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第六話

 平民街から教会を挟んだ向かい側に、『鷹地区』と呼ばれる高級住宅地がある。ホークバレーの市長をはじめ、比較的裕福な住民が暮らす地区だ。平民街を見下ろすような形で市長の家の屋根に鎮座する一対の鷹の彫像が、この地区の呼び名の由来となっている。


 裕福な住民が暮らす地区だけあって、煌びやかな宝石店や服飾店、高級ワインの専門店などが充実しており、通りには魔石を組み込んだ街灯が設置されていた。照明といえば松明や蝋燭くらいしか馴染みの無いジェマにとっては、正に別世界のような光景だった。


 ハロルドの家は、道中の煌びやかさとは対照的だった。


 二階建ての家は一人暮らしには広すぎる規模だったが、屋敷と呼ぶには小さい。ハーブや観賞用の花が植えられた小さな庭付きの、都市においては一般的な住宅である。


 外装にも屋内にもけばけばしい装飾品の類は一切無く、本棚や暖炉、食卓机とその周りに置かれた椅子など、最低限の家具が置かれているのみだ。床に敷かれた絨毯も、セルペニアに広く出回っているバックロック産の毛織物だった。室内の照明は主に蝋燭で、落ち着きある暖色系の明かりが心を和ませる。


 家の中には家主であるハロルドの他に、少年が一人居た。少年の名前はパットといい、ジェマより二つ年下で、使用人として住み込みで働いているという。


 ハロルドが二階の自室で着替えている間、ジェマは使用人の少年に案内されて入浴を済ませ、食卓に通された。パットは無口な性格なのか、そそくさと厨房に戻って夕食の仕度に取りかかる。蝋燭の穏やかな明かりが眠気を誘う。


 ジェマはいつの間にかうとうとと舟を漕いでいた。軽快な包丁の音が微かに聞こえる。パンが焼けるにおいと、野菜が煮込まれるいいにおいが鼻をくすぐる。


「おい起きろ。食事の用意ができたぞ」


 ハロルドの声が聞こえ、ジェマは飛び起きる。目の前には香ばしいパンと、裏ごししたじゃがいものスープ、ソーセージとチーズの盛り合わせが並んでいた。


「あっ、す、すみません……! つい寝ちゃって……」


「構わん。冷めないうちに食べろ」呆れたようにそう言って、ハロルドはジェマの向かい側の席に座る。


「……いただきます」


 ジェマは小さくそう言って、スープに手を付ける。音を立てないよう慎重に。とろみのある液体は熱すぎず、冷めすぎてもいない。とろとろに煮込まれたタマネギとじゃがいもの甘みが口に広がり、喉を降りていく。


「入団試験のことだが、盗賊の件を団長に報告するついでに話をしておいた。試験は明朝行われるそうだ」しばらく無言で食事を続けていたハロルドが、思い出したように口を開く。「パットに寝床の準備をさせておいた。食事が済んだら休め」


「ありがとうございます。あの……」


「なんだ」


「今日は、いろいろとご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」


「ふん」食事を終えたハロルドは席を立ち、ジェマを見下ろす。「騎士は名誉を重んじるものだ。貴様も騎士を志すならば、軽々しく謝るんじゃない」


「……はい」


 ハロルドの目付きは険しい。ジェマは叱られた仔犬みたいに縮こまる。


「また謝ろうとしたろう」ハロルドの顔に苛立ちが浮かぶ。


「すみま……あっ」


 慌てて口を押さえたジェマを一瞥し、ハロルドは無言で寝室へ向かう。食事を共にする相手が居なくなり、ジェマは冷めてしまったスープを口に運んだ。



 話し声が聞こえたような気がした。


 うっすらと目を開くと、朝焼けが空を染めているのが見えた。部屋の外から聞こえてくる声はハロルドのものだ。ジェマは眠い目を擦りながら重い体をゆっくりと起こし、伸びと共に深呼吸する。


 微かに焦げ臭いにおいがして、ジェマは眉をしかめる。


 もう一度窓の外を見て、ジェマの眠気は吹き飛んだ。紺色の空を照らす赤い光は朝日ではない。火事だ。騎士団の施設が建っている辺りで、火の粉と煙が上がっているのが見える。


 慌しい足音が聞こえ、寝室の扉が開かれる。


「起きていたか。貴様も来い。すぐにだ」


 緊張を含んだ声でハロルドは言う。彼は私服の上に白い制服を羽織り、鞘に収まったレイピアを帯に差していた。


「な、なにがあったんですか? これは……」


 ハロルドは寝癖のついた髪を手ぐしで直しながら、苛立たしげに答える。


「騎士団の施設が何者かに襲われ、火災が発生した。騎士団員に負傷者が出て人手が足りない。貴様も協力しろ」


「ま、待ってください。協力しろって言われても、なにをすれば……」


「炎の魔法を使っていたろう。どの程度操れる?」


「使えますけど、かまどの火加減を調節するくらいで……」


 ジェマが遠慮がちに答えると、ハロルドは一瞬眉間を押さえ、改めて顔を上げた。


「……まあいい。とにかく来い」


 ハロルドの指示により、ジェマは衣装棚の中にあった上着を羽織る。本来は防寒具だが、耐熱性の繊維を使っているため火にも強いという。同じ素材の手袋も着用し、装備を整えたジェマはハロルドと共に現場に向かう。


「あの、負傷者の中に獣人は?」走るハロルドの後を追いながら、ジェマは訊ねる。


「留置所に預けていた獣人のことか? いや、聞いてないな」


「そう、ですか……」


「留置所は脱獄を防ぐために丈夫な造りになっている。大砲でも撃ち込まれない限りは、下手に外に出るより安全だ。心配するな」


 現場に近付くにつれ、野次馬の数も増えていく。彼らは不安と好奇心が混じった目で、赤く染まった空を眺めていた。屋根に上って見物している者も居る。人手不足で駆り出された非番の騎士団員たちが、ひしめく野次馬に怒声を飛ばしていた。混乱する群衆に向け、ハロルドが一喝する。


「ホークバレー騎士団七番隊隊長、ハロルド・リースだ。道を開けろ」


 白い制服を目にした民衆は「おおっ」と歓声を上げ、英雄のための花道を作り上げる。ハロルド・リースを称える声援が響く中、ジェマは身を縮こまらせながら彼の後に続く。階段を駆け上がり、騎士団の敷地へと続くアーチ状の門を潜る。


 三階建ての兵舎の周りに、ローブを身に付けた騎士団員が隊列を組んでいるのが見えた。彼らは冷気の魔法を用いて消火活動に当たっていた。激しい水蒸気が発生するものの、鎮火にはまだ時間がかかりそうだ。


「団長は無事か?」ハロルドは負傷者の救助活動に当たっていた騎士団員にたずねる。


「ハロルド隊長! はい、今のところは三番隊の魔術師たちが炎を抑えていますので、兵舎以外には被害は出ていません。ただ、火の勢いが強すぎて……」


 深夜に突然爆発が起き、兵舎で火の手があがったのだ、と彼は語った。彼は夜の見回りに出ていて被害を免れたが、就寝中だった騎士団員の多くが逃げ遅れ、負傷したという。


 煙を吸って動けなくなった者が六名、瓦礫の落下による負傷者が七名、軽い火傷や酸欠などの軽症が十六名。重傷者は運び出され、医療班の治療を受けているという。


 焼け崩れた建物の残骸が至るところに散乱しているが、兵舎の中に居た者は全員脱出し、死者は出ていないようだ。


 ハロルドに協力しろと言われてついて来たものの、ジェマはどうしたらいいかわからず立ち尽くしていた。炎が渦巻く音、負傷者の呻き声、慌しい足音と怒声……まるで戦場だ。圧倒され、怖気付き、体が無意識に後退する。


「襲撃者の姿は見たのか?」ハロルドは冷静に質問を続ける。


「いえ、自分はそれらしき人物は見ていません。現場に居た者の話によれば、『火を吐く獣に襲われた』と」


「火を吐く獣だと?」


「酷く混乱していた様子でしたので、なにかを見間違えたのでしょう。おそらく、ならず者の魔術師の仕業かと……」


 悲鳴のようなどよめきがあがった。野次馬の中からである。ハロルドはすぐにそちらに向かい、ジェマも後を追いかける。


「なにかいるぞ!」「怪物だ!」人々は口々に喚き、門の上を指差していた。


 そこには奇妙な獣がうずくまっていた。熊よりもふた回りほど大きく、長い顔は狼に似ている。白い体毛が炎によって煌き、ふたつの赤い目が、怯え惑う群衆を見下ろしていた。


「下がれ!」


 ハロルドは群衆の前に躍り出ると、獣に向かって手をかざした。彼の手が青白い光を帯び、稲妻が放たれる。獣は跳躍して雷撃をかわす。閃光が弾け、門の一部が抉られた。


 ハロルドは追撃するが、獣を捉えることはできない。獣はハロルドを見下ろし、耳まで裂けた口を開く。牙を見せ付けるその表情は、笑っているようにも見える。


「くそっ、速い……!」


 獣は一際高く跳躍すると、ハロルドの目の前に降り立った。獣の鼻息で、ハロルドの髪と制服がなびく。


 野次馬は悲鳴をあげながら我先にと逃げ出した。追いたてるのを楽しむかのように獣が吠える。大気が、地面が、びりびりと震える。獣の吐息は炎となり、辺りを赤々と照らし出す。幻術の類ではない。触れたものを焼き尽くす熱を帯びた、正真正銘の火炎である。


 獣は後ろ足で立ち上がり、ハロルドを見下ろす。直立した獣の全長はハロルドの身長の三倍はあった。ハロルドは後退しかけるが、踏みとどまり、レイピアを抜いた。その刀身が青白い光をまとう。


 ジェマもハロルドに倣い剣を抜くが、腰が引けて不恰好な構えにしかならない。真っ赤に燃える双眸がジェマを見た。膝が笑う。腰が抜けないよう踏ん張るだけで精一杯だ。怪物が爪を振り上げるのが見えた。目の前に迫る巨大な鉤爪。ジェマの両足は、地面に縫い付けられたかのように動かない。


「どけ!」


 衝撃と浮遊感。ハロルドの白い背中。地面に倒れ、ハロルドに突き飛ばされたのだと気付いた瞬間、凶暴な鉤爪が彼の体を弾き飛ばすのが見えた。


「ハロルド!」


 ジェマは叫ぶ。ハロルドの体が門に激突し、崩れた瓦礫が降り注ぐ。もうもうと立ち込める土埃で、ハロルドの姿が見えなくなる。


 ジェマは顔を覆い、膝を付く。勝ち誇るかのような獣の咆哮。人々の怒声、悲鳴。それらが遠くに聞こえる。立たなければと気持ちは焦るが、体は言うことを聞いてくれなかった。視界が滲む。ポロポロと、涙が零れる。


「なにを呆けている。立て!」


 その声が、ジェマの意識を現実に引き戻す。


 まず目に入ったのは、光だった。青白い閃光が、獣を押さえ込んでいる。雷撃に悶える獣の背後に、ハロルドの姿があった。白い制服は額から流れる血と土埃で汚れ、門にぶつかったときに折れたのか、右肩が力なく垂れ下がっている。


「……しっかりしろ。人手が足りないと言ったろう。貴様がトドメを刺せ」ハロルドは苦痛に顔を歪め、浅い呼吸を繰り返しながら声を絞り出す。


「ハロルド、怪我を……」


「僕に構うな! やれ!」


 涙はいつの間にか止まっていた。ジェマは剣を支えに、震えながらも立ち上がる。


 旅立ちのとき、父から貰った剣。刃は鋭い銀色の輝きを放ち、その輝きはジェマに勇気を与えてくれた。柄を握る手に力を込め、ジェマは獣の心臓目掛けて刃を突き立てる。


 怪物の断末魔の咆哮が、ホークバレーの町に轟いた。

【作中補足】


魔石:魔力を蓄えることができる特殊な鉱物で、照明器具や食べ物の保存、防具・武器へのエンチャント加工など、多肢に渡って利用される。現実世界でいう電化製品のようなもの。とても高価で、平民階級にはほとんど普及していない。


バックロック:セルペニア北東部にある山岳地帯。シュメリア王国と国境を接している地域で、セルペニア唯一の魔術学校がある。厳しい自然環境に適応したこの地域の山羊は体毛が発達しており、その毛は保温性と耐久性に優れた毛織物の材料となる。

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