奥の給湯室に居るらしい。今日はいつもの紅茶のにおいとは違い、花や果物に似た甘く爽やかな香りが漂っていた。
しばらく待っていると、ゆったりとしたローブを着た黒髪の男性が、湯気を立てるマグカップを二つ持って調理室から出て来た。彼こそがホークバレー騎士団の団長である。
「あっ、ごめんね! ソファ埋まっちゃってたね」団長は机の上の書類を押し退けてマグカップを置き、汚れたマントと剣をどかす。「私もさっき戻って来たところなんだ。怪我人の状況を確認しててね」
「団長自ら現場に赴いたのですか?」
「隊長クラスの騎士団員もほとんどやられてたからね。無事だったのは地下の研究室に居た三番隊の隊長と、君くらいだよ」
言いながら、団長は机の上のマグカップを手に取り、一口すする。
「それはそうと、最近ハーブティーに凝っていてね。君もどう? 疲れが取れるよ」
机に置かれていたもう一つのマグカップが目の前に差し出される。
「その前に、報告を」ハロルドは淡々と言い、団長は肩をすくめてカップを机に戻す。ハロルドは襲撃事件の一部始終と被害の状況を告げ、襲撃者を捕らえたことを伝えた。
「夜中に呼び出されて大変だったね、ご苦労様。襲撃者から兵舎を襲った動機は聞けたのか?」
「いえ。ですが、心当たりはあります。恐らく、かつての仲間の裏切りに対する復讐かと」
「君が昨日言っていた、オビという獣人のことだね?」
ハロルドはうなずく。オビのことは、盗賊の件と絡めてすでに報告していた。ジェマの話も役人を通して伝わっているはずだ。
「彼にとっては、文字通り飼い犬に手を噛まれたようなものだからね」
「そのオビという獣人なのですが……襲撃者と交戦した際、何度も攻撃を受けていたのですが、こたえた様子はありませんでした。混血種にしても、あの頑丈さは異常です。奴の調査を要求します」
団長は「ふむ……」と唸って腕を組み、呟くように言った。
「ドラゴン……か」
「ドラゴン?」ハロルドは眉をひそめる。「『救世の英雄』で語られている、あのドラゴンですか?」
「……いや、まさかな。冗談だよ」団長はそう言って肩をすくめ、おどけたような仕草を見せる。
「冗談……」
「ドラゴンはあくまで想像上の生き物だよ」懐疑的なハロルドの視線を受け、団長は取り繕うようにそう言った。「ともかく、彼が人々に危害を加える存在かどうかはわからないが、念の為調べてもらうよう、私から言っておくよ」
「……よろしくお願いします」ハロルドはおぼろげな返事をする。
「さて、君への指示だが……まずは休息を取りなさい。昨日から働きづめじゃないか」
「え? いえ、休息なら充分に……」
「ハロルド君」団長はハロルドの言葉を遮る。「君はいつもよく働いてくれるし、今回だって、襲撃者を捕らえ、町を救ってくれた。君の迅速な行動と勇気が皆を守ったんだ。それで充分だろう」
「しかし……」立ちっぱなしだったせいだろう。立ち眩みがして、ハロルドは一瞬声を詰まらせる。「騎士団の兵舎が襲われたことで、住民は不安がっています。悠長に休んでいるわけには……」
「休むことも仕事のうちだよ。団長の命令が聞けないのかい?」
団長の口調は柔らかく、冗談めいていたが、ハロルドはびくっと体を強張らせた。
「……申し訳ありません。出すぎた真似を」
「いや、そういうことじゃなくてね……」団長はうーんと唸り、しばらく間を置いてから静かに問いかける。「君は……あれだろ? 盗賊を取り逃したことについて負い目を感じているんだろ?」
ハロルドは無言でうなずいた。ウィーゼルの挑発に乗せられ、取り乱してしまったことについて、ハロルドはずっと悩んでいたのだ。自分がウィーゼルを逃がさなければ、今回の襲撃も起こらなかったはずだと。
「わかった。君が責任を取りたいと言うのなら、挽回の機会を与えよう」
うつむくハロルドに団長は溜息混じりにそう言って、続ける。
「そのウィーゼルという盗賊の意識が戻り次第、彼に呪いをもたらした魔術師について聞き出してほしい。もちろん、明日以降で構わない。今日のところは家に帰って、体力と魔力の回復に努めること。いいね」
「承知しました」ほっとしたハロルドは、ジェマのことをふと思い出す。「そういえば、今朝の入団試験はどうなるのでしょうか。この騒ぎでは、試験どころではないのでは」
「それは問題無い。審査は私と、数名の幹部で行うことになっている。今頃幹部たちは鷹地区でトーストをかじってる頃だろうし、会場となる中庭も被害が無いから、試験に差し障ることはないよ」
「そうですか……よかった」
「ベリーコイドから来たっていうあの女の子、気になるかい?」
「いえ。ただ、ここに来て試験を受けられないのは酷だと思ったまでです。兵舎が襲われた要因の一端は、自分の過失でもありますし……」
「まあ、試験を受けられても、簡単に合格させてあげる気は無いけどね」
団長は窓の外を見やり、ハーブティに口を付ける。「うーん、なんか物足りないな。蜂蜜でも入れてみようかな」などと独り言を呟く団長に、ハロルドは訝しげな目を向ける。
「どういうことです?」
「果物のにおいがするのに甘くないのって変じゃない? どう思う?」
「そっちじゃなくて、その前です」
「あ、そう」団長はやや残念そうに唇を尖らせ、話を戻す。「騎士団は基本的に男所帯だから、女の子への風当たりは厳しい。入団するからには、皆を納得させる実力が無いといけない。君も承知してるだろう?」
「ええ、まあ」
民間の騎士団は家柄による制限が無い代わりに、高い実力を要求される。街周辺の集落から山賊退治の依頼が来ることも多いため、即戦力となる人材が求められるのだ。
「大丈夫だよ」ハロルドの表情が曇ったのを見て、団長は柔らかく微笑んでみせる。「ベリーコイドは私の故郷でもある。同郷の彼女に意地悪なんかしないよ」
ハロルドが部屋を出る間際、団長は彼を呼び止め、ウィーゼルに会いに行く前に自分のところへ来るようにと言った。渡したい物があるという。今受け取るのではいけないのかと問えば、まだ準備ができていないのだと団長は言った。
「承知しました。後ほどうかがいます。では、自分はこれで」ハロルドは一礼し、改めて団長室を後にしようとする。
「あー、ちょっと待って」団長は机に放置されたカップを指差し、苦笑いしながら言った。「せっかく淹れたんだし、飲んでかない? これ」