第四話
「なんのつもりだ? オビ」
ウィーゼルは割って入った邪魔者を睨みつける。さっきまでのオドオドとした態度はどこへ行ったのか、オビは敵意も露に唸り声をあげる。
オビは牙をむいてウィーゼルに飛びかかり、彼の右腕に喰らい付く。その動きは予想以上に速く、避ける間も無かった。強靭な顎が骨を砕こうとしているのを感じ、ウィーゼルは力任せに腕を振り、オビを引き剥がす。肉が削がれ、血が飛び散る。ウィーゼルは激痛に顔を歪めた。
振り払われたオビは体を捻りながら四つ足の姿勢で着地し、血のついた牙をむいて吠える。雷鳴のような轟音が、空気をびりびりと震わせる。
ウィーゼルは、オビとはじめて会ったときのことを思い出す。
パンを盗んだところを捕まり、オビは人々に棒で叩かれていた。抵抗せずされるがままになっていたオビを助け、ウィーゼルは「友達になってやる」と言った。
もちろんそれは本心ではない。盗みをやりやすくするため、共犯者が欲しかったのだ。使い捨てできる、間抜けで従順な下僕が。
ウィーゼルが目をつけたとおり、オビは間抜けで従順で、そして臆病だった。ウィーゼルが友達をやめると仄めかせば、必死で機嫌を取ろうとした。媚びるようなオビの態度にウィーゼルは度々苛立ち、不必要な暴力を振るうこともあったが、オビは変わらずにこにこと後をついてきた。
そんなオビが、今、自分に牙をむいている。なぜこんなことになったのか? 理由は明白だ。オビが連れてきた人間の娘——ジェマとかいう名前だったか——あの娘にほだされたのだ。どんな経緯があるかは知らないが、おおかた餌付けでもされたのだろう。
ウィーゼルは傷口から滴る血を舐める。傷は深く、出血が止まらない。オビの目はこちらを見据えたまま、飛びかかる機会をうかがっている。倒れているジェマの近くを行ったり来たりしているのは、庇っているつもりなのだろうか。
「待て。待て、オビ……悪かった。もうそいつには手を出さねェし、受験票とやらも返す。見返りはいらない。本当だ」ウィーゼルは受験票を地面に置き、ゆっくりと後退る。「だからもうやめようぜ。俺たち友達だろ?」
「おまえはもうオビの友達じゃない。だからいらない」低く唸るような声でオビは言う。
「いらないだあ? それはどういう……」
目の前を鉤爪がかすめ、ウィーゼルは言葉を止めざるを得なかった。ウィーゼルを捕らえようとして狙いを外したオビは、着地と同時に両腕を使って跳ね上がり、ウィーゼルの喉に牙をむく。
ウィーゼルは向かってくるオビの顔面に拳を叩き込んだ。確かな手ごたえ。オビの体が地面に叩きつけられる。いつもなら泣き喚いて許しを請うはずだが、オビは何事も無かったように起き上がり、獲物を見る目でウィーゼルを睨む。
「ふざけんなよ……」
ウィーゼルはオビを退けるのを諦め、墓地と市街地を隔てる壁に向かって走った。オビが追いかけてくる気配は無い。風上から漂ってくるオビのにおいに、ウィーゼルの尾は無意識に下がっていた。
壁を上ろうと手をかけたウィーゼルは、風を切る音を聞いて飛び退った。直前までウィーゼルの手があった位置に、一本の矢が突き刺さる。ウィーゼルは振り向き、そこに居た人物を見て吐き捨てた。
「クソが……!」
オビのにおいに気を取られて気付かなかった。白い制服は暗闇の中でもはっきりと見える。そいつは右手に魔力を帯びた青白く輝くレイピアを携え、こちらを睨んでいた。その背後に、弓矢を構える仲間を二人引き連れて。
「やはり説得など無駄だったか。彼らの後をつけていて正解だったな」ハロルド・リースは独り言のように呟いて、刃をウィーゼルに向ける。「負傷しているようだな、ウィーゼル。仲間割れでもあったか?」
「これはこれは、騎士団の隊長殿。このような辛気臭い場所にようこそ」ウィーゼルは皮肉混じりに答える。「ですが生憎、今はおもてなしをしている余裕はないのです。その物騒なものをしまって頂けませんかねェ?」
「ならおとなしく投降しろ。僕も、できれば無駄な労力は使いたくないのでね」
ウィーゼルは頭の中で汚い言葉を吐き捨てる。
「……わかった。投降するよ」ウィーゼルは投げ遣りにそう言って、両手をあげる。「捕まえるなら早くしてくれ。あんたがたも忙しいんだろう?」
「……ずいぶん素直だな」ハロルドが訝しげに眉を吊り上げる。
「ちょっとばかり取り込んでてね。確か騎士団の決まりじゃ、捕まえた罪人は保護されるんだろ? 獣人とはいえ、無抵抗な相手を傷付けるなんてことはしないよなあ?」
部下たちが困惑して顔を見合わせる中、ハロルドは涼しい顔をしていた。まるで、こうなることが予めわかっていたというように。
「奴を拘束しろ」
ハロルドはレイピアを収め、淡々と指示を出す。部下たちははっとして、慌ててウィーゼルを縛り上げる。
「あの女はアンタの差し金か」ウィーゼルはハロルドに皮肉を込めた眼差しを向ける。
「なんのことだ?」
「フン、なんでもねェよ」
そのとき、近くで雷鳴が轟いた。その場に居たものは皆、思わず耳をおさえる。
「雷鳴……? 空は晴れているのに……」
そう呟いて空を仰いだ騎士団員の目が、それを捉える。
陰になっている壁面に、光るものが二つ。蛍だろうか。それにしては、瞬き方が奇妙だ。ずっと光っているかと思えば、ぱちぱちと点滅し、消えたと思えば、少しずれた場所で光り出す。その光はだんだん近づいてきているように見える。
しまった、と思ったときには遅かった。宵闇に紛れて壁に張り付いていたオビが、ウィーゼル目掛けて飛びかかる。
生き物は極限状態に置かれると、感覚が飛びぬけて鋭敏になるらしい。目の前の景色が明るくなったのを見て、ウィーゼルはその現象が自分の身に起きたのだと思った。
違うと気付いたのは、空中に出現した火の玉が視界に入ったからだ。鶏の卵くらいの小さな火の玉だが、暗闇に突如出現した光はオビの目を眩ませるには充分だった。
ウィーゼル目掛けて飛びかかったオビは、狙いを外して地面に落ちる。
「やめなさい、オビ!」暗闇から聞こえたのは女の声だった。「ウィーゼルはもう捕まったんだ。これ以上痛めつける必要はない」
オビは声が聞こえたほうに顔を向ける。ふらつきながら近付いて来る人影の正体に気付いたとき、オビの顔から捕食者の表情は消え去った。
「ジェマ!」オビは嬉しそうに叫び、しっぽを振って駆け寄る。
ジェマはぱちんと指を鳴らして空中の火の玉を消し、オビの頭を撫でる。オビは泣きそうな顔で、ジェマの体を心配していた。ウィーゼルのことなど、もう眼中に無いようだった。
「貴様、どうやってここに入った」厳しい口調で彼女に問いかけたのはハロルドだ。
「えっと……あはは」
「あははじゃない。ここは故人の親族以外は立ち入り禁止だぞ」
「すみません、その……ウィーゼルがここに居ると聞いたので、オビに壁を越える手伝いを頼んだんです。受験票を取り戻すためとはいえ、軽率だったと反省しています」
ジェマの話を聞きながら、ハロルドは溜息を吐く。
「呆れたな。これから騎士を目指そうという者が、法を破るとは……。これからウィーゼルを連行する。貴様も来い」
「やだ! やだよう!」すかさず異議を唱えたのはオビである。「ジェマは悪いことしてないよ! ジェマをいじめないでよ!」
「獣人の世界ではどうだか知らんが、ここは人間の町だ。法を破る者は裁かれなければならない。邪魔をするな」
「やだ!」オビは牙をむき、ハロルドを威嚇する。「ジェマをいじめるなら、おまえもウィーゼルと同じだ!」
「オビ」ジェマはあくまで穏やかに言う。「私を心配してくれるのは嬉しいけれど、暴力でわがままを通そうとしてはいけないよ」
「でも……!」
「別に命を落とすわけじゃないんだ。罪を償えば、試験はまた受けられる。そうですよね、ハロルド?」
「……まあ、貴様のお陰でウィーゼルを捕まえることができたわけだからな。大目に見てやってもいい。だが、罰は受けてもらうぞ」
オビは不服そうだったが、ジェマの説得を受け、おとなしく牙を収める。ジェマはオビをなだめるようにその頭を撫でながら、ハロルドに続いて門へ向かう。
「くっくっく……」
その姿を眺めていたウィーゼルは、思わず声を漏らして笑う。怪訝な目を向けるジェマとハロルド。ウィーゼルは咳払いをしてごまかすものの、笑いを止めることはできなかった。
「はははは……悪い悪い。おまえらがあんまり真面目に話してるもんだからよ、おかしくってなァ……」
「貴様、なにがおかしい」
表情を険しくするハロルドに、ウィーゼルは皮肉めいた笑みを向ける。
「そう怒るなよ隊長殿。くくく……別にいいんだぜ。それが人間様のルールだって言うんなら。そうやって目上の奴らに媚売ってりゃ、幸せになれるんだもんなあ?」
「ウィーゼル! あなた、まだ……」
「言わせておけ。負け惜しみだ」ハロルドは眉ひとつ動かさず、ジェマをなだめる。
「負け惜しみだと? さァ、負け犬はどっちだろうな? 隊長殿……いや、ハロルド・リース。あんただって、本当はこう思ってるんだろ? 騎士団の規約で制限されてなけりゃ、こんなコソドロはすぐにでもぶちのめしてやりたいってな」
「生憎だが、そんな挑発に乗っている暇は無い。そんなに痛い目に遭いたければ、自分の舌でも噛んでいろ」
「おっと、図星だったか? そんなに怒るなよ」わざとらしく肩をすくめ、ウィーゼルは続ける。「楽しいだろうなァ。正義を振りかざして、悪党をやっつけるのは。臆病な卑怯者の自分をごまかしていられるもんなあ?」
ハロルドの足が止まる。部下たちがどよめき、隊長の顔色をうかがう。
「ハロルド……?」
不安そうにジェマが言う。その声も聞こえていないかのように、ハロルドは微動だにせず立ち尽くしている。
「おっと……悪い悪い。口が滑ったぜ。気に障ったかな? 本当のことを言われてよ」
「……貴様ァ!」
ハロルドは烈火のような勢いで、ウィーゼルに掴みかかる。ウィーゼルの顔に、悪意に満ちた笑みが浮かぶ。
ハロルドの剣幕に怯んだ騎士団員の手から、ウィーゼルを縛っていた縄が離れた。その瞬間、ウィーゼルは地面を蹴り、騎士団員の頭上を飛び越える。墓地と市街地を隔てる門は開け放たれており、行く手を阻む者も居ない。ウィーゼルは縄を引き千切り、門へと走り出す。
「くっ……! 待て!」
背後から飛んで来るハロルドの声に、ウィーゼルはほくそ笑む。門の周囲には、オビの咆哮を聞いた野次馬たちが何事かと詰めかけていた。
門から飛び出した手負いの獣人の姿を見て、野次馬の中から悲鳴が上がる。浮き足立つ人間たちを尻目に、ウィーゼルは住宅の外壁をよじ登り、屋根を伝って、街を囲う城壁に飛び移る。
「あばよ、くだらねェ人間ども!」
城壁の中の人間たちを見下ろして高らかに吠えると、白い獣は闇夜に消えた。