第七話
怪物の断末魔がホークバレーの町に響く。獣の目から赤い輝きが消え、その巨体が石畳に倒れ込む。ジェマは荒い呼吸を繰り返しながら、怪物の胸に刺さった剣を引き抜いた。その瞬間、怪物の傷口から赤黒い液体が噴き出し、ジェマの体に降りかかる。
ジェマの意識は暗闇に取り込まれ、やがて目の前に記憶に無い光景が浮かぶ。
どこかの森林地帯。その一部で火の手があがる。炎は一瞬にして燃え上がり、漆黒の夜空を赤く染め、全てを焼き尽くさんと暴れ狂う。炎の中を逃げ惑う人々。助けを求める悲鳴。彼らを救う者は居ない。ジェマはその光景を、上空から見下ろしていた。
「……マ……! ジェマ! しっかりしろ! 聞こえるか!」
呼びかける声と肩を揺さ振られる感覚で、ジェマの意識は現実に引き戻される。
「えっ、あ、あれ……? ハロルド……?」
ジェマの肩を揺さ振っていたのはハロルドだった。ジェマがぼんやりしつつも返事をすると、彼女の顔を覗き込んでいた彼は安堵の溜息を吐いた。
「意識はあるようだな。体に違和感は無いか? どこか具合が悪いところは?」
「いえ、特には……」切羽詰った彼の様子に戸惑いつつ、ジェマは答える。「あ、ごめんなさい。上着汚れちゃって……」
ハロルドに借りていた上着は、怪物の体液によって真っ黒に染まっていた。ジェマはそのことを詫びるが、ハロルドは気にするなと言うように首を振る。
「……すまない、僕の判断ミスだ。まさかあの化物が呪いを放つとは」ハロルドは苦々しげに声を絞り出す。
「の、呪い?」
訊き返したジェマの声は裏返っていた。ハロルドは「ああ」と言ってうなずく。
「黒魔術の一種で、生き物を怪物に変える禁忌の魔法だ。噛まれたり血を浴びることで感染し、甚大な被害をもたらすといわれている。とっくに滅びた魔術だと聞いていたが……」
「えっ……それって下手したら、私も怪物にされるところだったってことですか……?」
倒れている怪物を見て、ジェマはごくりと唾を飲む。
「今変化が起きているわけではないから、心配しなくていい。だが、念の為検査を受けておいたほうがいいだろう。医務室はあっちだ」
ジェマはハロルドが示した場所へ向かおうとするが、ふと足を止めて振り返る。
「一緒に行かないんですか?」
ハロルドの体はボロボロだった。痛そうな素振りは見せないものの、強打した右肩は不自然にぶら下がり、歩く動作もぎこちない。
「じきに野次馬が集まり出す。その前に怪物の死体を片付けなくてはいけない」
「でも、その怪我じゃ……」
「心配無い。痛覚は麻痺させてある」ハロルドはうっとおしげな表情をジェマに向ける。「左腕が使えれば充分だ」
「ダメですよ! 無理して怪我が悪くなったらどうするんですか!」
「僕の体はそんなにやわじゃない。おい、引っ張るな」
ジェマはハロルドを引っ張って医務室に向かう。
ハロルドとジェマが怪物を引き付けている間に、医務室に詰めかけていた怪我人は粗方はけていた。検査は数分で終わり、呪いによる影響は無いという結果を聞いたジェマは胸を撫で下ろす。
医療班による治癒魔法でハロルドの怪我も治癒された。骨が折れてもすぐに治せるのだから、魔法というものは便利なものである。
騎士団員の懸命な消火活動によって火の勢いも弱まり、明けはじめた空に白い煙が昇るのみとなった。
怪物の死体の周りには早くも人だかりができていたが、ハロルドが一喝すると蜘蛛の子を散らすように去っていった。遠巻きにこちらを見ている群衆を尻目に、ハロルドは怪物の死体を調べるべくしゃがみ込む。
「なにかわかりましたか?」
「いや。魔術の印や媒体でも見付かるかと思ったが、なにもないな。やはり専門の機関に回して調べてもらうしか……」
そのとき、ジェマは怪物の指先がわずかに動くのを見た。彼女は叫ぶ。
「危ない、離れて! その怪物、まだ息があります!」
「なんだと?」
ほとんど虫の息だが、怪物はまだ生きていた。ジェマが突き刺した胸の傷が徐々に塞がり、禿げた傷口から新しい毛が生え始める。
ハロルドが刃を抜くのを、ジェマは咄嗟に止めた。
「なにをする! 放っておけばこいつはまた……」
「ダメです! また呪いを放つかもしれない! 私はたまたま大丈夫でしたけど、あなたは……」
ハロルドは舌打ちをする。怯える群衆が、怪物を殺せと叫ぶ。
そいつを殺せ。早く殺してくれ。俺たちを守るのが騎士の仕事だろ。俺たちを助けてくれ。
「うるさい! 黙っていろ!」
ジェマは自分に言われたのかと思い、思わずハロルドの手を離す。
「貴様ら、なにをしている! 市民を避難させろ! 急げ!」
ハロルドは周囲に居る騎士団員に指示を飛ばし、レイピアを引き抜く。野次馬たちは騎士に誘導され、あっという間に居なくなった。
怪物の目が開く。ジェマとハロルドは怪物から離れ、攻撃に備えて身構える。
怪物の口が動き、ノイズの混じったざらざらした音を発する。くぐもっていて聞き取り辛いが、なにか言っているようだ。
「ココハ……ドコダ……」
言葉のようなものがかろうじて聞き取れた。ジェマは眉をひそめる。
「喋った……?」
体を起こし、きょろきょろと辺りを見ている怪物からは、敵意のようなものは感じなかった。
「剣を構えろ。まだ安全とは言えない」怪物から目を離さず、ハロルドはレイピアを構える。
怪物はいっこうに襲ってくる気配はない。目の前に居る小さな生き物を不思議そうに眺めているだけだ。
「ハロルド」ジェマは小声でたずねる。「私は魔術に疎いのでわからないんですが……彼から魔力とか呪いとか、そういったものの気配は感じますか?」
「……いや」怪物を観察して、ハロルドは首を振る。「呪いの力は、貴様に放ったときに消費したようだな。わずかに感じるが、今は落ち着いている。魔力はほとんど感じない。隠している様子でもない」
「そうですか……」
ジェマは剣を収め、ハロルドにもそうするよう言った。無闇に刺激して相手を怖がらせてしまっては、また暴れ出すかもしれない。ハロルドは渋々ながらジェマの提案を飲んだ。
「なにか策があるのか? このまま睨み合っていても埒があかないぞ」
「えと、上手くいくかわからないんですけど……言葉は通じるみたいなので、彼の話を聞いてみたいと思います。もしかしたら、彼を怪物にした犯人もわかるかもしれないし」
「……わかった。いいだろう」
ハロルドは静かにそう言って、数歩後退する。険しい顔で見守る彼に笑顔を見せ、ジェマは獣に向き直る。
「あなたが暴れなければ、私たちは攻撃しません。話を聞かせてもらえませんか?」ジェマは穏やかな口調で語りかける。
獣は訝しげに目を細め、ジェマを見た。ふんふんと鼻を鳴らしている様子は、においを確かめているように見える。
「オマエタチニ用ハ……ナイ。アイツハ……ドコダ……」
「あいつ? あいつって誰……」
獣はジェマの言葉を遮って低く唸り、牙をむく。四つ足で立ち上がった獣の周囲に、黒いもやのようなものが立ちのぼるのが見えた。
ハロルドの手がジェマの腕をぐいと引き寄せる。その瞬間、獣の口が赤く光り、同時に爆音が辺りに轟いた。爆風に煽られ、ジェマとハロルドは兵舎の方へと吹き飛ばされる。体のあちこちを擦り剥いたものの、ハロルドの機転で直撃は免れたので、たいした怪我は無い。二人はすぐに体を起こす。
「あ、ありがとうございます……」
「気をつけろ。呪いの気配がまた高まっている。来るぞ!」
獣は咆哮をあげ、ジェマとハロルドに向かって突進する。長い手足でその巨体を支え、馬よりも遥かに速い速度で向かってくる。
ジェマとハロルドの後ろから、なにかが飛び出した。焼け崩れた兵舎の柱を伝い、獣に向かって飛びかかったのは、一匹の獣人。留置所に預けられていたはずのオビだった。
オビは空中で息を吸い、吠えた。雷鳴のような轟音が獣を襲う。
ビリビリと空気が震え、さすがの獣もその咆哮にたじろぐ。オビは獣の前に立ちはだかるように着地し、自分よりはるかに巨大な相手に怯むことなく、四つ足の姿勢で唸る。
「オビ! なんで君が……!」勇ましくしっぽを立てる後姿に向かって、ジェマは問う。
「ジェマを助けに来たに決まってるよ。おじさんに外に出ちゃダメって言われたけど、オビがガオッってやったら出してくれたよ」オビは振り返り、誇らしげに鼻を鳴らす。
「脅して逃げて来たのか……」ジェマは頭を抱える。処分の猶予を頼んだ手前、役人には気の毒なことをしてしまった。
獣が吠え、オビも獣に向き直って吠え返す。
「またジェマをいじめてるな! 今度こそぶっ殺してやる!」
「ち、ちょっと待って、オビ!」ジェマはオビが吐いた物騒な言葉に驚きつつ、たずねる。「君にはわかるの? あいつの正体が」
「あいつはウィーゼルだよ」なんでもないふうにオビは答える。「ずいぶん大きくなったけど、あいつはウィーゼルだよ。あんな嫌な奴のにおいを間違えるわけないよ」
「ウィーゼルだと?」今度はハロルドが声をあげる。「どういうことだ? なぜあいつが戻って……」
「あーもう! 喋ってる暇ないんだよ! 下がってて!」
苛立たしげにオビはそう言って、獣に向かって飛びかかっていった。獣の傷は完全に癒えていたが、ジェマとハロルドとの戦闘を経て疲労が溜まっているようだ。オビのほうが若干優勢に見える。
だが圧倒的というわけにもいかず、怒り狂う獣が振るった爪にオビは弾き飛ばされ、地面に激突した。オビの周りに窪みができるが、オビはすぐに立ち上がって獣に向かっていく。
「あいつは、何者なんだ……?」
勇猛に戦うオビに釘付けになりながら、ハロルドが呟く。気のせいか、声が震えているように聞こえた。
「なにが、ですか?」オビを見守っていたジェマはハロルドに視線を向ける。
「あのオビとかいう獣人のことだ。混血種は頑丈だといわれているが、あれはいくらなんでも常軌を逸している……」
オビは何度も地面に叩きつけられているが、こたえている様子はない。痛みは感じているようで、時折「ぎゃんっ」と悲鳴をあげているものの、猛然と飛びかかる勢いは鈍らない。
遂に獣が膝をついた。トドメとばかりにオビは獣の首にかじりつく。その傷口から黒い液体が滲み出す。
「オビ! 離れて!」ジェマはハロルドが言っていた呪いの存在を思い出し、叫んだ。
獣の傷口から液体が溢れ出す。オビはそのにおいに驚いて口を離すが、彼の体には呪いを帯びた体液がべったりと付着していた。
「うわっ、くさっ! なにこれー!」
「オビ!」
駆け寄ろうとしたジェマをハロルドが止める。
「ダメだ、近付くな! 奴も怪物になるぞ!」
「そんな……!」
「完全に変わる前に始末しなければならない。見たくなければ目を瞑っていろ」
「や、やめてください! まだ治す方法が……!」
ジェマの言葉を振り切って、ハロルドは雷撃を放つ。対象を拘束するためのものではなく、敵を穿つための光の大槌である。
眩い閃光を放ち、稲妻がオビに襲い掛かる。
オビの名を呼ぶジェマの悲痛な叫びが、響いた。