第四十九話
オルカテイル市の東地区は、一般の人々が生活する区域だ。住宅、飲食店、雑貨屋、食品市場、公園……。おおよそ生活に必要なものは全て揃っている。そこには異国風の雰囲気は伺えず、ホークバレーの街と似たような、セルペニアらしい風景が広がっていた。
ただ、空気のにおいだけはホークバレーとは違う。煙草のにおいとコーヒーの香りは、他の地域には無いものだ。これらはゴラド王国からの輸入品で賄われている。先の戦で勝利したことで、かつては高級品だったこれらの品が安く手に入るようになったのだ。戦時中、ゴラドの占領下にあったタロンフォードでは、すでに庶民の文化の一部として馴染みあるものとなっているらしい。
ベルナルドの案内で辿り着いた場所も、そんな文化の片鱗が垣間見える場所だった。大通りから小道へ入ったところに、一件の煙草屋が建っていた。繁盛しているようには見えないが、あからさまにアングラな雰囲気でもない。看板には、ゴラド南東部の先住民らしき人物がパイプを蒸かしている姿が描かれている。
「ジェイ、居る?」
扉を開け、ベルナルドが奥に向かって声をかけた。煙草葉の独特な香りが、ドアを開けた瞬間に漂って来る。ウィーゼルとオビが同時にくしゃみをした。開店前なのか、店内は薄暗い。
「ジェイ?」
ベルナルドが店内に踏み込む。西向きの窓から入る日光は乏しい。奥に見えるカウンターにはランプが灯っており、なにやら荷物を動かすような物音が聞こえる。少し遅れて、しゃがれた女性の声が返って来た。
「ベルか? いいところに来た。ちょっと手伝ってくれ」
ベルナルドは肩をすくめ、カウンターのほうへ向かう。ハロルド達も後に続き、店に上がった。
「やれやれ、アタシも年を取ったもんだ。この程度の荷物を運ぶのに手こずるなんてね」
しゃがれ声の女性が立ち上がり、カウンターから姿を見せた。声と台詞から想像していたより、彼女の見た目は若い。銀色の短髪に、がっしりした体付き。一見しただけでは男性と見間違いそうだ。革のジャケットとジーンズといったゴラド風の服装も、たくましい印象に拍車を掛けている。
「あんまり無理しないでよね」続いてベルナルドも立ち上がる。「ところでジェイ、紹介したい人達が居るんだけど」
「あの子らかい?」紫色の鋭い眼光が、扉の前で立ち尽くしていたハロルド達を見遣った。「あんた達、ボーっとしてないでこっち来な」
どうやら、門前払いされずに済んだようだ。呼ばれるがままカウンターへ行き、用件を伝えようと口を開いたハロルドの目の前に、一枚の紙が差し出された。発しようとした言葉を飲み込み、代わりに疑問が口を突く。
「……これは?」
「アルバイトの契約書だよ。早速で悪いけど、仕事が溜まってるんだ。今日中に役所に届けなきゃならんから、サインだけしておいてくれ」
「ああ、違うんだよジェイ、この子らはお客で……」
「あんたに頼んで正解だったよベル。こんな若い子を四人も連れて来てくれるなんてね。お礼は今度するから、今日はもう帰っていいよ」
ベルナルドの言葉を早口で遮って、ジェイはジェマたちにも同じ書類を押し付ける。ベルナルドは肩をすくめ、「ごめん、後はよろしく」とハロルドに耳打ちをして、そそくさと店を出て行ってしまった。
「ほら、なにボーっとしてんだい。ああ、ペンが無かったね。ほら、これ使いな」
どうやら、ジェイという人物は話を聞かないタイプの人間らしい。あまり我を張って衝突することになっても面倒だ。契約書には『雇用期間:無期限』と書かれている。期限が無いということは、いつ辞めてもいいとも解釈できる。ひとまず仕事を手伝って、頃合を見て訂正すればいい。ジェマ達にもそう伝え、ハロルドは契約書に自分の名前を——もちろん偽名のほうを——記した。
誤解が解けたのは、日暮れ近い時刻になってからだった。何度か手が空く時間はあったが、ジェイは忙しなくどこかへ出掛けたり、店先で通行人と話し込んだり、こちらの身の上を根掘り葉掘り聞いてきたりしていたので、用件を伝える暇が無かったのだ。
「そういうことなら早く言ってくれればよかったのに」
ジェイは悪びれもせずそう言って、勘違いのお詫びに夕食を奢ると申し出た。案内されたのは大通りの高級海鮮レストラン——の裏手にある、小さな大衆酒場だ。店内には煙草の煙が充満していた。終日煙草葉を運び続けていたお陰で、オビとウィーゼルの鼻はそのにおいに慣れている。くしゃみが止まらなくなることは無く、不快そうな表情を浮かべるだけだった。
奥のテーブル席に座り、三人分の芋酒と、聞き馴染みの無い料理を何品か、ジェイが勝手に注文する。運ばれて来たのは鶏肉の串焼きと、魚と野菜の揚げ物、海産物らしきなにかの生き物を薄切りにしたものなどだ。
「これはなんです?」
ハロルドがそう訊ねる前に、ジェマとオビはそれを口にしていた。添えられていたわさびが利いたのか、見たことも無い顔をしている。
ちなみに、ハロルドがジェイに対して敬語を使うのは、そうしないと酷く機嫌を損ねられるからだ。
「タコの刺身だよ。内陸じゃ馴染み無いだろうけど、美味いよ」
「タコ!?」
「タコってなんだ」まだ料理に手を付けていないウィーゼルが訊いて来る。
どういうわけかウィーゼルはタメ口でも許されている。指導しても仕方無いと思われているのか、獣人には人間のルールを教える必要は無いと考えているのか、どちらかだろう。
「デビルフィッシュって言ったほうがわかり易いかな」ジェイが代わりに答える。「見た目は気持ち悪いけど、毒も無いし、噛めば噛むほどうまみが出てくる。いやあ、まさに見かけによらないって奴だよなあ」
そうは言われても、一度刷り込まれてしまった先入観はなかなか拭えないものだ。ハロルドはタコを口にするのを丁重に断り、ジェマとオビに譲った。美味しく食べて貰えたほうが、タコも浮かばれるだろう。
「見かけによらないと言えば、あんたもそうだよな?」空になったグラスを置いて、ジェイはハロルドを見据える。「貴族の若造にしちゃ、ずいぶん素直じゃないか。掃除や料理の手際もいい。ああいうのは、召使いにやらせるもんなんじゃないのかい?」
「なんでも自分で出来るに越したことはない。幼い頃から、父にそう教えられましたので」
「あんた次男だったよね? 進路は決まってるのかい?」
「ご心配には及びませんよ。これでもちゃんと考えてますので」
「へえ、否定しないんだ」ジェイは二杯目の芋酒を飲み干して、ニヤリと笑った。
ハロルドが自分の失態に気付いたのは、少し遅れてからだった。労働の疲れが出たか、呑むペースが早過ぎたのか、ハロルドは自分の『設定』を失念していた。
「昼間アタシが訊いたとき、あんたは『自分は五男だ』って言ってたよな? ハリス・トールソン君?」
店内の空気が張り詰めているのを感じる。いつの間にか喧騒は止み、射るような視線が集まっていた。なるほど、店内の人間は——中には獣人も居るが——皆、ジェイの仲間だったわけだ。
「あんたホントは何者なんだ?」紫の眼光が、探るようにこちらを見据える。「酒が呑めるってことは、シュメリア人じゃないね。そっちの従者も、動物性のものが食えるなら人間と獣人なんだろう。となると、王宮騎士団の使いか? ガキを使えば怪しまれないとでも思ったかね?」
どうやら、こちらはこちらで事情を抱えているらしい。トラブルを避けるために身分を偽るはずが、却って厄介ごとを招いてしまった。ジェフリー団長も、ここまでは予想出来なかっただろう。
「仕方が無い、な」
ハロルドは息を吐き、椅子から立ち上がった。ジェマとオビが心配そうに、ウィーゼルが怪訝な顔をしてこちらを見上げる。
「騙すようなマネをして申し訳無い。自分はホークバレー騎士団の七番隊隊長、ハロルド・リースという者です」
「……ほう」ジェイの口元がつり上がる。目は相変わらず笑っていない。
「連れも皆、自分の仲間です。ジェフリー団長に確認を取って貰えば、嘘ではないと信じて頂けるでしょう」
「なるほど。で、どうしてホークバレーの隊長さんが、『獣頭の男』を追っているのかな?」
「それは……」
ハロルドは迷う。ジェイは『牙の一族』と関わりを持つ人物だ。もし本来の目的を正直に話して、『一族』に敵対する者と判断されたら、穏便に帰して貰うのは難しいだろう。かといって、下手な嘘でごまかしても警戒心を煽るだけだ。
ちら、とジェマを見る。ここは彼女の交渉術に賭けたほうが無難だ。ジェマはハロルドの意図を汲み取ってくれたようで、こくりとうなずくと、徐に立ち上がった。
「ター・シェンさんの、命の恩人だからです!」
沈黙の種類が変わった。殺気すら感じるような緊張は和らいだが、周囲の人々の顔には明らかな困惑が浮かんでいる。ただ一人、ジェイだけは表情を崩さない。
「ベルの旦那だね、知ってるよ。あの宿を建てるのに、アタシもだいぶ力を貸してやったからね。あんたがたは以前から彼と知り合いだったのかい? ホークバレーの騎士とオルカテイルの商人、交流があったとは思えないけどね」
「いいえ、ター・シェンさんとはこの街で知り合ったばかりです。宿が取れなくて困ってたところに、声をかけてくれて。あのときター・シェンさんに会わなかったら、行き倒れになってたところでした」
「なるほど。恩義があるってわけだ」
「はい」ジェマは紅潮した顔を綻ばせ、少しはにかみながら答える。
「それじゃあ、そもそも何故、あんたたちはオルカテイルに来た? 休暇で来たんなら、わざわざ身分を隠す必要も無かったはずだ。なにを嗅ぎ回ってる?」
「この子の故郷を探しに」
ジェマは迷い無くそう口にした。肩を叩かれたオビは、口いっぱいに頬張った色々な料理を咀嚼しながら顔を上げる。
「珍しい獣人だね。オオカミでもヤマネコでもない。オビとか言ったね? こいつの故郷が、オルカテイルだって?」
「タロンフォードに、手がかりがあると聞いて来たんです。オビは不思議な力を持ってて、それは人々に災いをもたらすかもしれない。オビの力を狙って、悪い人が襲って来るかもしれない。だから、危ない目に遭う前に、家族の居るふるさとに帰してあげたいと思ったんです」
「身分を隠したのは、この街の住民に不安を与えないためです」ハロルドが補足する。「タロンフォードでは特に、外部の騎士団からの干渉を嫌う傾向があると伺っていましたので」
「ふうん、なるほど」ジェイはそう呟いて、三杯目の芋酒を飲み干す。「つまり、あんたがたが知りたいのは、『獣頭の男』の居場所と、そのオビ君の故郷についての情報、ってことでいいのかい?」
「それは……信用して頂けたということでよろしいでしょうか?」
「まあ、嘘かどうかなんてちょっと調べればわかることだからな」
ジェイが手を上げると、こちらに集中していた視線は散り散りになり、元の喧騒が店内に戻って来た。ジェイは追加の注文をして、何事も無かったかのように食事を再開する。
「今回の飯は奢ってやる。今日の働きの報酬として、情報料もまけてやろう。『獣頭』の居場所とオビ君の故郷、まずはどっちが知りたい?」
「オビのことについては、こちらでできる限り調べます」ハロルドは即答した。オビが竜であることは、まだ一般人に明かすわけにはいかない。「まずは、『獣頭の男』について教えて頂けないでしょうか」
「なるほど。了解した」ジェイは頷き、商品の値段を提示する。「六十ロックだ」
「大銀貨六枚? 吹っ掛け過ぎだろ」ウィーゼルが失笑する。「そこまで強気に出るってことは、信頼できる情報なんだろうな?」
「もちろんだ」ウィーゼルの問いかけに、ジェイは自信満々に答える。「そこらのゴシップ誌や、酒場の与太話なんかよりは、よっぽどお役に立てると思うね」
「だとよ。どうする?」ウィーゼルはハロルドへと視線を移す。「こうヤニ臭くちゃ、嘘を吐いてるかどうかもわからねェ。アンタの判断に任せるぜ、隊長さん」
「……情報を絞れば、安くして貰えますか?」ハロルドは財布の中を見て少し考え、そう問いかけた。
「ふむ、内容によるな」ジェイは思わせぶりな笑みを浮かべて頬杖を付く。
「例えば、『獣頭』が多く目撃される時間帯や場所とか」
「だいぶ突っ込んだことを訊くじゃないか。無理だね」
「なら、こういうのはどうです?」ハロルドは怯まず食い下がる。「僕達がもし『獣頭の男』に接触できたら、あなたがまだ知らない情報を聞き出し、その内容をあなたに六十ロックで買い取って頂きます。そうすれば僕達は宿代を失わずに済むし、あなたも損はしない。いかがですか?」
弾けるような笑い声が響いた。笑い過ぎたジェイの目には、涙が浮いている。
「アタシが知らない情報だって? この情報屋ジェイが!?」
ハロルドは口調を変えずに続ける。
「まず、あなたは『獣頭の男』の名前を知らない。彼の目的も、素性も、普段どこで寝泊りしているのかも、ご存知無いはずです」
「なんでそう思う?」
「『獣頭の男』は『牙の一族』の構成員を襲った。『一族』は報復をしたがっているはずだ。あなたが『獣頭』の正体を知っていれば、奴らはあなたから情報を聞き出し、とっくに制裁を与えているでしょう。しかし、『獣頭』が死んだという話は、今のところ噂にもなっていません」
「だから、『獣頭の男』は生きている。『獣頭』が生きてるってことは、アタシが情報を持っていないからだ。そう言いたいのか?」
ハロルドはうなずく。少しの沈黙ののち、ジェイが再び口を開く。
「……奴が次に現れそうな場所なら、目星がついてるよ」
「教えて頂けますか?」
「アンタが馬鹿じゃないってことはわかったよ」溜息を吐く赤い顔には、半ば呆れたような笑みが浮かんでいた。「約束、忘れるんじゃないよ。もしなにも聞き出せなかったら、ちゃんと料金は払って貰うからね」